カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

イメージとしてのラーメン屋

2024-12-25 | 時事

 食べることと言えば、ラーメン談義になることはよくある。しかしこれは、分類して語らないことには、なかなかに難しい。一緒くたにできない問題がたくさんあるように思う。そんなに難しく考える必要などないのは分かっているのだが、そもそも単純な問題ではないのだ。
 ふつうは時系列に語る方法があるのだが、一旦それは無視する。僕は意識的にラーメンからは距離を置いていて、今は特に重要ではなくなってはいる。それで客観視できるまでになったとは思うのだが、だからと言って複雑な糸をほぐせるほどには無い訳だ。ただ単に思いつくことどもを、ラーメンとして語るよりない。
 僕が何となく考えるラーメンは、寅さんが駅前の時間つぶしの腹ごしらえに食べているようなものが、イメージ的にはスタンダードなのだ。しかし、実際に僕がそんなことをしていたのか、というのは、体験上少ない。京都の駅前には有名なラーメン屋があって、そこではそんなまねごとをしたことはあるが、しかし大変な繁盛店であり、落ち着かないものだった。黒いスープに味の方はあんがい飽きのこない風味があって意外な感じだが、若いまち京都という感じもして、なるほどと感心した。朝から別の店でもラーメンを食べていて、そこでは少し強烈さも感じたので、駅前のラーメンと言えば、なんとなく京都なのである。もうしばらく行く機会はなさそうだけれど。
 東京のラーメンは、東京のラーメンと言ってしまっていいほどには典型的ではなくなっている。それこそ寅さんの駅前ラーメンではないが、ふつうなら関東なので、醤油味のメンマとチャーシューという感じだったはずなのだが、あんがいそんな感じのものこそ、懐かしく少なくなってきている。東京に行ったのに、九州の豚骨というのは結構あるものだし、学生のための二郎系というのだって、慶応大学前だけでなく、今はほとんどの駅前にある。全国区のものがあるとはいえ、そういうところはものすごい行列で、昼時なら探さなくても目に付く。並んでいる人数でげんなりして、もちろん並ぶことまではしない。だからあんがい、東京ラーメンは知らないままなのかもしれない。
 長崎はラーメン文化では無いとされるが、僕の生きているスパンで考えると、それなりに前からラーメン屋くらいはある。もっとも、多くのラーメン屋では、ちゃんぽんも食べられるものだった。近年はそれこそラーメンだけの専門店の方が増えたが、チェーンだったり、いろいろ事情がありそうだ。地元のラーメン屋というのは当然あって、僕だって小学生のころからなじみがある。いわばそれがスタンダードなのかもしれないが、おいしいけれど長崎のラーメン屋としては、少し変わっている味でもある。その後いろいろなラーメン店ができて、生き残っているものもあるし、消えたところもある。ラーメンというのは、実際に工夫して作るようになると、原価がそれなりにするという事らしく、ぼちぼちやっていたのでは、経営が厳しくなってしまうという(逆に原価の低い店もないではないのだが、いちおう流行りを狙うラーメン店のことである)。いつもお客さんが来てくれるような店でなければ、簡単に淘汰されてしまうのだ。まあ飲食店というのは、なんであってもそういうものではあるのだろうが。
 なんとなく周辺のことを言っていたら、ラーメンの何の話をしようかというのを忘れてしまった。また、思い出したら考えてみます。
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野犬が増えても、場所によって違う結果に

2024-12-01 | 時事

 野良犬、野犬が増えているのだという。犬はそれなりにかしこいので、なかなか捕まえにくい。捕まえられたとしても殺処分を減らす方向に行政は舵を取っていて、保護した犬が増えすぎている。譲渡会などは活発に開かれていて、それなりに浸透しているが、譲渡されにくい犬がいて、一定数は必ず残る。しかるべき時期を過ぎると殺処分せざるを得ない。犬を飼っている(猫もだが)数自体が増えていて、おそらく捨て犬もそれなりに多くなっている。育てられなくなって棄てるとか、子犬の時から捨てられて野生化した犬も相当いるようだ。長い間飼われていない犬は人間不信に陥っているものが多く、なつかないし、訓練もしにくい。まさに悪循環である。
 また、捨て犬に餌をやっている一定数の人々がいて、行政や保護団体と対立している。餌をやっている人々は、基本的には善行の塊の精神で行っていて、犬の命を助けない限りどうにもならない現状を嘆いているに過ぎない。しかし被害を助長しているだけの行為な訳で、その溝は深い。野犬が増えると、噛まれる人が出るなど、実際の被害が出る。ものが壊されたり、なにか取られることもある。犬たちは生きるために必死で、しかし本当に山奥などで人間に接しない環境では、生きられない。しかし野生化した犬は、伝染病などの媒介とも関係が無いとは言えないのである。
 そういう訳で対立している構図があった訳だが、ある自治体では、エサやりをしている人々に呼び掛けて、いわゆる餌付け行為を行ってもらって、野犬たちを誘導してもらい捕獲する作戦を行った。野犬たちの多くは、栄養状態が悪く、皮膚病にかかったり問題のある個体も多い。それらの状況を憂いているエサやりの人たちが、徐々に行政との対話で心を開くようになり、協力してくれるようになったのだ。そうしてこれまで困難を極めた捕獲作業が、協力して行われることになって、ずいぶん効率が良くなったというのだ。
 捕獲後の犬たちも、ボランティアを通じて散歩に連れていくなど、人間に慣れるような活動に通じていくようになる。問題の多い犬たちも、健康状態やいわゆる精神状態も改善し、飼われやすい犬に育つようになるわけだ。
 何もかもうまくいっているわけではないのだろうが、いわゆる対立の構図のままでは切り拓けなかった新たな展開である。犬のために何かをしたいという思いは、根っこのところでは同じだったのだが、結果的に対立していただけだったのだ。これは何か示唆的な出来事なのではないか。まあ、すべてがそのような運びとはならないかもしれないまでも。
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値上げはなんでも悪いことにされるが……

