巴御前
義仲の死後、義仲寺に美しい尼僧が住みつき、供養の日々を送っていた。ともいわれている。
巴の墓は、故郷の長野県木曽郡日義村徳音寺にある。
木曽義仲の妾(妻)だったが、義仲の戦死後は尼となって、越後友松に隠棲した。
その巴御前に仕えていた女房が遺品を埋めたと伝わる巴塚が、京都府南丹市八木町室橋西垣内の如城寺にある。
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日露戦後戦利品
在郷軍人会
忠魂碑
大正8年4月 在郷軍人会 笠置
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毘沙門堂 笠置寺49院の一子院多聞院の本堂。
本尊は、鎌倉期の像高50cm木造毘沙門天である。
伝説では、楠木正成公の後念持仏として、かつては信貴山の毘沙門天と並び戦勝の神、福徳の神、財宝の神として多くの人々に信仰された。建物が老朽化したため、平成16年現在の建物に改築したものである。
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同志社創立者
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墓所 道標 道標左0136 哲学の道・新島襄墓地登り口・冷泉天皇陵
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静御前
英雄との出会い悲劇の生涯
義経に愛され、劇的な生涯をおくった女性。都随一の白拍子だった静は、義経との出会いで、生まれたばかりのわが子を、海に投げ捨てられ殺されるといった、波乱にとんだ一生を過ごすことになる。
後白河法皇から六条堀川館を賜わる。ここが義経・静の住まいとなる。このとき義経には既に正妻がいた。頼朝に追われた義経。静は義経と吉野山中で別れた後、鎌倉方に捕らわれる。義経の行方詮議の厳しい取り調べをうける。生まれたばかりの子どもは、男の子だったため、由比浦に投じられ、殺されてしまう。放免され京に帰った静は、嵯峨野の一角に草庵をむすび、文治3年(1187)の秋に20歳で死んだと伝えられている。
静の祠
府下竹野郡網野町の入船の浜に小さな祠があり、白拍子姿の像がある。
静神社
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稲荷社 「その法を修するものには自由自在の力を与える」といわれる、茶枳尼(ダキニ)天を祭る。
荼枳尼天は、日本において稲荷の神格と同一であるとされ、稲荷大明神、飯縄大権現などと同等にされる。
笠置山の麓を流れる木津川は、古くより船による水運業が盛んで、笠置にも回船業が多く、鉄道が開通する以前、江戸時代~明治初期まで栄えていた。当社は大正時代に笠置町内の回船業者の発願で、愛知県 妙厳寺(豊川稲荷)より勧請したものである。
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阿仏尼(あぶつに、阿佛尼, 貞応元年(1222年)? - 弘安6年4月8日(1283年5月6日))は鎌倉時代中期の女流歌人。女房名は安嘉門院四条(あんかもんいんのしじょう)または、右衛門佐(うえもんのすけ)。実父母は不明。奥山度繁(おくやまのりしげ)の養女となる(ただし奥山度繁の養女ではなく実の娘であるとする見解もある)。
桓武平氏大掾氏流の平維茂の長男である平繁貞の子孫である奥山度繁の娘(または養女)。 安嘉門院に仕え、出仕中10代で初恋の失恋の失意から出家を決意し尼となったが、その後も世俗との関わりを持ち続けた。30歳頃藤原為家の側室となり、冷泉為相らを産む。
為家の没後、播磨国細川荘(現兵庫県三木市)の相続をめぐり、正妻の子二条為氏と争い、1279年(弘安2年)幕府に訴えるため鎌倉へ下った。このときの紀行と鎌倉滞在のことを記したのが『十六夜日記』である。訴訟の結果がわかる前に鎌倉で没したという説と、京都へ帰った後に没したとの説がある。「弘安百首」などに参加し、関東にある10社に勝訴を祈願して奉納した「安嘉門院四条五百首」や「安嘉門院四条百首」などもある。
歌論書に『夜の鶴』がある。また若い頃に書いた『うたたね』は失恋の顛末を記した日記である。『続古今和歌集』以下の勅撰和歌集に計48首入集しているものの、阿仏尼の孫である冷泉為秀が参画した『風雅和歌集』や阿仏尼と親しかった京極為兼が選者を務めた『玉葉和歌集』では入集数が多い一方で冷泉家と対立した二条家が選者を務めたとき入集数は極端に少なく、当時の歌壇の政治的対立状況を反映していると考えられる。
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阿仏屋敷にあった祠 神社東0072 ゑびす神社
藤原為家の歌 広沢の池の畔に歌碑がありました
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笠やん 追悼
平成2年夏、どこから来たのか笠置山に住みついて5年。
多くの人々に愛され可愛がられた野良猫、笠やん。
笠置山を訪れた多くの観光客と共に日に何回となく笠置寺修行場を歩いていた。
人は案内猫、笠やんと呼んだが、君は君自身修行をしていたのではなかったのか。
君の姿を見ていると、ほんとうに猫だろうか、ほんとうは人間ではないかと。
愛され可愛がられた笠やん。
しかし平成6年2月2日、冬にしては風のない暖かい日だった。
君はき君の好きな駐車場脇で、冷たくなってしまっていた。
朝は元気だったのに、静かに笠置山を去ってしまった笠やん。
多くの人々に愛と夢と希望を与えてくれた笠やん、有難う。
笠やんを愛した全国の多くの人々と共にここに君の名を
永久に止めたいと思う。
平成7年春 笠置寺住職 慶範
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大師堂 石仏弘法大師(室町期)を奉安する。天平勝宝(751)東大寺實忠和尚により建立された正月堂の跡である。
旧正月堂は元弘元年(1331)の元弘戦乱で焼亡、以来復興されず、明治30年(1897)関西鉄道の開通により、現笠置駅にあった大師堂を笠置寺旧正月堂跡に移築し現在に至る。
正月堂の名は笠置寺本尊禮堂にとどめる
東大寺山内には、このため当初から正月堂は建立されていない。
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