カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

本に魅せられた(時に呪われた)人々   書物愛(日本編)

2016-10-31 | 読書

書物愛(日本編)/紀田順一郎編著(創元ライブラリ)

 本にまつわる小説を集めたアンソロジー。主に古書店で起こる事件というか、その周辺の人々を描いた作品が多い。短編が9編組んであるが、主に古い本に執着する人々の、その理由を謎解きするものが多かった。何故か持っているはずの同じ本ばかり買いあさる老人のその理由を追った話だとか、詩の本を集めてその類の研究をするかたわら、詐欺も同然に本を買い集める手口とは何だとか、高価な古書を万引きしておきながら、徐々に盗んだ本を返してくれる女の話など、それぞれに興味深く面白かった。
 個人的には本は日常的に買うが、それが古書だから買うということは無い。結果的に古本を買う割合は多いけれど、それは単に安価だからに他ならない。値段を気にせず新刊を買いつづけられるだけの財力に自信が無いのもあるし、買った本を全部読むわけではない。資料として買わざるを得ないこともあるし、事実上送料だけで手に入るものを新刊で買う必要性も特に感じない。作家にとっては喜ばしくないことであっても(収入減の原因だろうし)、事実として流通が成り立っているので、これを論じても仕方のないことだろう。文字は読めたら事が足りるので、こうなってしまった。しかし古本が溜まること自体は〈収納には困るが)、ささやかな喜びであると思っている。
 ところでしかし、そのようなことで、本というのは商売にもなるし、中には高価なものも存在する。噂では聞くような稀覯本というのもあるし、神保町などに行くと、初版本専門店が軒を連ねて壮観である。ほとんどその価値が分からないにせよ、そういう趣味があることは、なんとなく理解できる。コレクターというのはそういうものだし、何しろ書籍の多様を見るにつけ、そのような宇宙があってしかるべきである。基本的には読んでみなければ面白さは分からないとはいえ、持っているだけでしあわせになるような(個人的にだが)本というのはあるようだ。僕はコレクターではないが、人と話をしていて話題になっているその本をお互いに持っている場合など、なんとなく嬉しくなることはある。本当の性格など分からないけれど、いいやつかもしれないな、と思う。少なくとも同じ本を手にした仲である。仲間として得難いではないか。
 本を買うような経験のあるような人には、このような世界があるということも含めて、楽しめる作品集だろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

並んでいる店は旨いか

2016-10-30 | 

 食事をするときに何を参考にするか。今やネットがあるんで、まずはその評判というのがあるだろう。雑誌を読んだりする場合もある。そうやって情報を集めて店を探すのも悪くない。これも携帯でナビゲートしてくれるので、ほとんど迷わなくなった。地図を印刷して探している人なんかも見かける。情報通りだといいですね。
 さてそういうこともあるが、歩いていてどこに入ろう、という場合はあんがい多い。店構えを見るわけだが、駅前でさっと入る事を別にすると、駅からそれなりに離れていて、さらに奥まっているような店だと、まあ、ある程度自信があるのか、もしくはなんとなく高そうだという感じがするように思う。店の前で並んでいる人なんかがあると、やはり、と携帯で検索したりする。まあ、だからといって入らないですけど。しかし立地が悪くても客を集められるというのは、期待度は増すかもしれない。
 店に入ってメニューを見て、品数が少ないというのも、わりに自信がありそうな感じがある。ラーメン屋なんかは極端に少ないメニューだと、これは勝負してるな、というのは明確だ。でもまあ、いろいろメニューが豊富で家族連れが多いラーメン屋も(結構チェーン化するとそういう感じかもしれない)多くなっている感じもするけど。まあ、定食屋でA、Bランチしかない場合は「もうこれで切り盛りするより無いのです、お客さん」と説得されている感じはある。でも時々、膨大なメニューが壁いっぱいにかき込まれている店があって、圧巻だが、だからといって感心するかというと、あんまりそうでもない。迷いますって、普通。でも、いっぱい書いてあって、ちゃんとおススメ、なんて丸がしてある。ほとんどの人はそれ選ぶんじゃなかろうか。
 田舎だとあんまり無いが、並んでいる店を基準にしている人は多いのだという。というか、人間の心理としてA店B店と並んでいたら、店の前に客が並んでいた方が(程度もあるだろうが)評判も良く味が良いはずだというシグナルになって、たとえ最初に並んでない店に入ろうと思っていた人も、判断を変える場合が多いらしい。これは日本人だからとかいうのは関係ないそうで、人はそういうシグナルに従う動物らしい。
 そうすると、やはりサクラの効果はあるのは間違いなさそう。ある程度並ばせるようになると、かえって客足が途絶えない人気店として定着するのかもしれない。あんまり早い段階で店舗を拡張しない方がいいのかもしれない。まあ、資金との相談だろうけど。
 しかしまあ、僕は評判が良いと聞いて店を探して並んでいたら、まず入らない。それは田舎者だから。そういう人は田舎には実に多くて、さらに田舎の店というのは、並んでいるから旨いとか、並んでないからまずいという極端さは少ない。経営がやっていけないくらいまずければ、単に店は続かない。だから多少古びているような店でも田舎にあるということは、生き残っているので、それでもうある程度問題は無い。
 とはいえ、この判断は間違っているようなことも当然多い。結局田舎者はせっかちで、時間はあるくせに使い方は偏狭である、というだけのことなのかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

