にあんちゃん/今村昌平監督
炭鉱で暮らす人々の暮らしを描いた作品。
今でいうと在日の人と混在した生活を送る人々ということになるのかもしれないが、土地を持たない労働者というのは、そういう立場の人たちの集まりだったということなのだろう。それも歴史だが、今はその堺が無くなっているだけのことだろう。
それでもその当時からこのような図式が問題意識として映画になっていることから、社会問題化できるという意識は当然製作者側の方にもあったに違いない。自然のことでありながら、はっきりと社会問題でもあったということだろう。貧しさだったり劣悪な環境の代名詞が炭鉱というイメージがあるのだけれど、それはこのような映画から生まれたものかもしれない。結果的に炭鉱というのはずいぶん環境は整えられたことだろうから、その影響は後世のためにはなったのではなかろうか。もちろんそれは炭鉱に限らず、後の労働者というものへも影響があったはずで、現在の目からは資料的な価値というものもあるだろうけれど、結果的にはやはり過去の一面のエピソードということになるのだろう。
それにしてもただでさえ厳しい時代にあって、両親を失ったきょうだいの境遇は、やはり厳しい。厳しいが、炭鉱だから働くところがあり、そしてそういう場所でしぶとく生きていかざるを得ない力強い人間がいる。大人たちは乱暴だが、困るのはお互いさまで、やはり個人個人が強くなければどうにもならないのだ。
そういう中で順番に働こうということになるが、まだ働けない年頃の子供はどうなるか。けなげだが、それでも何とかして生きて行こうとする。いわゆる他人にすがらなければ生きられないのなら、早く大人になればいいのである。無理をして上京して職を得ようとまで無鉄砲に行動してしまうのである。
なんだかいい映画だったけど、この状況を土台にして今の日本があるということに、本当に納得のいく現代人なんてどれほどいることだろう。月並みだけど、自分を棚に上げて、やはりそんなような感想を持ってしまう。このようなバイタリティはもともと持っている資質ということではなく、本当にハングリーだからこそ育つ人間性だということなのだろう。
貧しい生活を描いた映画というのは数が多いが、イタリアのような悲惨さということでもなく、ドイツのような閉塞感でもなく、アメリカのような恐ろしさというのでもない。南米やアフリカのような暴力で無く、中国やインドのような混沌でも無い。そういうところはやはり日本だったのかもしれなくて、そうしてそこには在日の人とも共存していた訳だ。やはり現代はどうなってしまったんだろうと思わずにいられない。いや、ひょっとすると、共存のヒントもこの時代にあったのかもしれなくて、その上やはり日本という国あっての環境だからこの状況が可能であった可能性もあるかもしれない。
社会性のあるドラマだから、物語を追うだけでは無い事をあれこれ考えさせられる。名作といわれるものは、やはり奥が深いのである。