カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

旅の目的が食べる事らしい

2024-09-30 | net & 社会

 主に富裕層らしいが、フーディーと言われる人たちがいるという。世界中を旅する人たちなのだが、その目的は「食」。その地でしか味わえない美食を求めて、実際に世界中を飛び回る。基本は高級レストラン廻りなのだろうけど、その料理そのものよりもはるかに多くの資金をかけて、食べるためだけの移動を厭わず、金に糸目をつけない。
 有名なシェフの有名な料理はもちろんだが、主に食材を大切にしているともされる。流通に適さない希少なものであるとか、その産地で新鮮なままであるとか、その地での季節限定であるとか、そういうものである。常に最高のものを求めて、世界中を飛び回る。そういうものを食べたいという欲求と、実際に口にする感動を求めているということなのだろう。
 かつて、というか今もミュシュランはあるのだろうが、タイヤメーカーのレストラン・ガイド本に乗っているレストラン巡りをする富豪というのは、以前より有名である。日本のものが出たことで、日本にも多くのグルメがやって来たともいわれる。海外から予約し、その日に合わせて来日しておられるのだろう。一種の酔狂だが、そういう事が可能な人間であることの喜びがあるのかもしれない。
 ミシュランは興味本位に読んでみたが、もちろん有名な店が多くて知っているところがあるものの、まったく意外というか、ほんとかね、というような店も多く取り上げられていたという。僕には細かく分かりようが無いが、パラパラ見ただけで予約には至らなかった。一瞬行ってみてもいいかな、という場所の店もあるのだが、やはりそこまでして、という気持ちが勝るのかもしれない。正直なところ食べてみたいが、だからどうした、というのもある。僕にそこまで最高のものがわかるとも思えない訳だし、話のついでにしては、手間がかかりそうである。面倒なのだ。
 以前父の本棚の一角に、東京大阪の店のガイド本とか、池波正太郎の本などがあって、ちょっと意外に思ったことがあったが、出張か何かで思い立ったことがあったのかもしれない。実際に行ったかどうかまでは、いまさら知りようが無いが。
 もちろん僕は、料理本はよく買うし、ガイドのたぐいも探せばたくさんあると思う。パラパラめくってそのまま忘れてしまうのがほとんどだけど、なかには実際に行ってみた、というのはある。まあ、居酒屋とかラーメン屋だけど。でもまあそういうのを持って行って店を探したということではなく、なんとなく見たな、と思い出して行ってみた、という程度だ。用事があって、ぶらぶらして、携帯で検索するというのがほとんどになってしまって、紙の媒体で店を探すことはめったに無くなった。地図のたぐいをもって散歩していた時期もあるのだが、それは大雑把な位置関係と観光にでも立ち寄ろうか、という場合限定である。店は適当に入る。僕は食に関しては優柔不断なので、その時ラーメンの気分なのか定食などの気分なのか、判然としない。メニューを見て結局カレーだったりもするわけで、もう二度とこないかもしれない特殊な場所にしては、平凡すぎて後で何喰ったか忘れてしまう。思い出すことも無いでは無いが……。
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チワワちゃんを探せ   チワワちゃん

2024-09-29 | 映画

チワワちゃん/二宮健監督

 チワワちゃんが主人公じゃない、群像劇っぽいお話だけど、基本は嫉妬とか若い人の風俗の物語かもしれない。主人公はチワワちゃんじゃないつくりなんだけど、しかし結果的にはチワワちゃん演じる女優さんが一番素晴らしい作品かもしれない。少なくとも僕は、そんな感じでこの映画を観ていたように感じる。
 好きな男がいて、しかしその男は別の女をナンパしてディスコ(クラブっていうのか?)に連れてきた。その子の名前がチワワちゃん。それで何となくそのこが、自分たちの仲間のようなことになる。嫉妬心があるのだが、同時にモデルなんかもしている自分に憧れもして、懐いてくるチワワちゃん。チワワちゃんは胸も大きくスタイルがいいが、あまり中身の無いような女の子で、いつも明るい。ある時、店に来た客が600万円持っていることを知り、盗んでしまう。それは政治献金に使われるはずの金で、要するに表に出てはならないものだったようで、皆はそれで豪遊する。そういう、楽しいがなんだか浮遊感のある、現実味の追いつかない日々の中にチワワちゃんとの付き合いがあり、そうして実はチワワちゃんは、何者かに殺されてバラバラにされて見つかる。犯人は見つからない。騒動になるが、実のところチワワちゃんの本当の姿は、仲間たちは何も知らないも同然だったことを知るのである。
 原作は岡崎京子の漫画らしく、どの程度それに忠実なのかわからないけれど、ちょっとしたタガの外れ方の異常さのある作品になっている。面白いというか、奇妙なものを見ている浮遊感が伝わってくる。お金を取る場面だけは、誰か一人でも捕まればお終いじゃないかという嘘っぽさがあったけれど、実際そういう事と関連してチワワちゃんは殺されたのかもしれないけれど、結局犯人は見つかりそうもない。好きな男は、かっこいいだけで実際は中身は無いし、若いだけでうまく行かない自分たちの青春像が見事に描かれている、という感じだろうか。日本映画なので科白と音楽の音量が違いすぎて、落ち着いて映画を観られないという難点があるのだが、なんとか見通して、しかし何だったのかは、やはりよく分からないのだった。そういう映画なんだということだけど。
 しかしやっぱりチワワちゃんには、何か奇妙な悲しみが詰まっている。中身が無いような女というものを、好きか嫌いかは別にして、そういう風に生きざるを得ない可愛い女を、彼女自身が演じるように生きていた、ということなのではなかろうか。多かれ少なかれ、楽しそうに生きていくには、若い女としてそういうものがある、ということなのだろうか。僕にはわかり得ないが、そういうものが青春の正体なのかもしれない。
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検証できれば、答えには行きつくが