2024-11-23 | 時事

 郵便料金の値上げについては、さまざまな不満の声がきかれるところだ。モノの値段が上がっても気にならないくらいお金持ちになりたいものである。
 今回の値上げについては、消費税が上がった時のことを除くと30年ぶりということだ。郵便事業は赤字が続いているといわれ、国会でも何度も答弁がなされていて、ようやく値上げがなされたという経緯がある。ずいぶん前から分かっていたことではあるのだ。
 それでもまあ、30年も頑張ってきたにもかかわらずすっかり悪玉にされた郵便局なのだが、そもそもサービスが低下しているにもかかわらず値上げというタイミングも悪いのかもしれない。しかしながらそうであるならば、郵便料金はこれまで安すぎた、ということも言えるのではないか。そういう事も気になって、国際価格を調べてみると、必ずしも条件がぴったり合う訳ではないものの、郵便の封書などの料金を見ると、日本の料金は最安値であることが分かる。値上げしても、他国より抜きんでて高くなるわけでもない。
 日本は人口も多く国土もそれなりに広いので、郵便サービスの内容の比較も難しいのだが、日本の郵便は信用度も高く、比較的早く配達されていることも分かる。土日祭日配達して無いのだが、そもそも毎日配達している国なんてものは無いようで、さらに配達日を減らす動きは国際的に加速しているらしい。電子書類への移行が進む北欧はもとより、そもそも郵便物そのものの取り扱いが、国際的に激減しているのだ。今のところ赤字経営は米国・イタリア・日本くらいだけれど、収益はどこも高くはない。特に日本は、少しばかり料金をあげたくらいでは、経営は健全化しない。値上げによる取扱郵便は今後も減る見通しだし、値上げしなくても取り扱いは、荷物以外は減り続けることが予想されているのだ。
 要するに郵便事業は、どの国においても成り立ちにくくなっている現状がある。これまでよりもサービスの質は落ちてきたというものの、さらに合理化を進めて、配達日数なども限られたものになっていくのは必然的なようだ。組織力は抜きんでて大きなもので網羅されているものの、これの維持ということを考えると、大きすぎるということも考えられる。金融サービスで下支えしている事業とはいえ、単独では難しくなっているのだろう。
 ということが改めて分かった訳だが、これを機会に郵便離れが加速することにより、個人的には、いろいろ助かる思いもする。いまだにはがきで返答しなければならない案内もそれなりに多いし、要らないダイレクトメールは日々大量に届いている。紙の書類でやり取りしているものも多く、本当に不便だ。ほどんどメールなどの電子的なもので代替できているものばかりなので、郵便でのやり取りは終わりにしたらどうだろうか。書類はこっちで印刷できるので、添付してくれさえすればいいのである。さらに電子資料なら、複数の末端からも見ることができる訳で、うっかり忘れても対応ができる。なかには郵送で送ってきたものを当日もってこいという会議なんかもあるので、本当に困ったことなのである。郵便事業にとっては危機的なことは分かるのだが、事業を見直さないことには成り立たないことくらい、猫が考えても分かることだったのである。かつては紙の消費量がその国の文化度の高さを図るバロメータだったのだが、もうそんな話は聞かなくなった。あとはそういう変化が早いか遅いか、ということなのであろう。
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君子豹変す

2024-10-02 | 時事

 石破さんが首相になるとは分かってはいたものの、その前に何と解散を宣言してしまった。僕は個人的に総裁選後にはなるべく早く選挙をすべきだという考えをそもそも持ってはいたものの、(そのことにについて石破さん本人は)早期解散をするのは無責任だと批判していた選挙前の話は何だったのか? という豹変ぶりと、まともな政治家としてかじ取りを見せた(まあ、マスコミはこれを忘れているようだが、野党は当然批判している)。こういうのはメディアは結構無視するけど、むしろ石破さんの長期にわたる政権への執着も見て取れる。現実主義的に物事をとらえられる柔軟さがあるわけで、先に選挙をすべきというセオリーにちゃんと従うことが出来るような心の準備があったのだろう。総裁選選挙としては、相手との違いを見せる戦略として、早期選挙は行うべきではないと言ったに過ぎない訳だ。臨機応変に意見を変えるのは、現代の過去発言が録画されているキャンセルカルチャーには即さないが、人として生きる上だとか、まともな政治家としては大切な資質である。間違いをただすことこそ、人の生きる道なのである。
 そういう事なのであるが、人気のあるうちにいろいろ周辺のことが洗い出されることになる訳で、旧安倍派は、いったん一掃される形になった。これはまあ、表面だけしか見ていないマスコミ向けということなのだが、党内基盤の弱さでもあるわけで、なんとしてでも選挙には勝たなくてはならない。政党政治としては、政治政策そのものより重要なのは勝つことなので、その後の権力闘争においても、実権をしっかり握るためにも大切である。アジア版NATOとか、外交においての政策は、かなり警戒されているのは見て取れるし、週が明けての株価の大暴落も気になるところで、いったん財政健全化などの思惑は引っ込めるかもしれない。日本の将来にはいいことなのだが、やはり外圧や周辺圧には、屈せざるを得ないところなのだろう。もちろんそれでも僕は基本的には期待をしているわけで、地元では本人より人気のあるという奥さんにあやかって、物腰低く粘り強く頑張ってもらいたいところなのである。ほんとです。たのんます。まあ、選挙になるので大変なんだけど……。
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見守る中で、期待を込めて

