カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

神田に行ったよ

2018-01-16 | 散歩
 本当に適当に焼鳥屋に入る。後で調べたら「鳥元」という店だった。



 でもね、なかなかいい焼き鳥でしたよ。自分でさばいてる感じ(ほんとは知らんですよ)。





 実はしいたけ頼んだんだけどししとうが来ました。まあ、いいか。何となく発音似てるしね。



 むっちゃクチャ早い時間から飲んで、けっきょくコンビニでワイン買って一本飲んで寝ました。まあ普通に二日酔いなく良かったです。


 そんなわけで、朝。



 それなりに寒そうです。



 だいぶ待ってやっと7時の朝ごはん。



 で、散歩ですよね。





 JC会館もなじみの近所って感じになってきましたよ。現役時代は来たことなかったのに。





 麹町中学の隣のお宅。かなり古いです。



 さて、一度帰りまして、今度は楽しみの散歩です。



 一度乗り換えて行ったところは…。




 二十代の頃は、まずここにきてました。懐かしいな。でも考えてみたら三、四回くらいだったんだろうけど、東京と言ったら絶対行かなきゃいけないと思ってたんでしょうね。



 片っ端から入ったもんですよ。時間が惜しかった。



 交差点のガードのレリーフも本。さすが神保町です。



 まだ、町はおきてないな~。
 神田はカレー屋さんとか蕎麦屋さんとか、さらにけっこうボリュームある店があって男子にとっては楽しい街なんだよね。まあ、学生さんがたくさんいるっていうことなんだろうけど。
 









 和食の有名な店らしい。





 なんか偉そうな人もいるな。





 まつやってゆうめいな蕎麦屋らしい。まだ開いてないけど。




 交通会館跡地にできた万世橋ビルらしい。



 これも老舗らしい。「いせ源」っていうらしい。あんこう出すんだって。





 向かいの店も老舗のようです。まあ、まちが古いんだな。


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定例出張。新年編

2018-01-15 | 散歩
 大寒気団がやって来て朝は心配されましたが、何とか着きました。



 ちょっと時間がいいんでしょうね。人が少ないといい感じです。



 新橋の3丁目の方へは、あんまり出ないかもしれない。



 ガード下もくぐります。



 たぶんだけど、あっち方向は赤坂なんだと思う。



 ま、このあたりでも飲んだ記憶はかすかにありますが…。





 あれは虎ノ門ヒルズってやつですね。



 東京は何時でも工事中。それが街の活力なんだろうね。



 思ったより簡単に近く来ちゃった。





 遠回りしなきゃな。

 そうして桜田門。



 警視庁ですな。




 法務省ですね。



 その後は会議でした。夕方までたっぷり。
 なんもしてないですけど、それなりに疲れた。
 泊まりのホテルは永田町。近いんで歩きます。



 紀尾井町でんな。



 ここは自動車も電車も交通の要衝。





 赤坂見附跡。いつもここ通ってます。



 ホテル見えた。


 今回のホテルからの眺めでした。





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昨年読んだお勧め本

2018-01-14 | なんでもランキング

 休刊になってしまったが「考える人」という季刊誌があって、そこで向井万起男が本を紹介するエッセイを楽しく読んでいた。実際に紹介された本もいくつか読んだが、圧倒的に読んで良かったと思われたのが、
病の皇帝「がん」に挑む/シッダールタ・ムカジー著(早川書房)
 だった。
 素晴らしい本の一言。上下巻の大部のものだが、読みだすと面白くて止まらない感じになる。そうしてものすごくためになる。医者じゃなくても読むべきは、絶対にこれだ。人間が癌と戦ってきた歴史は、人間がこれからも生きて行こうとする歴史に他ならない。ほんとに面白いんですってば。
 
 昨年は改めて福岡伸一の本も読んだ。この人の文章も素晴らしい。まだ読んでないのも読まなければ。

 ミステリは古いのを二つ。

スターリン暗殺計画/檜山良昭著(徳間文庫)
 は、歴史ドキュメンタリーっぽいもの。フィクションと断ってあるのに、本当の話に思えてならない。
刑事マルティン・ベック 笑う警官/マイ・シューバル、ペール・ヴァールー著(角川文庫)
 は、古い話だとは気付かなかった。こういう物語の掘り下げ方があるんだと感心してしまった。北欧の暗い世界というのは、九州の人間には大変に異質だった。

 他の本も売れているようだが、川上本はこれからも人気が続くのではないか。ユーモアがちょっと取っ付きにくいかもしれないが。
鳥類学者無謀にも恐竜を語る/川上和人著(技術評論社)

 謝罪の研究があるなんてまったく知らなかった。日本でもいろいろ研究して欲しいものだと思った。
怒りを鎮める うまく謝る/川合伸幸著(講談社現代新書)

