カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

もう少し残念な方が面白い   キックアス・ジャステス・フォーエバー

2017-03-31 | 映画

キックアス・ジャステス・フォーエバー/ジェフ・ワドロウ監督

 これは続編映画。一作目で父親を殺されている悪役少年が復讐に燃えて、正義とはいえ暴力を封印されているヒロインと、いまだにヒーローにこだわっている少年団(大人も多いけど)との絡みのある戦いの物語。このシリーズの特徴として、行き過ぎたグロい暴力がありながら、子供心くすぐるオタクの高揚感が最大の売りである。それはある程度心得て続編は作られているはずなんだが、正直言ってかなり失敗している。少し大人になってカッコよさの増したヒロインのヒットガールの魅力は素直に素晴らしいが、それ以外がなんとなく使えてない感じ。いや、そのヒロインの使い方自体も、今一つでもあるし。これはかなり残念な出来栄えというしかないだろう。まあ、オタクなら観るだろうが。
 しかし、オタクでなくても面白かったのが前作で、オタクの良さを描きながら、ちゃんと自虐の自制のコントロールが効いていたという感じもする。今回は、そういう部分の後ろめたさが、かなり後退してしまっている。そこが結局カタルシスとしての爆発を生んでいないのかもしれない。活躍しても、周りからはなんとなく冷たいというか、訳の分からない戸惑いがあった方が深みが増すはずなのに、何かそのまま表舞台に出てきてしまって、戻れなくなっている感じがある。ある程度舞台としては仕方ないのかもしれないが、もう少し地下に居てくすぶっている時間が長い方が、共感として観る分には説得力があるのではないか。正義と言えどもなんかおかしいからこそキックアスは素晴らしいのだと改めて思った。
 そういう訳で失敗作だが、まあ、失敗しててもアクション自体はそれなりに楽しめる。強力な新たな敵も生まれて、別の興味が湧くところもあるかもしれない。ダメなりに惜しい要素があるのは確かで、精査して続編に期待するより無いだろう。
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相手が悪いから自分を正当化できる歴史   戦争の日本近現代史

2017-03-30 | 読書

戦争の日本近現代史/加藤陽子著(講談社現代新書)

 副題「東大式レッスン!征韓論から太平洋戦争まで」。副題にある通り、大学での講義をもとに書き起こされたものらしい。第九講まであって、日本の近代の戦争に至った背景を探るという形をとっている。
 特に先の戦争において最終的に日本は米国と戦って敗れた訳だが、その原因としてあげられるというか、これまで一般的な教育において学んできたことは、日本の軍部の暴走があって、無謀な戦争に突入していったのだとするものがある。それは確かに短絡化してそのようなことではあるとは思うが、もちろんそのような結論に至るまでには、さまざま思惑や背景が重なり合って、今となっては不合理に思える結論に至ったとしても、当時としてはそれなりに合理的な判断をしたうえで、そのような結論に至ったのだということがあるはずである。その合理的と思われる道筋を追うことは容易ではないけれど、試みとしては不可能ではない。まさにそのことを試みた歴史のひも解きが、この本の内容である。
 もちろんそういう流れを紐解いたとしても、合理的に先の戦争を正当化するために行うという意味では無い。歴史の意味を読むときに、人々は安易にそのような考えに陥ってしまう。そういう意味では多少危険な匂いのする題材ではあるのだけれど、もちろん知らないでいるより知っている方が数段生きていくうえで有用である。さらに今後の日本の戦争回避ということを考える上でも、避けて通れない歴史の読み方であろう。
 また当時の世界情勢からしても、やはりその列強や地政学的な日本の立ち位置からすると、特殊だったとする考えもあるだろう。もちろんそういう時代と現在は違うと言えば違う。しかし日本の危うい立ち位置というのは、現代においてもそれなりに危うい地雷原は存在する。特に地政学的なことを考えると、国土が移動するわけではなく、やはり同じような危険は変わらず存在しているように見える。日本が日本の正当性を限りなく追及していくと、要するに周りの国々の方が、限りなく悪くなるということは言える。現実にそのように考えている大衆は存在するはずで、日本が不当に不条理な条件に陥っているという見方の出来る世界情勢は多々存在している。特に近代史の中では、日本はそのように強く考えて、戦争に踏み切った事実があるのだ。当時のソ連と今のロシヤの驚異は、日本の北側に変わらず存在し、朝鮮半島や中国の動きは、ダイレクトに日本列島に影響を及ぼす。さらに当時米国と貿易上良好だったにもかかわらず、米国国内の人種差別的な法の在り方に国連で反対する日本の姿ということがあって、結果的に長期にわたって米国を脅威とする世論が高まったことも、知っておくべきことのように思う。奇しくも現在のトランプ政権の在り方というのは、一方的に日本に威圧的である。これが直ぐに危機的な脅威と変貌するとは考えにくいにしても、無視できるものとは言えないだろう。
 多少読み解きが難解な部分はあるにせよ、読み物としても面白い。歴史の読み方というものは、事実を知ろうとすればするほど、現代の一方的な考えが邪魔をする。そういうバランス感覚を磨くためにも、読んでおくべき入門書ではなかろうか。
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複雑に糸が絡んでほぐれなくてもそれでいい   ハッシュ!