得難い「ふつう」の日々の記録

2016-10-29 | 境界線

 毎日放送のドキュメンタリー「ふつうの家族 ある障がい者夫婦の22年」を観た。
 共に脳性麻痺のある夫婦が結婚し、子供をもうける。そうしてまず上の子が小学生に上がるまでで一旦区切りがある。間に空白があって、上の子が成人式を迎えることになって、再度この家族をカメラが追う。その合計が22年ということらしい。
 まず、脳性麻痺の二人が結婚して生活することのハードルがある。お互いの麻痺の度合いも重く、支え合うと言っても生活の基本的なことも不自由である。さらに出産、子育てとなると、映像で見る限り危なっかしくもある。串のような棒で遊ぶ赤ん坊の手から棒を奪うときに、体全体を使って最後には口で咬みついて棒を離すようなことをしていた。ミルクを飲ませようとしても哺乳瓶を持つことさえできない。二人の年金でヘルパーを雇うことと、妻のお母さんが手伝いに来たりしていたようだ。子供一人では可哀そうだということで、二人目も授かることになる。成長段階では子供は反発する。ありのままそのような様子も映していた。
 再度の撮影時には夫の方は既に亡くなっていた。さらに子供の頃は女の子だった最初の子は、長男になっていた。それだけでも空白の時間に様々なことがあっただろうことは推察される。さらに妻の麻痺は年齢で重度化が進んでいるように見て取れた。子供たちは大きくなり自立度は増している。子供に世話が焼けるということは少なくなっているのかもしれないが、自身の生活基本動作など、ヘルパーからの介助は欠かせなくなっているのかもしれない。そうして長男は成人して就職先へ引っ越していくのだった。
 まず、そのような障害があるが故の特殊で過酷な家庭のありようという面がある。あえて「ふつう」という形容詞が使われているのは、恐らくそのような普通さを求めている障害者は、普通ではない困難があるということなのだろうと思う。普通を求めることは、こんなにも大変なのかと見る者は思うだろう。しかしそのように育てられた当事者の子供たちは、普通だったと答えていたようだった。障碍のある両親に育てられても、それはどこにでもある家庭と何ら変わることのない家族なのだ。
 さらに当事者には、自分の障害と社会に対して、何か行動で語りたいことがあるのだろうということだ。障碍がある人間が子育てをしてはならない、という暗黙の世間への圧力に対する戦いなのかもしれない。成長段階でどのみち必要ないのだから、妊娠できなくする処置をしてはどうかと勧められた過去を語っていた場面もあった。
 また、子供から将来的に世話を受けるために子供をもうけている訳ではない、ということらしかった。だから子供と共に食事をとるときも、自分の食事の介助は、ヘルパーさんが行っている。子供からの介助は拒否しているということだった。これも一見分かりにくいことだろうが、そういうスタイルで生きていくということそのものが、日本社会に対する一つの解答なのだろうと思う。
 このドキュメンタリーを見て、ある意味で多少の違和感を覚える人もいるのではないか。それは自立とはいえ、日本の社会保障制度の上で、公的資金と言えるものを原資にして子育てをしている障害者への視線があるかもしれない。さらに不自由で困難があるとはいえ、家庭料理はヘルパーさんが来て作り、そうして食べさせてくれる。家族のだんらんには、家族のみでない他者が混ざった風景になっている。
 しかしその違和感とはさらになんだろう。そのために許されないことのために、家族を持とうと思ったり結婚しようと思ったりしても、それを実行できなかった人々はここには写されていない。そのことに思いをはせる人はどれくらいいるのだろうか。
 普通のことが戦いの日々であるということは、どういうことか。違和感も含めての秀作ドキュメンタリーであろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(まじめな)加害者は地獄へ