2024-09-28 | Science & nature

 夏になると日本の場合、怪談ものが急に増える。暑い夏を少しでも涼しく、という意味があるというが、それも怪しい。夏場は盆もあるし、夜に出歩く機会も増えるとも考えられるし、そういう事とも関係あるのではないか。特に子供が集まる行事なんかもあるし、肝試しのような遊びも多い。まあ、面白かった思い出も無いでは無いが、習慣というか、風物詩としての恐ろしさの季節なのかもしれない。
 僕は特段のホラー好きでは無いが、そういう分野がある以上、結構読んでしまっているかもしれない。そんなに目新しい思いをすることも少なくなったが、基本不思議な体験と共に語られる都市伝説系のものが、なんとなく近年は増えているような感覚がある。確かにお岩さんのようなものは、ひどくかわいそうすぎるいじめ問題のような気もしないでは無いし、不思議な経験という一回性の物語の方が、身近なものとして受け入れやすいのではあるまいか。
 それでまあ、そういう面白さに特化した作り話については、それはいいのである。何しろ楽しみなんだから、よく作られたものの方が良い。ちょっと気になるというか、そうであってもいまだにまだ、「科学では説明できないこれらの現象」という事実の記録として、これらの怪談などを扱う人が多いことかもしれない。いやいや、科学で証明できない事実が、怪奇現象というものですらないのではないか。
 実際のところ、それらの怪奇現象が作り話でない限りは、ほとんどの場合、科学的に説明が済んでいるものばかりである。どうして怪奇現象のようなことが起こるのかというのは、たいてい検証されつくされていると思われる。ちょっと調べたら、そんなことはほとんど自明で、すぐにわかるものばかりだろう。人間が体験する不思議な現象というのは、人間だから体験しているとも言えて、そういう方面からも解説しているものは多い。人間という生き物は、抽象も扱う力があって、そういうものから類推して、さまざまなものを見ることができる。見えるだけでは無くて、そういうものを感じ取ることもできるわけだ。それは特殊能力として備わっているという事では無くて、個人的に感じられるような事であっても、その個人だからこそ感知できることであることからも、かなり説明のつくものである可能性の方が強い。分かり切っているわけではないのかもしれないが、慎重にそれらを検証することによって、かなり科学的に説明することは可能になっている。要はそれを理解できるかどうか、という問題に過ぎないのではないか。
 しかしながら恐怖というのは厄介で、僕はニ十センチを超すゴキブリを見たという人も知っているし、悪魔の話声を聞いた人も知っている。皆その様な生の体験をしたからこそ、その恐怖に打ち震えている。それは、確かに事実とは違うはずのものではあるが、本人の体験には違いないものだろう。見間違いや聞き違いを除外して、それで説明を求められても、絶対に答えには行きつかないだけのことなのであるけれど。そうして、そうであると頭でわかっている人であっても、恐怖感を抱く感じというのは、確かにあるものなのだ。怖い話を聞いた後に一人でトイレに入るだけでも、ちょっとした不安に襲われるのが普通のことなのである。それが涼しい出来事なのかは、僕にはよく分からないが、それが文化と言えば、そういうものなのかもしれない。
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見守る中で、期待を込めて

