食べることと言えば、ラーメン談義になることはよくある。しかしこれは、分類して語らないことには、なかなかに難しい。一緒くたにできない問題がたくさんあるように思う。そんなに難しく考える必要などないのは分かっているのだが、そもそも単純な問題ではないのだ。
ふつうは時系列に語る方法があるのだが、一旦それは無視する。僕は意識的にラーメンからは距離を置いていて、今は特に重要ではなくなってはいる。それで客観視できるまでになったとは思うのだが、だからと言って複雑な糸をほぐせるほどには無い訳だ。ただ単に思いつくことどもを、ラーメンとして語るよりない。
僕が何となく考えるラーメンは、寅さんが駅前の時間つぶしの腹ごしらえに食べているようなものが、イメージ的にはスタンダードなのだ。しかし、実際に僕がそんなことをしていたのか、というのは、体験上少ない。京都の駅前には有名なラーメン屋があって、そこではそんなまねごとをしたことはあるが、しかし大変な繁盛店であり、落ち着かないものだった。黒いスープに味の方はあんがい飽きのこない風味があって意外な感じだが、若いまち京都という感じもして、なるほどと感心した。朝から別の店でもラーメンを食べていて、そこでは少し強烈さも感じたので、駅前のラーメンと言えば、なんとなく京都なのである。もうしばらく行く機会はなさそうだけれど。
東京のラーメンは、東京のラーメンと言ってしまっていいほどには典型的ではなくなっている。それこそ寅さんの駅前ラーメンではないが、ふつうなら関東なので、醤油味のメンマとチャーシューという感じだったはずなのだが、あんがいそんな感じのものこそ、懐かしく少なくなってきている。東京に行ったのに、九州の豚骨というのは結構あるものだし、学生のための二郎系というのだって、慶応大学前だけでなく、今はほとんどの駅前にある。全国区のものがあるとはいえ、そういうところはものすごい行列で、昼時なら探さなくても目に付く。並んでいる人数でげんなりして、もちろん並ぶことまではしない。だからあんがい、東京ラーメンは知らないままなのかもしれない。
長崎はラーメン文化では無いとされるが、僕の生きているスパンで考えると、それなりに前からラーメン屋くらいはある。もっとも、多くのラーメン屋では、ちゃんぽんも食べられるものだった。近年はそれこそラーメンだけの専門店の方が増えたが、チェーンだったり、いろいろ事情がありそうだ。地元のラーメン屋というのは当然あって、僕だって小学生のころからなじみがある。いわばそれがスタンダードなのかもしれないが、おいしいけれど長崎のラーメン屋としては、少し変わっている味でもある。その後いろいろなラーメン店ができて、生き残っているものもあるし、消えたところもある。ラーメンというのは、実際に工夫して作るようになると、原価がそれなりにするという事らしく、ぼちぼちやっていたのでは、経営が厳しくなってしまうという(逆に原価の低い店もないではないのだが、いちおう流行りを狙うラーメン店のことである)。いつもお客さんが来てくれるような店でなければ、簡単に淘汰されてしまうのだ。まあ飲食店というのは、なんであってもそういうものではあるのだろうが。
なんとなく周辺のことを言っていたら、ラーメンの何の話をしようかというのを忘れてしまった。また、思い出したら考えてみます。