2016-10-28 | HORROR

 職場でも安全運転に対する取り組みは行っているし、交通安全週間などと連携して周知するとともに、ミーティングなどの折にも話題に出して注意喚起している。日常にもっとも起こりうる事故というか災害というか、不幸の種は交通事故である。
 ところでこれの講習会に毎年出なければならない。これは立場上致し方ないのだけれど、拘束時間も長いし、いささか苦痛だ。失礼ながら講師の先生の多くは睡眠作用のある話しぶりが得意ということもあり、罰ゲームじみた講習という感じも無いではない。
 注意喚起ということもあって、事故に関する映像も見せられる。そのようなビデオの事故や飲酒運転に関するドラマの演出が、なんだかやたらに暗い。特に被害者の悲しみは痛切で、加害者側が謝罪に行っても、ヒステリックに断絶される。事実もそうなのかもしれないが、怒られる加害者の方が被害者じみて見える。たぶん多くの人は関係ないと思っておられるので平気で見てしまうのかもしれないが(だから大げさになるのだろうけれど)、たいていは人のよさそうでまじめである人が、本当に魔が差したように事故を起こしたり飲酒運転をしてしまったりして取り返しのつかないことになって謝罪に行くのだが、猛烈な怒りにさらされ胃潰瘍にならんばかりの苦しみをあじわう儀式となっていく。当然家族は崩壊し、子供はいじめられ、実家の家業や所属する会社の業績は傾き、頑張って刑務所で反省の言葉を書き並べている夫を支える妻も、生活に困窮し、結局離婚せざるを得ない。もちろんそれで被害者の生命は戻ってくるわけでもないから、そういう苦痛を味わうことが贖罪として当然という視点なのだろう。
 しかしこれは、何か間違っているように思えてならないのである。謝罪というのもなんだかきわめてアジア的だし、本当に劣悪な加害者というのは、そもそも謝罪になど出向かないだろう。相手が許さないまでも、罪を軽くしようとして謝罪しているのではない。火に油を注ぐということもあるのかもしれないが、申し訳ない気持ちを伝えたうえで、公的な罪を償おうとしているに過ぎない。本当に悪い奴は精神的に救済され、さらに罪の加減に差などなかろう。反省もしないから社会に出でも復帰も早かろうし、さらにまた事故を起こす可能性も増すだろう。本当に反省した人間は地獄の底に落ちて這い上がることもできず、多くは死の選択に悩む人生を送るだけの余生であるのに、謝罪なども考えない人間は、自ら救済される可能性が高くなりそうな感じがする。一方の面はまったく演出には無いが、それが人生の真実だろう。
 もう、浪花節での事故防止啓発は止めた方がいいのではないか。こんな日本のダークな社会で生きなければならないのなら、特に若い人たちの未来は暗いばかりという気分になるのだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1.7%以外の人たちへ

2016-10-27 | 境界線

 林修さんという人は塾の先生らしいが、実によくテレビに出演しておられる。僕が録画している番組でも姿を見るくらいだから、相当だろう。それはそうとちょっとびっくりしたのは、この林さんは緊張しないのだということだった。要するにテレビに出たり人前で話をしたりするのに、緊張することは無いというのだ。へえ、そんな人いるんだ。
 実は、そういう緊張しない人というのは一定の割合いて、たぶんそれは遺伝なのだそうだ。確率的に1.7%の割合で、そういう人がいるんだそうだ。いや、ずぶとい人は見たことあるし、緊張しない人も知らないではない。しかしまあ、それは経験上そうなるものだとばかり思っていたわけで、ある意味羨ましいかもしれない。しかしまあ圧倒的な小数者であるわけで、事実上無視していいくらいのものでもある。さらに緊張する身の上としては何の参考にもならないかもしれなくて、トリビアとしての知識程度しか知って満足度は無い問題かもしれない。
 ところで緊張する多くの人については朗報もある。特にあがり症という人には対処方が無いでもない。それというのもスルメをかじると緊張感が緩むことが知られているのだ。何度も咬むような行動が緊張を緩めるらしい。それならスルメでなくとも、ガムなんかでも一定の効果は期待できそうだ。外国の野球選手がガム咬んでいたり、咬み煙草なんかをいまだに咬みながらプレーしていたりするけど、あれはあんがいあがり症の人なのかもしれない。
 また、緊張を緩める方法でもっと効果的だと思われるのは、やはりリハーサルをやっておくという王道がある。未知の状態より本番の感じを掴むことで、少なくとも何とかなりそうだという掴みを得ることが出来る。緊張の多くは失敗するかもしれないという恐れがあるように思う。だから繰り返し練習したりするわけで、練習そのものもやはり効果がありそうだ。場馴れするのが一番だと思うが、やはり誰にだって慣れていない時代はある。時間が許すならば、しつこいくらい繰り返すことで、いい加減自分にも飽きて緊張が緩むかもしれない。それでも失敗するのは残念だろうけれど、それこそ腹いっぱい準備してそうだったのなら、もうあきらめなさいと言うしか無かろう。
 失敗の経験が足を引っ張ることもあるだろうけれど、何度も失敗していると、人はそのことにもなんとなく慣れていく。自分なりの解釈があるというのはあるが、そのような失敗は自分の伸びしろかもしれない。緊張しないのは羨ましい場合もあるが、それなりに緊張して達成を味わう人生というのも、それなりに楽しめるのではないだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「元祖」店の味を保証するサインか

