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人物047  桔梗屋辰路 幕末の志士との悲恋

2020年03月23日 07時50分52秒 | 人物数々

京都市山科区の川崎泰市さんは回想する「子供のころから母親らに『お前の大ばあちゃんは島原の勤王芸者やったんやで』とよく聞かされた」という。

1980年(昭和55年)、小川煙村という新聞記者が著した『勤王芸者』(初版・明治43年)を見た。

本は、明治政府の高官木戸孝允(桂小五郎)の妻となった京都・三本木の幾松(松子)ら幕末の志士を支えた京都の芸妓の裏話を、元勤王芸者から取材して執筆したというものです。その中に長州の吉田松陰門下の久坂玄瑞が登場するが、その恋人が芸妓の桔梗屋辰路(ききょうやたつじ)だ。川崎さんは、曾祖母タツと辰路が同一人物と考え始めた。

その辰路ことお辰は1910年(明治43)まで生きていて、煙村はその本人にもインタビューして本を書いており、興味をもった川崎さんは、辰路と玄瑞が初めて会ったという島原の揚屋・角屋に行ってみた。新選組幹部がよく利用したところで、なぜ彼らに追われる志士らが利用したかという疑問はあったが、角屋先代の中川徳右衛門13代当主が「『勤王芸者』に書かれていることは事実です」ときっぱりと証言したという。

川崎さんは「それどころか幕末の角屋で仲居をしていて、『勤王芸者』のなかでも玄瑞と辰路のなかを取り持ったとされる。笹尾とめの回顧記録があることを教えられ、玄瑞と辰路の恋が事実であることが証明できた」という。角屋には、当時の太夫や芸妓の名簿も残っていて、桔梗屋という置屋の項に、辰路の名が墨書さりているのも確認したほか多くの事がわかった。

それによるとお辰の本名は西村、父親は市兵衛、生まれたのは1846年(弘化3)3月25日。18歳で島原の芸妓となり、間もなく角屋で、仲居とめの世話で玄瑞と宴席を同じくして恋人になったという。玄瑞は辰路が美人でしとやかだっただけでなく、詩歌などの教養のあるところにほれたらしい。玄瑞は1863年(文久3)の七卿落ちで、三条実美らに従って京を離れる時、辰路に別れの手紙を送っているが、その末尾の歌はその心情を明白にしている。

「軒端の月の露とすむ さむき夕べは手枕に ついねられねば橘の 匂へる妹の恋しけれ」

玄瑞には国元の萩に妻文子がいた。しかも松陰の実妹である。東奔西走の生活の玄瑞はほとんど萩を留守にしたようだが、1864年(元治元)7月18日の禁門の変で長州勢が敗れ、戦死(切腹)するまで、ずいぶん手紙を送っていたという。

辰路は明治3年、芸妓を廃業して、葛野郡大内村の豪農に嫁ぎ、裕福な生涯を過ごした。

そしてその辰路が1864年(慶応元)に島原で小八郎という子を生んでいるのだ。父親は不明。その小八郎が川崎さんの祖父で、6歳まで島原で育ち、昭和時代まで存命していた。養子縁組などで川崎姓となったが、その二女ユタが川崎さんの母親だ。川崎さんは「もっと曾祖母のことを聞いておけばよかった」と。

禁門の変の直前の6月、辰路、玄瑞の最後の別れはきた。長州兵を率いた玄瑞は天王山の陣営から辰路にあいたい一心で駕籠で角屋に乗り込んだが新選組の警戒厳しく、やむなく引き上げたという。そのあと辰路は話を聞いて、足袋はだしで駆け出し東寺付近で追いついた。ここで玄瑞は「身体を大切にせよ」などと辰路をさし金二十両を渡したというこのくだりは小説にもなり、版画「久坂をお辰」(小村雪袋)にもなっている。

 

島原は、わが国最初の公許の花街で、当初二条柳馬場に開かれ、その後六条三筋町(東本願寺北側)に移転、1641年(寛永18)、現在地に移った。急な移転騒ぎが島原の乱に似ていると島原の名で呼ばれるようになったという。島原には揚屋と置屋があって、揚屋は太夫や芸妓らを一切かかえず、置屋から太夫らをよんで歌舞音曲などを交えて宴会を催す、もてなしの場であったという。公娼制度の遊廓とはまったく関係がなく、その文化性や歴史的意義を周知するために美術館として開館した。

 

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