五重塔の変遷
① 白鳳時代(645~710)の創建
② 治承3年(1179) 祇園社の神人と清水寺の僧徒との争いで焼失
③ 建久3年(1192)源頼朝によって再建
④ 正治4年(1291) 焼失
⑤ 延慶元年(1309)後宇多天皇が資金援助し、北条貞時は般若経を書写し塔下に埋納するなどの協力で再建
⑥ 康永元年(1342)足利尊氏は夢窓国師を請じて塔再興補の落慶供養を行う
⑦ 永享8年(1436) 火災に遭う
⑧ 永享12年(1440) 足利義教によって再建される。
応仁の乱(1467~1477)の兵火を免れた。 現在に至る。
霊応山と号し、臨済宗建仁寺派に属する。寺伝によれば、聖徳太子が如意輪観音の夢のお告げにより建立し、往時は延喜式7ケ寺の1つに数えられ隆盛を極めたが、現在は八坂の塔(五重塔)と太子堂、薬師堂の2宇を残すのみである。八坂の塔は本瓦葺の5層、方6m、高さ46mの純然たる和様建築で、白鳳時代の建築様式を今に伝えるものである。創建以来、度々の災火により焼失したが、その都度再建され、現在の塔は永享12年(1440)に足利義教によって再興されたのものである。塔内には本尊五智如来像五体(大日、釈迦、阿閦、宝生、弥陀)を安置し、須弥壇の下には古い松香石製の大きい中心礎石があり、中央には舎利器を納めた三重の凹孔が残っている。寺宝として、塔を中心に社寺を描いた紙本著色八坂塔絵図のほか、足利義教画像、法観雑記など貴重な文化財を蔵している。 京都市
関連記事 ➡ 陵墓右003 後宇多天皇髪塔
寺院 前回の記事 ➡ 寺院東0360 興雲庵 臨済宗建仁寺派
ことわざ
陸に上がった河童(おかにあがったかっぱ)
京都市東山区小松町599
陀枳尼尊天
豊川稲荷 陀枳尼尊天 略縁起
当寺の鎮守稲荷 陀枳尼尊天は、当寺の中興の祖、三江紹益禅師(1572~1650江戸初期、建仁寺で活躍の高僧)の厳父慈母が深く崇神された霊神である。寺伝によれば、『父母の家門に嗣子無きを嘆き、精進潔斎、丹誠を尽くして祈願す。満願の暁、金輪の玉空中より飛来して口中に入る夢見感じて孕む。日移り月満ちて玉の如き男子を授かる。然るに不思議なるかな右手に何物かを握る。厳父驚き手を開かしむるに、有難い経文(観音経普門品の偈)の一句を書した片紙あり・・・中略・・・是即ち三江大和尚なり』と。是全く尊天の霊験信心のご利益と父母大いに、感泣し、後倍し崇信つれたとのことである。
此の因縁を以て、三江大和尚は『堅固な信心あらば一切の願望悉く成就する』といわれる陀枳尼天を生涯の守護神となされ、また当寺の中興に当たっても国家安寧・佛日増輝・寺門昌盛とともに、信徒各家の子孫長久・福徳招来・稼業繁昌等の誓願のためこの善神を此の地に勧請され、永く鎮守として祀るようになったと伝えられる。この霊験感応を蒙る者幾多、今も広く人々に篤い信仰があり、秋の大祭(11月22日)には多くの信者で賑う。平成15年 当寺住持 興道謹誌
豊川陀枳尼尊天
寺院 前回の 記事 ➡ 寺院東0359 仲源寺 目疾地蔵 千手観音
ことわざ
大風呂敷を広げる
四条大橋 長さ 65m 幅 25m 鋼橋
橋には 祇園祭の鉾の車輪が飾られています
北方を見る 三条大橋が見えます
南方を見る 団栗橋 が見えます
関連記事 ➡ まとめ027 三条大橋
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き下0441 東華菜館
ことわざ
大鍋の底は撫でても三杯
2017年5月11日 撮影
2017年5月9日の記事
関連記事 ➡ 建物下002 東華菜館 手動式のエレベーターがある