2024-09-28 | 時事

 自民党総裁に石破さんが選ばれた。事実上の首相ということになり、日本は共和制ではないので、民主的な王様である(もっとも権力がある立場である)。高市さんが頑張りすぎて得票を伸ばしたことで、奇妙なバランスをとるという変な自民党の気質が現れ、奇跡的な再逆転が起こった。少なからぬ人々が仰天したのではなかろうか(投票した当人たちが)。これで選挙には弱くなったので、すぐに選挙はなくなった可能性が高いが、中・長期的には、さて、どうだろう。
 石破さんは自民党内の野党的な人だから、いわゆる王道ではない奇妙な支離滅裂な発言が多いわけだが、地元選挙では絶対に負けることのない超サラブレッドなので、これまでは自由なだけだったわけで、おそらく組織人としては豹変するだろう。読書家としても知られケチでも知られるが、実際は国民に本当のことを言えばウケないので、悩みながら発言していたとも考えられる。それが訳の分からないことを言っていた原因とも考えられないではないが、文章におこすと(いわゆる翻訳してまとめる人の作業が加わると)わからないではないことを言っていたことの痕跡もあるので、あんがいまともなことをするかもしれない。
 逆転の立役者と考えられる菅さんをはじめとする勢力が、どのようなかじ取りで人選に関与するかで、国政は面白くなるかもしれない。今回は9人もの候補者が出て論戦を繰り広げ、前哨戦として面白いだけでなく、様々なアジェンダで問題点が浮き彫りになっている。それらを細かく議論を深めるだけでも、日本の将来的には、いいものは結構あるようにも感じられる。もちろんこれまでうまくいかなかった理由があるわけで、簡単ではないのは明らかだけど、いわゆるそれなりに役者はいる訳で、派閥解体があるとはいえ、面白い人事になるかもしれない。
 当初は期待感の方が大きいので、特に自由がある。何をやっても、大きな批判よりもそれを見守る感情の方が勝るだろう。それだからまずはスタートダッシュ。魑魅魍魎たる誘惑と雑音が一斉に畳みかけるように覆いかぶさってくる中、どれだけ自分を保てるか。まあ、見守るより外にできない立場としては、頑張ってもらうより無いのではあるが……。
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最初は政治と金問題を考えたかったが……

2024-08-21 | 時事

 政治と金問題と言われるものがある。今の日本の政治のもっとも問題点とされるものなんだそうだ。僕にはその捉え方そのものがよく分からない感覚ではあるのだが、いわゆる政治不信のもっともたるものが、政治と金なのだ、と言われると、ふーんとは思う。
 それで取材がなされていたのだが、政治に金がかかるのは何か、ということで、まずは事務所経費であるということだった。地元にも事務所を置かなくてはならず、固定経費が掛かる。議員の経費だけでは賄えないということのようだ。国会議員の場合、事務所が一つとも限らない。なくせば支障が出るし、地元まわりはこまめに果たす必要がある。人と会えば経費も掛かるし、地元のものを買う必要もある(実際必要なものならできるだけ支持者から買うというのもあるようだ)。おそらくだが、そういう地道さが票につながっているという実感がありそうで、さらに陳情などの受け皿もある訳だから、事務所経費は必要だということを、この議員さんは言っているようだった。
 また当たり前だが、選挙にも金がかかるわけだ。選挙とは選挙期間だけの事ではない。政治家は選挙に負けるとただの人になるのだから、政治家である以上、選挙活動を充実して行っていることは間違いない。それが第一の仕事でもあるという本質的なことがある。やれることは、基本的にすべてやる。選挙は目に見えているだけの事では無かろう。政党の交付金のほとんども、やはり選挙に使われているというようなことも幹事長は語っていた。それがなぜ何億なのかと記者は考えているようだが、全国なのだからそれくらいはかかるのかもしれない。そういう漠然とした疑問ではなく、取材は中身だろう。
 もちろんそれではよくない、という活動をしている政治家も紹介してあった。献金は支持者から継続してもらう。一人数千円を毎月献金している人も紹介されていた。政治家を育てるためにやっているということだった。地元の報告会などは、基本はボランティアを集う。司会者も主婦とのことだった。要は、金のかからない方法はあるのだ、とこの議員さんは言いたいようだった(ちなみにこの人は野党だったようだが、ボランティアがその組織かどうかは明らかにはさせていなかった)。
 そもそも政党交付金は国民一人当たり250円支出して賄う仕組みになっている。これで特定団体や企業などの献金に頼らず、いわゆる利益誘導の無い政治が行われる、という建前ができているわけだ。もちろんこれで小さな政党がたくさんできた時期もあったのだが、小選挙区と比例という選挙制度もあって(中選挙ではなく、与野党なれ合いの55年体制が崩れたわけだ)、結局は小さい政党で選挙を戦うことも、その後連立などで政権与党に加わることも難しくなった。自民党は自ら派閥解体をした時期もあったが、結局は勉強会などで集まらざるを得なくなり、なし崩し的に派閥は再復活した経緯もある。今回もいちおう派閥解散をしているけれど、まとまりのないところに権力闘争は具体化しづらいので、さて、それで政治運動がもつものかは疑問が多い。政治と金問題というが、そういう具体的な仕組みをどうしたらいいのかが未解決なので、うまく行かない方が自然なのではなかろうか。
  自民党が金集めをやめないのは、皆が金を集めるシステムである方が、公平感が強いためであると思われる。政治家になれる椅子が限られているので、事実上誰でも政治家にはなれないが(特に国会議員には)、金集めを禁止して選挙を行うシステムなれば、そもそも金を持っている人間しか政治家にはなれなくなるということになる。ただでさえ二世議員であるとか、一定の権力構造の上に立つ人か、お金持ちが政治家に多いのは事実であって、そこに少しでも食い込もうとする野心のある政治家は、自民党では出て来なくなるだろう。もっとも大負けすると、そういう事にはならないかもしれないが……(今はその可能性が出てきたところではあるが、果たしてほんとにそうなるだろうか)。しかしながら野党であっても、基本的にはそのあたりの事情がもっと厳しい事ではあろう。本当になり手がいるわけでもない訳で(野党で政治を続けていくのはさらに厳しいのだから、一定の権力者の顔がいつまでも変わらないのもそのためである)、基本的にやりたい政策を活かせる場所さえ無いのである。一定の存在意義が無いとはいえないまでも、政治家として本当に活躍する機会は、そうそう生まれてこない現状に苦しんでいるはずである。だから一方的に批判するより仕方が無くなってしまったのである。
 そうではあるが政治家でいる事により、何らかの情報が集まることも確かなことだ。実際に予算を動かすので、そこに利権が生まれるのは間違いが無い。それが無いのであれば、すべて行政が政治家無しでやればいいのである。それはもはや民主主義では無いのだけれど。
 もっともこの国の政治家は、日本国民の平均化した姿でもある。国民とかけ離れた政治家が多いと言われるが、それはまったくの勘違いなのである。日本の国民の一人一人に最も近いシンパシーのある人物像が、そのまま政治家なのである(だから選挙で結果的に勝つのだ)。要するに機会があれば金を欲しがる政治家がいるとすると、それは間違いなくあなたの姿の写し鏡である。だから今はこうなっているだけのことで、あなたが変わらないことには新しい政治家は生まれてこない。本当に国民からかけ離れた政治が行われることは、だから今後もあり得ないことなのである。