2017-03-29 | 映画

ハッシュ!/橋口亮輔監督

 ゲイのカップルに、ひょんなことから知り合いになった男性遍歴のだらしない女・朝子が、子供が欲しいという理由で近づいてくる。直也の方は、ゲイであることを隠してもいないしある意味でそういう一生を送る覚悟を決めている。一方パートナーの勝浩は、父親という立場でも気持ちが揺らぐし(基本的に人が良い)、会社の若い女性からも横恋慕されている。ゲイである自分に割り切れなさを感じているんだろう。そこに何か気持ちは荒れているが、子供が欲しいという朝子という女が絡んできたので、横恋慕女が激情して興信所に関係を調べさせ、お互いの家族に暴露してしまう。そこでこの家族らがこれらの複雑に見える関係に割り込んでいろいろ意見を言うので、さらにごちゃごちゃと混乱が深まって収集がつかなくなっていくように見えるのだった。
 基本的にはゲイのカップルがささやかながら平和に暮らしているところに女が絡んできた所為でおかしくなるのだが、結果的に家族の在り方や、大人の事情のあやふやさ、整理できない感情の問題などが、いろんな形で浮き上がってくる。大変だが、単にコメディとして笑いのために調理されている訳でなく、おかしくもありながら、実に考えさせられる内容になっている。観終わっても余韻が続いて、もっとゴタゴタやってもらっても良かったかもな、とさえ思った。尺が長くなりすぎて失敗しただろうけど。
 ゲイでは無くても家族を作る葛藤に押しつぶされるように生活している人もいるし、結局理解しているのかしていないのか最後まで分からない人はいるし、暴力的に混ぜまわして復讐しか頭にない人もいる。何か心に傷があったのかもしれないが、好きでもない男とはセックスしてしまう朝子であっても、本当はちゃんと向き合う相手が欲しいということなのかもしれない。でも相手がゲイなんだから、願望はやはりストレートにはいかない訳だ。
 変な映画と敬遠するには惜しい映画だと思う。実際普通にいい映画としての評価も高い。少し古くはなっているが、役者さんたちの若い姿を見るだけでも、ずいぶん楽しい映画ではなかろうか。
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親切な先輩にご用心

2017-03-28 | culture

 年度末である。来年度の事業計画も予算も決まったことだし、とりあえずはホッと一息という感じであるはずなんだけど、だからといって4月が暇という訳では無い。やっぱり新しく人が入れ替わったり引継ぎがあったりして、あわただしさが始まるということか。しかしまあ、4月というのは、新鮮な感じというのがあって、多少は慣れてないからいいんだもんね、というような、甘えていいような空気が突然始まる。新たに何かする人には緊張感があるんだろうけれど、受け入れる側の方には、少し緩いような心構えが必要な気もする。相手はいろいろ覚えなければならない。知っている側がある程度は配慮して、見守っているという感じだろうか。
 しかしながらこの機会に乗じて、やたらと先輩風を吹かせて、新人に対して自分のポジションを上げるような動きをするという人もいる。これがまた厄介で、親切心なのか、新たなデビューなのか知らないけれど、少なからず害毒があるようにも思う。新人さんたちはいろいろ不安だし、やはり積極的にいろいろ教えてくれる人はありがたくも思うだろうし、多少不可解な動きをする人であっても、なかなか本質を見抜いて理解することは困難だ。それで騙されるということでは無いかもしれないが、その人を中心に言うことを聞いてしまうようになったりして、どうもちぐはぐな新ルールが出来たりして、後で困る。この修正が夏前くらいから始まるのだが、その前に新人さんは軽くその洗礼にショックを受けている。下手をするとその痛手を引きずったまま立ち直れないという人もいるかもしれない。先輩ヅラの害毒の人も既に立場は失墜している。そういう人は静かに退場することも無く、姑息にも生き残っている訳で(だから毎年同じようなことを繰り返すことになるのだが)、でもまあ、実際にはたいしたことが無い人ではあるから、気にしないようにしたらいいのだけれど、新人さんとしたら、そうもいかないのかもしれない。
 要するに新年度でいくらか注意が必要なのは、新人さんに憑りつく人を、いかに注意深く排除することかもしれない。それくらいは洗礼に必要だと侮っていると、のちの損失はそれなりに大きくなってしまいかねない。
 そんなことを思いつつも、それなりのスタートダッシュも必要かなと、ついつい頑張ってしまうのも良くない。緩やかに背後について展開を読むくらいでいいんではないでしょうか。
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ひたすら下品ですんません   ヘイトフル・エイト