2016-10-26 | ことば

 県外の人にカステラの元祖はどこですか、と聞かれる。まあ、長崎の古い店という意味なんだろうから普通は「福砂屋」ということになるんだろう。その後弟子筋で「松翁軒」ということになるんだっけ? まあ、どっちも江戸時代からあるらしいことは間違いないらしくて、古いことは古い。明治かららしい文明堂だって古いが、新参者にされてしまうくらい古い。
 しかしカステラを作っている店というのはずいぶんあって、やはり好みということにはなると思う。人によっては詳しいのがいるから、うるさいのを我慢して聞いてみると良い。僕のような人間には、恐らくその微妙な違いは分からないだろう。運試しでいろいろ買ってみるといいんじゃないでしょうか。
 さらにその人は博多ラーメンの元祖も教えてほしいという。そんなのはググってくれ、ということに尽きるが、長浜ラーメンあたりになると、本家とか元祖とか言う屋号が結構あるように思う。古いからいいのか、という疑問が当然浮かぶが、やはり聞いてくる人がいる以上、魅力的な言葉なんだろう。
 先日テレビを見ていたら、辛子明太子の「ふくや」の元祖説をやっていた。朝鮮の明太子を独自に開発して、それが他店にも広がったという。そのようなまちづくりというか特産品の開発と、さらにそれが拡張しての元祖の称号が、店の繁盛にもつながっていることだろう。
 元祖や本家があるというのは、その亜流が広がったという推測がされる。それなりに古くなっているものは、実は怪しいものもあるらしいが、何しろ古いのだから知っている人や文献などから確かめるよりない。確定するものもあるし、やはり分からんものもあるかもしれない。しかし元祖の称号はこのように魅力的だから、声が大きくなることもあるのかもしれない。
 でももっと古くなってうどんや蕎麦の元祖ということになってくると、もうそんなに誰も気にしなくなるのではないか。もっともこれらの原型は、今のものとは違うらしいが。
 今度は新しいものに元祖がついても、やはりなんとなく貫禄が無い。新商品という響きの方が勝るわけで、他店と競合して、むしろ負けかけた方が元祖を言い出すと、また勝負が盛り返したりするのかもしれない。まあ、そうとも限らないが。
 先日やはり訳あって熊本に行って「紅蘭亭」でタイピーエンを食べた。実は今まで様々な店でタイピーエンは食べたことがあったのだが、元祖といわれるこのお店はまた、格別でありました。聞くところによると、元祖にも複数店あるらしいが。また、震災で二階以上が使えない状態で頑張っておられた。客は当然ものすごく満杯だったので、運が良ければどうぞ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

壮絶な地獄絵図が戦後引揚者にあったこと

2016-10-25 | 感涙記

 山口放送制作のドキュメンタリー「奥底の悲しみ~戦後70年、引揚げ者の記憶~」を観た。
 敗戦後外地に居た日本人は660万人。本土に引き揚げる際に様々な苦労があったことだろう。特に北方満州や北朝鮮からの引揚者はひどいものだった。この地を占拠した兵隊がソ連兵だったからだ。
 彼らの多くは囚人だったとも言われる。家宅に侵入し金品を奪うことはもちろん、気に食わなければ銃殺暴行する。さらに当然のように女性の体を凌辱しまくるのである。女であれば子供やある程度の年配者まで犯されたと言われ、女性の多くは頭を丸刈りにし帽子をかぶり、屋根裏などに身をひそめ、その場で用を足したりして身を隠した。それでも見つかれば夫や子供やきょうだいなどがいても犯された。口に拳銃を入れられ抵抗すると殺される。時には夫が妻を説得して(おそらく子供らを守る為)凌辱されたりすることもあったようだ。どちらも地獄である。中には凌辱されたことに耐えられず、手榴弾などで子供もろとも自決する人もいた。
 そのようにしてソ連兵から逃げながら、やっと引き上げ船に乗った後も、その心の傷をくやんだり、性病をうつされたり、妊娠してしまったりした女性たちは、日本の地を前にして博多港などに身を投げて死んでいった。
 あまりに身を投げて死ぬ女性が多いので、船内では仕方なく「不幸なるご婦人方へ至急ご注意」と書かれたビラが配られた。そのようにして性病にかかったり望まぬ妊娠をしてしまった女性のために「婦人特殊相談所」が設けられた。そこでは麻酔などは無かったが、無料で堕胎などが行われた。中には既に臨月に達しており、取り出された赤ん坊が息を吹き返すこともあった。泣き声を聞かせれば母親として苦しむかもしれず、そのまま息の根を止められたようだ。これらは法律には反したが、極秘で行われていたという。
 ただし、このような性病などの撲滅の意味は、本土に病気を持ち込ませない処置だったとも言われている。佐世保などでは年頃の女性すべてに面談するなど調査を行った記録が残っているそうだ。
 また、そのような場面に遭遇したことを、手記などにかき残し現在の人たちに伝えることで肩の荷を下ろすような感情を抱く証言者などの話を聞いていた。つらい体験だったからこそ、誰にも言うことが出来なかった。当時11歳だったという人や、9歳だったという人達(これくらいの子供だったからこそ何とか引き上げる体力があったと思われる。それ以下の子供は体力がもたず、それ以上の人間は暴行で殺されたのかもしれない)。ソ連兵に占領されたまちに住む日本人は、定期的に繰り返しソ連兵隊がやって来て日本人女性を輪姦していく中で生きていくしかない。たまらずまちから飛び出し、逃げ惑い引き揚げる途中でも、容赦なく多くの人々から暴行を受け、着るものも食べるものも無くなる。幼いきょうだいは動かなくなり、最後まで守ってくれていた母親も息絶えてしまう。何度も殴られたせいで頭蓋骨の一部はいまだに陥没したままである。
 普段は笑いのたえない人柄のおじいちゃんが、初めてこの体験を話した後、言葉をなくして涙をにじませる。そうして、残りの人生を笑って過ごすより無いという。
 このような史実を語ることのできる人も、戦後70年を経て、かなりのご高齢になっている。はっきり言って残り少ない。結局口をつぐんだまま、亡くなってしまった人の方が大半だろう。これだけの体験だったからこそ、そうして被害も性的で精神的なものだったからこそ、その思いは複雑で、戦争を知らない人に語る術が無かったのではないだろうか。
 このような引揚者は、加害者だった日本人だから、当然受けいれなければならない宿命だったのだろうか。戦後日本人は、歴史的な加害者としての贖罪を、背負わされる義務を負っているようにも見える。それが仕方ないこととして素直に受け入れる者だけが、本当に人道的な態度と言えることなのだろうか。戦争の真実というのは、そのような一方的な正義の上にあるものではない。少なくとも戦後に起こった、特に女たちが受けた戦争というものに対しては、もう少し、掘り起こされる努力が必要なのではなかろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

