カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

実際のサンタだってやってられない   バイオレント・ナイト

2024-10-31 | 映画

バイオレント・ナイト/トミー・ウィルコラ監督

 飲んだくれているサンタクロースが、それでも善良な子供にだけは律義にプレゼントを配っている様子だった。そこである豪邸に入ると、そこでは大金を狙った武装強盗集団が家族を襲って立てこもっているところだった。一度は見ないふりをして逃げようとするが見つかり、大騒動が始まってしまうのだった。
 偶像のはずのサンタクロースが実在していて、しかし下品でべろんべろんで暴言を吐きまくるじいさんだった。善良な子供の願いだけは聞き届けられるハイテクなグッズは現代風に持っていて、それは一種の魔法という事らしいのだが、しかしながら自分でもよく分からないながら、プレゼントは贈り続けているという事らしかった。そこで大富豪の家には、珍しく善良な願いを持つ女の子がいて、プレゼントを届けなればならない訳だ。しかしこの家には恐ろしく大金が保管されている設定で、テロリストばりに武装している凶悪軍団が、機関銃を撃ちまくって暴れている。警備の人々はとっくに殺されつくしていて、無防備な家族がいるだけなのだ。サンタクロースも武装はしていないのだが、何故だか要所では強くて、これらの強盗団と互角にアクションを繰り広げていくのだった。
 荒唐無稽すぎてまともなギャグなのかどうかさえはっきりしない下品さがあるのだが、そういうところが大人から子供時代を振り返った、楽しいアクション活劇の設定なのだろうと思われる。誰でも一度は信じていたサンタクロースが実在していて、そうして悪ふざけをする。もう最高っ、てことかもしれない。いや、眉をひそめざるを得ないのだが、それは善良なる子供の心を、遥か彼方に失ってしまった大人に対するアンチテーゼなのである(たぶん)。ということで、かなりのグロとゲロに包まれたクリスマスの夜の顛末が繰り広げられる。
 少し飲みすぎていたのか、かなり眠かったのだが、我慢して最後まで観た。何か得られるものがあるような予感があったのかもしれない。しかし最後まで一定のテンションでの下品さがあって、なるほどこういう事に徹しているのだな、と気づかされた。まあ、好きな人は好きなのかもしれませんね。
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お伊勢参りに行ってきました

2024-10-30 | 散歩
 訳あって夕方の便で神戸に行ったのだった。バスでお迎えが来ていて、三宮のまちへ。そうしていきなり懇親会となりました。場所は「とけいや」さん。あとでググってみると、やっぱり有名店であるようで、写真のようにきれいな神戸牛でのしゃぶしゃぶとなったのでありました。給仕してくれる女性も学生アルバイトさんなんでしょうけど、皆着物を着こなしておられまして、こりゃあ高級店だな、って感じっすかね。恐れ入りました。ごちそうさま。


 で、その夜のホテルは西宮でありまして、翌日もあるんで軽く二次会に行って、コンビニでワイン買って寝ました。それでも11時過ぎって感じでしたか。

 迎えが早いと聞いてましたので、その分早起きして散歩です。5時半ごろだったので、外はまだ薄暗いです。


 水路があって、赤ちゃんなのか、少年なのか、の像がありました。
 よく分からんが、役場がそばにあったようで、文化的な施設なんかも点在しているようなところでありました。まだ早いんでほとんど人はいませんでしたけど。


 適当に歩いてますが、私鉄とJRの線路を両方くぐって先に行って、そうしてぐるりと回って帰ってくることにします。写真はJRの方でしょうね。


 阪神の駅をやり過ごして泊りのホテル近く。夜なんでわからなかったけど、繁華街もそばにあったようですね。また来ることがあるのか分かりませんけれど。


 7時15分くらいからお迎えが来て、バスに乗り込んで移動します。お弁当頂いたんだけど、コンビニでおにぎり買って食べたんで、ちょっと無理でした。すいません。ほとんど高速道路だったんで風景がどうこうという感じでは無かったけど、お隣のN尾さんともいろいろ話ができて楽しかったです。
 そうして目的地は伊勢神宮ですよ。僕はこの間の遷宮の翌年くらいに来たことがあって(後で考えたら10年くらい前になるらしい。いや、そんな前じゃなかったような気も……)、久しぶりなんだけど、当時時間の都合でいろいろ暇で、外宮、内宮、両方廻ったんですよね。その前は数十年前に来たことがあるはずで、それはほとんど記憶がありません。誰と一緒だったのかさえ定かじゃないです。


 という訳で、散策というか、お参りに行くのだけど、緑が多くて素晴らしいところです。この日は10月とはいえちょっと気温が高くて、汗かいちゃいました。


 お参りはしたのだけど、何を考えていたのかも、もう忘れてしまいました。


 そうしてバスに乗って伊勢市内の、宇治山田駅そばの大喜というお店で、例会・懇親会でありました。ここも由緒あるお店のようで、伊勢海老とか出ましたよ。お話もいろいろできまして、本当に楽しいひと時でありました。


 そうしてまた戻りまして、おもいで横丁でお買い物です。さっき食べたばっかりなのに、また伊勢うどん食べました。なんとも言えない柔らかうどん麵に独特の醤油出汁のほとんどぶっかけ。うまいんだな、これが。