2017-03-27 | 映画

ヘイトフル・エイト/クエンティン・タランティーノ監督

 賞金稼ぎを含む怪しく訳ありな8人が、吹雪の雪山に閉じ込められる中で、お互いに疑心暗鬼になりながら殺し合いをしていく作品。とにかく善人らしき人というのはその中には居ないようで、それぞれ人殺しについては躊躇がなさそうだ。妙な緊張感が持続し、ひたすら下品で清潔感が無く、スプラッター映画のように大量の血が流れる。
 まあ、タランティーノ作品だから仕方ないな、とあきれる作品。こんなのを喜びながら作っているというオタクぶりに付き合わされる訳だが、そういうのがつまらない訳では無くて、ちょっと面白くはあるがやりすぎだよな、と思う訳だ。しかし彼は遠慮というのはあんまり知らないらしくて、本当に好き勝手にやっている。内容的にもう少し短くしても何の問題もなさそうだけど、そういうことをあえてダラダラの雰囲気でやってしまうのが、もっとも彼らしい人の悪さだろう。
 恐らくさまざまな映画のオマージュにもなっているらしい。それらしいとは思うが、全部は分からない。そういうオタクが先ずは喜んで観ていることだろう。さらにそれぞれに個性的な役者が、ほんとにそこまでやっていいのか、というような演技や科白を吐く。彼らもそういう場面を見返して、恐らく悪ガキたちとビールでも飲んで、クックックと下品に笑っているに違いないという感じもする。そういう仲間内の楽しみを、一般の観客にも分けてやるというようなつくりなのかもしれない。
 さらに現代では最もタブーとされているような人種的な差別や偏見が、これでもかというようにてんこ盛りである。そういう時代はそういうものだ、ということでは無く、やはり現代人にもホントはそういうものがまだあるんだろう? ということを思い出させて苦笑させるのを狙っているに違いない。時にはツボにはまって喝采したいが、しかし表面的はそれが出来ない。そういう重層的に笑えないジョークをちりばめている映画でもあると思う。人が悪い訳だが、人間の本質なんてそんなものだ、ということをタランティーノは言いたいのではないか。だって自分はそうだもんね、ということだろう。でも断っておくが、タランティーノは自らマイノリティ達とは親密な付き合いがあるに違いない。そういう上で、面白いものは面白いと言っているのだろう。
 とにかく変で下品な映画だが、そういう訳で面白いということである。だから面白くない人には単にくだらない映画だ。そういう表面的に素直な人は、最初から手に取るべきでは無い作品であろう。
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物言いは確認でもすべきだ

2017-03-26 | 境界線

 スポーツの審判というのは難しいと思う。一瞬の判断で動いているものを見極めることはそもそも難しい。そういう前提が先にあるのだが、しかしその判定の重さゆえに、ミスというものが、長く尾を引くようにも見える。特に現代は、映像での記録がある。これを再生することも可能なので、場合によっては明らかなミスが後代に残る。多くのスポーツが試合を止めてビデオ判定をするようになっている。そのようにして重大なミスを少なくする努力はなされている。しかしさらに問題は、そうであっても、その機会を使わないミス・ジャッジというのが、結局残っているように見えることかもしれない。
 それというのも、3月25日の蒼国来と豪風との取り組みで、蒼国来の足が出たとして審判の一人が手を挙げ、勝負が決まったのを見た所為かもしれない。そのまま物言いも無く、ビデオでの確認も無く勝敗は決まったが、テレビを見ている側としては、どうしても出ているようには見えない。俵の上で親指は踏みとどまっている。角度を変えた映像では、土俵脇の力士の髷ではっきり確認が難しかったものの、やはり出ていない。本人も出ていないという認識だったようで、納得はいっていない様子であった。後の俵の周りの土の状態を見ても、やはり出た後は認められない。完全に正確にまったく間違いないとは言えないまでも、なぜビデオで確認しないのだろう。過去には豪栄道と日馬富士取り組みで、日馬富士の足が出ているというのがビデオで誤審とされ取り直しとされた例がある。そのまま勝負がついたとしても、やはり確認は必要だと思う。何のための物言いで、また、何のための審判団なのだろうか。さらに判定で手を挙げた親方である田子の浦は、ただでさえ稀勢の里の怪我で動揺している様子のまま審判を務めていた。だから間違ったということにはならないにせよ、そういう巡り会わせで誤審をしてしまった可能性もあるように見える。本人は出ていたと見えたとしても、他の審判が確認する必要はあるだろう。こういうのが何より制度を利用しない残念さという気がする。ルールというのは使わない限り意味を持たない。ビデオ判定をしている側の審判の補助側からも、物言いをつけられるような制度設定が必要なのではないだろうか。
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火星移住計画

