明治10年になってようやく当寺に改葬された
墓石が見えます
平野国臣は、もと福岡藩士で京都において同士とともに
尊王攘夷運動に奔走したが捕えられ、
元治元年7月19日(1864)蛤御門の変(禁門の変)の時、
戦火に乗じて逃走を怖れ六角獄舎で生野挙兵の同士、
天誅組の水郡善之祐以下16名、
池田屋事件の古高俊太郎以下8名の勤王志士とともに未決のまま斬首された。
「憂国十年、東走西馳、成敗在天、魂魄帰地」と辞世の詩をよみ、
三十七歳の生涯を終えた。
明治10年(1877)西ノ京刑場(西大路太子道一帯)あとから
姓名を朱書きした瓦片と白骨が発見され調査の結果、
これらは六角獄舎で斬首された国臣ら勤王志士37名の遺骨
であることがわかり、改めて当寺に移葬された。
六角獄舎跡の記事はこちら➡ 六角獄舎跡
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