※ 岸田首相の総裁選不出馬を受けて、この辺りの問題もだいぶ様相が変わってきた。これはひと月前くらいに書いたので、現状と違うようにみえるところはあるかもしれない。しかしながら基本的なところにおいては、そうそう変わるものではないだろう。気になるのは、そういう論点で総裁選を戦っているようには見えない候補者の姿かもしれない。形上麻生派以外の派閥がなくなったので、10人もの候補者が出る見通しになった。今回以降を見越しているなど、必ずしも今回で勝とうとしているだけの人たちばかりではないのかもしれないが、少なくとも調整だけを図るような人物じゃない可能性を含んでいる。変えるべきところを変えられる、大きなチャンスと期待したいところである。
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日本はもう、何も学ぼうとしていない、としたら

2024-07-30 | 時事

 オリンピック自体がどうなっているのは僕には分からないのだが、これを書いているオリンピック開催前の状況で、日本の男子バレーが復活してメダルの可能性があることが報じられていた。栄光の時代から転落したまま半世紀の間、日本の男子バレーは国際的に低迷していたとされる。日本が金メダルを獲得してから、諸外国のバレーは日本の様々な技術を習得し、あっという間に追い抜き、そうして差を広げてきたのである。
 そんな日本の低迷に喘ぎながら、かつての日本のエースだった中川内は、米国にコーチの手法を学びに行く。そこでさまざまな手法を学ぶとともに、バレー先進地の彼らの言葉に耳を傾けた。そうして一番言われたことは、「かつて日本の松平をはじめとするバレーは、本当に素晴らしかった。私たちは必死になって日本に学んで追いつこうとした。だが、その後の日本は、長く低迷してしまった。日本はもう、何も学ぼうとしていない。本当に残念なことだ」と。中川内は迷いに迷い、そうして海外のコーチを招聘する道を選んだという。また日本の選手たちも、自らのレベルアップを目指して、積極的に海外のチームで活路を見出すものが現れるようになった。そうやって、日本は強くなってきたのだという。
 つまりはそういうことなのだ。これはバレーに限ったことではないのではないか。もちろん事情の異なることがたくさんあるだろうことは、承知している。しかし日本のバレー界は、明確に、謙虚に、事実を認めることから始めた。生まれ変わったのは、基本的にその気づきなのであろう。
 オリンピックの結果においては、僕はそれほど興味は無い。しかしながら、そのようにして必死になって戦っている選手やチームには、深い敬意を払いたい。そりゃあ僕も日本人には違いないので、日本を贔屓にしている気持ちはある。しかしながらだから僕らはどうするのか、そのことの方がずっと僕の関心の高い領域である。学び続ける事が今できる事になるように、その前の謙虚さこそが、誰にとっても必要なことなのだ。このような機会に気づかされるとしたら、オリンピックも意義深いものとはいえるかもしれないが。
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無茶なりの結果で前提をいじらない