知られたくない過去とお付き合いにはご用心

2016-10-24 | 音楽

 恋は詩人を作るとも言われるが、世の歌というのは、やはり恋愛関係のものがダントツに多いのかもしれない。メロディに乗せて様々な恋の歌が歌われてきたわけだが、そうすると、やはりこの曲や詩を作っている人の恋愛体験が、ダイレクトに活かされている場合というのは、当然相当あるということになろう。
 ある有名な女性シンガーの歌詞が、やはり以前付き合っていた男性シンガー(タレントだったっけ?)との恋の暴露話だと話題になったことがある。結構ボロクソに貶されている内容なので、ははあ、あの男もこんなことをしでかすのか、という興味を持たれたというのがあるんだろう。ゴシップとして面白い訳だが、そんなに正直に書くものなんだろうか。また女性シンガーが書くので面白いと言えるが、男性のミュージシャンだって詩は書くわけで、これが付き合っていた女性が見え見えで、さらに内容がボロクソならば、どんな評価になるだろうか。むしろあんたがつまらない男だという逆評価になりかねない気もする。もちろん発表までにいろいろ言われることもあるだろうから、そこのあたりは、計算されて描かれている世界かもしれないが…。
 やはり過去の恋愛を素直に詩にあらわすことは当然らしくて、しかし複数の人と付き合うことや情景を並べているらしく、これが特定の個人ということであるとは限定されない、というのが正解のようだ。いろいろな人とのストーリーをつなげて適当な一篇としているという回答が一番多いようだ。しかしこれも直近のものと、そうとう過去とはやはり印象がかなり違うだろう。そういう言われ方をすると、かえって特定の人をモデルにし過ぎていることの言い訳のように聞こえないではない。
 ちなみに小説などの世界も、度々暴露話で訴訟になったりしている。発禁になった作品も数多い。ヒット曲の場合もそういうのがあるのかもしれないが、既に取り返しのつかないくらいの影響がありそうな気もする。場合によっては泣き寝入りということもあろう。むしろ訴訟対策としては、あくまで創作だと突っぱねてしまうより他に手が無いのではないだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キノコの毒を考える

2016-10-23 | 散歩

 雨上がりに散歩などしていると、時々驚くほど見慣れないキノコに遭遇することがある。何か偉大な発見をしたのではないかと興奮することもあるが、これを採取する勇気がなかなか持てない。手持ちに入れ物(袋など)を持っていないというのもあるし、これを採取したところでどうなるのか、という考えもある。厳密に食べられるのかどうかも分からない。本棚を探すとキノコ関連のものはあるだろうけど、おなじかどうかを確かめてみたことはあんまり無い。要するにやる気が無いことと、やはり毒などが怖いというような潜在意識が働くのではあるまいか。
 実際に毒キノコというのは、キノコ全体の10%程度といわれている。さらに猛毒といわれるキノコは1%程度。日本で見つかっているキノコは約3000種(見つかっていないもので、5000とも一万とも言われているが)だから300くらいは危なくて、30くらいは大変に危ない。特に危ないが30くらいということは、覚えられないこともなさそうだが、しかし厄介なのは、中毒になるようなキノコは、実は食べられるキノコによく似ている為であるという。有名なのはヒラタケに似たツキヨタケ。クサウラベニタケは、ホンシメジやウラベニホテイシメジ、ハタケシメジなどに似ていて、日ごろ食べているのと同じだろうと間違えて食べられてしまうらしい。また見た目は毒々しいが、ベニテングタケは食べるとおいしいと言われるタマゴタケと間違って食べられたりする。成長段階によっては、または場所などによっては、似ている時期のようなものがあるのかもしれない。または、人間の食欲の方が恐ろしいということか。食べておいしかった記憶が、これらの毒キノコを食べてしまう誘惑に代わってしまうのかもしれない。
 食べて死ぬというより、幻覚系のキノコというのもある。いわゆるマジックマッシュルームといわれるやつで、麻薬である。これも厄介で、中には死ぬものもある。売るのも自分で採取するのも、警察に分かれば捕まってしまう。ワライタケを誤って食べた普段はおとなしい奥さんが、裸になって踊ったりして大騒ぎを起こした、という話もある。一見楽しいエピソードにもみられるが、目覚めた後も恐ろしいのではあるまいか。
 キノコの毒は水溶性のものが多く、よく煮て煮汁を捨てればたいてい食べられるという話もある。しかし水溶性とばかりは言えない毒もあるそうで、未知のものも多い。だいたいキノコを食べて中毒を起こすような事件があって初めて成分が調べられ、毒キノコであったと判明するようなことになる。日本では毒成分が未抽出でも、米国では毒である、というようなキノコもあるらしい(要するに場所で成分が変わることがあるのかもしれない)。以前は缶詰にして(スギヒラタケ)売られていたり、地方によっては塩漬けにしていまだに食べられている種類などもあるという。これまでに毒成分が特定できない、もしくは原因の分からない毒キノコもあるそうで、安全に食べていても、二三日続けて食べると中毒するような場合もあるという。
 植物などの毒は、多くの場合食べてから遅くとも数時間後には中毒症状がでるので対処も早いと言えるが、キノコの毒の厄介さは、症状が数時間後から数日後に出るものがある。細胞内の遺伝子の働きをストップさせる作用があって、結果として徐々に内臓などをむしばみ、最終的に死に至るなどという話もある。心臓が衰弱したり、筋肉を溶かすなどの毒の種類もあるらしい。中には冬虫夏草の成分が、発癌性物質を破壊する薬になったりすることも知られているが、だからといってそのまま食べて癌が治るということにはならない。ひょっとするとノーベル賞ものの研究対象として有望なものがあるかもしれないが、自分を人体実験に使うことは、賢い選択ではあるまい。
 また人間には厄介な毒となる成分であっても、キノコを好んで食べるナメクジなどにはまったく毒として作用しないとも言われる。そもそもキノコの毒というのは人間にとって厄介だから知られている訳だが、なぜ毒となる成分が形成されるのかということ自体が、まったくの謎なのである。
 キノコは植物でなく我々と共通祖先をもつ動物の仲間から、進化の過程で枝分かれして繁栄した種類である。人間とは違った戦略をもって、地球を支配している種のひとつなのかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自動運転は安全社会の到来を予見する