2024-09-28 | 時事

 自民党総裁に石破さんが選ばれた。事実上の首相ということになり、日本は共和制ではないので、民主的な王様である(もっとも権力がある立場である)。高市さんが頑張りすぎて得票を伸ばしたことで、奇妙なバランスをとるという変な自民党の気質が現れ、奇跡的な再逆転が起こった。少なからぬ人々が仰天したのではなかろうか(投票した当人たちが)。これで選挙には弱くなったので、すぐに選挙はなくなった可能性が高いが、中・長期的には、さて、どうだろう。
 石破さんは自民党内の野党的な人だから、いわゆる王道ではない奇妙な支離滅裂な発言が多いわけだが、地元選挙では絶対に負けることのない超サラブレッドなので、これまでは自由なだけだったわけで、おそらく組織人としては豹変するだろう。読書家としても知られケチでも知られるが、実際は国民に本当のことを言えばウケないので、悩みながら発言していたとも考えられる。それが訳の分からないことを言っていた原因とも考えられないではないが、文章におこすと(いわゆる翻訳してまとめる人の作業が加わると)わからないではないことを言っていたことの痕跡もあるので、あんがいまともなことをするかもしれない。
 逆転の立役者と考えられる菅さんをはじめとする勢力が、どのようなかじ取りで人選に関与するかで、国政は面白くなるかもしれない。今回は9人もの候補者が出て論戦を繰り広げ、前哨戦として面白いだけでなく、様々なアジェンダで問題点が浮き彫りになっている。それらを細かく議論を深めるだけでも、日本の将来的には、いいものは結構あるようにも感じられる。もちろんこれまでうまくいかなかった理由があるわけで、簡単ではないのは明らかだけど、いわゆるそれなりに役者はいる訳で、派閥解体があるとはいえ、面白い人事になるかもしれない。
 当初は期待感の方が大きいので、特に自由がある。何をやっても、大きな批判よりもそれを見守る感情の方が勝るだろう。それだからまずはスタートダッシュ。魑魅魍魎たる誘惑と雑音が一斉に畳みかけるように覆いかぶさってくる中、どれだけ自分を保てるか。まあ、見守るより外にできない立場としては、頑張ってもらうより無いのではあるが……。
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限られた時間内での恋愛   あと3回、君に会える

2024-09-27 | 映画

あと3回、君に会える/萩原健太郎監督

 一応SF作品というか、そういう設定というべきなのかもしれない。出会った人の背中に、あと何回会えるというカウントが見える人がいるという設定下にあって、人々の出会いと恋愛を描いた作品である。まあ、なんのこっちゃ、であるが、そのような人がいると、その時々の出会いにおいて考え方が変わる、という事を言いたいのかもしれない。時には別れたくない人がいるとして、しかしあと何回会うという事が分かっているとしたら、それは人生変わるでしょう? という事なんである。
 そういう特殊能力を持った人が、さらに偶然二人いる。その二人の男女が出会って、恋愛に落ちる。最初は女の方は、このカウントは見えていなかったのだが、仲良くなった後に、非情にも男の方から、残りカウントを告げられる。そうして残り三回になって、女の方もカウントを確かめることになる。残りカウントが少なくなって、二人はどういう行動をとるのか、ということにもなるかもしれない。
 またね、と挨拶を交わしても、後ろ姿にもうカウントが残っていなければ、一生会えないことも分かる。便利と言えば便利である。縁が無かった、というのを、すぐに確認できるわけだ。特に女の方は、残りカウントが3回になってはじめてその人とのお別れを知ることになる。男の方は、もっと早い回数のカウントが見えるようだ。残り数が多いと余裕が生まれ、少ないと余裕が無くなるともいえる。そんな風にして人とつきあうようになると、やっぱり何かが変わるはずだという気もする。接し方を変えると、カウント数が変化する、などということは起きないようで、それは一種の運命主義である。
 元々テレビドラマのようで、そういわれれば、そういう感じかもしれないとは思う。人との出会いとその時間は限られたもので、特に恋愛においては大切にしましょう、という標語にはなりそうである。俳優さんたちに、自分たちを重ねられるような人には、いいものなのかもしれない。そもそも恋愛劇は、そういう感情の重ね合わせがない事には、面白みも無いのだろうけれど……。
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すべては後半のためにある   サユリ(完全版)

2024-09-26 | 読書

サユリ(完全版)/押切蓮介著(幻冬舎)

 もとは1,2巻あった漫画の合本の上加筆されたものらしい。夏なのでホラーものを紹介されたものを読んで、手に取ることになった。
 念願のマイホームを手に入れて、引っ越してきた家族があった。海の見える大きな家だが中古物件である。この機会に父の両親も呼び寄せて、一緒に住むことになる。ところがこの家には何か問題があって、なにかの気配がしている。壊れたテレビは電源すら入らず、放置されている。そうして具合の悪くなる人が出たり、父親が心筋梗塞で亡くなったりする。間違いなく憑き物のある家なのだ。家族が次々に犠牲になっていく中、学校の霊感の強い女性が気にしてくれたりするのだが、何しろ自分には力が無い。どんどんエスカレートして訳の分からない犠牲者が増えていく中に、これまでボケていたと思われた祖母が、急に復活してイニチアチブをとるようになって、少年は勇気づけられるようになるのだったが……。
 前半と後半がまるで違う展開を見せるホラー劇になっている。後半の方が畳みかける展開を見せて面白い訳だが、おそらく前半は、そのカタルシスを得るための伏線ということになるだろう。読み終わってみると、本当にこんな話になるとは、まったく予想できなかった。怖がらせられると思っていたのに、なんとなく勇気が湧いてくるようないい話なのだ。いや、厳密にはいい話ではないのかもしれないけれど、そう思わせられるというか……。
 著者もあとがきに書いているが、確かに日本のホラーでは、犠牲者がやられすぎるばかりで、バランスが悪いのかもしれない。理不尽にやられたら、人道的には復讐しなければならない。まあそういうのは歴史をみても負の連鎖で、戦争が無くならない原因でもある訳だが、読み切ることができる漫画なので、それでいいのである。さらにものすごく恐ろし気な絵を終始見せられているにもかかわらず、そんな気分にさせられるのだから、実に儲けものである。妙なものを読んでしまったという読後感はあるが、それはもちろん満足感も兼ねている。まったく世の中の創作ものは、このようなものがあるから目が離せない、ということも言えるのではないだろうか。
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不登校の悩みとは   かがみの孤城

