青蓮院の飛び地境内 旧将軍塚大日堂庭園 に大護摩堂「清龍殿」が2014年に完成。
解体予定だった1914年建築の「平安道場」を丸ごと移築した。府警や武道場だった建物で、北側に新たに内陣と収蔵庫を増設した。木造舞台はテニスコート4.7個分の広さで
眼下に市街地が望める。
寺院 前回の記事 ➡ 寺院東0365 清水寺 子安の塔 泰産寺 3
五七五
切り取るが作ってくれぬ料理記事
ことわざ
同じ穴の狢(おなじあなのむじな)
青蓮院の飛び地境内 旧将軍塚大日堂庭園 に大護摩堂「清龍殿」が2014年に完成。
解体予定だった1914年建築の「平安道場」を丸ごと移築した。府警や武道場だった建物で、北側に新たに内陣と収蔵庫を増設した。木造舞台はテニスコート4.7個分の広さで
眼下に市街地が望める。
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五七五
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ことわざ
同じ穴の狢(おなじあなのむじな)
将軍塚 大日堂 付近
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き東0445 将軍塚からの京都市内 景色
トレイル 前回の記事 ➡ まち歩き東0444 京都一周トレイル 東山コース 21
五七五
シップはる時だけ妻は僕を呼ぶ
ことわざ
男は度胸女は愛嬌
校祖 大隈重信先生 御手植之松 此の奥大日堂内
昭和57年10月建立
石碑 前回の記事 ➡ 石碑東0114 将軍塚 付近 井上
五七五
妻に言う息子見る目で俺を見て
ことわざ
男は閾を跨げば七人の敵あり(しきいをまたげば)
幹の ねじれが すばらしい
画像追加 平成29年5月25日
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まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き左0248 店の看板
今回の川柳
殺し合わなくともみんな死ぬものを /オアシス
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右 山縣公紀念樹
高臺寺
左 清水寺
建立者 (中井慈眼)
関連記事 ➡ 道標東0108 東山連峰 山中にある道標
道標 前回の記事 ➡ 道標東0108 東山連峰 山中にある道標
ことわざ
恐れ入谷の鬼子母神
侯爵井上馨(号世外,1835~1915)が揮毫した元人劉*作七言律詩の対句を表に記し,裏面には建立の経緯を記す。井上と伊藤博文は明治42(1909)年に木戸孝允(1833~77)の三十三回忌列席のため来京。中井慈眼が伊藤・井上の詩碑を東山に建立することを発意し建設された。伊藤博文の詩碑はこの碑の西方にあり姉妹碑とでもいうべきものである。
中井慈眼(1851~1932)は中井三郎兵衛と称し,三条東洞院で紙商を営んだ人物。府会議員・市会議員をつとめ明治京都の実業界で重きをなした。かたわら京都を観光都市として発展させるために東山の開発に尽力した。中井は近くの将軍塚の大日堂を明治41年に建立し,この碑一帯の整備にも意を注いだ。
山水増光
天懸海外三千界
月満人間幾百州
侯爵井上世外
碑陰記
碑面所勒世外井上侯句也建碑者中井慈眼翁也蓋
桓武帝奠都之地山水明媚美甲于寰宇翁欲以為一
大公園経営名区尽瘁不措今茲侯與春畝公来祭木
戸公乃有此作翁於是卜地勒碑以培風致欲深富国
之源其志美矣余惟園囿以招遠人不問雉兎芻蕘則
文王之仁必達遐陬厥美更無窮極耳乃為記之
明治四十三年八月 浪華南岳藤澤恒撰文
伊勢錦山矢土勝之書
設計監督 安田時秀 肝煎 辻坂楢吉
鐫刻 芳村茂右ヱ門 運搬 松山米吉
井上世外詩碑 碑文の大意(碑陰)
碑の表に彫ったのは世外井上侯爵(井上馨)の詩(の一部)である。碑を建てたのは中井慈眼翁である。そもそも桓武天皇が遷都された平安京の地は,風光明媚であること無類である。慈眼翁はこの山水をひとつの公園となし景観を整備することに力を尽していた。
このたび井上侯爵と春畝伊藤公爵(伊藤博文)がそろって木戸孝允の三十三回忌に列席するため来京した。井上侯の詩はこの時の作である。そこで慈眼翁は東山に土地を選び井上侯の詩を刻んだ碑を建て,それによって山水の美におもむきを加え,豊かな国土の基礎をさらに整備しようと考えた。その志は実に美しい。
わたし(筆者藤沢南岳)がおもうに,庭園は遠の人を招き寄せることがたいせつである。雉や兎やあるいは木こりであろうとも来る者を問わない周の文王の庭園(孟子梁恵王下)がお手本である。そうすればその名はすみずみまで知られ,その美はあせることがない。こういう重いが慈眼翁の趣旨だと以上のとおり記すものである
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まち歩き滋賀0213 琵琶湖疏水 第1トンネル 東口 伊藤博文の扁
石碑 前回の記事 ➡ 石碑東0113 昭和10年風水害
ことわざ
遅かりし由良之助(おそかりしゆらのすけ)
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き下0442 四条大橋
京都一周トレイル 前回の記事 ➡ まち歩き東0432 京都一周トレイル 東山コース 19
ことわざ
教うるは学ぶの半ば(おしうるはまなぶのなかば)
右
大日如来 粟田青蓮院
将軍塚 京津日ノ岡停留所
圓山公園 知恩院
都ホテル 山縣公手植松
右
山縣公紀念樹
高臺寺
道標 前回の記事 ➡ 道標東0107 清水寺 背後の山中の道標
ことわざ
お里が知れる
右 山科街道 稚児ヶ池
右 清水寺
左 将軍塚 大日如来
道標 前回の記事 ➡ 道標東0106 地主神社 前にある道標
五七五
お口あーん昔アツアツいま介護
ことわざ
驕る平家はひさしからず(おごる・・・)
子安の塔
もと仁王門前にあったが、
明治42年(1909)境内地の整備に当たって現在の地に移建された。
泰産寺と号し、千手観音像を安置する。光明皇后は当観音に祈って孝謙天皇を安産され、その報恩のため建てられたという。後世女人の安産祈願の信仰がうまれ、
世に子安観音とあがめられ、洛陽観音第14番札所となった
清水寺 前回の記事 ➡ 寺院東0364 清水寺 舌切茶屋 2
寺院 前回の記事 ➡ 寺院東0362 金剛寺 八坂庚申堂
ことわざ
奥歯に物がはさまる
舌切茶屋
腰掛茶屋 清水寺の寺侍で、月照を庇い、六角の獄舎で舌をかんで自害した近藤正慎の遺族が営む茶屋。
幕末、幕府の追及をのがれるために、月照(清水寺の勤皇僧)が西郷隆盛とともに都落ちしたのは、安政5年(1585)9月11日だった。近藤正慎は伏見の渡船場まで見送った。近藤は幕府に捕えられ、翌月の24日に獄中での最期だった。捕えられた後は拷問が続き、もはやこれまでと最後の手段として牢屋の壁に強く頭を打ち付け、舌をかみ切るいうあわれな最期だった。43歳と清水寺の文献は伝えている。妻きぬ女は、まだ幼い市太郎と八重の二児をかかえて途方に暮れた。清水寺の好意で、境内に茶店を出すことを許され、やっとその日をしのぐことができるようになった。「清閑亭」と名付けられたこの茶店は、いつのころからか、正慎が舌をかみ切って死んだところから、「舌切り茶屋」と呼ばれるようになった。
4代目主人は近藤昭平氏。正慎の墓は、東山区祇園下河原清井の清竜寺にある。
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清竜寺
月照・西郷の密議の場所 ➡ 寺院東0358 清閑寺 2
寺院 前回記事 ➡ 寺院東0362 金剛寺 八坂庚申堂
五七五
たくわえは老後のためと老いた母 /巻淵
ことわざ
屋上屋を架す(おくじょうおくをかす)
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舞台 田村麿が長岡京の紫宸殿を賜って本堂としたといわれ、
今のは寛永10年(1633)の再建です。平安時代以来の形式を踏襲している。
2015年 「清水寺平成縁起絵巻」が完成している
全9巻、長さ65m、幅35㎝ だそうだ
最近、明治以来の修理が行われ、78本の柱の内9本の「根継」の工事が行われた。
