石の唐櫃に納められて知恩院勢至堂の門内右手に埋められたのだが、比叡山の荒法師たちによって遺骸が掘り出されようとしたので、一時嵯峨の二尊院に移したものの、ここも天台僧によって危険になったので、今度は太秦のの大藪の中(今日の西光寺)に隠し、さらに西山粟野の光明寺へと移してここで荼毘にふしたという。激しい宗派の動きの中で、死後もつねに荒波の中に立った法然であった。
大谷本廟とともに光明寺にも廟堂があるのは、そのためであって、また、知恩院の古門前参道の白川橋にかかる石の太鼓橋は、「忠臣蔵」の天川屋儀兵衛とよく混同されやすい大阪の豪商・天野屋利兵衛の寄進による江戸初期の石像美術品だが、そこを少し入った所の華頂幼稚園前にある幼児の合掌姿の銅像は幼児の法然上人を現した「勢至丸」の像である。
法然上人は美作国久米の時国の子で、幼名は勢至丸といったのである。伝説によると、長承2年(1133)4月7日、母は剃刀を飲み込んだ夢を見て懐妊したといい、父は勢至丸9歳のとき源内武者定明の夜襲を受け、暗殺されたという。そしてその臨終に際して「復讐など毛頭考えてはならぬ。ただ衆生の往生極楽をはかれ」と遺言したといい、しばらくは付近の菩提寺へ弟子入りしたが、その年から勢至丸は比叡山に登ったという。著に『選択本願念仏集』などがある。
なお、後年配流の原因となる過失を犯した門弟というのは住蓮、安楽のことで、鹿ケ谷にある法然院は、その門弟の庵を大文字山の麓から移したもの。延宝8年(1680)知恩院の万無が、これを寺として構えたものである。
なお、東山渋谷通り上馬町の小松谷の俗称で通っている正林寺は、平重盛の灯籠供養をしたとして知られ、その碑を残しているが、また法然上人が流刑の際は、ここから出発したといわれ、本堂には上人の像を安置している。
遺跡は比叡山、八瀬の青竜寺、黒谷の金戒光明寺、知恩寺、嵯峨の清凉寺、東山の知恩院、粟生の光明寺、相国寺の法然水の井桁、西光寺(太秦)、などたくさんある。
浄土宗の開祖。かくし名は源空、比叡山の源光と皇円に天台宗を学び、のちに、黒谷の叡空について諸宗の奥義を極め、43歳の年、専修念仏にて浄土の法門を開いた。
東山に吉水(よしみず)園があるが、草庵を結んだ地として知られ、また大原の勝林院で南都・北嶺の僧徒と会って法門を論じた大原談義と話題を多くまいたが、門弟の過ちの責を負って一時讃岐(香川県)ら流された。建暦元年(1211)11月17日、許されて京に帰った際、前記の如く慈円和尚に迎えられて、今の知恩院の前身となった大谷の禅房に入り、翌年1月25日、80歳で大往生をとげた。円光大師は後の贈号である。
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