2024-09-25 | 映画

かがみの孤城/原恵一監督

 原作少説のあるアニメ作品。基本的にはいじめ問題のようなものを扱っている物語のようだ。不登校などの子供が、何故か鏡の中の世界にある、周りを海に囲まれた城の世界に迷い込むことになる。オオカミのお面をした少女だけが案内役で、ほかの人たちは、このミステリの内容を何も知らない。この城には隠し部屋があって、その部屋の鍵を見つけてその部屋に入ることができると、何か一つだけ願い事をかなえてくれるという。皆は意味が分からないし、願い事自体を、どうしていいかもわからない。というか、そういうものを口に出して、他の人に相談しても良い問題なのかさえ、分からないのだった。
 それでも選ばれたらしい7人の少年少女たち(皆だいたい中学生)は、決められた時間になると、思い思いにこの城に集まるようになる。昼間の時間なので、皆が不登校らしいというのは、だんだんと分かる。最初はみんな鍵を探すのに熱心では無いのだが、不登校の事情は、それぞれに不幸なものがあって、基本的にはそういう状況を作った憎い奴を、消してやりたいという願いが皆にはある。そういう願い事を本当にかなえてもらえるならば、なんとかして鍵を見つけたいというものである。しかし、それぞれの事情と共に、この城ではなく、現実社会での問題も現在進行形で進んでいるわけで、困難を抱えた仲間たちにも、深刻さが増すような事件も起こっていくようになっていき……。
 大人たちも子供が学校に行けなくて、いわゆる困惑しているのだけれど、子供たちは心に傷もある訳で、安易に自分の親であっても、事情を説明することができずにいる。子供社会に悪い人間がいて、いじめがあるのだが、その背景を支えているのは、他でもなく先生を含めた大人たちだともいえるのである。そういう意味では、アニメ作品とはいえ、あんがい現実のいじめ問題を、正確に捉えているとも感じられる。大人に失望しているから、学校になんていけないのである。
 しかしフリースクールの支援をしている女性など、子供たちにも頼れる大人はいる。そういうきっかけから、なんとか現状を打破しようと、もがく子供もいる。そうして、この城の謎も、だんだんと解き明かされることになっていく。
 ファンタジーだとはいえ、却って救われる人間もいるのではないか。こどもの心情など、今となってはまったく理解できない大人になってしまったが、なるほど子供ならば、こういう考え方をするかもしれないとは、思わせられた。あんがいにリアルさがあるのは、そのような正直さのこもった物語だから、なのではなかろうか。
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氷を入れて飲む

2024-09-24 | 

 だいたい以前は晩酌には日本酒も飲んでいたのだが、どういう訳か朝から腹を下すようになってしまい(それはもう数十年来変わらない事ではあるのだけれど)、日本酒をやめたら、症状が治まった。本当に日本酒が原因だったのかは、実のところよく分からないところはあって謎ではあるが、通勤に支障が出るほどだったので、怖くて日常的には復活できないでいる。たまには飲むが、たまになら、そこまで尾を引かないのではある。
 しかしながらビールを飲んだ後に、すぐに焼酎に移行するにおいて、ちょっとだけ抵抗があるような気もする。要するに何かまだ食べている最盛期に、煮物のようなものなら焼酎でかまわないのだが、味的に少し特徴があるものも飲んでみたくなるのかもしれない。
 それでワインならどうなのか、というのはあったのである。でもまあワインというのはあまりに味が多様で、なんとなく当たりはずれも大きい。それに750ml程度の量なのに、ふつうに数千円のバリエーションも多い。できれば2000円以下でない事には、日常的には抵抗がある。B級グルメという言葉もあるが、基本的にそんなような位置にない事には、落ち着いて食事ができない。毎日がハレの舞台というのはつかれるもので、いやそれ以前に不可能な毎日は送れない。基本的にB級以下の生活を送るにあたって、出来れば1000円以下の方がさらにいいのである。というような、いささか言い訳めいた前置きがあって飲めるようなワインになると、ふつうにスーパーやコンビニなんかで手に入るものが、好ましいことになる。しかしそのようなワインになると、これはもう結構外れも多いのである。人の評判も聞いてみて、慎重にいろいろ飲み比べて、しかし出張の折など飲んだ後にホテルの部屋でコンビニワインはふつうに飲めていて、あれくらいなら問題ないとは踏んでいる種類は覚えておいた。
 そういうものを、家でもちびちび飲むようになって、これはこれで楽しいのだが、まあささやかなる密かなものであったのである。
 それである時の宴会の折に、ある上級のご婦人が、いわゆる5000円以下のワインは基本飲まないと噂されてるような方で、そうしてやはりその席でもワインをたしなんでおられた。聞くとことによると、ふつうに居酒屋などで飲む場合にも、自分で持ち込んでおられるそうだ。で、手元のワイングラスをよく見ると、氷を入れて飲んでおられるのである。で、このようにして飲むのが、私にはちょうどいいの、ということなのだった。
 まあ、なんというか、少なからぬショックのような、目覚めのような感覚があって、確かに自分がおいしく飲むのが一番なので、自由でいいな、と感じたわけだ。
 実はそんな風にしてワインを飲んだことは無かったのだが、夏になれば暑い訳で、いちいちボトルを冷蔵庫に冷やすのも面倒である。そういう保管をする習慣もない。いい見本も見たことだし、氷を入れて飲んでいるのである。これがまたことのほか確かによくて、ひんやり冷えたワインと夏の食卓の料理は調和している。なんとなく酸味が抑えられていて、飲みやすくなっているようにも感じる。いつの間にか飲みすぎるという事さえ注意すれば、快適な感じすらする。それにパンのようなものがあっても、当然ワインならよく合うのである。そうして日本料理のようなものでも、あんがいワインは違和感が無かったりもする。数杯飲んだら焼酎に移行はするものの、氷を入れたワインを飲むのが、夏の定番になりつつあるようだ。
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見た目を気にしないふりをするのも大変だ   アイ・フィール・プリティ! 人生最高のハプニング

