熊は、いない/ジャファル・パナヒ監督
イラン政府の圧力があり、国内で自由に撮影ができない監督は、リモートで映画製作の指示を出している。そういう場面はドキュメンタリであるようで、実際の話だが、しかしこれは劇作にもなっていて、その状態で監督は、村のある事件に巻き込まれていくようになる。
監督は映画を撮るので、滞在しているまちでも、風景などを写真などに収めているようだ。そういう場面を村人はみていて、あるカップルを写真に撮っているのではないか、と言われる。この村には文明開化側の人から見ると奇妙な風習が残っていて、生まれながらに決められた男女の関係を示す、いわゆるいいなずけのような儀式を経た女性とは、将来結婚できるというようなものが残っているらしい。そういう訳で、ちょっと問題のある男には、そのようにして妻を得たい考えがあるのだが、しかし肝心の女性はそれを嫌っているばかりか、村の別の青年と結婚を誓いあっている様子なのだ。困ったことだが、しかしそれは村の風習を壊す可能性のある事でもあって、監督はそんなことには巻き込まれる筋合いはないのだが、いわゆる証人にもなれる立場であるということなのかもしれない。映画の撮影もリモートで忙しいのに、村人の誰彼となくいろんな人がやって来て、写真に撮ったものを見せろとせがまれるのであった。
奇妙な質感のある映画で、ドキュメンタリとも絡んでいるので、非常に乾いた演出の中、二重三重のトリックがあるようだ。基本的には監督の置かれている村の状況が主なのだが、村人の圧力のある中で、監督はそれなりに抵抗し、苦しむことになる。そういう中にあって、映画は撮り続けられていて、そういうスタッフをまとめる立場にもいる。そうして劇中の人物にも、自分の生活があるのだ。
西側の目から見て監督の行動は、いわゆる勇気のあるものなのかもしれないが、実際の話、この程度のことで、どうして迫害される立場にいるのか、なんだかよく分からないところがある。そうなのだが、後で情報を見ると、この映画を撮ったせいで、監督は実際に逮捕されて拘束されてしまったのだという。いったいこの映画の何が悪いのかというと、やはりイランの文化を批判しているとか、体制に反発しているということになっているのかもしれない。不条理でも村の風習を守るべきだと、政府は考えているということなのか。そこまでは分かりかねるが、映画を撮るなと言っているのに、やっぱり撮ったりしていることを、とがめているのかもしれない。確かに村人は恐ろしい訳で、そういう恐ろしい村を内包しているイランという国は、信用のできない恐ろしい国だという告発、という側面があるのだろうか。そうであっても西側の僕らはこの映画を受け取って観ることができる訳で、そういうところがなんだか僕を混乱させるのかもしれない。
ということで、やはり変な映画なのだが、結末も衝撃的で、ちゃんと映画の作りになっている。そういうところは、やはり上手い映画監督ともいえるのかもしれなくて、捕まってしまったのは、そういう意味で残念だと、僕は考えるのである。