プライマー/シェーン・カルース監督
ガレージで何かの装置(超伝導を使っているらしい)を開発しようとしていて、偶然タイムマシンを作ってしまう。もともと凄い発明らしい手ごたえはあったが、自分たちでも信じられない成功だ。当初はノーベル賞も夢ではないという思いもあって発表しようとも考えるのだが、装置自体を人間も入られるくらい大きな箱、要するに自分たちでタイムトラベルをやりたい欲求に負けてしまう。目的は、単純だが金儲け。未来が分かるのだから、株で大儲けできることは確実である。プランを練ってふたりだけの計画と秘密は進行していくのだが…。
タイムマシンにはさまざまなパラドクスが含まれていて、実際に存在するとさまざまな問題がどうなるか、または大きな矛盾がいくつも起こりうることが分かっている。この映画はそのようなパラドクスがいくつも起こる仕掛けになっていて、そこのあたりが最大の見所ということになっている。もっとも低予算の学生が作ったようなアイディア映画なので、そことのあたりの説明はほとんど映像ではなく台詞回しから想像するより無いのだが、携帯電話もろともタイムマシンに乗ると、電話は分身(ダブルとこの映画では言っている)になるのか自分になるのか、それとも両方か、もしくはどちらが先か、そもそも電話に出ていいのか、などと次々と考えさせられる場面が出てくる。一応ダブルには出会わないように心がけているが、しかし同じようなところをぐるぐるめぐっているわけで、ニアミスは度々起こってしまう。それどころか共同で開発した相棒がどの時間からスタートした人間か(つまり本物かダブルの方か)わからなくなってしまう。さらに部外者まで二人いるように感じられるし、そうなるとどちらかが秘密をバラしたことになり、信用問題もぐらぐらしてくる。ついには自分自身もダブルに翻弄されているかもしれないという状況にまで陥っていく。実際に起こった事件も遡って修正されることが出てきたり、今の自分の立ち位置さえ明確でないようにさえ思われていくのだった。
実のところ、見ているほうも混乱して、なんだかよく分からない状況に陥ってしまうわけだが、思い切ってパラドクスを利用してどんどん混沌とした世界を作ったことが、この映画を興味深いものにしている。一応分からないなりに成功しているとさえ思える。分身が存在しているとはいえ、行き来している自分自身はそもそも自分ひとりのはずなのである。そんな中、相手にしろ自分にしろどちらかが事故にあったら、連続して存在している自分の存在はどうなってしまうのか。書いていても訳が分からないが、とにかくそういうことに果敢にチャレンジして、一定の状況が作り出されはする。もちろんこれがパラドクスの答えなのかは誰にも分からない。何故なら実際にタイムマシンを用いて確かめる術がないからだ。しかし映画ではそのままお話は進んでしまう。そういう意味では乱暴だが、思考実験ではそれでいいのだろう。娯楽としても、低予算でありながら、それなりに採算を合わせることに成功したのではなかろうか。なんだかもやもやした思いが晴れることはないのだが、妙な映画を観てしまったという変な感動はある。さらに本当にタイムマシンが出来てしまうと、これは夢の道具以前に遥かに悪魔的な状況になることが改めて理解できるだろう。ドラえもんの世界は、とんでもなくダークなものなのかもしれないのだった。