2024-09-23 | 映画

アイ・フィール・プリティ! 人生最高のハプニング/アビー・コーン、マーク・シルバースタイン監督

 小太りの女性は、その容姿のせいで遠慮がちになり、何もかも自信が持てない。そういうことで彼氏もできないし、仕事も冴えないという訳だ。しかしながらフィットネスクラブで頭をぶつけてその後鏡を見ると、自分が美しく生まれ変わっていると思い込んでしまう。実際には何も変わっていないのだが、自分だけそう見えているようなのだ。ところがその所為でみるみる自信が湧いてきて、自分がいい女のような振る舞いをするようになる。美人しかやっていない受付嬢に応募したり、ちょっとした男性とのやり取りも積極的になったり。見た目は変わってないので、周りにいる人は大いに戸惑うものの、美人でない人がそうふるまったとしても、あなたにふさわしくない、などとの注意が現代社会でできるわけがない。
 そうなのだが、しかし自信を持った彼女の行動は、何か妙に感じのいいものでもあって、周りはそれに戸惑いながらも、楽しんでいくようになる。そうして彼女自身がみるみるいい方向に成功していくようになるのだった。
 いわゆるルッキズム批判の映画なのだが、こういう見た目のギャップを楽しむコメディになっていて、そこを笑うためには、やはり見た目が悪いのにいいようにふるまうギャップを認めなければ面白くは無い訳だ。だからそれが面白いと感じること自体が、ルッキズム信者だという証明にもなる。なんとも複雑な心境だが、これは前向きな心持が人生を切り開く、と考えて納得するよりないかもしれない。しかしながらそれこそが、近代的な奇妙な偏見の価値観にも過ぎない訳で、もう少し深く考えてみる必要があるのではないか。
 実のところこの映画は、そのあたりのダブルスタンダードが、あまりうまく処理されていないところが散見される。面白く見るためには、これらのルッキズムを馬鹿にしなければならないし、そんなことを気にしなくて良いのなら、これらの負け組と勝ち組の明らかな揶揄など必要なさそうだ。おそらくだが、そういうところに気づかないままの人に対してだけ、なんだか良い映画と認識されうるのではなかろうか。見ていながら、それならもっといい男と結ばれた方がいいようにも思ったし、金持ち勝ち組であっても、もう少し頭がよくてもいいようにも感じた。同僚の男性は最後まで偏見に満ちて馬鹿みたいだったし、なかなかこういう自意識というものの表現は難しいものである。
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内なる頑張り精神は、相手に分かりはしない

