親ガチャっていうのは、どういう訳かそれなり市民権を得たことばになった感がある。ちょっと前に流行った流行語というよりは、それを使って現代日本を語る人が増えているのだろうか。それだけ社会性がある問題とリンクしているという、一般的な感覚めいたものがあるのかもしれない。ところで実際のところ、元になっているゲームというのはまったく知らなくて、それが何なのかわからずに、最初はガチャポンに由来すると勘違いしていた。あれは生まれるので子供の方かもしれない。いや、どうなのか。
僕らの時代は「頼まれて生まれてきたんじゃねえ」とか言って、怒った親からビンタされるというのがドラマの定番だったが、自分で望んで生まれてきたんじゃないのは親も一緒であって、それを親に言って言葉の暴力をぶつける意味だというのは分からないでは無いが、ふつうの親なら、お前に言われてもなあ、という残酷な感想が本音であろう。そんな不良なんか本来はいらないのだが、道義上仕方なく付き合っているだけのことだろう。しばらくケガをしない程度に、ほとぼりが冷めるまで出ていってくれたらいいのである。
話がずれたが、親ガチャの問題は、要するに格差社会のことであるらしい。親の格差が子供に連鎖するという、いわゆる負の連鎖から抜け出せない底辺の生活がある、ということのようだ。そうかもしれない場合もあるようだが、実際にはそう底辺でもない世帯の子供まで、そのような感覚に浸っている場合もありそうなのである。むしろそういう高望みの人々に限って、親ガチャを言っているよう気がしないではない。
実は格差社会というのは、長く平和が続いている結果であるともいわれている。戦争などの有事があると、格差なんてものが吹っ飛ぶ。日本で言えば、終戦すぐが皆底辺に居て、ある意味皆貧しいということでありながら、格差は少なかった。だんだんと時を経て、格差が開いて行って、現代にいたる訳だ。そういう意味では歴史的なものがあって、ヨーロッパの階級的なものとか、今の米国のような階層のようなものと、日本の格差はやっぱり異なるのかもしれない。日本の富裕層は、いちおう建前上貴族は居ないので、医療関係などが大半を占めるのであって、これは一種の階級と呼んでいいものかは分からないが、それなりの競争を経て(試験があるので)の結果ともいえるもので、そのことをもって問題視する人はまず無いだろう。
そういう訳で、階層や階級としての格差ということではまず無くて、親の性格的なもの(子供への理解度のようなもの)や、離婚などの不遇さ、虐待などの逃げにくい体験などを、指しているものらしいのである。そのようにして子供時代を過ごす不遇全体を指して、絶望的な自分の境遇を呪う言葉の総称になっているということだ。
そうするとさらに問題は、そのように感じて不平を言うことの一般的な感覚についてである。実はそのような境遇の人というのは、実数としては必ずしも限られた人々ではないようなところが、親ガチャの問題点のようなのである。家庭の問題は、今風に言うと自己責任というか、それなりに孤立したものがある。そうした隠されたものの中に、さまざまな不幸があって、子供がそのために虐げられている。子供の自らの力では、どうすることもできない。社会が悪いと言っても自己責任の領域である。そうであるならば、一番の原因は親そのものなのではないか。親が悪いから、自分は不幸なのだ。短絡的に言うと、そういう事だろう。
さて、そういうことに気づいたのちに、自分の力でこれをどうにかすることができるようになるのだろうか。そのような仕組みづくりが、いわゆる親ガチャ問題の解決の糸口かもしれない。教育の時間はそれなりに長い年月と言えるが、その質は、初期の段階からの積み上げが、なんといってもものを言いそうだ。多少乗り遅れても大丈夫なようにすることが、可能なのだろうか。そういうことあたりにヒントがありそうだが、さて、どうしたものだろうか。