正覚山と号し、文和元年(1352)日像上人の弟子大覚僧正(妙実上人)が後光厳天皇の勅命をうけ、この地において祈雨祈祷を行った由縁により、創建された。日蓮宗の寺。その後、妙覚寺(上京区)の隠居寺となったが、近世初頭、不受不施派となったため、弾圧をうけて退転し、50年間ほど回復しなかった。寛永年間(1624~44)、松永貞徳の兄が当寺の住持となり、貞徳の帰依を受けたことから寺運は隆盛になり、寺中4ヶ寺を数えるまでになった。しかし、その後しばしば水害を受け、明治8年(1875)には残っていた1ヶ寺も焼失した。今の本堂は嘉永4年(1851)の再建のもので、本尊釈迦多宝仏および「日蓮うなずきの像」を安置する。什宝に貞徳像や同画像および関係遺品等がある。
車石・車道
江戸時代、下鳥羽から上鳥羽を経て羅城門までの鳥羽街道は、横大路・下鳥羽の湊に荷揚げされた年貢米や穀類・木材などを洛中へ運ぶ牛車の専用道路(車道)であった。人や馬の通る往還まぬかるみ対策で人馬道がかさ上げ改修を繰り返すなかで、街道の片側あるいは中筋の車道は、一段低く位置することになった。この区間は、低湿地帯で、雨でも降れば土道である街道はぬかるみ、牛車の車輪がぬかるみにとられてスムーズに通ることができなかった。
そこでも江戸時代の後期、車道の車輪の通るところに2列に、規格化された厚板石を並べ牛車を通りやすくした。この敷石が車石(輪形石(わがたいし))である。車石は、下鳥羽辺りから上鳥羽を通り羅城門付近まで、延々と敷設されており、単線のため、午前中は上り、午後は下りと一方通行になっていた。車石に残る深い轍の跡は、重量物を運ぶ牛車の頻繁な往来によりできたものである。
本堂の天井に描かれています
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