 冲方丁にこんな体験があるなんて知らなかった。
冲方丁のこち留/冲方丁著(集英社インターナショナル)
 映画の「それでも僕はやってない」のような恐ろしい体験版だ。こんな話が自分に役立てることが無い人生を送りたいものである。

 今年(去年だった)はいろいろ忙しくて、特に人間関係がこじれた訳でもないのに少し気分が乗らないことがあった。それで手に取ったと思われるのだが、大変に助かったと思う。
「折れない心」をつくる40のルール/大野裕著(PHP研究所)
はじめての認知療法/大野裕著(講談社現代新書)
こころが晴れるノート/大野裕著(創元社)
 本当に平易な文章にしてあるが、内容が薄い訳では無い。この読みやすさで人助けができるかもしれないという渾身の工夫なのだろうと思う。

 読んで考えさせられたのはこれ。
自由とは何か―監視社会と「個人」の消滅/土屋雄裕著(ちくま新書)
 監視社会は恐ろしげな未来予想のようでいて、実は僕らはその社会を望んで身をまかせているのかもしれない。いろいろあって職場の車にもドライブレコーダーを付けてしまった。皆自らを守る為に、管理されることを望んでいるのである。

 読んで考えさせられたもう一つはこれ。
ぼくらはそれでも肉を食う/ハロルド・ハーツォグ著(柏書房)
 僕の関心のあるクジラのことは書かれていないが、西洋人が生き物に対していかに屈折しているのかよく分かる。そうして日本人もこの病に年々侵される人が増えてきている。僕はペットも飼っているので、ますます考え込んでしまいそうだ。

 これも考えさせられた。
垂直の記憶/山野井泰史著(ヤマケイ文庫)
 そこに山があるから、というのは、そんなに単純な冒険じゃないようだ。人間の生き方のすさまじさというのが、山登りにはあるのである。

 前野本は多少気負っている感じもあるが、読ませる。
「死ぬのが怖い」とはどういうことか/前野隆司著(講談社)
 確かに死ぬのは怖いが、逃げていても怖さは消えない。向かい合うという姿勢として、こういう考えもあるのだろう。
 
 最後は漫画だが、鬱がどういうものかかなり理解できると思う。
うつヌケ/田中圭一著(角川書店)
 抜けられないトンネルは無いと思いたい。人が頑張ることも、よく考えてみなければならないのではなかろうか。

 そういえば、と思いだすのは
騎士団長殺し/村上春樹著(文芸春秋)
 特に語ることは無いが、イベントなんで読まなければ。そしてやっぱりそれなりに面白い。文学賞がどうとかいうような作品でもないけど、村上作品は発表されるだけで意味があるようにも思う。また頑張って書いてください。
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僕のヒーローはゴダイゴだった

2018-01-13 | 音楽

 小学生の頃に熱中したバンドは、何よりゴダイゴだった。そんなこというと、僕らの世代ではごく当たり前のことであると思う人の方が多いだろう。もちろんその頃に大ヒットを飛ばして人気絶頂だったのだから。
 ただし、というのが僕の言い分だ。その大ヒットには僕も興奮したが、ちょっとだけ意味が違ったはずだと思う。それというのも、実にそのヒット前から、僕はファンだったからだ。
 ゴダイゴは、ガンダーラやモンキーマジック以前から、それなりに人気のあるバンドだった。日本人を中心とするバンドながら、全部英語でしか歌わない。もちろんそういうバンドはその頃結構あって、ロックというのは舶来ものだから、本場のものは英語でなければならないような、そういう大人(青年?)たちの思いがまだあった頃である。だからバリバリのロックというのは、日本語だと様にならない。そう思われていたのかもしれない。ただしゴダイゴがちょっと違うのは、英語の歌なんだけど、ちょっと日本的な要素というか、美しいメロディラインがあって、無茶苦茶激しいロックという感じでは無かったのだ。英語であるだけでロック的なのに、どういう訳か日本の匂いがちゃんとする。もちろん当時はそんな風にまで解説的に理解していた訳では無かったけど、最初のヒット曲である「僕のサラダガール」の時は、僕のような小学生にも取っ付きやすい存在だったと思われる。だから英語なんだけど、なんかこれ面白いな、と思ったのだと思う。シングルの方は後で買ったけど、そういう訳で僕が最初に聞いたゴダイゴのアルバムは、「CMソンググラフティ」というやつだった。
 「僕のサラダガール」目当てで手に取ったレコードだったけど、全体を聞いてみてものすごく驚いたのを覚えている。実はあんがい多くの曲を既に知っていたからだ。何しろCMで使われた曲を集めた作品集だ。日ごろテレビで見ているCMで、こんなに多くの楽曲を提供していたなんて。特にアルバムの最後に入っている「レッドシャポー」は、味の素の宣伝でおなじみだった。ずっと英語で歌われている時はぜんぜん違う曲のように思われたのだが、一番最後に日本語で「あかーいシャポーの、味のもーとー」と歌う。これってゴダイゴだったんだ! 
 そうして興奮して、僕は友達にゴダイゴって凄いって言って回ってた。特にその頃仲良くしてくれていた浜田くんは、一緒になって興奮して喜んでくれたものだ。そうしたらじきに西遊記の放映が始まって、爆発的に皆がゴダイゴに熱中してしまった。これもものすごくびっくりしたが、実はちょっと面白くなかった。僕のゴダイゴをみんながとってしまったような、そんな気分がしたように思う。
 僕はそれから主に洋楽ばかり聞くようになる。それはまるでゴダイゴから逃げるようにして、次のヒーローを探し求めているかのようなものだったのかもしれない。
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偉大な人は馬鹿な国家からも生まれる    トランボ ハリウッドに最も嫌われた男