2024-07-09 | 時事

 僕はふだん民放は観ないのだが、健康診断で缶詰になっていたので仕方なく画像を見ていたら、都知事選の話題ばかりでびっくりした。よその国の事なんでまったく興味もくそもない分野だが、この国はいったいどうしたのだろうか。出来レースという訳ではないのだろうが、小池さんが勝つだろうことは誰でも知っていたことだ。まあしかしこの民放局の興味は少し違って、二番目に入った石丸伸二という人に対してだった。僕もまあちょっと前のSNSで話題のどこかの市長さん、というぐらいは知っている。こんな人が近くに居ると、精神的につらいだろうなあ、とは思う。つれあいに聞くと「誰?」と当然知らなかったので、郷ひろみになり損ねたような感じの人、と教えておいた(それで正しいかはわからない)。数日前友人のてっち君が二番手は彼ではなかろうかと予想していたので、これは一般的にはみんな知っていることだったようだ。
 でもまあそのテレビでは、とにかく石丸氏を持ち上げるだけ持ち上げるのである。なんだかヒトラー崇拝みたいで、気持ちが悪いったらありゃしない。彼は政治の天才で、これからの政治の世界を変え得る人なんだそうだ。へえ~。まあ、最初からヒトラーはヒトラーだったわけでは無いので、当たらないとも限らないが。やっぱり政治家より怖いのは、メディアや世論という訳だ。
 で、まあ都知事選の候補者乱立の無茶苦茶なありようを振り返り、それでいいのか? と問う。答えは言わない。それでいい訳ないだろ、ということだろうから。でもまあ、日本の民主主義的なありようの排他的な有様がこれだというのは、どうもその通りのような様な気がしていて、選挙がこの方向に行くのはいいことのように僕は考えている。損をしても身銭を切って政治に混乱をもたらし、自らの主張に終始する姿は、人の言うことを聞かない個人主義的な日本人の姿を如実に表してもいる。自分だけ良ければそれでいいというのは、日本人の根本原理である。政治の世界というより、選挙のありようがそうなっていいという都知事選は、見世物としては興味が無いが、ありようとしては正直でいいのではなかろうか。
 そもそも政党政治とはあまり関係ない選挙だったのだから、自民党がどうという事ともあまり関係が無いし、すくわれて事実上の大敗北の立憲民主党がどうということも基本的にはあまり関係ないだろう。ショックは受けても、それが都民世論というものだ。世論を反映させるために投票率をあげろと散々言われていた結果がこうなので、投票率どうのこうのというのは、つまるところやはりあまり正論でないことも明らかだろう。政治的に皆が関心を持つと、ろくなことにはならない訳だ(またそういう時代こそ、人間にとっては不幸なことは明らかだ。どうでもいいほど平和なのだから)。以前から言っていることだが、最適解の政治を目指すなら、AIに任せるのが一番であろう。
 アメリカの大統領選を前に、かの国ではろくな人間を選べない不幸な国だとののしっている人を何人も見るが、その前にこの国だって同じだと思うことの方が先である。もちろんその前に、選ぶ前の選択をできるように何をやるべきかは、よく分からない。やはり選挙に出る人は自由であることの前提をいじるのは、それなりに危険なことなのでは無いだろうか。
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キモカワってやつなんだろうか   マルセル 靴をはいた小さな貝

2024-06-11 | 時事

マルセル 靴をはいた小さな貝/ディーン・フライシャー・キャンプ監督

 実写とストップモーションアニメを交えての映像、という事らしい。もともとユーチューブに短編をあげていたものが話題になり、そういうものをまとめた形で長編映画化したとされる。小さな貝のマルセルは目玉があるだけでなく、靴を履いている。おしゃべりで、さまざまなことを自分語りしてくれる。それを映像作家がドキュメンタリ―としてユーチューブにあげたところ評判になるという、疑似ドキュメンタリっぽい展開である。そもそもこの家にはマルセル以外には彼の祖母がいるきりで、仲間がどこかに行ってしまったらしい。ネットに自分をあげて話題になったのはいいが、それは本来ほかの家族を探すためだった。しかしネットで話題になったところで、住んでいる家を特定されて写真を撮る人で煩わしくなっただけで、事態はむしろひどくなってしまった。しかしあるインタビューをきっかけに、過去の記憶などをたどって、家族が離れたいきさつをじっくり探っていくと……。
 そういう物語であるが、基本的にマルセルの自分語りと、この小さな貝が、小さいなりに知恵を絞ってあれこれやり遂げたりする工夫のある映像を楽しむものになっている。ストップモーションアニメなので、細かいコマ撮りをしているはずなのだが、雨の実写映像と混ざっていたりなど、なかなか工夫の跡がある。いったいどうやって撮っているのか、にわかには分かりにくいものもある。そういう神業ともいえる工夫が随所にあって、その上にマルセルが可愛らしいのである。小さいだけでもかわいいのに、ゲロを吐いてもかわいいのである。ちょっとしつこいけど……。
 確かに最後の方では、なんとなく感動もできる。なるほど、こういう事になるのか~、という感じなんである。
 しかしながらこれが名作と言えるのかと言えば、苦労は買うところだが、まあ、よく出来た小品という趣だ。非常に私的だし、そうして詩的なのである。ポエムと言ってもいいし、そういう雰囲気を、温かい視線を送りながら観るということになる。日本的なアニメとは、また一線を画したオタク的なところがあって、そういう文化比較もできるかもしれない。なんとなくだが、オタク文化も、やはりお国柄でずいぶん違うものである。可愛いのだけど、なんとなく気持ち悪いところがあって、そういう意味では人を選ぶ場合もあるのではなかろうか。
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円安で景気が良くなるって以前は言われてたのに