 赤福でもおみやげ買ったんだけど、賞味期限が二日だったので、他の人に差し上げました。別のもの買わなくちゃ。



 そうして楽しいひと時は瞬く間に過ぎて神戸空港。あいにく雨でしたが、ブロッコリーも健在でした。


 本当にあたたかいアテンドに感激の二日間でした。ありがとうございました。

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失踪して失われたものが多すぎる   天才バイオリニストと消えた旋律

2024-10-29 | 映画

天才バイオリニストと消えた旋律/フランソワ・ジラール監督

 第二次大戦中、ワルシャワから天才バイオリニストの少年がやって来る。彼はユダヤ人で、音楽の才能があるために逃れて来たともいえ、ロンドンの音楽に理解のある家庭に預けられることになり、その家の同じくらいの歳格好の少年と交流を深めながら成長していく。やがてその才能は順調に開花し、初のコンサートも大々的に催される運びとなるが、当日彼はやって来ないばかりか、そのまま何十年と謎の失踪をしてしまうのだった。
 ロンドンの少年と仲の良かった男は、音楽の才能を見出す仕事をしており、ある少年のバイオリンを扱う癖が、かつての天才少年のものと似ていることに気づく。それをきっかけに、失踪していた元少年の身元を追うことになっていく。そうしてついに、その元天才少年につながる人物とも巡り合うことになるのだったが……。
 基本的に戦争中にあるユダヤ人ミステリになっている。彼らはその戦争という悲惨な状況下にあって、苦しい迫害を受けている。しっかりとした記録も残されていない中、過去やその迫害者の消息は、なかなか正確には残されていなかった現状があった。この物語の中で重要なのは、その消息の記録を口頭で残すために、歌のメロディに合わせて名前を記憶したという逸話が元になっている。すべての名前を歌い終わるまでに5日間を要したともいわれ、それらの記録はユダヤ教の教会で歌い継がれて残されたということなのだ。その場面は、この映画でも重要な場面として登場することになる。
 不思議な余韻の残る物語だが、音楽映画としても一定の水準を保ちながら、悲しい歴史に翻弄される人々が描かれている。多少偏屈にならざるを得ない彼らの姿には、そんな行動をとらなくてもいいだろうに、という思いはするのだが、やはりそれくらい屈折してしまうような悲劇に見舞われた個人がいる訳で、そういうものに抗いながら生きていくということには、大きな代償が必要なのかもしれないのだった。それにしても長い年月、むしろ味方だった人間を裏切り続けていたわけで、連絡くらいしろよ、と言いたくなるのだった。それに音楽の才能は、人々に聞かせることによってしか生かされるものでは無い。そのことの矛盾とも対立することになる訳で、個人のひねくれは、大きき音楽的な財産の消失ともいえるのである。その為に人々は動かされてもいる訳で、それは一種の人間性への抵抗だとも考えられる。みんな戦争が悪いのだとはいえ、その後に生きるのはやはり人間である。(このような)ユダヤ人は、結局孤立していくことになるのではなかろうか。
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福井散歩② また川に向かう

2024-10-28 | 散歩
 県庁の建物が見えて、ホテル近辺に戻ってきましたね。


 なんだか奇妙なつくりの神社で、おそらく複合的に建ってるようです。


 岡倉天心さん。福井だったんですね。というか、岡倉さんの生まれは違うらしいが、父親のルーツという事らしい。詳しいことはぐぐっておくれ。


 福井神社。なんだか天皇家、という感じだが、非常に近代的で、それはちょっと今のものとは違うように感じられる。なんでだろう。デコレーションを排して、直線的なシンプルさに徹している感じですね。


 裁判所。なんだかひどく立派ですね~。


 片町、飲み屋街の入り口。


 道幅も広いし、歩くにもいいし、夜のまちはあんまり知らないけど、朝だと健全な感じにも見えます。


 昨夜はどこで飲んだんでしょうね。すっかりわからなくなってしまいました。まあ、それでもいいですけどね。


 身支度整えて、再度会場まで歩いて行って、午前中委員会やって、そうして昼ご飯です。あんまり店が無いエリアなんですが、お蕎麦屋さんがあって、おろしそばのセット。こんなに豪華だとは思わなかったよ! むっちゃ腹いっぱいになった後に、サービスで食後にアイスコーヒーまで運ばれてきました。福井のサービスって面白いですね。


 開会式して、ミニ講演をこなし、分科会で説明した後に、夕方少し歩きました。文化的な佇まいに、何かお金持ちが多い人が住んでおられるような雰囲気がありました。駐車している車がまた、いいのが多かったですね。


 懇親会も盛り上がりまして、二次会いって思ったより割り勘分配が高くなって、しかし若手はラーメンに行ったらしく、改めて若いって凄いなあ、などと思いながら寝てしまいました。僕にはもう無理です。

 で、朝食です。朝からカレーとか、おろしそばを追加して食べてる人も多くて、やっぱり凄いなあ、と思いました。


 で、食後には散歩。


 また川の方に来てしまいました。


 何やら古い建物。旅館のようですね。



 何やら箱がたくさんの建物もありました。



 グリフィス記念館。たぶん、偉い人、なんでしょう。


 無名の神社。


 真実の口、がありました。


 ドリームタウンの壁画。


 最終日も滞りなく済んで、施設見学して、お弁当食べました。ごちそうさま。
 おもてなしも受けて、さて、今後どんな風にやっていくか、考えていかなくてはなりませんね。気負うことなく、ぼちぼちと。まあ、あとで考えていきましょう。