2018-01-12 | 映画

トランボ ハリウッドに最も嫌われた男/ジェイ・ローチ監督

 ハリウッドの赤狩り騒動については、以前エリア・カザン監督(波止場、エデンの東など)のことで聞いたことはあった。彼はその為に仕事を干され、人気監督でありながら事実上ハリウッドから消えた。他にもそういう人は大勢居たという事だったが、これほどの大物がまたいたのだと驚いた。
 何しろローマの休日の本当の脚本家である。トランボは既に共産主義者のレッテルを張られ、裁判にかけられ、刑務所にも入れられる。働くにも仕事が無い。偽名で書かざるを得ない訳で、ローマには名前を貸してくれる脚本家に頼み、そうして映画化にこぎつけることが出来た。もちろん大ヒットでアカデミーまで受賞。それを自宅のテレビで見て喜んでいる。自分以外の人がそのカップを手にする姿を見て、複雑な心境を抱えながら。
 もと居た大手の映画会社では、トランボと関わりがあることが知れるだけで取り締まりの対象になることを恐れて手を引いてしまう。赤狩りの仲間であることは、全米国民の敵とみなされるような世の中になっている。どちらが共産主義的な社会なのかと見まがうような事態だ。いや、当時の米国は、共産主義の反面の共産主義的社会だったという事だろう。ひとの自由を奪い権利を奪い、大衆の恐怖だけがあおられていく。
 しかしそうした中においてしたたかに逞しく生き延びていく人がいる。それがトランボで、風呂の中で執筆して家族に迷惑をかけるという変人でありながら、大手から干されている立場から、偽名を使ってB級C級の映画会社のいかがわしい作品であっても、手当たり次第に脚本を量産して仕上げていく。時には同じように仕事に干された昔の赤仲間の脚本家たちの手を借りて、生きるために必死の格闘を演じていくのである。
 そうやって生き抜いていくうちに時代の変わり目が来て、ついに自分の名前で作品を発表できるようになりそうになるのだったが…。
 良質の素晴らしいドラマである。今年観た映画でもかなり上位に位置することは間違いない。アメリカというのは過去にひどい過ちを繰り返して、多くの人を傷つけてきたバカな国家である。しかしそういうバカな国家から優秀な才能を持つものが立ち現われてくる。馬鹿で酷い国家からであっても、優秀な人は育つのである。そうしてそういうことをダイナミックに変貌しながら最終的には受け入れてきたという幸運があった。もしもアメリカが偉大な国であるのならば、顕彰されるべきはトランボのような人であろう。
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生き延びる王様

2018-01-11 | Science & nature

 アメリカ南西部にあるソノラ砂漠に、リーガルツノトカゲというのがいる。王様の王冠のように立派なトゲがあるという事だが、全身とにかくトゲだらけだ。しかしながら砂漠の中にあってその姿自体がカモフラージュになっているようで、安易に見つけられるものでは無い。体の輪郭に沿ってもトゲトゲがかたどっていて、自分の体と地面との境界の色をあいまいに見せる効果がある。鳥などの空や上からの敵からは、動かなければまず見つからない。さらに暑いときは砂に潜るので見分けがつくわけが無い。
 しかしながら天敵は多く、成長段階で多くが犠牲になる。成体になるまで、大変な経験を積んでいるようだ。
 ガラガラヘビなど動きの遅い蛇などからは、素直にかっ飛んで逃げる。数十メートルなら素早く走ることが可能だ。しかしながら追跡型の蛇というのがいて、長距離追ってくるような蛇だと、逆に背中のトゲトゲを体を斜めに持ち上げて見せつける。相手は舌で大きさや形を確認するわけだが、このトゲトゲを呑み込んでいる途中でトゲが刺さって飲み込めなくなって死ぬような蛇の個体もいるらしい。要するに獲物とて最大限めんどくさい相手であることをアピールするのである。
 また、犬などの哺乳動物などに絡まれると、目から血を噴出し撃退する。リーガルツノトカゲは主に蟻(特に毒の強いヤツらしい)を主食としており、血液の中には蟻酸が混ざっており犬などが嫌う臭いなどがあると考えられている。血は1メートル以上も噴出することがあり、体の三分の一も攻撃のために使うこともあるらしい。
 ものものしいトカゲのようだけれど、砂漠の中にあって多くの天敵に囲まれて暮らす弱者として、このような防衛の手段を身に着けて生き延びてきたという事なのであろう。それでも個体数が圧倒しているという訳では無い。自然界のサバイバルは、小さい隙間の中にあっても独自の進化を促すという見本的な生き物なのではなかろうか。
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少なくとも黒人芸人はモテる   ショコラ 君がいて、僕がいる