2016-10-22 | Science & nature

 テレビで自動車の自動運転への開発の現場をリポートしていた。開発競争にしのぎを削るのは自動車メーカーに限らず、米国グーグルのようなネット関連会社なども名を連ねている。自動車が場を認識するためのセンサーの開発で先行しているのは、いわゆる軍事関連企業でもあり、イスラエルの会社と日本の日産が手を組んでいる様子もあった。いわゆる最先端で先行開発する重要性が語られていた。理由として先にシュアを独占するものしか生き残れない世界である、ということであるようだった。今でも高速道路などでは、高級車を中心に実質的に一部の自動運転が可能になっているようだが、あくまで補助的というか、やはり限定的という感じはする。しかしながら完全自動運転への布石は確実に打たれているようで、ある程度の試験段階では、実際に自動運転車が公道を走ってデータを集めている様子が映し出されていた。公道運転という複雑な場面で本当に自動運転が実現できる日も必ず来るということなんだろう。
 人間が見出す未来のことは、ある程度実現する条件があろうにせよ、そのようになるということかもしれない。さて、そうなるといくつか疑問が無いではない。かなりの完成度と安全度があがらないことには自動運転は認められないとは思うが、さて実際に自動運転車が市場に出てくると、特に最初の頃は自動運転車と人間の運転車と公道で混ざることになる。さて、ここで事故が起こると、運転者の責任はどうなるか。特に自動運転は、製造メーカーの責任になるのか。ある程度の安全性の確保が認められた上での認可ということになると、人間の運転者に不利になるという可能性もあるかもしれない。事実上自動運転が安全であるのなら、人間の運転は危険ということになろう。そうすると自分で運転することは、結果的に禁止されるような展開になるのではなかろうか。
 なんとなく未来が見通せる感じだが、なるほどそうなると、自動運転技術が大きな利益をうみそうなことと、事移動に関しては、人間が完全に管理される時代が到来しそうだということも予見できそうだ。すべての人間の移動データがビッグデータとして管理されることにもなっていくだろう。それは人々の安全にはつながることにはなるんだろうけれど、やはりちょっと不気味な感じもしないではない。決められた場所以外で散歩するような人物が危険視されるような社会になると、交通事故で死ぬような人は事実上いなくなっているのかもしれない。まあ、交通事故ゼロというのは、そのようなハッピーだということなんだろう。この項目ホラーだったかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四季の春は自然にめぐってくるけれど…   31年目の夫婦げんか