 帰りはプロペラ機。飛行機だけど、機内はバスみたいな雰囲気あって、なんだか楽しいのでありました。


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双子は狂気も分かち合う   戦慄の絆

2024-10-27 | 映画

戦慄の絆/ディビッド・クローネンバーグ監督

 双子の産婦人科医がいる。二人は見た目は瓜二つで、子供のころからいつも一緒である上に、お互いに絆が深い。しかしながら性格はいささか違うようで、一人は社交的で積極性がある上に人前でプレゼンをするようなことに長けている。一人は実務的というか、診療の医者としては日々現場に立つが、内向的なところがあるようだ。ある時患者に女優さんが来て診察をするが、彼女は妊娠できない問題があるようだ。最初に社交的な兄が性的な関係を持ち、弟にも彼女を勧めることをするので、二人とも関係を持つに至る。お互いは同じものを持つという事らしい。しかしながらそのことに気づいた女優は当然怒り、しかしこれをきっかけにして、二人の医者は薬や麻薬や睡眠薬やお酒におぼれるようになって、どんどん自己崩壊していくことになるのだった。
 この監督の持ち味の気持ち悪さがいつまでもあって、さらになんだかよく分からない。どうして順調にやっている産婦人科医が、精神崩壊しなければならなかったのかは、よく分からないのである。二人で女を共有したが、どちらかがどうしても独占したいという話でもなさそうなのだ。いや、それはきっかけだったのかもしれないが、とてもまともな生活さえ送れそうになくなってしまう。酒を飲み醜態をさらし、薬は自分で処方してガンガン飲んでしまう。そりゃあ、体を壊すのは当たり前だ。患者もまともに見ることができなくなるだろうし、崩壊は時間の問題なのである。しかしその説得力は、あんまり無いのである。
 奇妙な映画だが、主演の男が一人二役で、同じ画面の同時で出てくる演出が多い。当然特撮のはずだが、そのあたりの処理が、その当時の映画として、大変によく出来ていると思われる。俳優はオーバーワークだが、二人を上手く使い分けているともいえる。おそらくだが、そのような不思議な映像を撮りたかったというのが、何より監督さんのやりたかったことなのではなかろうか。さらに狂気へ突っ走っていく展開そのものが、監督自体が持っているテーマのようなものなのではないか。付き合って観ている方は、気持ち悪くなって迷惑な話なのだが……。
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今回は出張で福井まで①

2024-10-26 | 散歩
 今回は窓側の席(まあ、そういう場合の方が多いですが)。
 窓の外にはあべのハルカス。やっぱ背が高いですね。


 そうしてすぐに大阪城。出発は天気悪かったけど、降りる段になって風景が見られて良かったです。


 写真の経過は省きますが、バスで新大阪に行って、サンダーバードに乗って、新幹線乗り換えて、どんどんいったであります。



 そんでたどり着いたのは、恐竜のまちでした。


 すでに昼は過ぎてまして、構内で昼飯。セットメニューで、名物のおろしそばとソースカツという最強の組み合わせを、着いてすぐに堪能したのでありました。旨し。


 で、外は雨だったのですがお迎えが来ておりまして、そのまま会場の国際交流会館に行ったのでした。


 お役目の会議まで少し時間がありまして、僕だけ外を少し散策しました。
 福井は城址の中に県庁があるんですよ。前に来たことがあるので知ってましたが、懐かしいのと、やはりなんだかシュールなのと、併せて感慨深いです。


 お濠も立派だし、本当に風情のある場所ですよね。県庁職員は、登庁するのに、それなりに気合が入りそうです。慣れたらそうでもないかもしれないですけどね。


 後で分かったんですが、あちらが駅方面みたいですね。


 この城を中心として、福井の町は広がっている、という感じなんでしょうか。けっこう整然とした街並みになってまして、古いところだという事が、よく分かりました。







 さて、ここから、実は、日をまたぎます。会議を終えて、役員会を兼ねて懇親会をして、結構日本酒飲みすぎて、ホテルに帰ってコンビニ行って、ワイン飲んで寝たんでした。まあ、いつものことと言えばそうかもしれませんが……。
 で、朝食後、また散歩に出ました。
 適当に歩いていると川がありまして、足羽川(あすわがわ)に出ました。なかなかに美しいですね。大きなまちに大きな川。素晴らしいです。



 ぐるりを歩くという事で、こっちにいって見よう。


 おやおや、何か道向こうに見えますね。


 柴田神社。前田勝家が祭ってあるようです。なるほど。


 インスタ映えするんでしょう。僕以外にも複数人集まってました。街中にこういう神社があるってのがいいんでしょうね。たぶん。


 細い路地ファンの僕としては、こっちにいってみたくなり……。


 細い路地が絡んだ商店街のようです。


 細いだけでなく、段差もあるし、とにかく古いところに新しいものが更新するような、そんなところなのかもしれません。


 新しくなっていくと、こうなる。まあ、混在するから面白いんですよね。


 で、駅前はだいぶ近代化している。コントラストが面白いところですね。


 昨日は雨だったけど、恐竜も多くて、再開発なんでしょうね~。



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統計上の不思議は、ちゃんと解明しよう   ライダーズ・オブ・ジャステス