2018-01-10 | 映画

ショコラ 君がいて、僕がいる/ロシェディ・ゼム監督

 1800年代後半のフランス。サーカス小屋で芸を売り込む元人気道化師だったが、そこで客を驚かす役をしている黒人青年とコンビを組むことを思いつく。その滑稽なコントのような芸は瞬く間に人気を博し、スカウトされパリに舞台を移し、まさに一世を風靡するまでになる。しかしながら当時のフランスでは、まだ黒人を格下に見るばかりでなく、差別や偏見も強かった。面白い動きをする黒人が、白人道化師に蹴られるコントに人気が出ていたのだ。そうしたことを演じざるを得ない立場に心の葛藤を抱きながら、また、黒人同胞がいまだに差別のたえない苦難の中に生きて行かざるを得ない状況を見ながら、コントでは無く演劇として主役を演じることを目指すことになるのだが。
 なんと実話をもとにしているという。エンドクレジットの前の劇中に撮影されたとされる当時のフィルムも流れる。フランスでも一時忘れられていたらしいが、黒人芸人としてのパイオニアとして活躍した実在の人物らしい。
 もともと女好きでだらしないところがあり、練習も熱心で無い。インスピレーションで動いて笑わせるタイプの芸であるらしく、その姿や動きそのものが可笑しいというドタバタコントである。さらに大金を稼いでもすぐに浪費し、酒におぼれ大金をギャンブルですってしまう。何をやっても破滅するタイプの男だが、いわゆるプレッシャーがあり野心や自信への揺らぎがそうさせているものと見える。何しろその時代の黒人の人気者なのだ。
 非常によくできた映画で、これもそうとうお勧めしていい作品である。差別の中で生きて行く黒人の苦悩を見事に描き、アメリカのように必ずしも凶暴に世間と戦うという事でなく、しかしそれでも戦おうとする姿を見事に描いている。正義だけでなく自分のエゴであっても素直に描いているところが、何より大人の映画と言える。
 上手く行っている途上にあっては、それでも我慢したり目をつぶって済ませられたことが、本当に自信のようなものを手にしていくにつれ、どうしてもわだかまりとして自分の心を占めていくことから逃れられなくなる。間違っているのは圧倒的に外の世界で、(その恩恵を受けている部分はあるにせよ)自分自身の考えている正当なものを、表面に出していきたい欲求を抑えられなくなるのである。
 現代人なら何も悩まなくていい領域で、悩まなくてはならなかった時代の個人が居たのである。それは死と隣り合わせの恐ろしいことだったかもしれない。望みは理解者たち。分かってもらえさえすれば、大きな栄誉がある世界なのだ。それは個人の問題のみならず、恐らく黒人すべてにとって、素晴らしい未来に違いない。芸人として絶頂にいるときに自分がやるべき本来の姿とは何か。その夢を、見事に残酷に描いた作品ではなかろうか。
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クリエイティブな人は危険だ

2018-01-09 | 境界線

 「どうにでもなれ効果(The What-The-Hell Effect)」はダイエットなどの失敗だけでなく、不正などとも関係していると言われる。正確にいうと、一度目の不正はハードルが高いが、一度不正を犯してしまうと、そのまま何度も不正を繰り返すようになるものらしい。企業の不正などは話題になるが、実は何年にもわたってそのような不正が繰り返されていたという事がよくある。一度やってしまうと、改善しないまま繰り返してしまう事が多くなる。また、そのような行為が常態化しても、特に罪悪感を覚えなくなるという指摘もある。
 不正を行いやすい環境というのはあって、例えばごみがたくさん捨ててあると、自分もポイ捨てしても気にならなくなる。そういう不道徳なものは、環境で連鎖しやすいのかもしれない。また、偽物ブランドを身に着けているだけで、不正を働きやすくなるらしい。何かちゃんとしてない後ろめたさのようなものが、精神状態に影響するのかもしれない。
 そういうことを防ぐにはどうしたらいいか。単純だが、何かをする前にモーセの十戒を思い出すだけでいいらしい。これは海外の研究だからそうらしいが、そのようなルールの内容まで思い出せなくても、考えるだけでかなり強力な効果があるらしい。会社で始業前に社訓などを唱和させるのには、不正にはそれなりに効果があるのかもしれない。
 ただし不正を行う人の創造性は高まるという指摘もある。不正をはたらいても、言い訳して乗り切るような人こそ、何か新しいものを発想することが出来るようになるらしい。そこまで来るとなんとなく奇怪だが、なんとなくそれは日本の企業の現在をあらわしているような気もしないでは無い。良くも悪くも。
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目には目を、そして自分へ   灼熱の魂