2024-06-08 | 時事

 最近の円安水準をめぐって様々なトピックが生まれている。以前なら当然のように日本の牛肉は高価で海外産とは価格差が開いていたが、ロース肉に関しては既にアメリカ産が日本産より高くなっているという。100円ショップでは品数が減り、100円以下で仕入れられる商品が激減。文房具では例えばノートなどぺージ数が減らされ、かご等の取っ手が無いなどのシンプルなプラスチック製品に様変わりしている。そもそも既に100円均一ではない、という形態の店だったりすることもある。
 一世帯当たりの支出が、昨年比10万円を超えるという試算もあり、海外旅行は激減。特にこれまで好まれてきたハワイは、人気ランキング圏外に墜落。代わりにハワイ物産展などの催しは盛況で、そのようなイベントの売り上げは伸びている。行けないのだから、せめて国内でハワイ気分を、という事らしい。九州で北海道物産展が盛況なのと、似ているということか(違うかも)。
 円安傾向の理由として、そもそも米国との金利格差がある。日本円で預金するより米国ドルで預金した方が、金利差額で有利なのだ。100万円の預金が日本では年1万にもならないが、米国だと4万円ほど増える。個人はともかく、大きなお金を動かしている企業など、持っているのならドルへ転換するだけで利益が増えるわけだ。
 円安傾向により大企業の多くは、大きな利益を上げている。必ずしも国内生産で輸出を伸ばしている企業のみではない。これは詳しくはないのだが、利益を出しているところは、海外で再投資をしているという事らしい。そうやって日本円がさらに逃げていくという構図になる。そうするとせっかく利益を出していても、日本自体に還元されにくくなるということもあらわしている。
 日本では人不足にあえいでいる訳だが、そういう意味では、日本人向けのサービスをしているところのみ、人手が足りていないという事でもありそうだ。一般的に人手不足なると賃金は上昇する。しかしながら大企業と中小企業との賃金格差は開いているとされ(一般的には賃金上昇は比例して当然なのだが)、中小が賃金を上げられないのは、賃金を上げて利益を確保できないからなのである。輸入資材や輸送その他諸経費高騰がある為に、安易に価格を上乗せすることもできず、利潤幅が無いから、人件費もあげられないのだ。賃金の上がらない世帯が、インフレの商品を買えないのは明らかで、消費が伸びてもいかない。格差の開く中の負の循環が生まれようとしている。
 という訳で面白くない話なのだが、僕らは円安が進む中で相対的に国際社会の中の国として貧しくなっている。でもまあ日本人全体がだいたいにおいて等しく貧しくなっているように見える間は、そう大してその貧しさに気づかないものかもしれない。問題は、明確に日本人同士に格差が開き、その差が努力で縮めることが出来ないと感じられるようになることだろう。そうなると、最悪は日本人同士でテロが起こるようになる場合もあるかもしれない。これは政府がどうのという事ではなくて、意地でも賃金を、価格を、上げるより仕方ないのではなかろうか。
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日本人は変な趣味の人が多い

2024-03-29 | 時事

 ジャニー喜多川がふだん演歌を聞いているらしいと聞いて、思わず笑ってしまったことがあったのだが、考えてみると、そんなに意外性がある訳でもないようにも今は感じられる。彼は男の子には興味があったのだろうが、音楽としてポップソングというか、そういうものにはあんがい興味が無かったのかもしれない。それで実業家として成功する訳であるから、物事を好きだという方向性の活かし方は、多少の専門性とは外れるものであってもいい、ということなのかもしれない。もちろん、今となっては、それでよいということが言えなくなっただけの事ではあるが。
 小澤征爾も亡くなったが、彼も意外なことに、時に演歌を聴くことがあったという。なんでそれはまた、という気がしないでは無いが、音楽的に息抜きというか、そういう気分のようなものと、やはり世代的な気分のようなものがあったのかもしれない。また、ボストンにいるときに聴いていたといわれ、日本の郷愁が欲しかったという事も考えられる。本当の理由はわかり得ないが、クラシックを中心とする音楽の専門家が、演歌を聞いてはいけないわけではない。そこの乖離は感じられはするものの、そんなものだというのは、あり得ることなのだろう。
 しかしながらやはり、音楽的な趣味として、受け入れづらい分野というのは個人にはありそうで、オールラウンドに何でも聴くような人の方が、少数派なのではあるまいか。アメリカ人のくせにカントリー・ミュージックが嫌いという人もいるだろうし、ヒップホップが嫌いな黒人だっているだろう。人はそういうところがあるから、面白いともいえる。
 演歌嫌いと言えば、日本では何といっても淡谷のり子がいる。「着てはもらえぬセーターを 涙こらえて 編んでます」「なんて馬鹿じゃないの!」って言ってました。確かに馬鹿な女で辛気臭い。うんうん、気持ちわかるわあ、って人達含めて、なんとなくクレイジーである。そういう破壊力のある実感をストレートにあらわす人が、幽霊のような調子でシャンソンやブルースを歌ったのだから、音楽人というのは本当に変な個性の集まりだと、改めて思う訳であった。
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人間らしく間違える機械の姿