2017-03-26 | Science & nature

 SFの世界の話ではなく、実際に火星に移住する方法があるという。ただし地球と火星の環境の違いは大きく、人間が住むためにはそれなりの歳月をかけて、火星の環境を変える必要があるらしい。その方法をテラフォーミングという。
 火星は比較的地球に近く移動が簡単とはいっても時間がかかる。行くのに3カ月以上、帰るのに1年。時間差があるのは、地球も火星も太陽の周りをまわっているので相対的な距離が変わる事、季節の関係等いろいろあるんだそうだ。また移動中宇宙線を浴びることも人間には負担になるという。細かく言うとさらにいろいろ問題はあるが、ともかく火星の環境に絞ろう。
 とりあえず宇宙ステーションのような場所を火星に作るにせよ、人間はそこでしか住めない。それなら火星の環境を変えてしまった方がいいということのようだ。
 火星には人間が呼吸できるような濃い大気が無いので、まずはメタンなどを散布して火星を温暖化させる。そうすると火星の地下に眠っている氷が解けて海のようなことになり、雲が出来て雨が降るような環境が出来る。さらに二酸化炭素などが溶け出して温暖化が加速する。
 同時に火星に磁場を作る必要もあるらしい。火星の北極と南極に人工的な電磁場コイルを作り、出来た大気を太陽風から守り、宇宙線などもできる限り遮断する必要もあるらしい。地球は自然にそういう磁場があって、人間は守られているということなんだそうだ。
 映画なんかでもやっていたが、微生物を持ち込こんで植物が育つ栄養素なども作り出す必要があるそうだ。できる限り地球のような環境に近づけて、第二の地球にしなくてはならない。結局人間は、地球の環境で無いと住むには難しい。だから、住むためには地球化させるより無いのだ。
 ところでこの計画の途中で、火星由来の生命が発見された場合は、直ちに計画は中止されるのだそうだ。こういうのは火星の生物の先住権があるという人間的な考え方かもしれない。しかしながら火星独自の生命であれば、その命は尊重されるべきではあろう。その時に人類に危機的な状況で地球に住めなくなったという条件が無い限り、守られるべきルールかもしれない。
 何年先の話かは、分からない。100年後にはそうなっているという大胆な予想もあるそうだ。まあ、いずれにせよ、僕の寿命では確認は出来ない。そういう意味では現時点で、その予想は実現可能なのかもしれない。
 ところで、そういう火星に住みたいかと問われたら、どうなんだろう。夢の実現に為には様々な苦難が伴うが、夢を破壊する想像は、あんがいありふれているかもしれない。可能性の夢の前には、楽観的に、物事は現実的に考えすぎない配慮が必要なのであろう。
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未来からのアドバイス   orengeオレンジ