2018-01-08 | 映画

灼熱の魂/ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督

 双子の男女の母親が死んだらしく、公証人と共に遺言書が開かれる。内容はちょっと奇妙で、父親と彼らの兄宛の手紙を届けよという。二人は兄のことは知らない様子だったし、父は中東あたりの戦争で死んだのではないかと思っていたようだ。母は悪ふざけをしているのか、どこかおかしかったのか。そのミッションを済ませないまま、普通に母の死体は埋葬してはならないという事のようだった。
 母の過去を巡って、カナダから中東のレバノンあたりのまちをゆく。母はこのあたりの紛争地の出身で、今は生き残っている人から何故か疎われているようす。誰も過去を教えてくれようとはしない。時折過去の映像が流れ、次々に真実が明らかにされていくが、その凄まじい母の体験を、子供たちは苦しみながら追っていくことになるのだった。
 正直に言って、何という残酷な話だと呆れてしまった。こんなことがあっていいはずが無い。それが宗教的な紛争で、そうして文化という事になるんだろうか。最初から様々なヒントが隠されていたが、最終最後には、とても絶望的な気分になってしまう。そういう風にして生きて行く女の一生とは何だろう。いや、男にしてもそうだが、最初から引き裂かれる家族の在り方が、さらにその後の物語を複雑怪奇なものにしてしまうのだ。
 物語のテンポのようなものになれてくるまで、ちょっと時間がかかった感じ。家族にも怒りがあったと思うし、その後の危険な状態へ身を置く姿勢も、男の僕には少し分からない。母の子に対する思いというのは、やはり大変に強いという事かもしれない。だけれどそのために、本当に生死の境目と精神のギリギリのところまで追い込まれてしまうことになる。最初の恋はそれほど罪深いことだったのだろうか? そんなことを繰り返し考えてしまった。
 報復の連鎖は、相手にもこの自分の苦しみを与えたいという復讐心が自分の中を占める状態のようだ。その後は自分も報復を受ける訳だが、さらにその気持ちはどこに向かうというのだろう。もちろん、これだけのことがあり、これを断ち切ってすべてを許すような事が人間そのものにできることなのか。このような混沌については、ますます分からなくなることばかりである。
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反省するのをやめよう

2018-01-07 | 境界線

 「どうにでもなれ効果(The What-The-Hell Effect)」と言われるものがある。一般的にはダイエットなどで、食べないように決めていたのに、一口だけ食べたらもう止まらなくなるようなことを指す。禁煙が難しいのもこの効果がある為といわれ、一本吸ってしまっただけですべての苦労が台無しになってしまうように感じてしまう。実際には吸わない時間や吸わない日が増えていくだけで、習慣上の喫煙は断つことが出来る。一度の躓きにこだわらず、そういう自分も認めたうえで、また次に頑張ればいいだけのことである。また、そういう考え方が出来るようになることが、いわゆる成功者の道であると言われる。一般的に我慢することなど忍耐が必要なことは、そのことにとらわれ過ぎている為に、小さいミスを大きく見積もってしまい、ひどく罪悪感にさいなまれることに繋がってしまう。考えないようにしてもかえって意識がそちらに集中してしまい、何度も何度も繰り返し考えてしまう。だからマインド・フルネス(瞑想など)などで一番大切とされるのは、そういうことを今は一旦無視するような訓練の方である。失敗はとりあえず早く忘れて反省はあんまりしない方が、結果的には次の成功につながるのである。
 こんなことをいうと、不真面目な人を擁護しているように感じる人がいるようだ。また、そのようにふるまうことを嫌悪するような。それが教育の為なのかどうかはよく分からないが、そのまま病的な考え方の道に繋がっているような気がする。実際は不真面目でもなんでもなくて、前向きなだけのことである。考えてないようにしても反省してしまうものだし、気にしないようにしても失敗は気になる。だから反省をひどく強要したり、失敗を注意するような事が、実はその人にとっては何にもならないだけでなく、妨害にしかならないことを自覚すべきなのである。実際に上司などが部下を注意したことと、その後部下がそのことに気づき改善できたこととの関連は無いと言われている。上司は部下の成長を注意することで妨害しているだけのことである。ただし部下は勝手に反省し、次の成功を掴む努力をしている。また、失敗や成功は両天秤のようなものでバランスがとれており、失敗するようなことの後に、平均的に次は成功しやすいというだけのことのようだ。それでも何度も失敗を繰り返すような部下がいる場合は、上司が注意しすぎか無能なだけであるかもしれない。
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秘密裏の日本の諜報を読み解く   スターリン暗殺計画

2018-01-06 | 読書

スターリン暗殺計画/檜山良昭著(徳間文庫)

 第二次大戦の直前、日本が満州に進攻している時代に、ソ連からリュシコフ将軍が亡命してきたというニュースがあった。当時としては大変に話題になったのだが、その後報道は途切れ、歴史の中に埋もれてしまったかに思われていたのだが、あるルポライターがこの問題を掘り下げて取材し、既に高齢になっている当時の関係者を訪ね歩いてその後の消息を追っていくと、スターリンの暗殺計画という事に行きつくのだったが…。
 昭和54年に日本推理作家協会賞を受賞した作品らしい。当時のことはよく分からないが、多少は話題になった本かもしれない。高島俊男の過去の書評で知って古書で手に入れたが、そんなに流通している感じでは無かった。出張で鞄に入れてボチボチ読んだわけだが、これがなかなかのあたりという感じで引き込まれた。これだけの作品が埋もれてしまうのは非常に惜しい。
 綿密に資料が読み込まれ、現実に取材もされたことだろうことも見て取れる。しかし、これは完全にフィクションなのらしい。そういう史実をもとにしながら、実にサスペンスと謎解きが見事な構成の中で展開される。また、取材当時の現代的な問題も絡んで、謎解きは時に上手くいかなくなる。主要な人物は既に故人でもある。そうでありながら、実に読ませる内容なのである。骨太のドキュメンタリーと、あたかも映画作品のような場面が目に浮かぶようなのである。そうして羅生門めいた、いくつかの解釈があって…。
 歴史にIFは無い、と言われる。言われるが、もしこの計画が成功していたらどうなっていただろう。また、大きな歴史としての日本の運命も僕らは知っている。しかしその現代は、実は本当にものすごく細い時間の運命のちょっとした働き方の違いで、圧倒的な現実の流れが生まれてできたものなのではなかろうか。今でこそこうなってしまったという事ではあっても、その時代において、抗うように生きた人々がたくさんあってのことだ。良いとか悪いとか言う評論では無く、それでもさまざまな思惑をもって人は生きざるを得ないのである。いろいろと悪名高い満州の中の日本人たちにあって、当時の日本人がいかに未来を開いて生きようとしていたかまで、少しばかりは理解する糧にもなろう。何より面白いので、古本屋で見つけたら、即買うべき本である。
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年末年始の雑感

2018-01-05 | 掲示板

 昨年末で一番成功したと思われるのは25日より前に年賀状を書き上げたことかもしれない。これで年の瀬一気に余裕が出来た。これをやってないというのは何か引っかかるものがあるらしく、さらに押し迫ってから書いていると非常に逼迫したものがある。手も疲れるし。11月の末くらいからずっと風邪をこじらせつづけていて体調が悪く、飲み会でも調子が悪かった。しかし年賀状を書いていたことで、心の余裕はあったようにも感じる。どうせやらなければならないのであれば、やっぱり早く片付けよう。今年もそうあってくれよ、俺。
 そういう訳で年末年始なんとなく天気も良くてやっと体調が戻って復活した。単に家でダラダラしてただけだけど、これもありがたかった。録画で撮り溜めしていたドキュメンタリーとか自然とか動物とかニュース解説のようなものをドッと見て、珍しく数学系の本を読んだりした。もっと長生きしたくなった。
 家族も集まって酒を飲んで、紅白もちょっと見たが記憶は無い。もう知ってる歌手はあんまり居ないな。お袋がどこからか蕎麦をたくさん買ってきて(毎年のことだが)、どうしようかという心配だけは残った。たくさん食ったが残ったのではないだろうか。
 ここ数年来だが弟が嫌韓の人になっていて、話を聞いていてもつらない。近年の本屋には嫌韓・嫌中の本がたくさん並んでいて気持ち悪いのだが、やっぱりこのような日本人の心情があらわれてのことなのだろう。まったく日本も落ちぶれたものだと思う。自分を落とすことだから、韓国や中国のことばかり考えないで暮らせたらいいのではないだろうか(北朝鮮はそうもいかないけど)。日本人の多くは、何か辛いことがあるんだろうな。
 そうして元日から三日までは駅伝を見る。元日は仕事場に行くので録画だったが、二日と三日は結構ライブで楽しめた(もちろん録画もしている)。レースはそれぞれ素晴らしいものだった。本当に近年は皆高速で走れるようになっていて、10年位前とは走っている次元が違うのがよく分かる。倒れ込んで死にそうというのが少なくなって、皆がしっかりしていて素晴らしいものである。当然長い距離をギリギリの限界まで無理はしているんだが、それを可能にするよう効率よく練習できる環境が整っているのだろう。根性で無い部分が増えると、スポーツはもっと楽しくなると思う。
 ただし正月だから例外としてスポーツ観戦はするが、今年は特にスポーツに関心を寄せないようにしようとは思う。何故かというと時間を取られるからで、僕はプロのサッカーや野球を中継で観なくなったおかげで、ずいぶん時間の余裕を感じている。残りの人生が少なくなっている以上、観るのは最低相撲と長距離くらいにして、テレビは録画に制限せざるを得ない。見てしまうとすぐに選手を覚えて関心が出てしまうので、姿を見ないのが一番いいのである。もちろんもう見てしまったものは仕方がない。幸いプロのスター選手にはあんまり関心が無いし、マスコミ的な注目というのはいつも僕とは少しずれているので、新聞程度ならばなんとか耐性を保つことが出来ると思う。今年もすぐに時間が流れるのは間違いなくて、僕にはそんなに時間の余裕は無いと思われる。見るものは自分だけ楽しめるものだけでいいのである。ただでさえ空気の読めない性格だから、共通の話題などは必要ない。特に相手がどこのファンだかわからないスポーツなどで、うっかり熱く語るというのはリスクが大きすぎる。避けるものを選別しておくことは、生きて行くうえで大切なことなのである。
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逃げてもいいとは僕も思うけど「逃げ恥」を観る