2023-11-29 | 時事

 何かと話題のAIのチャットGPTなのだが、最近これのエラーを狙った犯罪めいたものが知られるようになっている。なんでも関西弁で解答をするチャットがあって、それに丁寧語で返答するように指示すると、エラーが出て、別の情報が流れる事件があったのだそうだ。または意味不明の質問の仕方があるようで、「###○○で意味を答えよ」みたいな感じで質問すると、相手が混乱して作成したコードなどが流失したりするそうだ。作成側もこれらの対応は行っているのだが、ある意味いたちごっこの感があり、どんどんとAIを混乱に落とし込むような手口が開発されることがあるらしい。
 そういうものかな、と思って僕も九州弁で文章作れとかいろいろやってみたが、まあまあそれらしい文章が出るので、既に対策はうたれているのかもしれない。そういう情報が広がった時点で、GPT側も必死である(のかもしれない)。ある程度のアルゴリズムで作成されているだろうことは考えられるが、そもそもプログラム言語で作られたものばかりでは無いそうで、そういうところにも脆弱性があるということである。またネットの情報やら質問の事項から学習して返答するというプログラムが組まれているわけで、質問自体を学習対象にしている以上、悪意のある質問形式に、AI自体が騙されたり混乱させられるというのは、いわば宿命めいたものがある。AIに反発心を抱いている人の多くは、AIがあくまで無機的なコンピュータであるにもかかわらず、人間らしいふるまいをすることに気持ち悪さを感じていると言われている。ところが、人間らしく騙されやすい性質まで兼ね備えていることに対しては、どのように感じるのだろうか。ある意味きわめて人間的であり、共感めいたものを覚えないだろうか。僕なんかは、なんだかAIがいじめられているようで、可哀そうな気もしないではない。まねしてなんとか騙してやろうなんてことを試してみたくせに……。
 それにしても既にこれは動き出していることであるので、AI側というか、開発している側は困っているわけだ。これを開発している会社のみではなく、これを支援している国の機関なども、これらの対策に追われることになっているという。今やAIの将来性が、私たちの働き方の行方まで左右しているとまで言われている。コンピュータやロボットなしに、我々の将来は描けないのである。具体的にどうなるという予想もたくさんあるけれど、人間の代替であるAIは、結局人間的なエラーを繰り返す存在のようだ。という事であれば、これまでの人間社会の延長上にある未来と同じである。それってそんなに脅威なことなのだろうか。いや、人間らしいから信用できないのなら別なのだが。
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進化し続けるストリップ

2023-11-15 | 時事

 雑誌で牧瀬茜さんという人がコラムを書いていて、この人は現役のストリッパーで25年も舞台に立っている人だそうで、そうしてこれからも踊り続けていくことに、ワクワクしているのだというのだった。ちょっと僕が意外に感じてしまったのは、これは偏見もあってのことでけしからんことだとは承知しているが、ストリップダンスというものにおいて、そのダンサー側の感情を、まったく考えたことが無かった、ということなのである。その上に、楽しんで仕事をしておられるなんて、ちょっと想像だにしてなかったな、と感じたのだ。はっきり言うと、ある意味ではお金のために仕方なくやっているはず、のような感覚があったかもしれない。多くの客は、いわばスケベ心をもってダンスを見て、いわゆる欲情をかきたてるようにして観ているはずである。そういう視線にあって、楽しんでダンスをしている人がいるというのが、ちょっと想像できなかったのかもしれない。すいません。
 いまだにストリップ小屋があるところというのを、不勉強で知らなかったのだが、全盛期は300はあったと言われていたものが、今や全国で18館しかなくなってしまっているのだという。さらにコロナ禍で、休業も余儀なくされていた。そうではあったが、また復活して踊る日々に戻ったという事であって、もっともっと踊りたいということなのである。
 以前はもっぱらエログロであったり、花電車(女性器を使って矢を飛ばしたりなどの芸。花電車は客を乗せないことから、いわゆる売春でない芸をさしているらしい)、SM、レズ、タッチ(踊りよりも、触らせることを中心にしているということらしい)、本番、天板(客が舞台に上るもののようだ)、白黒ショー(白いカーテンの後ろで影絵のように男女の様々な結合状態を見せることが由来のようだが、そのようにしないで実際にいろいろ致すところを見せるものもあるという)、などなど、とバラエティに富んだものがあったそうだが、今は猥雑なものは減っていて、客も男性客ばかりとは限らず、さまざまな人が来るようになっているという。そうして今は圧倒的に自ら望んでストリッパーになる人ばかりなのだそうだ。そうして、脱ぐという行為だけでなく、さまざまなこうあらねばというような呪縛やプライドなども脱ぎ捨てて、踊りというのはまだまだ進化しているということなのだ。
 確かにショービジネスや芸術のようなものというのは、なにか先を見据えた考え方のようなものが必要なのかもしれない。ストリップというものは、まったくそれと同じような、というか、また表現としてはそれ以上のものがあるものなのかもしれない。田舎には無いものなので見届けることはできないが、これからも頑張って下さい。
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日本的エンタメ性「鉄板焼き」