2024-09-22 | ことば

 観ていたドラマの主人公は、子供のころから母親から「やればできる子」と言われ続けて、期待に応えるべく頑張りとおしてきたという。主人公は女性で、バリバリに仕事をこなしながら、ファッションもいけている。ただし、家事まではとても手が回らない、という設定だ。しかし「やればできる」呪縛に囚われ続けていて、特に仕事の内容・精度をあげるために、家に帰ってからも遅くまで頑張り続けてしまうことをやめられないのだ。
 まあ、「わかる、わかる」という若い女性心理(若くなくてもだが)をついているということなのだろうし、多かれ少なかれ自分なりの理想もあるし、さらに仕事に対する周りの期待にも応えたい一心が、彼女を突き動かしている。当然きついのだが、母親の呪縛が一番大きくて、母親はそれができなかったくせに、娘には当然のように自分の理想を押し付ける。そうして、時には心配もするかもしれないが、基本的には自分のエゴであることすら気づいていないのである。
 今どきまで続く酷い話だ、とは思うものの、この「やればできる」神話というのは、改めて根強いものがあるんだな、と見て取った。この主人公は、ある意味素直に「やればできる」を、今頑張る言葉として体現して頑張ることができる人間である。しかしながら現実の多くは、そのように頑張り続けられることの方が、稀なことである。そんな人が増えたら、もっと世の中は劇的に変わっているはずなのである。現実のところは、頑張っていることは頑張っているのだけれど、いつの間にか頑張っていない自分がいる、という人の方が多数派であろう。この「やればできる」という言葉は、頑張ろうとする心情としては、あまり適切ではない言葉遣いだし、そもそも残酷なだけで、ほとんどその頑張っている意識を剥ぐ効果さえあるものである。本当に頑張っている人に向けてこの言葉を吐く人には快感だが、受ける側には反感の方が多いのではあるまいか。少なくとも僕を含めた多くの人は、「お前は頑張ればできる人間だ」と言われたら、馬鹿にされていると思うか、もしくは今後は頑張ろうという気持ちが奮い立たないことだろう。せっかく今まで頑張って来たのに、この目の前の人は正当に評価さえできない人間なのだ、というのが見え透いているのだ。
 物事というのはなんでもそうだが、やらないことには何も始まらない、のである。それをやる前からやればできると言われたら、それはもうやらなくてもどうでもいいことと同じなのである。結果は付いてきてほしいものではあるにせよ、頑張ったから良いのかどうかは不透明だ。頑張ってもダメな時だってあるのが、きびしいが多くの場合の現実だ。だからこそ、結果のみを求める態度では無くて、頑張ることを素直に認めてほしいものである。それでこそ、次も頑張れるかもしれないではないか。
 ということで「やればできる」と言われる子の将来は、得てしてあまり頑張ることに熱心ではなくなってしまう。その方が気楽でいいというのなら、それもいいだろう。どのような価値観を持とうと、それこそ自由だ。親の呪縛からも、逃れて生きて行ければいいのかもしれない。
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頭のいい人の人生の楽しみ方   リンカーン弁護士

2024-09-21 | 映画

リンカーン弁護士/ブラット・ファーマン監督

 忙しすぎて移動中のリンカーンの車内を事務所にしているようなもの、という比喩の敏腕刑事事件専門弁護士が居た。立ち回りや頭の回転が抜群であるようだ。ある資産家の息子の暴行事件の弁護を受け持つことになり、明らかに不利な証拠品がたくさんある中、確かにこの息子の言っている事にも一理あると捜査を進めみた。被害者は、怪しいところのある娼婦でもあるし、この息子の言っている線でかなり逆転の裁判をできそうだと踏んでいたところ、何かこの事件のみならず、過去の事件との絡みでこの息子の疑念の行動が明らかになってしまって……。
 原作もいいのは分かるし、この物語の構成自体が素晴らしいとしか言いようがない。裁判事件にかかわるあれこれが、その本人自身の信念にもとるところがある。それに様々な悪の思惑に絡んだりして、なかなかにスリリングである。悪い奴に加担するより外に仕事上の方向のあるべき姿が合致しなくなるようなことにもなっていって、観ている側は、たぶん騙されることになるだろう。なにしろそういうミスリードを誘う展開なんだし。しかしながら悪い話ではないところが、さらにこの物語を面白くしているので、ご心配なく。それで本当にいいのか、というところで、思わぬ方向転換がなされ、留飲を下げることになろう。もちろん、その代償も受けなければならないが……。
 映画としての、いわゆる豪華さのようなものでは無いのだが、なんとなくテレビドラマのような感じもあえてするのだが、時折しゃれた映像展開もあったりして、それなりに引っ張って観られる作品なのかもしれない。僕は最初かなり酔って観ていて、途中で寝てしまって、翌日途中からではなんだかわからなくなってしまって、もう一度見直した。やはりこれは最初からちゃんと観ないと、このお話の構成の面白さは分かりにくいものだった。とにかく二転三転するし、背景に絡む問題もなんとなく複雑なのだ。だからプロットが見事ということになる。こういうお話を考えつく人というのは、きっとずいぶん頭がいいのだろうな、という感じなんである。
 しかしながらこういう生き方をするのは、まっぴらごめんである。人はもう少し平和に静かに暮らした方がしあわせというものだろう。頭のいい人は、このように立ち回ってスリリングな人生を歩んでください。
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猫が好き、ってどんだけ物語   描描猫猫

2024-09-20 | 読書

描描猫猫/猫飼太陽著(KADOKAWA)

