アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

神社久御山0159  玉田神社

2019年03月18日 21時10分06秒 | 神社

 

 

鳥居の向こうの森が 玉田神社

 反対側から見た鳥居

 

玉田神社 参道入り口

 

歌碑がありました

 玉田神社 社号標

 

 

 

和銅3年(710)元明天皇の勅願により、春日4神を勧請祭祀したのが起こりと伝えられている。以前は美豆野(みずの)神社または丹波津宮(たにはづめのみや)と称した。天正14(1586)御牧城主勘兵衛尚秀によって再興され、寛永元年(1624)には淀城主板倉伊賀守高勝および御牧八郷氏子惣中によって社殿の造営が行われた。旧御牧八ケ村の産土神として、あつい崇敬をうけている。

 

現在の祭神は4神を祀る。本殿も4間社とし、流造り、檜皮葺。

 

末社には、姫大神社、稲荷社、市杵社、金毘羅社の4社があり、本社の4神とあわせて八神を祀るところから「玉田八社大明神」と称した。毎年109日の例祭がある。



 参道  

 本殿

 

玉田玉大明神火難除け

聖武天皇、橘諸兄公

 

 大神宮両宮 遥拝所

昭和3年6月 建設

 神武天皇遥拝所

 昭和11年 建立

 

 

 

 

和銅3年(710)元明天皇の勅願により、春日4神を勧請祭祀したのが起こりと伝えられている。以前は美豆野(みずの)神社または丹波津宮(たにはづめのみや)と称した。天正14(1586)御牧城主勘兵衛尚秀によって再興され、寛永元年(1624)には淀城主板倉伊賀守高勝および御牧八郷氏子惣中によって社殿の造営が行われた。旧御牧八ケ村の産土神として、あつい崇敬をうけている。

 現在の祭神は4神を祀る。本殿も4間社とし、流造り、檜皮葺。

末社には、姫大神社、稲荷社、市杵社、金毘羅社の4社があり、本社の4神とあわせて八神を祀るところから「玉田八社大明神」と称した。毎年109日の例祭がある。

 

明治37.8年 戦役記念

明治414月建立

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 明治天皇遥拝所

 

 

 神社 前回の記事 ⇒ 神社久御山0158 大池神社

関連記事 ⇒ 45 久御山  地区 寺社記事検索一覧

 


寺院久御山0560 観音寺 浄土宗

2019年03月17日 17時15分58秒 | 寺院

 

圓光大師25ヶ所 第2番

 

 

 

久御山町指定文化財

木造阿弥陀如来坐像 一躯 観音寺蔵

寄木造 玉眼 漆箔 像高 48.9

鎌倉時代中期 平成8年2月29日指定

観音寺は、建長2年(1250)、百阿上人の開基と伝え、中世には御牧三ヶ寺(華台寺・観音寺・念仏寺)1つに数えられていた。木造阿弥陀如来坐像は、定印を結び胸は大きく開き、腰を深く落とす大仏風の体型で、面貌は童顔ながら端正な表情を示す。衣文の彫は浅く、平安時代末期の作風が感じられるが、様式からみてほぼ13世紀中葉の制作と推定される。後年の補修も少なく、鎌倉時代の小像の佳作として貴重なものである。久御山町教育委員会

金華山

 

 

寺院 前回の記事 ⇒ 寺院久御山0559 華台寺 浄土宗 道標・三宅安兵衛

関連記事 ⇒ 45 久御山  地区 寺社記事検索一覧

下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます


まち歩き久御山1028 久御山の田畑に保冷車の冷蔵庫がありました

2019年03月16日 05時52分19秒 | まち歩き

 

 

まち歩き 前回の記事 ⇒ まち歩き伏1027 橋の親柱か なぜここにある

関連記事 ⇒ 45 久御山  地区 寺社記事検索一覧

この辺り


寺院久御山0559 華台寺 浄土宗 道標・三宅安兵衛

2019年03月15日 15時52分48秒 | 寺院

 

 

 道標久御山0210 阿弥陀如来尊像 華臺寺 三宅安兵衛

 

釘貫地蔵尊

 

釘貫村法運庵旧仏 明治初年当寺に移建

苦を抜く地蔵尊として信仰されている

 

すくくぎぬき地蔵尊

寛政4年  中崎屋平治

 

 

阿弥陀如来尊像 華臺寺

道標久御山0210 西 釘貫 一丁

 

東 相島 三丁

昭和  京都 三宅安兵衛

 

 

山田翁  碑

 

圓光大師 五拝所

第1番

 

九品山往生院と号する浄土宗知恩院派

当寺は寛仁3年(1019)妙法上人の開創といわれる。古くは花台寺と号する天台寺院であったといわれ、付近の観音寺・念仏寺(いずれも廃寺)とともに御牧三ヶ寺といわれた。近世は久世郡を中心とする城南近在三十三所観音めぐりの結願霊場として信仰を集めた。