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き東0440 南座 改修中
ことわざ
大取りより小取り
洛陽三十三観音霊場
第十六番札所
めやみ地蔵尊 仲源寺
施主 石見屋惣兵衛 事 小林虎治郎 ・・
大正十年十月 建立
雨奇晴好
表門の扁額「雨奇晴好」はこの寺の性格をよくあらわしている。
寺伝によると、鎌倉時代の安貞2年(1228)鴨川の氾濫に際し、ときの防鴨河使勢多判官為兼は地蔵菩薩が溺れ人を救う霊告によって洪水を防いだので、その報恩のため、一体の地蔵尊を安置したのが当寺の起こりと伝える。一説に夏(中国)の禹王を祀って、水害が起こらぬように祈ったのだともいわれる。
はじめ、平安時代の治安2年(1022)、仏師定朝が四条大橋より東北の田のなかに祀られていたので「畔の地蔵」とよばれたが、八坂神社へ詣る人がよく雨を避けて雨宿りをしたことから、雨止(あめやみ)地蔵とよばれた。
天正13年(1585)豊臣秀吉の命により、現在の地に移り、祇園村の惣堂として崇敬された。本堂にはこの霊験あらたかな地蔵尊(江戸時代)を本尊とし、その傍らに阿弥陀如来像(室町時代)を安置する。この阿弥陀像は、前に山形の彫刻を置き、その背後から半身をあらわした所謂「山越の阿弥陀」を彫刻化したもので、絵画にはその例が多いが、彫刻としては珍しい。
この地蔵尊は丈六の坐像、玉眼入で、その眼が少し曇っていて、あたかも風眼にかかっているようにみえることから、眼病平癒祈願の信仰が生まれ、「雨止(あめやみ)」が転じて「目疾(めやみ)」地蔵とよばれるに至った。
霊元法皇の御製とつたえるその御詠歌に
見る眼なき数多の人の嘆きには
代りわずらふ法のまなじり
とうたわれた如く、江戸時代には洛陽48願所の37番霊場として信仰をあつめた。
千手観音
観音堂に安置する春日仏師の木造の千手観音坐像(重文・藤原時代)は、丈六、金箔押の巨像で、円満な面相と流麗な衣文は、よく藤原時代の仏像の美しさをあらわしている。平安時代後期に千手観音の信仰が盛んであった。三十三間堂も造営されている。千手観音が平安後期の貴族たちに信仰されたのは、この観音の法要の1つに千手愛敬法があるからである。この法をおさめると仲の悪い男女が愛し合うようになる。白河法皇が平忠盛を供につれて祇園女御のもとに通ったことは有名な話、法皇と女御とが仲たがいしたことがあった。そのとき、勧修寺の範俊が千手愛敬法をおこなって、両者をもとの鞘におさめたという。その尊像は、もと東山の雲居寺または桂橋寺の遺仏とつたえる。
洛陽三十三観音霊場 ➡ お寺・神社めぐり04 洛陽33所観音めぐり
洛陽48願所 ➡ お寺・神社めぐり08 洛陽48願所地蔵尊
通称寺 ➡ 京の通称寺
寺院 前回の記事 ➡ 寺院東0358 清閑寺 2
ことわざ
大男総身に知恵がまわりかね
平成28年11月10日 朝 8時
向こうに 見える橋は 団栗橋
釣り人がいます
ここは 松原橋
東山区宮川筋五丁目
長さ 84m 幅6.7m 鋼橋
近くの建物の上に 青サギがとまっている
関連記事 ➡ まち歩き下0073 鴨川に架かる橋からの眺め 松原橋
まち歩き 前回の記事 ➡ 下0436
ことわざ
遠慮は無沙汰
法堂の天井画「双龍図」は、平成14年(2002)に建仁寺創建800年を記念して、日本画家の小泉淳作画伯が約2年の歳月をかけて取り組んだ壮大な作品です。互いに絡みあうように「阿吽」の双龍が描かれています。108畳にも及ぶ水墨画。
ポスター 前回の記事 ➡ ポスター0058 六道珍皇寺 寺宝展
五七五
酒代を浪費と叱る厚化粧 /野川
ことわざ
縁の下の筍