その昔、このあたりに狐の住む穴があり、柴草を刈りに来る人にいたずらをするので、小祠を建て崇めたそうです。
文政12年(1829)に至って、杉本坊と泉坊が八幡宮に願い出て、現在の場所にあった荒垣を取り除き、鳥居、玉垣を作り、建立したと伝えられています。
また、稲荷社に祈った人が、その霊験によって富くじに当たったことが伝わると信者を増やし、その人たちの寄進で完成したといわれています。
さらに、稲荷社の祭神の名を知る人がなく、また古記にも伝えられていないため、京都七条の高瀬川傍で神降しや吉凶占いなどの神告を業とし、稲荷を信仰する石井巳之助という人により、「我は相槌稲荷の子、名を登毘良明神と申す」とのお告げがあり、神の名を知ることになったそうです。
こうして下京にはこの大扉稲荷社を信仰する人が多く、参拝者が多かったと「男山考古録」は伝えています。
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