本堂は昭和54年(1979)の建造、堂内には阿弥陀如来立像を本尊とし、観音・勢至菩薩像とう多くの仏像を安置する。

境内の地蔵堂の本尊は、釘抜地蔵、釘貫地蔵とよばれ、もろもろの苦しみを抜き取るとして広く信仰され、祈願成就の後は1寸8分の地蔵をきざみ、奉納するならわしがある。

 

 

道標 関連0002  三宅安兵衛の道標

関連記事 ⇒ 45 久御山  地区 寺社記事検索一覧

寺院 前回の記事 ⇒ 寺院久御山0558 光明寺  曹洞宗 光明皇后祈願所 三宅安兵衛の道標

道標 前回の記事 ⇒ 寺院久御山0558 光明寺  曹洞宗 光明皇后祈願所 三宅安兵衛の道標

 

 

 


寺院久御山0558 光明寺  曹洞宗 光明皇后祈願所 三宅安兵衛の道標

2019年03月14日 16時33分58秒 | 寺院

 道標久御山0209 薬師如来尊像 光明寺

 

光明皇后祈願所舊跡

薬師如来尊像 光明寺

 

北 中島 三丁

 

昭和3年春 京都三宅安兵衛依遺志建立

 

 白雲山

 

 

 

関連  関連0002  三宅安兵衛の道標

関連記事 ⇒ 45 久御山  地区 寺社記事検索一覧

寺院 前回の記事 ⇒ 寺院久御山0557 安養寺 道標久御山0212 安養寺

下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます

 


神社久御山0158 大池神社

2019年03月13日 21時04分40秒 | 神社

 

 

 

 

社号標 昭和50年建立

 

 

 本殿

昭和11(1936)、大池水産組合が巨椋池に生息する魚介類や諸種の生物の霊魂を祀り、併せて水田耕作者の安全と繁栄を願って創始された無格社です。その後、巨椋池土地改良区の有志により昭和50(1975)春日造りの社殿が再建された。内部には往時の漁業の歴史を物語る多くの記録文書が収蔵されている

 

大池漁業記念碑  昭和11年建立

 

 

 

 

 

 

巨椋池

万葉の昔より詩歌、文藝にあらわれた巨椋池は、古くから洛南の名勝地として知られ、古代よりわが国の歴史とともに歩んできた池沼であった。淀、木津、桂の三川が合流して一大遊水地帯をなし、舟運の要衝であったが、沿岸住民は度重なる水害に悩まされていた。近時沿岸町村間に開墾干拓の希望が勃発し、昭和16年干拓工事の完成と見、現在の美田約7百ヘクタールが出現し米3万石が産出されるようになった。昭和28年9月25日、13号台風により淀川堤防が決壊、濁水が干拓田に流入、接続地とともに水没し昔時の巨椋池の再現を思わした。

その時の水位がこの碑の頂点である。

巨椋池土地改良区理事長 池本樽三郎

 

川魚商 昭和12年建立

 

 

 

 神社 前回の記事 ⇒ 神社左0157 平安神宮 応天門

関連記事 ⇒ 45 久御山  地区 寺社記事検索一覧

下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます

 

 


石仏久御山032  2面仏 地中より出土

2019年03月12日 21時04分26秒 | 石仏

 

 

 

 

石仏 前回の記事 ⇒ 石仏右031  遍照寺の石仏 と 石柱2本

関連記事 ⇒ 45 久御山  地区 寺社記事検索一覧

下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます


寺院久御山0557 安養寺 道標久御山0212 安養寺

2019年03月11日 06時52分03秒 | 寺院

 

 

 

 

観世音尊像

弥陀次郎尭円居士

安養寺

 

 

南 伏見向島 一里

八幡町  一里

 

昭和3年 京都 三宅安兵衛  遺志建立

 

北 淀町 十町

 

 

 

 

 

 

浄土宗知恩院派、紫金山と号し、建久3年(1192)弥陀次郎尭円(ぎょうえん)の開創と伝わる。

弥陀次郎は一口の漁民で、生まれつき放縦にして、殺生を好んだ。故に世人は彼を゛悪次郎゛と称した。ところがある日、一人の托鉢僧の←左頬に焼火箸をあてて追い払ったが、僧は少しも怒ることなく無言で立ち去った。不審に思い、僧のあとをつけて行くと、それが粟生光明寺の釈迦如来の化身であることを知り、深く懺悔の思いをした。その夜また霊夢を見て、淀川神ノ木の淵(伏見区淀町付近)にて一体の11面観音立像を引き上げた。これを小堂に安置したのが当寺の起こり。

それより悪次郎は前非を捨て、熱心な念仏修行者となったから、世人は「弥陀次郎」とほめたたえた。没年は貞応元年(1222)、齢は70または80とつたえる。現在本堂に安置する本尊11面観音立像は、弥陀次郎が感得した像といわれ、常は秘仏となっているが、3月18日の春祭には特別に開扉される。

因みに、弥陀次郎伝説は巨椋池周辺に多く、宇治五カ荘の西方寺もその1つ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 関連記事 ⇒ 寺院長0170 光明寺 西山浄土宗  法然上人 蓮生上人