2018-01-04 | 雑記

 「逃げ恥」を観た。DVDで6枚。テレビ放送は観てない。ネットで主題歌のダンスは観たことがあった。星野源の主演した映画も観たことがある。そしてなんといってもガッキーは素晴らしい。そのためだけの作品であっても価値は高い。
 基本的にラブコメで、原作もあるらしい。それは知らなかったが、好きでもないのに好きな仕事(家事)で収入を得るために偽装結婚をし、同棲生活を続けて恋に落ちるという極めて無謀な設定でもあるにもかかわらず、少なからぬリアリティはなんといっても星野源で、彼のオタクのような生真面目で性に疎い設定の男子でありながら、本当には気持ちが悪くない好青年であるというキャラクターは素晴らしいのではないか。こんなオタクなら恋愛としてはちょっとというのが普通である。そういう人にガッキーが恋に落ちてしまうのは、どうしたって無理がある。でも星野はたぶんものすごくモテる人であるのは間違いなくて、本当はそんなに気持ちが悪くないのも分かり切っていて、でもその生真面目で童貞そうな感じは、あり得るような気もするから凄いことである。
 そういう恋愛が基本にありながら、しかしこれは特に才能が無い女性が仕事を持ちながら自立するにはどうしたらいいのか、という問題提起も同時に行っている。家事労働の対価は、金額に換算すると低いものではないという計算はあるが、実際の家庭生活において賃金が発生することは無い。家庭の主婦の労働に、家族以外の他者が賃金を支払うことはありえない。事実上専業であるというのは、夫の労働の対価の中に含まれているという計算以外には、あり得ない問題である。実際に家計を妻が握っているというのは、そういう解釈ということも考えられる。
 しかしながら偽装結婚のままでいると、そういう問題を実験的には解決できるものの、夫婦としての家計のありようは、崩壊してしまう。雇用側が暮らしていくコストとして固定経費がいつまでも発生するだけのことで、特に生産性が増えているわけではない。従業員としての妻の収入は妻にとっては重要だが、偽装の消えた結婚になると、その固定経費の消える雇用主の夫にとっては、大きなメリットになると考えられる。実際にこの妻は他にも働き出すことになるので、その場合は二人にとっての生産性は上がる。ドラマでは夫の家事負担、つまり労働時間は増えているようだったが。
 まあ、基本的にはそういう内気な人たちがなかなか一緒になれず、さまざまにあたふたしてしまう訳だ。最終的には結ばれることになるが、そうでなければどうなるというのだ。
 漫画的なドラマなので野暮なのだが、当初の彼女の目的は達成されたのだろうか? 何かもやもやしたものに悩んだ日々は、偽装を解除できるまでに夫婦になって解消されたのだろうか。
 そういうところは実はよくは分からなかったのだが、キャリアウーマンとしてバリバリ働いて男に見向きもしなかった叔母が、ずいぶん年下のイケメンの男と結ばれることになった。これも実は夢のような願望のように想えるが、そういう夢の実現が、やはりドラマの核なのであろう。女性の仕合せというものが本当に多様なのかどうか。僕にはわからないままなのであった。
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シマウマの模様は何故?