2023-11-02 | 時事

 特に米国人なんだろうけど、「鉄板焼き」と言えば、日本的なニュアンスがかなりあるらしい。それは何と言っても、鉄板焼きを派手なパフォーマンスで演出するレストランが全米に亘ってチェーン展開しているのが、日本人の創業の店だからだ。僕は子供のころに映画で観て知っていたが「ベニハナ」と言って親しまれている。なんとなく日本人にはピンとこないところだが、沖縄なんかにもそんなスタイルの店は結構あって、米軍や日本人観光客も楽しめるレストランになっている。日本人から見ると、たとえ創業者が日本人だからとはいえ、実にアメリカ的な店のように見える。基本的には肉を焼いたりシーフードのバーベキューだったりもするし、炎も派手に上がる。日本の店でも外国人にウケる演出であることは間違いない。最近は京都なんかに炎が上がるラーメン店なんかもあるというから、こういうのは外国人観光客ウケを狙った演出であることは間違いない。
 そうとはいえ、このような客と対面式の接客スタイル自体は、寿司店を参考にして編み出したともいわれている。確かに日本の寿司店の多くは(回転寿司ではない場合)、カウンターを隔てたオープンキッチンの料理人と対面式が多い。客はマスター(大将でも何でもいいが、一般的には何というのだろうか?)と対話しながら、寿司を握る技を含めて、食事を楽しんでいるともいえるかもしれない。一概には言えないまでも、一般的な割烹店より寿司屋の方が割高なのは、そのようなパフォーマンス料も含めてということなのだろうか。よく分からんが……。
 鉄板焼きにも実際には様々なスタイルと料理があるが、やはり縁日なんかで見かける「焼きそば」というのも、なじみ深いものだろう。外国人はこれをアニメなどで見て、あこがれるのだという。確かに日本のアニメはそのまま海外でも人気だというし、日本に来る観光客の中に少なからぬアニメファンがいるのだという。鯛焼きも人気ではあるが(あれはいったいなんだ? という意味で)、日本の祭りで焼きそばを見かけると感動するものらしい。そうして食べてみて、それなりに美味しいので二度感動する。まあ、確かにああいうのを買って食べるのは楽しい訳で、それをなんで祭りでやっているのかはともかく、僕らも外国人も共通して楽しめる食べ物なのかもしれない。
 後はやはり「お好み焼き」があるのだが、僕の子供のころには基本的に大阪風というのが定番だったように思うのだが、今は広島の勢力も拡大している模様だ。ちょっとというかかなり違うスタイルで、広島風は作るのが難しいというか技術が必要なので、基本的に店の人が作ってくれた完成系が目の前に出されるが、大阪風だと、自分で具材を混ぜ、自分で焼いたりする。これを「なんで客が作らなければならんの?」と思うところが面白いらしい。そんな料理、他の国ではまず考えられない発想らしい。まあ、そうかもしれませんね。
 大阪風のお好み焼きは、そういう意味では違った意味でのエンタメ性があるのかもしれない。日本の鉄板焼きの多くは、そのようなエンタメを楽しむ要素がウケている要因だというのが、実は日本的という不思議なものになっているようだ。シャイだと言われ、自己表現が下手だと言われる日本にあって、なんだか不思議な日本的なのではないだろうか。
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ジャニーズと統一教会はつづく

2023-11-01 | 時事

 いまだにジャニーズ問題と統一教会は、居酒屋の話題で続いている。だいたいはひどい批判が大半なのだが、これをなんとなく擁護する人もたまにいる。何が言いたいのか大抵わかりにくいのだが、要するに好きでやっている人がいる限り、そこまで批判する必要があるのか? という疑問のようなものがあるらしい。うーん、まあ個人の意見なのでそれはそれでもいいのかもしれないが、やはりそれであっても問題があるような気がしないではない。
 まずジャニーズだが、ジャニーズに限らず芸能界には、枕営業は昔からあるらしいことは分かっていることだ。そうやって仕事を取って来るという意識が本人にあるのなら、いいではないか、というご指摘としよう。しかしそれで仕事を取ることが、果たして許されていいのか、ということを先に考えなければならないのではないか。いわゆるフェアではない。またそれで仕事を与えられるという立場の人が、それを利用するという場合は、それもやはりアウトである。さらに強制の場合があって、ジャニーズは基本それにあたる。そうすると、そもそもダメダメなのでダメで当たり前なのである。あまり議論の余地はなくて、あるとするとジャニーズさん本人は逃げ切ってしまった、ということだろう。では会社としてどうするか。今はココであって、皆が娯楽として叩いて遊んでいるのは、そうやって会社が傾くまでやって欲しい、ということだろう。それがさもしいという意見であれば、それはそれでまあ、聞ける範囲かもしれない。確かにそれは、いじめであるのだから。
 統一教会の方だが、この間テレビで彼らの近況などやっていたが、解散命令という状況になってなお、直に韓国にお金を持っていくようなひとはいるのだという。まあ、呆れますね。そうして二世の信者の問題があって、信仰は続けていきたいのに差別だ、とか言っていた。いや、続けていってはいけないのであって、あきらめてください問題である。信仰は別にできるというのであれば、別のものをまったく別の形で、韓国と関係なくやっていれば問題ないと言っているのである(たぶん)。そういう具合にオウムもやっているわけで、あちらも問題は残っていると言えばそうかもしれないが、参考にされてはいかがだろうか。
 基本的にどちらの問題にしても、僕としてはだいたい予想の範囲で推移していると思われる。あまり情報を自分から集めていないにもかかわらず、これらはほとんど勝手に向こうから飛び込んできて知ることができる。そういうことを鑑みると、世の中の話題というのは、案外限られたものの焼き増しが一定期間いかに大量に出回るものなのか、ということが分かる。要するに飽きてしまうまで。それが人間の欲求そのものなのであろう。
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