2017-03-25 | 映画

orengeオレンジ/橋本光次郎監督

 始業式前の登校中、桜並木に見とれていると、10年後の自分から手紙が届いた。内容は転校してくる翔という男の子のこと。10年後の自分は様々な後悔を抱えており、それは翔に対するものだった。結果的に自殺に追い込まれていった同級生の男の子の命を救うために、過去の自分は何をすべきだったのか。要するに今の自分は何をすることになるのか?
 設定がSF作品とはいえるが、青春のシャイな心の葛藤をえがいた作品として悪くない。多少主人公の青年はしっかりしてなくて脆すぎる感じがするが、それがある意味で病的な死に陥りやすい性格ということになるんだろうか。友人たちを巻き込んで、後悔無い思いを伝え合い、自分自身を形成していく成長物語でもある。未来は自分の行いによってパラレルに分かれていくものであって、決定されている運命をなぞっている訳では無い。そのようなメッセージも込められていて、悪くない出来だろう。
 しかしながら個人的に思うのは、やはり親友である須和のことである。先にある未来では、菜穂と一緒になって子供もある。しかし菜穂が本当に好きだった翔との恋愛を、いまだに応援していることになる。ちょっといい奴過ぎるし、悲しすぎるのではないか。結局ある意味では自分への破壊行為でもある。変わらない未来においてそれで生きていて、自分が分裂しないのだろうか。
 学校生活がこんな感じだった経験が乏しくてよく分からないところが多かったけれど、少女マンガ的に学校を俯瞰すると、こういう世界もあるのかもしれない、と思った。だから学生時代はいつまでも楽しいような記憶のある人がそれなりに多いのだろう。まあ、多少割り引いても、若いというのは楽しそうではあるんだけどね。切ない季節は思いのたけをおしこめないで、表に出して生きていきましょう。何しろ人生は短いのだから。
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偉くなってロクでもない人間にならないために

2017-03-24 | ことば

 落語は好きで時々聞くが、落語界に対していいとばかり思っている訳では無い。例えば東京の落語家が真打になると「師匠」と呼ばれる。それそのものはいいのだが、それが業界外に聞こえてくると、なんとなく恰好が悪いのではないか。業界の風習だから自分らで何とかするよう考えるべき問題であると思う。特に業界以外の人間が、これを真似て「師匠」という言葉を使うのが良くないのである。近頃は芸人が司会を務めている番組も多いので、その人が業界にならっている場合なら仕方がない。しかし一緒にいる局のアナウンサーなら、業界外の人なのだから、さん付けにした方が自然だろう。医師がテレビに出ている時は、テレビは普通にさん付けを採用しているように見えるので、出来ないことは無かろう。楽屋内の様子でそのような言葉遣いが飛ぶのは分からないではないが、楽屋から普通の芸能世界に移ったのなら、常識が変化して当然ではなかろうか。
 漫画家も、業界的には先生と呼ばれる存在であるらしい。漫画雑誌には、作家はすべて丁寧に先生として呼ばれている。だから雑誌だけでなく、表のレポートを受ける場面などにおいても、漫画家は普通に先生として敬称が消えないまま出てくるというのが多い。編集者などは飯の種の人だからそのように呼んでいるのだろうと思うが、漫画家を志さない多くの一般人が、漫画家を先生として対峙している姿は、やはり無理があるだろう。これは当然使い分けが必要で、今は混在して必ずしもうまくいっていない現場があるにせよ、もう少し整理し直して紹介できる場を提供していく努力が必要なのではあるまいか。先生と呼ばせているヤクザな世界を、あまり表に出さない方が健全である。
 外食などに行くと、もう完全に「様」付けが定着してしまった。これは本当に残念なことだと思う。お客様は神様だったことは歴史上一度も無い。人間は得体のしれないものにはなれない。もちろん人間でも様付されるような偉い人はおられるのだろうけれど、相対的に頻繁に様にのし上がるのはどうしたものか。さん付けで呼んでくれるような店が増えると、精神的にはずいぶんハッピーなんだけどな、と思うのだけど。
 ということで、あんまり予約は取らずふらりと寄っても空いてるような、流行らないところを探して歩くより無いのかもしれません。
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バカばかりでドタバタ作品   マッド・マックス~怒りのデス・ロード~