2024-10-25 | 映画

ライダーズ・オブ・ジャステス/アナス・トマス・イェンセン監督

 デンマーク映画らしい。電車で女性に席を譲ったら事故が起こり、座っている席の側の乗客の多くが犠牲になってしまう。好意があだになってしまって、自責の念に苦しむことになるが、この事件の犠牲者の中に、公判中の事件の証言を予定されていた重要参考人の一人が含まれていた。警察はあくまで事故として扱っているが、これほどの偶然は無いと考えた男は、さまざまな状況を勘案し直して、ある種の殺人の計画があったかもしれないことを突き止めていく。一方で妻が犠牲になって失意のどん底にあった軍人がいて、殺人を疑う男たちは彼に協力を依頼しに行く。話を聞いて復讐を決意する軍人は、テロ組織ともいえるような強力な武器を持っている犯罪集団に切り込んでいき、結果的に次々に復讐を遂げていくことになっていくのだったが……。
 背景となっている状況をアルゴリズムで割り出し、中年のオタクたちが協力して様々な悪の背景を割り出していくことになる。結果的に凄腕の軍人の協力を得ることになって、ヤクザともマフィアともいえるような恐ろし気な集団に対峙することになっていく。そこらあたりのアクションも見どころになっている。ちょっと不思議な味わいがあるのは、実はこれらの話がちょっとしたブラックジョークになっていることである。それは、家族の在り方も含め、これらの物語の顛末に至るまで一貫している。物事には何か原因があると考える、人間の癖ようなものがあって、それが多くの人の人生を狂わせていく。または、改善させても行く。何か達観めいた気分にもなるので、ちょっとしたアクション娯楽を見る目的で観てしまうと、面食らってしまうことになるのではあるまいか。
 封建的で頭の固い父親は、娘を愛するがゆえに、さらに娘を縛り付けるような言動をしてしまい、なんだかちゃらちゃらした彼氏にも暴力をふるったりする。しかし、若い人の方が実は大人で、そんな父親ともなんとかやっていこうとする。廻りにいる中年の男たちは、善良なところはあるのだが、やはりどこかタガが外れたところがあって、頼っていいのか的外れなのかよく分からない。結果的にはなんとなく良い訳だが、そのバランスもかなり危ういものがあるのである。
 独特のセンスがあるとしか言いようのない不思議な映画で、しかし面白い。やはりそれは北欧の文化というものがあるせいかもしれない。こんな物語でいいのかどうかも疑わしい。しかし、出来てしまったものは、仕方が無いではないか。
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実録漫画的アクション大作   コンフィデンシャル:国際共助捜査

2024-10-24 | 映画

コンフィデンシャル:国際共助捜査/イ・ソクフン監督

 北朝鮮発の犯罪者をめぐって、北からの捜査官と韓国の警察、そして今回はアメリカの捜査官(でもおそらく韓国人)の三組織と三者が協力して犯罪組織を追うというアクション映画。これはそれの第二弾。要するに続編なのだが、前回に比べるとかなりコメディ要素が強いものになっている。犯人グループは組織的に強大になり、武器もほとんど軍隊のそれである。テロを超えて戦争と同じレベルかもしれない。相手は機関銃だが、こちらは拳銃だったりしてかなり不自然である。まあ、そういうハンディキャップをあえて自分に課しながらもちゃんと勝てるよ、という余裕という事か。命がかかっているのにもかかわらず、そうでなくちゃならないようだ。
 今回は韓国の三枚目警察官もそれなりの存在感を見せ、さらにちょっとばかりまともだ。家族からは情けない夫や父親のままであるとはいえ、社会人としては、ややふつうの人間に落ち着いている。むしろ家族はイケメン捜査官が二人も増えたことで、女性陣としての興奮が見られ、韓国人の女性の強さが改めて強調されている。というか、そいうギャグがちゃんとおかしいという社会背景がありそうで、アメリカなら本人も武闘派として強いところが、フェミニンとしての強さが男を魅了するのだ、という描き方がなされる。いわゆる積極性が有るのは、ふつうは準美女の役割なのだが、ちゃんとしたヒロインがそれを演じるのである。これは同じアジアでも少し日本とは違うところで、結果的にそれなりに効果的らしいところも見て取れて、韓国の男性にも共感のあるところなのかもしれない。僕は日本人なので、これはかなり不思議な光景だったけれど、ギャグとしては、それでいいのだろう。
 娯楽作なので、ある程度の了解をこちら側で調整しないと、そういう所々がなかなか難しい鑑賞となる。前作は悲哀がバックにあるので難しいながらも、主人公に肩入れすることが出来たわけだが、彼がそのまま北朝鮮に帰るとしても、また必ず戻ってくるようなところがあって、そういう平和な分だけリアルさが損なわれてしまったように感じた。やはり彼は、元は韓国人なのだ(あたりまえだが)。
 そうではあるが、ほとんどハリウッド娯楽作に劣らない派手なアクションは見事としか言いようがなく、こういう分野はアジア的にはかなり洗練されていると言っていいだろう。インドになると行き過ぎてしまうので困りものだが、ちゃんと生身の人間が演じているぎりぎりのところを攻めている感じはする。そこがやはり爽快なのであり、最大の見どころである。実際カッコいいので素晴らしいのである。あれこれ考えてしまうのは悪い癖だが、観ているときぐらいそんなことは忘れてしまおう。
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勝負師は目立たたず勝ち続ける   カード・カウンター

