小野 篁公 自作 子育地蔵菩薩
大正5年
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寺院伏0288 本成寺 法華宗(本門流) 妙營水 小野篁 たんきり地蔵
寺院上0111 智恵光院 浄土宗 洛陽48願所 六臂(ろっぴ)地蔵尊が有名
千本ゑんま堂・引接寺 こわくて偉い閻魔様が人気です 六斎念仏は本日午後7時から
寺院 前回の記事 ➡ 寺院伏0402 北向山不動尊
五七五
あの傘は どこに忘れて きたのやら /中尾
ことわざ
蛇は寸にして人を呑む
小野 篁公 自作 子育地蔵菩薩
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五七五
あの傘は どこに忘れて きたのやら /中尾
ことわざ
蛇は寸にして人を呑む
平成28年12月24日 撮影
空には 約190羽の鳥の群れ
川面には27羽の鳥
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き南0610 このコンクリートの下は川だっただろう
五七五
つつましく夫婦そろってロング缶 /高居
ことわざ
流水は腐らず
寛保2年(1742)、長谷川半助が築造した農家住宅で築270年を経ている。長谷川家は郷士であり、庭田家の家来として 「庄屋」を勤め、高瀬川を通じて庭田家などに年貢を運んだ。当時、東九条の農家はコメのほか九条ネギ、京人参、くわい、真桑瓜、藍などを栽培した。
登録文化財 前回の記事 ➡ 文化財伏005 大橋家庭園
五七五
夕陽追う 城跡に聴く 秘史の謎 /西村
ことわざ
沈む瀬あれば浮かぶ瀬あり
稲荷さんけい道
明治廿八年七月 土井柾三建之
稲荷さんけい道
稲荷さんけい道
道標 前回の記事 ➡ 道標伏0132 北向不動尊 踏切内にあった
五七五
遠足の列を横切る紋黄蝶 /中尾
ことわざ
糠に釘
稲荷神社(現伏見稲荷大社)への参詣道は,明治中期まで本町通(伏見街道)経由しかなく,参詣の便をはかるために,竹田街道勧進橋から稲荷神社裏門までの新しい参詣道が明治28(1895)年に開かれた。稲荷新道と呼ばれたこの参詣道は,大阪の実業家土井柾三の寄附により幅三尺の細道を二間に拡幅してつくられている。
この碑は建立時には琵琶湖疏水稲荷橋西北詰にあり,竹田街道の新道起点には土井柾三により「稲荷さんけい道」と記す道標が設置された。本碑はのち撤去され長く行方がわからなかった。2002年に再発見され,缺損した下部を強化プラスチックで再現し,2004年4月に現在地に再設置された。
稲荷新道之碑【篆額】
稲荷神社は官幣大社にして信者全国に充満せり然るに参詣の道路伏見街道只一筋のみなれは初午其他大祭の時不便いふへからす爰に大阪の人土井柾三ふかくこれを患へ公衆のため本社裏門前より竹田街道に達する此新道を開かんと主典桑田孝恒にはかりしに孝恒悦ひ諾なひて官準を経土地購収の手数すへて百般の事は森守信大石長兵衛等に委任し去年一月起工して今年二月に功を竣ふ此工費巨額なりといへとも皆土井氏の負担なり抑土井氏は常に質素を旨とし節倹を守り本社のためにはこれまて種々の寄附をなしこれを永遠普及に供す加之汎く公衆の益をおもひ慈善を行ひ隠徳を積事枚挙にいとまあらす嗚呼積善の家必余慶ありと古人の金言空しからさるへしと云爾 明治二十八年五月 稲荷神社宮司従六位近藤芳介撰
同 禰宜従八位羽倉良豊書
同 主典従八位桑田孝恒賛
石碑 前回の記事 ➡ 寺院南0399 誓祐寺 石碑南0134 苅萱道心旧跡
五七五
炎天へ かっと目開く 鬼瓦 /古崎
ことわざ
真綿で首をしめる
ここは 近鉄・京都地下鉄 の 竹田駅 より 南へ1つ目の踏切
施主
京都市 綾小路 田中 伊助
同 先斗町 ◎藤 清次郎
皇国 守護
鳥羽天皇 勅願所
北向不動尊
関連記事 ➡ 寺院伏0402 北向山不動尊
道標 前回の記事 ➡ 地蔵尊南039 矢取地蔵尊 道標南0131
五七五
しみじみと あいつが居ない クラス会 /島津
ことわざ
木乃伊取りが木乃伊になる
天台宗の単立寺院で、一般に北向不動の名で親しまれている。
大治5年(1130)鳥羽上皇の勅願により鳥羽離宮内に創建され、興教大師を開山としたのが当寺の起こりである。本堂に大師が自ら仏師康助に刻ませた不動明王(重要文化財)を王城鎮護のため北向に安置した。そのため、上皇から北向山不動院の名を賜ったといわれる。久寿2年(1155)、播磨国(兵庫県)大国の庄を寺領として、藤原忠実が中興に当たった。その後、応仁の乱の兵火など、しばしば災害に遭ったが、幸い本尊不動明王は難を逃れた。朝廷の保護も厚く、近世に至って復興した。現在の本堂は、正徳2年(1712)、東山天皇の旧殿を移したものである。境内鐘楼にかかる梵鐘は二品済深親王の御名があって、元禄7年(1694)に名士名越浄味によって鋳造されたものである。京都市
当寺は古来皇室との関係がふかく、歴朝の尊崇をあつめ、そのための祈祷もしばしば行われるのを例とした。今でも1月16日の鳥羽上皇の誕生日には、大護摩が修められる。俗にこれを「一願の護摩」といい、当日参詣するものには1つの願いがかなうといわれる。また、鳥羽上皇の遺愛とつたえる老松があり、鐘楼は三条釜座名越浄味の作になる鐘がある。
幕末には勝海舟・山岡鉄舟もこの寺に参詣し不動さんのご利益にあずかり額を寄進しています。
この不動さんは片足を垂れておられます。鳥羽上皇が願をかけ願が成就したときに出てこられた姿そのままで刻んだといわれ半分立ちかけの姿です。この不動さんは秘仏で拝むことはできませんが護摩壇にある石の不動さんと同じ姿をしておられます。今までは天皇の代がかわるか、50年目にご開帳されていましたが、戦後は1年に一度1月16日に開扉されます。
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寺院 前回の記事 ➡ 寺院南0401 浄禅寺 浄土宗
五七五
リタイア後 平然と待つ 赤信号 /大井
ことわざ
贔屓の引き倒し