2017-03-23 | 映画

マッド・マックス~怒りのデス・ロード~/ジョージ・ミラー監督

 シリーズの3作目ということになるはずだが、しかし内容的にはあんまり関係ない感じもした。メル・ギブソンじゃなきゃ嫌だということでは無いが、ちょっと別物作品だろう。近未来の砂漠のような場所で、何故か車だけはギンギンに走るというファンタジー映画である。もともと漫画チックな作品だけれど(これが日本の漫画だと「北斗の拳」になるわけだ)そのマンガ度が格段に上がって、ただのアクション・ギャグ作品になったと思う。しかしあまりにもバカバカしいので、ちょっと笑うに笑えない感じではあったが。でもまあ、これだけ馬鹿な人たちがたくさん出ると、それなりに味が出るのも間違いはない。ひどい作品だが、それなりに面白い。何にも残るものは無いけど。
 いちおうストーリーはあるが、特になくてもいい作品かもしれない。最初からずっと車で走りっぱなしで、おどろおどろしくて、汚い。女の人たちはずっと半裸で、やはりあまり賢くない。でも男たちがさらにものすごくバカばかりなので、少しくらいはまともに見えたりはする。人間って未来になるとこれくらい馬鹿になるんだろうか。それでは猿に負けるはずだ(違う映画だが)。
 思うに今までのマッド・マックスは、乾いて残酷で、さらにちょっと変で、それが世界中の人を熱狂させる魅力になっていた。しかし今回は、なんとなくウェットなのである。ちょっと人情味のようなものさえある。いや、そういうのがあってもいいけど、正義だけど非道であるというのがいいので、だからマッドでよかったのだ。これでは何か不能な特殊人のような感じもして、結局何かよく分からないのだ。人というのはいろいろ居ていいが、やはりこれはちょっとあり得ない人物像という気がする。解決策も良くないし、やはり結果的に都合が良すぎる。そういうカタルシスが足りないのが、いけなかったかもしれない。
 それにしても日本人がこんな映画作ったら、たぶんやっぱり人種的に知能が足りないと思われるんじゃなかろうか。西洋人というのは(これも偏見かもしれないが)、バカでも生きてていいという特権があるのかもしれない。
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JKがおしゃれで軽薄な訳

2017-03-22 | culture

 ジャミロクワイのJK(ジェイソン・ケイ)さんは、おしゃれでも有名だが、地元英国ではおしゃれ過ぎて軽薄だと批判されているという。日本だと叶姉妹みたいなものかな。やっぱり違うか。でもまあ、ブランド物に身を包んでかっこつけてる人というのは、軽薄というのはもちろんだが、あんまり尊敬されないだろうとは思う。特に嫉妬を集めるというよりは、傲慢さがにじむような感じがあるからかもしれない。
 さらにJKさんは、フェラーリやカウンタックという車のコレクションをたくさん持っていることでも有名であるらしい。ものすごくたくさん持っているという話だった。日本だと所ジョージさんみたいなものかな。違うかな。そういうことでは羨ましい金持ちだが、問題は、彼は熱心な環境保護運動家でもあるということである。要するに矛盾しているわけだ。ガソリンをガンガン食う車に乗って環境保護を訴えても、確かに説得力はない。
 しかしながら、僕はそういう矛盾のある人間は割と好きである。まあ、褒められたものではないのは分かるが、人間臭いというか。環境問題に真剣でなくとも、それが売れることの背景にもなるだろうし、それで金持ちになって、好きな車をコレクションできて乗り回せるのだ。そういうかっこ悪さがわからないまでも、そうしなければならない嗜好性から逃げられない。有名人だから批判されちゃうし、実際かっこ悪いけど、まあ、どのみち金は有り余ってるだろうし、高い車を買える現世を楽しんだ方がいいだろう。
 でもまあ、彼のそのような泥臭さというのが、かえっておしゃれな音楽を作る原動力になっているのかもしれないと思う。素直な自分の立ち位置から見える風景として、かっこよさがよく分かるというのがあるんじゃないか。
 結局大衆性というのはそういうことじゃないかと思うんだが、やっぱり違うかな。
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ペコロスとは小さい玉ねぎのことらしい   ペコロスの母に会いに行く

2017-03-21 | 映画

ペコロスの母に会いに行く/森崎東監督

 原作は漫画。長崎が舞台だったこともあり、公開時はかなり話題になった記憶がある。作者の講演会なんかも結構あった。僕は何故か、それらは全部見られなかった。
 母が認知症になったらしく、勤め人で息子が学生で、日中での自宅介護が難しくなる。その後グループホームに預けるが、日に日に息子である自分のことが分からなくなるし、母の若いころの記憶との混同が、幻覚のように始まるのだった。
 基本的にはコメディ・タッチになっていて、認知症が進むとこんなことが困るのか、ということが見て取れる。時には悲惨な感じのエピソードもあるが、やはりそこはコメディとして軽くして受け止めやすくしているということだろうか。基本的に母はいい人で、そのために困ったことにもなったりするということと、やはり若いころにそれなりに苦労もしていて、気になっていた友人との関係なども含めて、幻覚のようなつきあいが、今も続いているという感じになっている。現実とは当然違うが、しかし認知症だからこそ、また周りがそれなりに理解しているからこそ、そういう振る舞いがありながら、悲壮なだけの話にならない。そういう意味ではファンタジーかもしれないが、家族にはいろいろな事情もあるし、介護している側にだってそれなりに年を取っていくし、そういうあり方の一つとしては、多くの人の共感を生んだ作品と言えるだろう。遅ればせながら観て、なるほどな、と思いました。
 僕は長崎市では無い長崎の人間だが、改めて長崎の暮らしというのは坂が大変そうだし、まだまだ人情味が残っていて土地柄もなんとなくいい加減でいいのかもしれないな、と感じる。よその町だと、たぶんこんな感じとは違ったものになったかもしれない。しかしまあ、他の長崎の地区と比べると、やはり本当には田舎ではないので、人間関係はそれなりにさらりとしている。映画としては、そのあたりを上手く削ったのかもしれないが。
 長生きする人が、みんな認知症になるわけではないけれど、そういうことを含んだものが、介護として当然になっていくような気もする。体験した人もそうでない人も、やはりそのあたりが一番興味のあるところではないか。切り口がいろいろあっていいと思うが、ある意味ではこのような捉え方の出来る人でないと、やはり人間関係は楽しくないのではあるまいか。単なる性格というだけでなく、考えさせられることである。
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培養技術とハンバーガー