2024-10-23 | 映画

カード・カウンター/ポール・シュレイダー監督

 過去に何かの謎があり、服役経験もある男は、ブラックジャックなどの勝負師として生計を立てている様子だ。実際にカードの見せ札をすべて暗記する手法で勝率をあげ(それが題名にもなっているということだ)、地道に目立たないように毎日場所を変えながら勝ち続けている。そんな中、大きな大会と賞金を得られるチャンスがあるという話を、黒人の魅惑的な女性から持ち掛けられる。最初は断るのだが、カジノを回るうちにある青年から声をかけられ、父親の軍時代の復讐の計画を一緒にしないかと言われるのだった。そのまま青年と一緒に行動するうちに考えを変え、ツアーのようにカジノの場所を変えながら、大きな勝負に打って出ることにするのだったが……。
 過去の服役は、中東での捕虜収容所内での虐待行為をとがめられてのものだった。しかしながら、その軍隊を指揮していたある人物こそが、虐待方法の指導者だったわけで、その方針のもと、男は虐待に加担していたという事らしい。本来的な悪党はぬくぬくと逃げぬき、映像などの記録に残されていた兵隊のみが、軍法的に服役していたということで、男も恨みを抱いていた。しかしながら男にとっては、過去の清算ということについても、復讐に燃える若者についても、何か考えあぐねているところがあった。静かにギャンブルの勝負を重ねながら、そのことに向き合わざるを得なくなっていく。
 自分と同じくカードカウンターは他にいるらしく、実力の高い者もいる。ギャンブル勝負と言えども、勝ち方には辛抱強い駆け引きがあるようだ。何時間も対峙しながら用心深く勝負師の駆け引きを繰り返している。
 一方でこの物語の真の目的は、過去にあった米軍の汚点である捕虜収容所での虐待事件の復讐である。男は服役を済ませ、いわば清算は終わっているはずなのだが、終わっていない過去を引きずる若者が目の前にいる。男は無理に終わらせている過去について、静かに格闘していたのだった。そうして事件は起こる訳だ。
 説明が少ないし、結局最後はどのような戦いだったのかはよく分からないのだが、虐待のあらゆる手法が用いられたということなのだろう。気持ち悪いので割愛したのだろうか。
 雰囲気はたっぷりあって、なかなか見ていて飽きさせないところがある。一定の緊張感がそれを支えている。恋愛もあるが、これも最初と印象がかなり違うようだ。一定の人種問題も扱っている、ということなのかもしれない。これも時代なのかもしれないが、スタイリッシュな演出もずいぶん様変わりしたものだと思う。そうして実際カッコいいので、それはそれで僕らの感覚も変わっているという事なのだろう。
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食が細くなった母

2024-10-22 | 母と暮らせば

 母は基本的に何でも食べるとはいえ、やはり高齢になり食が細くなった感じがする。特に夏の暑さである。別段外に出て汗をかくということは無いのだが、エアコンのきいた部屋から部屋へという事ではあるにせよ、やはり夏バテのようなことがあるのか、かなり並んでいる料理に手を付けなくなる、という現象が起こる。栄養バランスもあるのだが、食べないことには仕方がない。つれあいもあれこれ考えて何か作っているようだが、ほとんど箸をつけないという料理が多くなり、虚しく料理がそのまま乗った皿が残ることになる。
 そんな中でも蒸かした芋は割合好きなようで、おやつでも食べるのだが、食事にも食後用に芋があると、それを先に食べる。芋だけで生きられるのか分からないが、芋を食べるとそれなりに腹が膨れるので、余計に食べなくなるかもしれない。それでやはり食べないよりはましなので、デザートを工夫する。
 果物でも特にキウイが好きで、これは絶対に食べる。我が家のキウイの消費量はすさまじいものがあって、スーパーに行く度にキウイを仕入れなければならない。どの店のキウイが安いかの情報はちゃんとインプットされてはいるものの、やはり買い物には様々な目的があり、ついでがあればキウイに手が伸びる。(キウイの)備蓄もいくらかはあるが、どのみち補充が必要である。結局キウイがあれば買わなければならないのである。
 他に好きなのは、焼きそばの一平ちゃんと袋麵のうまかっちゃんがある。どちらもかなりの時間麺を茹でなければならないので、そのままの一般的な商品の出来上がり具合とはかなり違うはずなのだが、中身としては同じである。麺がどろどろなのかやわやわなのか、ということである。食べている途中で僕が近くに居ると、分けてあげていいというが、そういうものを分けてくれたとしても、おそらく僕は食べることができないだろう。あまりにも柔らかくドロドロ過ぎて、僕が食品として受け付けないと思われる。好意はありがたいことだが、辞退せざるを得ない。それにそもそも、母に食べてもらわなくてはならないものなのだ。
 今はどうなのかあまりない事だが、カレーライスも好きなはずである。ところが母がカレーを食べると、必ず先にルーが無くなってしまう。白いご飯だけ残るので、ルーを継ぎ足す必要がある。母が食べるカレーには、ごはんとルーが半々に分けられているわけではない。ちゃんとご飯の上には、全面にルーが掛けられているのである。そうして母が食べ進むうちに、その食べた量は相対的に減ってはいくものの、何故か白いご飯が少し余るのだ。ごはんとルーを混ぜて食べている様子なのに、結果的にはそうなってしまう。いったいどのような芸風でそういう食べ方をしているのだろうと、いつも不思議に思うのだった。
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結果的に選挙妨害になったとしても