 副題「猫アレルギーだけど猫飼いたすぎ物語」。子供のころから猫好きが高じて、猫のことを考えながら生活してきた著者の生活を描いたもの。以前はそこそこ売れる漫画を描いていた時期があったとされ(そこのあたりも描かれている)、しかし忙しすぎて描けなくなり、一度筆を折る。猫は飼いたくてたまらないが、なんと重度の猫アレルギーの持ち主だったのだ。しかしながらゆめちゃんという白猫と暮らしている様子で、どうして今このゆめちゃんと一緒になったのかという謎解きと共に、異常なまでの猫愛に満ちた猫生活満載の漫画ライフが綴られていく。
 猫愛に対する異常なまでのエネルギーが、いくらギャグマンガだとはいえ、笑えるけど恐ろしい展開を見せる。偏愛というのはこういうことを言うのではないか。いや、もちろん愛猫からも愛されているには違いないのだが、アレルギーがありながら猫に執着せざるを得ない姿に、何か見てはいけないものを見ている背徳感がある。いくら何でもお前はオカシイ。しかしちょっと分かるところもある。でもやっぱり行き過ぎだ。そんなことをして、人間としてまともに生きていけるのか? などとあれこれ詮索してしまう。もちろんギャグマンガである。それは分かっているし、ネタもあると思うのだが、猫を愛するというのは、おそらくやはりこうなってしまうものなのだろうか。本当に恐ろしい。
 とか書いているが、実際ほほえましく読んでいる自分もいたのだが、ちょっと僕が犬に対する偏愛のある人間であることも自覚させられるところがあって、そういうところもなんだか恐ろしくもあるのだ。僕は猫に対してはそれほどの情熱は持てないが(彼らは目つきが怖い時があるので)、犬に対しては、この作者と同じような感覚が確かにある。僕は飼っている犬が、例えば海で溺れそうになれば、おそらく躊躇なく飛び込むだろう。少なくともそのような感情は持っていると思う。そうしてそれはごく自然なことだ。愛犬はまだ若いが、彼女が死んでしまうことを思うと、胸が締め付けられるように苦しくなる。実際に動悸も激しくなるようだ。考えても仕方ないので考えない努力はしているが、ときどき見上げられて見つめられると切なくなって涙が出てくるのである。そうであるから、そのような愛情を猫にそそぐ人がいるのはよく理解できるし、おそらくその為にこの漫画のように行き過ぎたことになっても、あるいみ不思議では無いのである。
 しかしながらこの漫画は、そのような異常な熱量での猫愛を描いただけの作品ではない。最後に驚くべき結末が待っているのである。そういう作品であることは、この漫画を紹介していた文章を読んで知っていたはずなのに、読み終わる寸前に実際に体験してみて、ちょっと椅子からずり落ちるような気分になった。いったい何ということだろうか。
 ということで特に猫に関心の無い人であっても、頑張って手に取って読んで欲しい。こういう作品があっていいものかどうかさえ、疑問を投げかける問題作だろう。まあ、面白いからいいのだけれど……。
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必殺仕事人はつらい   ワース 命の値段

2024-09-19 | 映画

ワース 命の値段/サラ・コランジェロ監督

 911テロ事件の被害者とその家族に対して、米国政府は基金を設立して救済のための保障費を捻出することにした。ところがその分配に当たっては、なかなかに難しい命の値段の計算という問題が持ち上がる。悲しみに暮れる家族にとって、そうしてお金に関する交渉を極端に嫌がる人たちもいる。中には事実上の同性婚の問題があったり、被害者の人間関係において、一つだけの残された家族でないケースなど、なかなかに複雑だ。多民族国家だし、移民問題もあるし、外国人もいる。分配ができるだけ公平になるように配慮がされているとは考えられているとはいえ、それを納得して受け入れられるには、人間感情というのはなかなか複雑なところがあるのである。
 担当の弁護士は、そのような保障に対するプロであって、ある程度このような交渉には自信を持っていた。ところが交渉は難航続きで、説明すらまともに聞いてくれない人々と対峙する毎日を送ることになる。保証するにも期限が設けられていて、タイムリミットは刻々と近づいていくのだったが……。
 テロで亡くなった人々の家族にとっては、その補償金を手にすることは、本来はありがたいことに違いない。しかしながらその前に、死に至った悲しみや不条理に対する怒りが先行している。そういう強い意見がある中で、実際には保証金に対する話に耳を傾けてもいい人たちはいるのである。そういう空気感に抗えなくて、話し合いの場に立てない人もいる可能性が高い。だからふつうに外国人などは、保証に対して何の支障もなく、早々に交渉に応じてくれる。もっともそれはアメリカ人よりも所得が低く、思ったよりも保証額が高いということが示唆されている訳だが……。しかし、値段を交渉で釣りあげたいだけでゴネているようには思われたくない。この辺りが、本音と建前が違う外国人らしい反応という気もする。日本だとこの辺りは、相手に悟られることを嫌うというよりは、相手が譲歩しあうところがあるのだが、彼らは建前が先行する(見た目の正当さというか)ので、どうしても本音の部分でどうしたいというのを悟られたくないのである。そうすると、相手を攻撃して罵倒したり、極端に拒絶したりする。いつまでもそうしている訳には、いかない問題なのであるのだけれど……。
 しかしその気持ちは、もちろんわかる。人間の悲しみや怒りは、時にぶつけ場所が無ければ迷走する。悪いのはテロリストで、補償金を支払おうとしている弁護士ではない。しかしながら目の前に現れたのは、弁護士の方だけなのだ。
 その悲しみを共有しながらも、しかし公平さを担保しながら、時には納得のいかない人を前にしながら、坦々と仕事をしなければならない。こういう立場は、出来れば他の人にやって欲しいものである。しかし主人公は、プロとしての矜持もある。逃げることもできないのである。仕事をやるということの本当のつらさは、そういう事なのかもしれない。
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埋もれていた稀覯本の復刻ホラー   フランケンシュタインの男