柱の組合せは釘を一本も使っていない。「地獄止め」という日本独特の構築方式。
2度の火災にあっている。
この欄干の東西を蹴鞠をしながら往復した人がいる。
成就院には舞台から飛び降りた人の記録が残っているらしい。
いままで240人くらいいたそうだ。
明治時代に禁止令が出された
最近では、夜間コンサート、オペラの上演なども開かれています
2015年春 オバマ大統領のミシェル夫人・キャロライン・ケネディ駐日大使が
舞台で能の鑑賞をしている
毎年8月9日~16日 に 千日詣り が行われる
江戸時代初期に始まった。明治期に途絶えていたが
1993年に復活された
秘仏 11面千手観音像が 拝観できる
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寺院 前回の記事 ➡ 寺院東0362 金剛寺 八坂庚申堂
ことわざ
屋烏の愛(おくうのあい)
大黒山延命院と号する天台宗の寺。本堂には青面金剛が安置してある。「八坂庚申」と呼ばれ、大坂四天王寺・東京浅草の庚申とともに日本三庚申とされている。安置されている三猿の像は、伝教大師が三尸の虫に因み、天台の不見不聞不言を猿に当てたものといわれ、毎年初庚申の日には、祈祷をうけた「こんにゃく」を病人の頭の上に吊り下げておくと病気が平癒するとのことで参詣者が多く、三猿のお札を授かる風習がある。
くくり猿
当寺は大黒山延命院金剛寺と号し、大坂四天王寺、東京浅草庚申(現存せず)と共に日本三大庚申の1つで、本尊に青面金剛童子を祀る。その昔 葛野の秦河勝が我が国に帰化した時・・来した仏像で 秦氏一族の守本尊でしたが、秦氏一族が滅亡した時 浄蔵貴所法師がこの本尊を奉持して一般人にも参詣出きる様にと八坂の地を卜して創建したのが当庚申堂だ と伝えられています。 今から約1200年も前の事です。その後 重なる兵乱災火により本堂、書院も宝物と共に焼失し 現存の本堂は延宝6年戌午5月(約300年)の再建であります。江戸末期までは西側に愛宕山を正面にして梅林を見下せる書院も有り風光佳絶の地で善男善女が庚申待(守庚申)に参詣し隆盛を極めました。明治以後廃佛等 世の変遷により 現代は境内も縮小し昔の姿はありませんが、年に一願は何事も叶うとて本尊は云うに及ばず左脇侍の不動明王は悪魔を拂い、右脇侍の弁財天は婦女を守護し、聖徳太子は建築業の祖神として相共に誠に霊験あらたかであります。
庚申さんに祈願する人は1年に一願すれば何事によらず叶えていただけるといわれます。特に多いのは腰痛・神経痛を治していただきたいという祈願です。本尊は秘仏、60年に一度ご開帳されるだけです。ご本尊はこわい顔で眼が3つランランとかがやき、キバがはえた裸体で、虎の皮のふんどしをつけています。全身が青くなって怒っているようなので青面金剛といわれます。庚申は中国の道教の説によりますと、人体の中には三尸の虫がいて、庚申の夜、眠っている間に虫が天に登って天帝にその人の罪を告げ、命を奪うので寝ないで慎んで過ごすものとされました。これを『庚申待ち』といい、わが国では平安時代のはじめ、宮中で行われていました。
こんにゃく焚きの接待、こんにゃくを3個、北を向いて食べると、無病息災でいられるという言い伝えもある。なぜ、こんにゃくなのか、かつて飢饉かあった時、住職の夢枕に庚申さんが現れ、「人々の救済に行く」と告げた翌朝、どこからともなく、こんにゃく玉を持った猿がやって来たことに由来する。それも、庚申さんの使いは猿で、本堂には「見ざる、聞かざる、言わざる」の「三猿」が安置されていて、また境内には、猿の人形が吊るされていて「くくり猿」と呼ばれる。これは、欲望のままに行動する猿の手足をくくりつけて動けなくなった姿を表していて、願い事をかなえるためには、何かを我慢することが必要だということを教えるものです。
5月3日には、老いても失禁せず、人の世話にならないように祈願する「たれこ封じ」もあり、参拝者が自分の下着を持参。本堂に供えて、住職から祈祷を受ける。
庚申堂 ➡ お寺・神社めぐり20 京の三庚申
寺院 前回の記事 ➡ 寺院東0361 法観寺・八坂の塔
ことわざ
傍目八目(おかめはちもく)