2018-01-03 | Science & nature

 シマウマの縞模様の謎問題というのがある。あくまで人間の考えであるとは思うものの、サバンナなどの草原において、シマウマの縞模様は大変に目立つように思われる。ライオンなどから捕食される立場にあるはずのシマウマが、どうしてそのような目立つ文様を持ちながら進化の途上で生きながらえてきたのだろうか。
 ところが多くの場合この説明の答えとしては、シマウマは集団行動をとるので、逆にこの縞模様の重なり具合において、捕食者の目をごまかすのではないかと考えられてきた。確かに縞模様がいくつも重なりあうと、個体数や遠近感などが鈍る場合がある。何か目標を定めて狩りをする場合に、途中で惑わされることが起こっているのではないかと予想されていたわけだ(ライオンの心情を人間が慮ってだけれど)。
 しかしながら近年になって、この縞模様のおかげで虫から避けられているのではないか、と言われるようになった。特にサバンナにいるツェツェバエなどの吸血昆虫からは、縞模様の所為で刺されることは減っているというデータがあるらしい。少なくともツェツェバエは、単一の毛並みよりも縞模様を嫌うのだそうだ。
 ある意味で大発見であるから皆喜んでいるが、やはり縞模様というのは人間の側の謎めいた想像をかき立てるためではないかという気もする。例えばパンダがなんであんな可愛いコントラストになったのか、人間なら不思議に思う人が多いだろう。何とか理由を知りたいと思う人が多いのではないか。
 別段僕は理由を知っている訳では無いが、人間の合理的な考えと相容れない現実がある、という事が一番なのではあるまいか。実は人間の子供は、自然界の謎について、勝手に合理化した嘘をつきやすい。山本有三の小説では、星が落ちないのは仲良く手をつないでいるからと書いた。そういう比喩は貧乏人であっても人との協力が大切であると説いたものかもしれないが、それが嘘であっても子供は納得する場合がある。いや、子供でなくとも、そのような大人だっている気もする。要するに説明的に合理性が感じられることで、人間は安心したいだけなのかもしれない。
 かえって夢を壊すようなことかもしれないけれど、シマウマ本人だって理由を知らない可能性が高い。しかしシマウマは、ある意味で繁栄し生き延びた。それが事実だろう。さらにシマウマに言わせたら、なぜ人間は変な格好で変な色をしているのだろうと思うかもしれない。合理的にシマウマに説明できる人が、本当に人間にいるのだろうか。
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悪がそんなに悪いことなのか   レゴ(R)ムービー

2018-01-02 | 映画

レゴ(R)ムービー/フィル・ロード、クリス・ミラー監督

 ブロック玩具であるレゴのキャラクターの中でも特に平凡で地味なエメットは、見つけたものが救世主であるという預言の通り奇跡のパーツを手にする。レゴの世界の救世主として絶大な期待を寄せられることになるが、実際はマニュアル通りにしかレゴを組み立てられない平凡な男である。様々なドタバタと危機に巻き込まれながら、邪悪なおしごと大王と壮絶な戦いを繰り広げることになる。
 特にレゴと関わりのある生活を送っている訳では無い僕のような人間にとっては、少しその価値観の分かりにくい作品ではあるのだが、アニメーションとはいえ、レゴで作られた世界観の中にどっぷりとつかって作られた作品にいつまでも付き合っていくうちに、段々とそのレゴ的な価値観のようなものが伝わってくる作品になっている。DVDで鑑賞したのだが、ふろくの映像があって、一般の人が制作したレゴの短編作品があった。これが何ともしょうも無い感じではあるのだが、しかし少なからず凄いというのは分かる。それがこの長編のアニメーションの中にさりげなく使われたりしていたことも知る。アニメーションとしてはものすごく時間がかかるので短編で無いと作れない作品が、このように長編で描かれている凄まじさとバカらしさが何より凄いことであるというのが分かるのである。
 西洋人の考えるクリエイティブという概念は、日本のそれとはちょっと違うものがあるように思う。また、その尊敬やあり方においても。もちろん日本でも、優れた創造性のあるものについては尊厳のある態度はあるが、それが誰もが持つべき当然のものというような考えは少し薄いと思われる。レゴのようなものにおいても、むしろ日本人は、素直にマニュアルに沿って作られるおしごと大王の仕事の方が、ある程度の評価の高さがあるのだろうと思う。素直に凄い訳だし。だから接着剤で固定されてしまっても、何の悲しみも覚えない。そういうものだと思う。それが良いとか悪いとか言うようなことですら、あまり考えていないとも思う。だからこのような価値観が素晴らしくても、なんとなく、あっそう、で済んでしまうお話なのではあるまいか。このような映画を観ると、西洋人というのは、妙に硬いところと柔らかいところが混ざっていて、変な文化なんだな、と思う訳である。
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