2024-10-21 | culture

 投票率が低いより、高い方がいいという価値観のもとで、しかし現代の日本においては、結果的に低くなっている問題にも背景にも意味がありそうなことは分かってきた。ところが米国においては、ある種の投票率を下げる取り組みが、公然と行われていると言われている。移民国家である米国は、ルーツが北米の純然たる米国人というのは少数派なのだが、しかしことはそういう事ではなく、さらに新しく流入してくる新米国人に対して、一種の既得権益を守る保守的な勢力があるらしい。その多くは共和党支持者で、比較的に伝統的である米国的な価値観を共有しているとされる。そうして民主党政権と共和党政権は、ほとんど拮抗している状態が長く続いている。選挙の結果においては、短期的にどちらか側の政党が、簡単に主導権を握り返すことが可能になっている。そういう背景はご存じのとおりと思うが、そういう事がアメリカ社会のダイナミックな変化を支えているともいえ、比較的に政治的な関心の高さを維持できているとも考えられている。
 ところが選挙においての投票行動を鈍らせるような制度も、共和党政権下では行われる傾向にあるという。移民の人の言語に対応していない投票所を増やしたり、IDを厳格化して手続きを複雑にしたり、いわゆる選挙に慣れていない人には、そもそも選挙で投票をしにくくするように操作しているのだという。一定の投票率が下がることで、比較的共和党が有利になる場合があるためなのだそうだ。
 しかしながらそれらはターゲットを明らかにしている選挙妨害であって、投票率そのものを下げようとする取り組みでは無いのかもしれない。いわゆるマイノリティの人種や新しい移民は、民主党支持者が多いといわれている。そもそも移民締め出しをうたっている共和党政権にとっては、当然のやり方だということなのだろう。
 確かにひどい話だとは思うのだが、しかしながら裏を返すと、日本においてもこれまで通りの記名式の選挙が当たり前のように繰り返されてきて、あまり形を変えていない。不在者投票については努力の跡が見えるものの、それ以外の選挙の行われ方というのは、ほとんど旧態依然のままである。やればすぐにできると思われるネット選挙の解禁もまだまだという状態を考えると、要するにこれまで選挙をしてきた人たちを優先して考えていて、新たに取り込む努力に欠けていると言わざるを得ない。それは一種の選挙妨害のようなものなのではあるまいか。
 しかしながら某会において出席確認を新たにlineなどを活用しようという流れになっていて、出席確認などはそのようなアプリを活用することに変化してきた。そうするとこのアプリへの加入をかたくなに拒否する人や、そもそもスマホでない人も抵抗するようになっている。そうしていまだにファックスと併用、という形をとらざるを得なくなっているのである。まったく面倒で仕方がない(その人だけファックスでいいのに)。さらにこれまで請求などはメールできていたのだが、事務局がどのみち面倒だからと言って郵送に変わってしまったのである。お金だってかかるのだ。その上に退会者が順次出るようになっている。要するにこれまでゆるかった出席確認などが、確実に行われる仕組みなることによって、むしろ煩わしいと感じていたり、それなりに寝ていても良かった人々までも起こすことになって、さらに参加を嫌がるようになってしまったと考えられる。
 選挙の問題とは少し違うとはいえ、基本的には現代の問題とも通じる現象であると考えられる。選挙のように面倒くさい問題と構成を持っている人間の層が複雑になると、むしろシンプルで簡単な方が、厭われることだってあるということなのである。前回までの結論とほぼ同じになってしまうのは、結局多様な人々は簡単に交わったりしないし、同じような行動をとらせるコストを考えると、そんなに無理をしないでもいいのかもしれないということだ。あきらめの社会の中に僕らはいる。それが現実ということで、とりあえずは出発点にすべきなのであろう。
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投票率が上がって政治が変わるか