関連記事 ⇒ 関連0002  三宅安兵衛の道標

関連記事 ⇒ 45 久御山  地区 寺社記事検索一覧

寺院前回の記事 ⇒ 寺院伏0556 本光寺 浄土宗

下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます

 


登録有形文化財010  久御山・旧山田家住宅

2019年03月10日 08時06分14秒 | 登録有形文化財

 

 

 

 

旧山田家住宅(長屋門・長塀、主屋)

東一口は、昭和8年巨椋池干拓工事が着工されるまで漁(すなどり)を専業とする集落であった。後鳥羽上皇より賜ったと伝えられる漁業権は、東一口村・小倉村・三栖村・弾正町の4ヶ郷の漁師が、東は津軽外の海、西は艪櫂(ろかい)の及ぶ限りの漁を許されたものであったという。

旧山田家住宅は、その漁業権の総帥としての格式を今に伝え、主屋の規模は当時の3分の1ほどに縮小されているとはいうものの、書院の間や欄間等に往時の姿をとどめている。

当家の玄関を飾るにふさわしい長屋門は、東西15間、奥行2間半。三間の入口には総欅(けやき)の扉があり、両妻の張り、軒の塗籠(ぬりこ)め仕上げ、出格子やその子屋根など、いずれも雄大、大胆な造りである。

巨椋池が干拓された今、かつての漁業集落の面影や情景を、東一口の地から偲ぶことはできないが、幾世紀続いた漁業の繁栄を、旧山田家住宅は誇り高く伝えている。

旧山田家住宅は、平成2581日に前所有者の山田賀〇氏から久御山町に寄贈された。

平成293月 

 

 

関連記事 ⇒ 登録有形文化財 一覧

関連記事 ⇒ 45 久御山  地区 寺社記事検索一覧

下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます

 


蔵のある風景久御山0380回 東一口(ひがしいもあらい) 付近

2019年03月09日 15時43分35秒 | 蔵のある風景

 

 

 

 

 

蔵のある風景 前回の記事 ⇒ 蔵のある風景南0379回  羽束師橋 近く

 関連記事 ⇒ 45 久御山  地区 寺社記事検索一覧

 


道標久御山0208  淀川渡  

2019年03月09日 05時54分12秒 | 道標

 

 

 

 

 

 

南 御牧村役場 八

是 東 一口村 安養寺

昭和3年 三宅安兵衛

 

淀川渡

 

淀 京阪・・

 

関連記事 ⇒ 関連0002  三宅安兵衛の道標

関連記事 ⇒ 45 久御山  地区 寺社記事検索一覧

道標 前回の記事 ⇒ 道標伏0207 昔の桂川 舟のりば やなぎ谷 

 下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます

 


史跡伏043 鳥羽離宮南殿跡

2019年03月08日 22時05分33秒 | 史跡・旧跡

 

 

 

鳥羽離宮南殿跡

この遺跡は、白河天皇が退位後に、院政の拠点として、11世紀の末、応徳3(1086)に造営されたものを、

昭和38年から42年にかけて調査し、建物と庭園の跡を確認したものである。

南殿は鳥羽離宮で最初に造営された宮殿であり、建物跡は公園の南方にある。

なお、公園内の「秋の山」は当時の庭園の築山にあたる。


元来、鳥羽離宮というのは、この南殿と別に離れて、北殿・東殿・田中殿・馬場殿等があった。それは淀川につながる大きな池沼の岸辺に配置されていたものである。

北殿は、名神高速道路京都南インターチェンジにあり、その遺跡は近くの鴨川の氾濫のためこわされていた。

東殿は、いまの安楽寿院附近で、白河・鳥羽・近衛天皇の陵も含まれる。

田中殿は遺跡がみつかっている。

馬場殿は、城南宮の北と考えられるがあきらかでない。

城南宮も鳥羽離宮の一部と考えられ、流鏑馬に事よせて、後鳥羽上皇が13世紀のはじめ、北条氏討滅をはかったことで有名である。

これらの御所に付属する仏殿として、

南殿に証金剛院、

北殿には勝光明院、

東殿には安楽寿院と成善提院・不動堂があり、

田中殿には金剛心院があった。

南殿の御所は、西南から東北へと順次に雁行形に配置された和風建築である。

寝殿・小寝殿・御堂・金剛院は、遺跡で確認され、池にのぞんで風雅に配置されていた。

なお、大門・中門・中門廊・西対跡は、鴨川の堤防の下に埋もれている。

鳥羽離宮について記された文献は多いが

「平家物語」巻3に見る「秋の山の春風に白波瀬に折懸 紫鴛白鴎逍遥す」

この歌は、当時の鳥羽離宮の環境を示して最も印象的である。

 

北の方向を見る  右側に築山が見える

 史跡 前回の記事 ⇒ 史跡中042  鵺池  鵺退治の鏃(やじり)を洗ったところ

下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます 

 


まち歩き伏1027 橋の親柱か なぜここにある

2019年03月07日 08時31分50秒 | まち歩き

 

 

 

 

明治44年と記されています

 

 

まち歩き 前回の記事 ⇒ まち歩き右1026 清滝川の魚

下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます