生家 、塾のあったところ 桂昌院生家の菩提寺 真敬寺の向かい
山崎闇斎
元和4年(1618年)京都に生まれる 父は針医浄因 悪童ぶりに手を焼いた父は 7歳で比叡山に入り、15歳で妙心寺、絶蔵主と称していた19歳で土佐・吸江寺へ移る。そこで野中兼山や谷時中らと知り合い、25歳で仏教より儒教を目指す
4年後 還俗し京へ帰る。30歳処女作「闢異」 38歳 講席を開く、41歳江戸へ行く。48歳 保科正之に招かれ以後寛文11年(1671)正之の死まで師として交わり、正之の幕政に影響を与える。 代表作「文会筆録」は朱子学史上特筆される書。
気性の激しさこそ、闇斎の本質、こうした彼の強烈な個性あればこそ名をとどめた。我が国の純正朱子学の確立者だといわれる。当時は仏教の補助的なものでしかなく、儒教がようやく独立した思想として扱われるようになるのは、江戸はじめ藤原とその弟子 林羅山をまってのことである。
彼の朱子学への没入ぶりは徹底していた。朱色の手ぬぐい、夏でも朱色の羽織を着る、書物の表紙は朱色。24、5歳頃は猛烈に勉強した。
講義は、ムチを机にたたきつけ大声を上げて彼の塾の峻烈さは伝説的です。門弟は6000人でした。彼の名分論にもとづく尊王主義が後に明治維新への思想的原動力となった。
墓所は 黒谷(金戒光明寺)享年65歳、
下御霊神社には闇斎を祀る垂加社がある。
下御霊神社の宮司は闇斎の弟子の子孫 資料を持っておられる
毎年2月22日に資料を公開している
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