2024-10-20 | culture

 投票率をあげなければならないという問題の根本には、もう一つ前提になる議論がある。投票率をあげたら、政策自体が変わるのではないか、という予想である。傾向として若い人の方が政治には関心が低く、投票には行っていない。その結果として、有権者は高齢者であると認識をしている政治家からは、高齢者に有利なものを立案するものが多いのだ、という。本当にそうなのかは、実際に若い人の投票率が上がらないので実証しようがない。しかしながら、投票率が高い別の国において、さらに比較的歴史的に現代という指標をもって調べることはできる。そうして同じ国において、投票率が高かった時と低かった時の政策の違いを比較しなければならない。
 調べてみるとそういう調査は実際にあるらしく、その結果として投票率が低かった時よりも、高かった時の方が、福祉政策をはじめ少しばかり社会保障に関するものが増えたという。投票率が上がって、少し左よりの政治家が多数当選したためだという。解説によると、実は投票率と所得には関連があるらしく、比較的所得が高い方が投票率は高い傾向にある。よって投票率が低くなると、社会保障より減税など会社などを助ける経済政策の方が有利になるという。
 しかしながらこれにはさらに別の調査があって、さまざまな国によって投票率の違いと政策の違いを比較すると、投票率が高くなったからと言って必ずしも左派的な政党だけが有利だったという事とは限らない場合があるようで、それに伴い福祉政策が充実するかどうかは、明確には差が出ないというものがあるようだ。
 日本の場合の左派政権にシンパシーを感じている世代は圧倒的に高齢者なので、既に投票率が低いとはいえ左派的な政策がとられている可能性も高い。日本では、いわゆる中道的というか右派と明確に言える政党はほぼ存在しないので、考えようもない事かもしれない。言葉の上では高福祉、低福祉というものに比較して中福祉という言われ方をメディアではしているけれど、国家予算の一般会計をはじめ、全予算を考えても、基本的にほぼ社会保障費の比率が高い訳で、それ以外の政策は事実上打てないほどの困窮国家である。さらに借金まみれなわけだし……。日本の場合は投票率が上がろうが下がろうが、社会福祉的な政策論争を中心に置かざるを得ないのが当たり前すぎて、たまにほかのことが持ちがあると目立ちすぎるだけのことなのかもしれない。つまるところ印象のみで、政治が変わるかもしれない期待が、投票率の名を借りて持ち上がっているだけのことなのかもしれない。
 さらに残念なことに、いくら何をやってももう日本の投票に行かない人に投票に行かせる手法は、限りなくなくなってしまいつつある。結局トレードの問題があって、選挙に行くよりもその時間に何か別のことをする、という選択をしていると考えられるのである。政治のことを考えるだけでも時間がもったいなくて、さらに政治家の話を聞く時間は、無駄より損失に等しい。そういう日頃の生活状況でのトレードの関係において、政治問題は課題にすら上がっていないというのが実情だろう。そもそもそんな人たちが、選挙になんか行くはずが無いのである。
 ということで、一つだけ希望をのべると、今のところは、という前提であって欲しいという事くらいであろう。いつかは考えてもらう時が来るかも、というくらいの問題意識でしか、政治問題は問題ではないということなのだろう。
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散歩の自由の確保をお願いしたい

2024-10-19 | net & 社会

 選挙カーがうるさい期間になった訳だが(衆議院選は範囲が広いので、市議町議ほどではないにせよ)、やっぱりなんでやめないんだろうって声を聴かされて、こっちも煩くてうんざりはする。いいかげん学習して欲しい。結論:日本人は馬鹿だから、選挙カーが有効だからやめないだけのことなのである。
 言い切っていい問題だが、実のところ選挙カーで人を選ぶというか、その候補者個人の好感度はまったく上がらないのだが、投票行動には明確に違いが出るというのは証明されている。選挙期間に選挙カーが半径1キロ以内を通った場合の有権者の投票率は、そうでないところの二倍になるという統計データがあるのである。要するに選挙を改めて意識させられることになり、選挙に行きたくなるというか、単なる選挙期間の広報的な意味があり、投票行動への後押しになっている。逆に選挙カーが聞こえなかった地区では、投票行動が6分の1にまで下がってしまう。やっぱり民度の低さをあらわしている訳だ。
 選挙カーを走らせない候補者もいて、実際にそれが影響して勝つという実証もあるじゃないか、という話もある。これも数の問題があるようで、例えば地方選でたくさんの人が立候補する中で一人だけそうであれば、目立つので効果はあるともいわれる。しかしながらやはり複数の人が自転車等に乗り換えて運動すると、結局共倒れになるケースの方が圧倒するらしい。そもそも強い人でなければ、埋没するだけなのだ。それではふつうの感覚を持つ候補者は怖くてやれない、ということになる。
 選挙カーを走らせる最大の原因は、戸別訪問が禁止されているからである。これはおそらく金銭のやりとりなど、選挙違反の防止の意味がありそうなのだが、一般的に他国では普通の事なのに日本人だけが金銭を欲しがると考えているところがやましすぎるのである。そんなことをすればかならず捕まるので、やりたければやればいいのである。やる人なんていないのだから。それが日本人の馬鹿さ加減のもっともたるところだ、という理由である。ルールが悪いのに変えられないというところに、頭の悪さが際立っている。他のことだってこれに関連している。過ぎてしまえば、いったん忘れるのである。
 実際にうるさいのは事実だし、僕だって散歩中に選挙カーが通るのは、本当に煩わしく嫌なことなので(マイクで声を絶対に掛けられるのだ。さらに降りてくる候補者も少なからずいる。ほんとです。出張中でもそんなことをされるので、まちを歩けないのである)、心の底からやめてほしいと願っているところなのだが、他の日本人から足を引っ張られてやめられないことを知っているので、どうにもならない。だから選挙期間になると、必ずと言っていいほどこんなことを書かなくてはならない。これはまあ、僕の性格によるところも大きいし、書きたくても書けなくなる状況にも見舞われることにもなる。だからこそ本当に多くの人には考え直してほしい。戸別訪問を受け入れ(居なければ関係ないのだし)、選挙カーを無くそうではないか! そうして選挙カーがうちのそばを通らないという苦情を候補者にするのではなく(実際多いのである)、街頭や公園や公民館などでの演説を聞きに行くなど行動すべきなのだ。選挙に参加しない多くの人々が、選挙カーを支持しているのに等しい行動をとっている。それが選挙カーを走らせる、病理の元なのである。
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投票率はあげられるが、ほんとにそれやるの?