2024-09-18 | 読書

フランケンシュタインの男/川島のりかず著(マガジンハウス)

 稀覯本として何十万かで取引されるようになっていたとされる幻のホラー漫画。復刻できたのは、著者の家族の消息がわかったからである(解説にあった)。著者は既に筆は折っており、故郷の静岡に帰り結婚して別の仕事をしていた。その後肺癌を患い亡くなった。本作は86年に発表されたもので、川島作品の中でも特に著名なものだった。夏になるとホラー作品の再評価と、あらたに紹介されることがある訳で、僕はそれで今作品を知った。なんとなく気になる画風で、今風の漫画では無いが、僕が中高生くらいの時に、確かにホラー作品は結構読まれていた覚えがある。少女漫画もホラーは多かった。書下ろし作品で、サイコチックな雰囲気が、また何とも言えないものになっている。
 勤めていた会社の女社長が亡くなり、仕事に張り合いを感じなくなっている男がいる。そんな中男は顔が黒くなっていてはっきりしない少女の幽霊を見るようになる。男は恐ろしくなって何もできない。精神科に行って先生に相談すると、その黒い顔をしっかり見るように言われる。そうしてその顔の少女のことと、過去の少年時代の恐ろしい出来事を思い出すことになる。そこにはいじめられてばかりいる気の小さな自分と、丘の上に住んでいるお金持ちのひ弱だが気の強い少女との恐ろしい関係があるのだった……。
 フランケンシュタインは、ご存じ継ぎ接ぎの人造人間であるが、少年は少女が絵にかいたフランケンシュタインに興味を持ち、自分で三日かかってフランケンの被り物を作る。そうして公園で遊ぶ子供たちをその被り物をかぶって脅かして遊ぶようになり、だんだんとそれがエスカレートしていくのだった。
 だいたいの行動が何だか異常で、はっきり言って何かのタガが外れている。そういうところが何とも面白いところではあるのだが、行きつくところは破滅しかないようにも思われる。しかしそうであったとしても、ちゃんと行き着くところまで行こうとする姿勢がみられて、そういうところが凄まじい気迫を持つ。高揚感があって、なんだかバットエンドなのに、いい話のような、妙な感慨を抱かされるのである。奇妙なものを読んでしまったということもあるのだが、こういう作家が後に埋もれて行き、死後に再評価されたのだ。そういった解説文も含めて、このホラー作品は現代によみがえったのだ。そうして僕のような人間も手に取って読んでいる。ちょっと面白い運命に加担したような、そんな気分にもなろうかというものである。
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不幸を背負った女の生涯   市子

2024-09-17 | 映画

市子/戸田彬弘監督

 長く同棲していた様子のカップルだったが、男が婚姻届けを見せてプロポーズする。女はとても嬉しそうにしていたのだが、翌日突然失踪してしまう。当然探すのだが手掛かりは見つからず、警察に届けを出すと警察も探している様子。さらに市子という名前ですらなかったことが分かる。警察はともかく、市子の過去をさぐり、関連のありそうな人々を訪ねて、市子だったはずの女性を探し求めていくのだったが……。
 なぜ市子は失踪してしまったかのミステリはある訳だが、基本的にこの不思議な運命を背負っている市子の、生い立ちから現在までを綴る物語である。そもそも子供のころから魅惑的な女で、男を手玉に取ることに長けていた。しかしながら母子家庭の上にひどく困窮していて、さらに母親が超だらしない女で、これで不良にならなければ異常だ、というような環境で育っていた。そうして男の子や男をたぶらかして生きていかざるを得ないところもあるし、仲のよくなった金持ちの女の子(とその環境)に憧れるような複雑な幼少期を送ることなどが、市子自体を形成していくことになっていった、ということになるのだろう。
 時系列が多少錯綜するような演出にもなっているが、これだけ不幸な境遇にあるということは言えるけれど、幼少期の女としての魅力のある状態と、大人になってからの、また不思議なキャラクターである魅力が、なんとなくかみ合っていない感じもする。子供の頃の、なにか力強い線のようなものが、大人になってから消えてしまっているのである。
 しかしながらこのような女性に出会ってしまった男たちはたまったものでは無く、自分の生き方そのものを変えられてしまう訳だ。まさに魔性の女なのだが、まあ事情があって表の世界では生きられない身の上になっている。周りの大人たちも悪い訳で、法律がどうだというよりも、情状酌量の余地が大きいので、表に出ても支障は無かったのではあるまいか。
 そんなことを言っても映画が成り立たなくなるのから仕方がない。僕としてはミステリとしての興味が先立って観続けているのに、なんとなく放り出されてしまったような印象も受けた。不思議だけれど魅力的な女、を描きたいのは分かるが、やはり人間どこかで努力はしなければならない。相手の善し悪しだけではダメなのである。
 でもまあ惚れた男同士の対面というのは、なるほどそうかもな、とは思ったことでした。何かの参考にはなるかもしれません。
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