2016-10-21 | 映画

31年目の夫婦げんか/デビット・フランケル監督

 原題はhope springs 。希望の春ということか。観終わってみると、邦題よりそのままで内容的には良かったと思われる。
 結婚31年目、すでに子供たちは巣立っている。性生活は無くなっており、新婚生活に戻るとまではいかないまでも、もう少し夫婦としての愛情生活が取り戻せないものかと考えた妻は、強引に夫を誘って泊りがけのセックス・カウンセラー(または、夫婦生活セラピーというんだろうか)を受講することにするのだが…。
 妻と夫の結婚生活の価値観の違いやギャップの大きさと、確かに何やら怪しい医師からカウンセリングを受けることで、夫婦の性生活の恥ずかしさが表にさらけ出される思いに、精神的にも耐えがたいものがあるようにも感じられる。そこがコメディとしての楽しさでもあり、ドラマとしての深刻さでもある。熟年から老夫婦の性生活問題に前向きに取り組んだ作品としては評価できそうだけど、よく考えてみると、これは若い夫婦であってもそれなりに意味深い作品なのではないかと思ったりした。要するに夫婦やカップルの関係性というのは、そんなに年齢などは関係ないのかもしれない。むしろ日本人の僕の目から見て、アメリカの夫婦の保守的な考え方に驚かされるという感じはあった。日本の夫婦の方が、平均的にはもっと自由なんじゃなかろうか。実際は平均がどうかなんて知らないけれど…。
 もちろん、夫婦生活の質の高さというようなものがあるとして、性生活のみがもっとも大切なのではなかろう。しかし、これはたぶん、普通に誰とでも気軽に相談できる問題でもない。特に長い時間をかけて習慣化した疎遠さというようなものが、なかなか自由自在に変化させられるものではないということもよく分かる。愛が消えたり薄くなったりということでは無いけれど、また付き合いだす前のようなぎこちなさが、そこには生まれているか、もしくは現在を崩しにくい、妙な価値観が立ちはだかっているかのようなことになっている。しかし本来は二人の付き合いというものは、限りなく自由で、そうしてもともとそのような奔放さで結ばれた過去を持っているのである。確かにアメリカ的な外見的な共通の価値観というのはあるのかもしれないが、それすらも越えうる情熱は、いつになっても持ちえるものかもしれない。それが人間的には、非常に大切で、しあわせな基本なのであろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オリンピックに国旗や国歌は不必要?

2016-10-20 | culture

 パオロ・マッツァリーノ氏のブログで、スポーツの前に国家や国旗の掲揚をする意味が分からない、というようなことが書いてあった。さらに1960年には既にオリンピック員会の会長から、将来的にオリンピックから国歌斉唱や国旗掲揚は止めさせたいという発言があったことなど紹介されていた。まあ、そういうリベラルみたいな考えがあることは分かるけど、スポーツというのは純粋に国家や政治と色濃く絡んでいるのが普通だと思っていたから、特に違和感がある。だから僕はオリンピックには興味が無いんだけどな。結局否決はされたらしいが、現在に至るまで繰り返しこのような考えや発言は繰り返されているらしい。切っても切れないものを切ろうとしても、平和になんかならないとは思うけど。さらに国家はもちろんだけど、人の興味というのは、自分の近い地域なんかとも関係があるわけで、選手のための表彰という側面に、国家などの枠が外れたとして、果たしてどれほどの名誉のようなことになるのか、という感じもする。要するに個人の後ろ盾という欲求とも合致したものなのではなかろうか。
 個人の表彰でいいというのは、ちょっと突きどころとしてはありうるように見えるけれど、勝ち上がる上で、どこの地域の代表なのか、というのが先にあるわけで、それが無くて個人で参加できる大会ということであれば、そういう議論もあるかな、という気もする。東京マラソンとかボストン・マラソンとか、そういう大会に個人で出場するのとは、やはり意味が違うんではないだろうか。結局国が争っているような過剰さを揶揄しているという意味はあるのかもしれないけれど、それ以上には賢くない偏狭な考えのようにも思う。まあ、オリンピック委員会ほど、内情が汚れているような感じの組織もそう他にはない訳で(いや、結構あるのかな)、それでも便宜上そういう組織をもって大会を開催するより無い現状を前に、国家で個人等を顕彰するようなことが、大会より上位の名誉であることは間違いないのではないだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

体に良いならもうけもの   脳神経外科医が教える病気にならない神経クリーニング

2016-10-19 | 読書

脳神経外科医が教える病気にならない神経クリーニング/工藤千秋著(サンマーク出版)

 ふだんならこういう題名の本は手に取らない。ちょっと疲れているのかもしれない。
 理屈としては、例えるなら、脳が発電所なら、内臓や筋肉は工場のようなものだとする。そうすると電気を送る送電線が神経という捉え方である。脳や工場が立派でも、電気を送る送電線が傷んだり機能しないと大変である。だから日頃の生活では、神経を大切にすると、ずいぶん体調が違うということらしい。ちなみに血管は水道のようなものだそうだ(栄養を送る)。ところが世の中の健康法の多くは、脳や内臓・筋肉、そうして血管などには注意を向けても、なかなか神経のことは気にかけていないのではないか。それでは何か効率が悪いことなのかもしれないではないか。
 まあ、実際はどうなのか知らないが、理屈はなんとなく分かる気もする。虫歯が痛ければ神経は抜いてもらうより無いかもしれないけれど、そのほかは何とか頑張ってほしい。そんな気にならないではない。
 さらにこの神経を正常に働かさせる方法というのが、基本的に二つだけで事足りるらしく、実にシンプルに簡単で有難い。一つは顔のマッサージで、もう一つは姿勢を正すこと。おいおい、マジか? と思うけど、まあ、簡単だから騙されてもそんなに害はないかもしれない。他人にはあんまり知られたくないけど…。それに顔のマッサージといっても、実際に顔をゆるくつまんだり回したりすればいいだけだし、姿勢の方は、顎を引いて胸を前に出す程度でいいらしい。特にこれで体が悪くなるとは思えないし、まあ、それでいいならいいではないか。
 ぱらぱら読んでいると、それなりに他に体操があったり、腕枕してテレビを見るなとか、深呼吸して食事するとか、まあ、細かくはいろいろ言っている。それらも特に悪いとは言えないかもしれない。ぜひ良い効果があるといいな。
 というわけで、なんとなく他と違う発想で面白いな、と思った次第。簡単なんで姿勢くらいは少しくらい気にかけて改善して、体の調子が良くなったらもうけものである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時には大きな嘘こそ必要   グットモーニングショー