2024-10-18 | culture

 選挙では投票率の問題がいつも取り上げられる。率が下がっているのが問題だというのは、おおむね共有できることかもしれないが、いわゆる一定の歴史を経て民主化した国では、だいたいにおいて投票率が下がる傾向がある。しかしながら政治参加する文化という点で、それなりに投票率が高い国があるらしく(それでも下がっているが)、それらに比べて日本は……、という話になりやすいのだろう。投票を義務化しているオーストラリアのような国もあって、罰金や処罰があるが、それでも90%というから、投票率は確かにその所為で高いのは分かるが、じゃあそれでも10%も選挙に行かない人がいることに脅威も覚える。さらに義務化すると無効票も同時に増えるらしいので、関心のない人はどうやってもまじめに選挙なんかしたくない、ということが見て取れる。人間の多様性が言われている世の中にあって、そのようなひねくれものが一定数いることを、ある程度は許容する必要もあるのかもしれない。
 そうではあるが、問題は日本のように、50%程度しか投票しなくなってしまった問題、というのはある。選挙というのは民意の表れでもあるので、半分が棄権する政治に果たして民意が反映されているのか問題、という事らしい。一票の重さについては、憲法違反を騒いでいる法曹界のような考えもあるが、いくら騒いだところで、一票はそんなに重いものでは無くなっているのである。格差がある上に投票率は都市部と地方ではかなり差が出る。合理的に見えるように合わせてみても、そもそもそれは正確な民意ではありえないのである。まあ、言わんとすることは分からんでは無いが、人の移動の自由がある以上、そういうのは合わせるだけひずみが出ることだろう。
 天気が悪くても投票率は下がる。しかし天気はどうにもならないので、問題は不在者投票のようなことになる。マイナンバーカードもあることだし、IDがしっかりしていれば、ネット選挙も十分可能であろうが、これも混乱があることが見こされるので、あえて導入されそうにない。確実に投票率は上がる上に、早く投票してよ、とか個別にアナウンスまで出来るだろうに……。まあ、そんなことを行政はしたくないだろうけどね。
 しかしながら投票所が近い方が選挙に行くというデータもあるらしく、利便性は案外大きな問題である。だからと言ってむやみに投票所は増やせないのだから、ショッピングモールなどの投票所設置は、それなりに合理的なのである。行けない人問題もあるが、それのカバーには福祉的な視点も必要そうだ。
 女性候補が増えると投票率も少し上がる。やはり誰が出るのかという関心はあるので、そのような多様な候補者と受け皿を作るというのは、まだまだやれそうなことだ。政党が増えるといくぶんか投票率が上がったことがあるともいわれるが、これも比例などの問題もあり、死に票が増える制度でもある。二大政党制が望ましいと言われていた時代もあるが、日本ではやはり流行りの問題のような感じもする。実際二大政党の国よりも連立政権の国の方が多数派であることから、日本がそんなに変わった特異性のあるものではない。時には政権交代した方がいいという理屈はあるにせよ、それがどんな理由なのかの方が問題が多く、なんだかんだといって僕らの世代はむしろ懲りている感じもあるのではないか。まあ、そんなことは起こりやすい仕組みにはなっているものの、やっぱり危険も感じるのかもしれない。
 これを書いている時期と世論との事情がある訳だが(※9月18日に書いたものだから)、政策論争を一般的な投票権の無い人が多い時期になされることがあって、改めて報道も過熱し、具体論まで解説が日々なされていた。こういうものこそが政治には必要な気がしたわけだが、選挙になると、またどうでもいいようなバラマキ政策とスキャンダルが主な論争になりがちだ。内容を問うているのに、内容が無くなるのだから、どうしようもない。つまるところそういう事に失望しているらしいことは見て取れるわけで、政策論争は選挙以外でも、恒久的にやって欲しい。そういうものを取り上げるメディアも重要で、地道にそれらを取り上げて解説すべきだろう。ニュースバリューが無いと勝手に決めつけているから、政治は育たない。事実、論争はかなり面白かったわけで、こういうのを実際に政治家は語りたいのではないかとも感じた。それはこの国の未来でもあり、現在だ。やはり投票率は、政治参加とともにあってなんぼ、なんである。
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これは確かにやっちまってるな

2024-10-17 | 音楽

 これ七十年代初めにヒットしたらしいが、僕は中学生くらいの頃によく聴いていた。ジョージ・ハリスンもいいんだな、と思ったことでした。


 しかしながら当時も問題視されていたそうで、元歌らしいのがあるのだという。


 うーん、これは確かにやっちまってるな、という感じでしょうか。
 そういうのも、音楽史ってことかもしれません。
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