2017-03-20 | 

 英国で培養肉のハンバーガーが作られて話題になったことがある。牛の細胞を培養させる技術が確立されたということらしい。ただしその時のハンバーガーの原価は、研究開発費を換算させると一個で3500万円程になったという。しかしながら培養技術は進み、市場に出すにはあと10年ほど必要と見積もられている。要するに将来性は十分であるということか。
 味の方は、脂肪分が少なくヘルシーであるという。牛の苦痛も減らせるし、ベジタリアンでも食べていい肉になるかもしれない(言葉としては変だけれど)。
 しかしながら食指が伸びない気分になるのは、やはり人工培養というニュアンスだろう。でもまあ慣れの問題だから、将来の人は普通に食べるようになるかもしれないが。
 ところでこれで思い出したのは、ミミズ肉バーガーかもしれない。大手ハンバーガー肉に関しては、歴史上繰り返しそういう得体のしれない肉が使われている疑惑、というようなものが流される。実は完全なデマであるのは、やはり繰り返し検証されて明らかなのだが、面白いのか、人々に訴える力が強いのか、似たような話は本当に繰り返されて現在に至っている。人間って本当に汚い精神性を持っているものだとつくづく思う。有名なのはホットドックで、犬の肉を使っているというデマを逆手にとって評判になった。しかし大手のマックは、ビーフ100%を繰り返し宣伝しても、やっぱりミミズ肉と言われてしまう。いったい誰に恨みを売ったというのだろうか。
 もっとも僕が高校生の時(既に30年以上前だ!)、友人がマックの厨房でミミズ肉を見たという話をしているのを聞いたことがある。その時の僕もかなり驚いて、ちょっとの間だけ信じたかもしれない。でも僕も他の外食産業でアルバイトしていて、だいたいの実態は知っていたから、企業がそのような肉を使うリスクの方がはるかに大きいことを考えると、普通の高校生でも現実的でないことくらいには、考えが至ることになる。それに実際に使ってないし。
 でもまあ、科学の進歩がミミズ肉を可能にするのなら、それもまたいいじゃないですか。特に進歩的な人間観として言っている訳じゃなく、まじめに働く人を蔑んで妨害する精神性より、よっぽど健全だと思うからだけど。
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奇跡は再現が難しい   ハドソン川の奇跡

2017-03-19 | 映画

ハドソン川の奇跡/クイント・イーストウッド監督

 離陸直後に鳥の群れに突入してしまい、エンジンが停止。引き返して着陸せざるを得なくなるが、それも間に合わないと判断。仕方なくハドソン川に胴体着陸をすることになる。有名な事件だから結論は皆知っているが、見事着陸を成功させることができたことと、その後の救出が奇跡的に早かったために、真冬のニューヨークでのことながら、乗客155人すべて無事であったという物語。当然ながらパイロットは一躍英雄視されることになる。ところが事故を検証すると、パイロットの判断は誤っており、かえって乗客を危険に巻き込んだのではないかという疑惑が持ち上がって…。
 プロ意識が高く自信もあるベテラン・パイロットが、自ら信じた判断を疑われながら、時の人となって戸惑い悩む日々を坦々と描いている。事件そのものを追うドキュメンタリーのような側面もあるが、事件の正当性を明らかにするサスペンスが基調である。調べる方も仕事だが、何か最初から機長に疑いの目を向けているようにも感じる。そのことに傷つきながらも、潔白をどのように証明したらいいのだろうか。
 あまりにも有名な話なので、大方の筋は誰でも知っているはずだ。僕は事前に種類の違うドキュメンタリーを2つ以上は観たようにも思う。ニュースでも繰り返し詳細の報道があったはずだ。当然米国では凄まじく話題になっただろうが、そういう題材を、また映画でどのように料理するのか。これは、制作側としてはそれなりに難しい作業だったのではあるまいか。役者が演じているのは当然だが、モデルの人はちゃんと生きて有名だ。誰がどのような行動をとったというようなことも詳しく報道されていたはずで、それをいったい誰がどのように演じるのかというのも、ほとんどの人は知っていたのではあるまいか。
 しかしながら、これがなかなか見られる作品になっている。正直言って緊張感が途切れないし、ドキュメンタリーでは分からない映画としてのリアリティのようなものがある。映画だから作り物でいいのだが、あんがい本物の人物より映画の人物像の方がそれらしく思う人も多いのではないか。そうして改めてこの奇跡的な事故に、これらの人たちが立ち会ったからこそ、奇跡として成り立ったのだということがよく分かる。運というのは、そこで何かをやるべき人が揃わなければ、成り立たないことなのかもしれない。
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ものすごく今さらの話

2017-03-18 | net & 社会

 流行っている時は特にどうでもいいかなと思っていたのは「ピコ太郎」。最初に知ったのはSNSで上げている人がいるのを見たというのがある。11月頭頃だったろうか。もうだいぶ流行っていたらしく、それからは激しく露出しだした。僕の知っていることが多くの人の共通項であることは少ない。これは相当だな、という感触はわかった。
 正直なところ僕は素直に面白いと思った派である。実は日本人だとは思ってなくて、勝手に香港あたりの人だろうと思っていた。日本人だと聞いて、なんでだろう? と感じた。なんとなく日本的なセンスだと思ってなかったのかもしれない。でもまあ考えてみるとthis is a pen. なんて感覚は、きわめて日本的なんだが。
 で、これは一発芸で流行だから一時期ではあるのだが、海外でも広がっているというか、むしろ逆輸入っぽく日本に影響があるらしいというのも変だった。真似したくなるのは分かるが、そのセンスがやはり範囲内というか、むしろ感覚的に狭いという感じもする。あんまり変えるとオリジナルが分からなくなるというのはあるが、けっこう踏襲具合が外れすぎてない感じもする。これは素直に凄いことかもしれない。
 背景は知っている人も多いだろうから端折るけれど、ジャスティン・ビーバーがツイートしたから火が着いたとか、ピコ太郎自体が音楽家として優れていた土台があるとか、やはり流行る前段階からずいぶん計算されていたことだとも言われている。今や何でもアリという感じもしないではないが、それなりに元から凄かったのかもしれない。
 でもまあさすがに年末年始の飲み会の宴会芸ではこればっかりで、かなり食傷気味であったのは確かだ。頑張っておられるのに水を差して悪いけれど、ドンキホーテが儲かって仕方なかったのではあるまいか。
 さて、僕が一番不思議に感じたのは、やはりこれに反発を覚える一団が少なからずいたことかもしれない。食傷でそういうことなら理解できるのだが、これの面白さが分からないために顔をしかめるような人が、それなりに多かった。年を取って若者のことが分からないという人もいたけど、若いけどこんなのが流行って恥ずかしいという話も聞いた。何か気に障る要素が、ピコ太郎にあったのだろうか。もともとなんだか分からない破壊の言葉遊びの動画なんだけど、その破壊の方向が、一部の人々の気に障るものだったということだろう。ふざけていると言えばそんな感じだし、曲がくだらないと言えばそうかもしれないし、そもそも一緒に面白いと思わなければならない空気が嫌だというのもあるかもしれない。そういう気分のようなものは、僕もそれなりにひねくれているので分からないものでは無い。爆発的に流行っているから、どうしても無視できない腹立たしさもあるかもしれない。
 しかしながら基本的には、分からないという気持ちの行き場の共感を求めているようなものも感じた。分からない人で連携したいような、そういう叫びの方向性を感じたのである。それは流されない自分の立ち位置というものを、やはり確認したい欲求のようなものとも考えることもできるかもしれない。馬鹿にしながらも不安にさせられるような、そういうインパクトがあったのかもしれない。
 ピコ太郎現象のようなことが起こると、一種の社会不安のようなものが同時に発生する。そういうことが、あんがい社会の面白さかな、と思う。まあ、もう違うモノで面白がりたい気まぐれの方が勝るのだけれど。
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