2016-10-18 | 映画

グットモーニングショー/君塚良一監督

 朝のワイドショーのキャスターを務める男の一日を追った作品。と言えばドキュメンタリーみたいだが、家庭の事情や同僚女性の困った言動や立てこもり犯から交渉人に指名されるなど、とんでもない一日を描いたコメディである。僕は個人的に朝のワイドショーを通してみた経験が無いので知らないが、何かモデルになるような番組があるのかもしれない。大変な仕事らしいことは見て取れるが、何故か息子からは甘いものを食べて軟弱な姿をさらしているように言われて尊敬されていない様子だし、テレビ局内で報道班からは力関係で圧倒的に弱い姿をさらしている。立てこもり犯からの最初の要求も、くだらない番組作りに対して視聴者に謝るように断罪される始末だ。バラエティショーがくだらないかどうかは僕には分らないが(何しろ興味が無いから見ないし、観ても意味が分からない)何か最初から自らを卑下しながら仕事をしている部署なのかもしれない。科白の端々から視聴率至上主義に対する大衆迎合的なテレビ局の姿勢に、何らかのアンチテーゼのような機運があるのかもしれない。でもまあそれが仕事なんだから、最終的にはそれには矜持をもって仕事をしているんだというワイドショー讃歌の作品と言えるのだろう。
 しかしながらこの男の境遇も大変だな、と思うが、ワイドショーを製作する現場の姿を物語を展開しながら紹介されているのを見ていると、さまざまな立場の人が限られた時間でしのぎを削りながら仕事をしている様子が見て取れる。突然に湧いて出たスクープ独占事件の勃発で、それらの努力のほとんどは水泡に帰すようなことになってしまうが、番組的には、恐らく凄まじい視聴率を獲得しただろうし、結果的には彼らの今後の人生も変えるくらいの大成功を収めたのではないだろうか。運をきっかけに実力を上手く発揮できた成功談なのかもしれない。
 コメディとして気楽に楽しんで、それぞれの仕事について自分なりの矜持を持つようなことになれば、それはそれで有益だろう。良く考えてみるとかなりあり得ないところは多かったのだけど、内部倫理を覆すほどの仕事上の嘘ということも、なかなか考えさせられるものでありました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幸福は議事録を作る会議   究極の会議

2016-10-17 | 読書

究極の会議/鈴木健著(ソフトバンククリエイティブ)

 内容を一言で言ってしまうと、会議の場で議事録を作ることを目的とする会議「議事録ドリブン」の方法の解説である。世の中には様々な会議があるだろうが、会議が好きな人はとりあえず置いておいて、ほとんどの人はそれらの会議にうんざりした経験があるのではないか。どうしたら、もっと効率的で有意義な会議が開催できるだろうか。そのような悩みをもって、実際に試行錯誤した経験を持つ人もいるのではないか。結果的にいい会議になっているのならばこの本は必要ないだろうけれど、現在もそのような会議に苦しめられている個人や会社があるのなら、迷わず一度は手に取って見てみたところで損は無いだろう。もちろんこれが向かない内容を会議で追っているのなら、もうあきらめて人生の無駄を会議に使えばいいだけのことである。
 まあ確かに非常に面白かったのだが、公的な会議の席をこのような効率的なものに変える事は難しいとは思う。何しろそのような必要性ではなく、実績を作っている会議というのが、残念ながらその会議の目的である場合も数多い。実際にそのような会議ばかりに出ている身としてはさらに残念な感じはするが、しかしこと自分の職場の会議であれば、この方法をさっそく取り入れようとは思ったところだ。おそらくすぐに使えるし、劇的に会議の内容を変えるだけでなく、精神衛生上、かなり救われる時間が増える気がする。まあ、実際にかなり贅肉を落として実施されている会議になってきてはいるが、まだまだ改善できるという思いはあった。その方法の一つが、会議ドリブンであることは間違いないようだ。さらにボードを使った立ちミーティングや、散歩会議なんてものも、徐々にやってみたい。まあ、すでに自己流ではやってたかもしれないな、と思うものも多かったのだけど、具体的にはこの本のような動的な感じはいいと思った。
 またさらに断っておくと、一般の会議の主催者が挨拶して報告事項を並べる類の会議自体を完全に否定するものではない。もうそれは、その団体としては仕方のないフォーマットであることは間違いない。そういうものに出たくない気持ちは変わりないが、いずれ現役を引退すると縁は切れるだけのことだ。
 問題なのは日頃の業務で仕事を進める上での会議の在り方にあるのであって、その会議をそのようなフォーマットに閉じ込めてしまうことなのだと思う。結局そのような気分的な合意形成だけを目的とした非生産性の高い会議を、仕事の中心にしてしまうことが残念だということだ。しかし、当たり前だが、そのような会議を好きで選択をしているところが、会議ドリブンを採用しないからダメだということでは無い。ちょっと不幸だが、そういうところが多いなら、差別化されてこちらも助かる。
 会議の在り方に苦労させられ続けている身としては、個人の幸福が会議に含まれていることを知っただけでも得をしたかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする