カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

アイドルの思い出

2011-06-30 | 雑記

 少女隊というアイドルを懐かしんでいる人の話を聞いていて、そういえば「一心同体・少女隊」という言葉は覚えてるな、と思った。それでyoutubeで確認して見たのだが、驚いたことにまったく見覚えが無い。いや、なんとなく見た気がしないではないけど、歌っている歌のメロディでさえもまったく覚えが無い。たぶん高校生くらいの時だったから、まわりの人間から話くらいは聞いていたはずなんだが、どうも不思議だ。
 そういえばアイドルといって思い出すのは何故か伊藤つかさや松本伊代で、自分で買った覚えは無いがレコードが家にあったような気がする。恥ずかしさもあって記憶を封印しているのだろうか。薬師丸ひろ子のポスターか何かも、貼らなかったが持っていたかもしれない。
 高校の部活で、確か九州大会だったと思うが、沖縄で試合をした。宿舎でテレビをつけたら「夕焼けニャンニャン」が放映されていて、初めて見たので少し感動した。長崎では放映されていなかったのだろう。しかし国生さゆりくらいしか顔は知らない。
 ある人にボート場に西村知美が来るというのでつれて行って欲しいといわれて行ったことがあったが、さすがに人が多かったのでああいう感じかな、と思ったくらいだった。後に天然タレントさんの代表的な人になるのだが、その頃はちゃんとしていたような気がする。その時買った船券は見事にすべて外れた。
 女の人に興味が無いわけではないと思うが、アイドルに熱中したことは無いのかもしれない。カサブランカという映画が好きで十数回観たと思うが、それでバーグマンがいいという気分になったが、今見ても特に心がときめくわけでは無い。少し太り出した頃の松坂慶子のドラマや映画などをたくさん撮りだめしていたこともあるけれど、それは何故かは秘密です。それに、特にファンというわけではない。東京ラブストーリーでは鈴木保奈美よりも有森也実の方がいいという論争があったが(ごく狭い中でのことだが)、その通りだと思うものの、だから男は駄目だという議論には納得ができない。
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残酷なのはどちらか

2011-06-29 | culture

 読んでいる本の中で、欧米では日本人が動物に対して残酷な国民であるという認識がある、ということが紹介されていた。捕鯨問題が持ち上がる以前の話で、そのきっかけとなったのは日本の南極観測隊のとった行動であったという。映画にもなったあの「タロ、ジロ」物語のことである。一方で英国の南極観測隊も同じように犬を連れて帰れない状況になったことがあり、その時は全頭を射殺したのだという。このことについて欧米人が共通して感じるのは、射殺したことが慈悲深い行動であり、絶望的な状況で生きたまま残しておくセンチメンタリズムこそ残酷であると感じるということなのだった。
 原発事故にともなって避難所に飼い犬を連れていけない状況に陥った飼い主が、一時帰宅の時に餌を与えている映像が紹介されていた。この次はいつになるか分からないということで、鎖を解けやすくするのだと言っていた。案の定帰る瀬戸際に鎖がほどけ、飼い主の車を追っていつまでも駆けて来るのだった。
 考え方の違いなので、どちらが正しいということではない。しかし相手の方が残酷であるとどちらの側も考えているらしいということが、問題といえば問題だ。確かに日本人の側の行動は、目先の状況に左右された問題の先送りに過ぎない。センチメタリズムによる無責任な甘い行動と捉えられることもよく分かる。そして、多くの日本人は実際にその通りである。だが、一方で射殺までして責任を取ろうとすることが、慈悲深く尊い好意だと言われるのは大いに抵抗を感じるのではないだろうか。犬とはいえ、そこまでして相手の生命の問題まで介入して決定権を持とうとする姿勢にこそ、何か人間の傲慢ささえ感じさせられる。
 基本的には自然に対する考え方の違いが根本的にあるのだろうとは思う。生命に対する自然観というものが違いすぎるのである。欧米人は自然と人間の対峙姿勢があるように感じる。自然を切り開いて自分自身の力で生き抜いているという感じだ。一方で日本の場合は、人間も動物も基本的には自然に生かされている一部であるという認識があるものではなかろうか。完全に割り切ってそうだということは必ずしも言えないが、そのような感覚を出発点として飼い犬との接し方にも違いが生まれていくようにも思う。
 北欧の犬はヒトに向かって吠えることは無いといわれている。もちろんそのように躾けられているということなのだが、北欧の冬は長く人間と犬との付き合いが濃密になるらしい。そういう中で人間に向かって吠えるような犬であれば、殺されてしまうということだった。
 ドイツには捨て猫や野良犬が存在しないのだという。日本でも野良犬の存在はほとんど無くなってしまったが、猫ということになると、ノラの存在はむしろ微笑ましいとさえ感じている人が多いような気もする。散歩中にも餌を準備している人をチラホラ見る。田舎というのもあるだろうが、放し飼いをしているということに、特に罪の意識などもなさそうだ。
 責任感ということの、その責任の取り方についてもかなりの隔たりがある。僕も犬を飼っているけれど、手放さなければならない状況は想像すらしない。もちろん南極につれていく予定も無いが、この先飼えなくなる状況が絶対に生まれないとはもちろん言えない。しかしどのような行動をとるだろうかということは想像できて、しかし実際にどうするかはその時まで分からない。どうしても結論を出せと言われたら、考えすぎて自殺してしまうかもしれない。
 欧米人の日本人に対する非難には、単純な偏見や無知が前提として存在している。そしてそのことに対して無頓着である。しかしながら日本では美談として語り継がれている出来事が欧米人への不信につながっている事実があるということは、少なくとも知っておいた方がいいのかもしれない。それで相手が納得できるかどうか知らないが、少なくとも深い溝の存在があるという事実を知ることが、お互いの為になるだろう。そしてそれは簡単な解法を許しはしない。問題は議論に勝つことではないが、それすらも相手は理解しないだろう。
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積読

2011-06-28 | 読書
 最近また読書欲がむっくりと起き上がってくる感じがあるのだが、うっかりしていると増えすぎる。どの道ほとんど読めないが、、積んであると仕合せではある。急に注文が増えたのは、たぶん梅雨のせいであろう。暑くなると活字を追うのが億劫になるし、どういうわけか意識も突然失う。今のうちに追えるだけ追っておく必要があるのかもしれない。毎日数ミリの歩みが読書の道である。散歩できなければ読めばいい。しかし今日は晴れているな。暑いと出歩けないのでやっぱり読むしか無いのであろう。
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今週のたなくじ

2011-06-28 | 掲示板
 昨日ビデオにとっておいた「たなくじ」を夕方に撮影していたことを思い出した。本番も撮ったのだけど、写りが悪かったのでこちらにしておこう。ちなみに僕はまったく占いには左右されないし、むしろ嫌いである。あたるか当らないかは実にどうでもいいし考えるだけでも人生の無駄であるが、どうでもいいから楽しんでいる人もいるのかもしれないとは薄々理解できるまでには大人になった。というか写真にとらないとよく分からない自分の人生の様なものというのは、なんだか望ましいかもしれないな、などとは思うのであった。
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高速道で帰らない

2011-06-27 | 雑記

 天神での結婚式に家族で出席した。荷物も多かったので車で行ったのだが、僕は酒を飲んだので帰りはつれあいの運転となった。彼女は訳あって(話すと脱線がはなはだしくなる)高速道路の運転が苦手なので一般道から帰ることになった。
 車のナビゲーションに頼るのでそう問題は無いのだけど、長らく九州道と都市高速ばかり利用しているので、いわゆる下の道をすっかり忘れてしまっている。十代後半と二十代前半は、本当に頻繁に博多にドライブに来ていたものだけど、なんだか適当に道が分からなくなってしまった(というか、行けば思い出すだろうけど、自信が無いというか)。3号線と34号線を乗り継いで行こうかとも考えたが、ナビの方がすんなり三瀬峠越えを選択。混むことも考えると妥当かもしれないと従うことにした。
 僕は助手席に座ってナビの指示をさらにドライバーに伝えるだけ。実際はほとんど意味なんて無いだろうけど、つれあいの眠気防止の様なものだろう。
 助手席からの風景というのは、運転する時とは微妙に違うものだ。堂々と脇見ばかりしながら道を進んでいくと、変わってしまった風景と、そして懐かしい風景とが交差してなかなか楽しい。なんとなく昔のことも同時に思い出していく。いろんな人といろんな事情を抱えてこれらの通りを何度も通った。ドラスティックに変貌しているところには驚きも覚えるが、以前食事に立ち寄った店などを見つけると、妙に微笑ましい気分なった。
 三瀬越えと佐賀に入ってからの国道沿いなどから思い出されるのは、映画「悪人」のロケ地かもしれない。実際にどこだったかは明確に覚えてないけど、だいたいあのあたりだろうな、というのはなんとなく分かる。まったく見当違いなこともあったろうが、少なくとも制作側がこのあたりを選択したというのは、追体験としてなんとなく面白いものである。
 僕はまだ長崎道が佐賀大和までしか来ていなかった時代に免許を取ったので、本当に34号線は何度も通った。もちろん免許を取ってもお金の節約があったのと時間の制約が無かったので、結局下の道を使うことも多かったのだが…。三瀬峠はかなり変わってしまってほとんど新道という感じであったし、佐賀のバイパス道と武雄の一部は変わっていたけど、多くの道は、ある意味ではさびれたように昔のままだった。今はどこも道が広くなっているので、却って昔は感じていなかった妙な圧迫感のある道幅の狭さに、高速道路全盛時代の物悲しさの様なものさえ感じさせられる。
 ナビの方は444号線を選択したかったようなのだけど、あえて無視して嬉野経由を通る。もうナビの方には仕事をしてくれなくてもかまわなかったのだけど、無視をすると新たにルート検索などを開始したりして、忙しくもけなげなものであった。まあ、アナウンスの声がうざったいのだけど、解除する方法がよく分からないので馬鹿にしながら無視を通すわけである。
 式場のホテルを出た時の予想到着時間は5時間近く後ということだったけれど、ちょっとした休憩も入れて、だいたい3時間半という道のりで帰りつくことができた。別段すっ飛ばしていたわけでもないので、ナビの予測というのは慎重なのであろう。しかしながら高速道路だと2時間弱ということを考えると、なかなか贅沢な時間の使い方なのかもしれない。楽しかったです。ドライバーはもちろん、乗り合わせた家族の皆さん、お疲れさまでした。
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オヤジギャク

2011-06-24 | ことば

 笑えない洒落などのギャグを飛ばすと「オヤジギャグ」と揶揄されることになる。実はと断るまでも無くいつの間にか口にしてしまう訳で、自分自身でも嫌になることは多い。面白くない、とか出来が良くないことはよく承知しておきながら、思いついた言葉が発音されてしまう。自制しなくてはならないことはよく分かっていると思いながら、しかし言わずにおられない時もあって、なるほど、この衝動こそがオヤジ化しているふてぶてしさなのではなかろうかと思っている。
 面白くないのに笑わなければならない強制力の様な空気を醸し出しているめんどくささが、オヤジギャクが嫌われる最大のカギだと思う。面白くないと正直に言ったところで、その不機嫌になってしまう態度は大人げない。そういう腹立たしさもあるし、さらにどうしてよいのかという戸惑いもあって、なんとかしてくれよという気分に人をさせるのだから、罪深いということは言える。本来はジョークを飛ばして、その場を和ませたいとは少なくとももくろんでいることがまったくの裏目に出るのだから、罪だけでなく害である。
 しかしながら、洒落が必ずしも面白くなかったりウケなかったりすることは、事前に確定しているわけではない。実際僕より先輩たちのオヤジ連中の間では、オヤジギャクは結構ウケているようにも見える。爺さんばかりの会議の席では、案外シャレが飛び交って、その都度会場が鈍くどよめくことはよくある。そういう風景をよく目にする年頃になってしまって、ああ、俺ってこの中に同化している、と悲しくなってしまう。事実は残酷なのである。
 たまに事務方に若い女性などが混じって議事が進むことがあって、最初は皆が自制しあって大人しいのだが、ある程度のヤマ場を過ぎると、誰かがオヤジギャクを披露してしまうことがある。これがいけない。うっかり少しでも女性が笑ってしまったりすると、これが引き金になってタガが外れるというか、オヤジたちが競ってギャクを連発する事態が発生するのである。ただでさえ場違いながら仕方なく仕事で参加している若い(若め、という範囲で十分だが)女性は、引きつったまま笑顔を維持しなくてはならなくなって、目が白黒したり顔が青ざめていくのである。気の毒だが誰も止められない。特に人のいい女性ほど被害は大きいので、うっかりにはくれぐれも注意が必要だ。
 僕らの世代は若いころにシャレが流行った経験を持っている。代表的なのは「あのねのね」で、しょうも無いけど、何度も聞いてちゃんと笑っていた。あれは芸なので面白いのであって、噺家などがダジャレをいうと、やはりちゃんと面白い。出来がいいというのもあろうけれど、やはり年季の入った力がそうさせるのであろう。自分だってそのような笑いを取りたいという願いはあって、そうして創作するのが簡単そうにみえることから、競ってシャレを飛ばすという訓練をすることになる。麻雀などが顕著だが、グダグダだべっているときに連続して名作が生まれたりすることがあって、感動的に面白く思えたりもするわけだ。あれは精神的な疲れもあって面白くも無いものが不思議に面白く変わるのだという意見もあるが、しかし本当に腹がねじれる位笑ったりするのだから凄いものである。
 そのような経験を経て、いわばオヤジの資質を身につけて大人になると、いつの間にか嫌われるようなことになってしまっている。そのようなオヤジとしてのつまらなさを取り繕おうとして、さらに墓穴まで掘ってしまう。いつかは名作を生みだして挽回できると思っているのだが、その時はなかなかやってこない。
 ギャグの滑りは滑り方によっては殺意を喚起することもあるから、保身のためには諦めを覚える必要もあるのではなかろうか。
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なう、の消滅

2011-06-23 | net & 社会

 何でも旬だとかブームだとかいう勢いのあるものでも、いつかは衰えるというか速度が落ちるのは当たり前だ。全体としては益々拡大しているということはあるだろうけど、その拡大する速度は落ちている感じがする。もちろん物事には限界というものがあり、ひょっとすると適性というものもあり、今が正常というということも言えるのかもしれないけれど、なんとなく、その勢いの落ち加減で、さらに減退する気分の様なものに影響を受けるということにもなるのかもしれない。つまりはそれは個人のつぶやきの頻度に表れていくのかもしれない。
 なんとなく今までのようにつぶやけないことに、やはりその面白さの様なものの色あせるものを感じる。新しいや新鮮は、物珍しく楽しいということもあったわけで、慣れて慣性のあるとは認められるものの、なんとなく立ち止まってしまうことも多くなった。開いては見るがツイートを追えない。もちろん絡みも少なくて、ある程度フォロワーが増えているにもかかわらず、発言をすると却ってフォローが減ったりしている。これは今日ひろゆき氏のブログを読んで気付いたが、今までフォローしていてフォローしていたことを忘れていた人が、改めてつぶやきを拾って思い出し、(つまらなく思うか何かして)フォローを外してしまう現象なのではないかという。実際そうなのか知らないが、発言をすることでフォローが増えるのではないかという期待も淡くはあるわけで、逆の結果になるという現象にはさらに驚くというか、残念に思う。
 閲覧専門の人がいるらしいことは了解しているけれど、僕だってほとんどの場合つぶやくよりトピックを追うように閲覧するのが中心であるわけだが、しかし、閲覧のみの無反応というものについては、なんとなく考えてしまうものがある。行為自体は自由だが、やはり反応が欲しいようだ。打てば響くというのは喜びで、響きが伝わったのかどうかさえ不明というのは確かに空しい。かといって自由も侵害できないし、非難もしたくない。ではそういう願いは無い物ねだりなのか。そうしてやはり足が遠のく。
 まあしかしなるようにしかならないわけで、一時より発言自体は多様化し、「なう」などの言葉も見当たらなくなった。それになによりトレンド表示が日本語になって、現在の事件を追いやすくなったのは大きいと思う。例えば今日だと加藤ローサの結婚を知り(というかこの人見たことあるな、という確認みたいなものか)カンヌ国際広告際というものがあるらしいということと、その中で九州新幹線の、あの名作CMがグランプリだと知った。だからなんだ、というのがtwitterの醍醐味なのだから、それでいいのだと思う。
 まあ、飽きた感じもあり、惰性が続いている感もあり怠惰だなあ、という心象風景なのである。
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エルビス!

2011-06-22 | 音楽
Elvis Presley - A Little Less Conversation


 某缶コーヒーのCMで懐かしく思い出した。
 僕自身は特にファンというわけでもないけど、友人のお兄さんが熱狂的なファンだった。いわゆるナンパな象徴というより、素直に曲や歌が素晴らしいということなのだった。確かにその通りで、某NHKなんかで当時のプレスリーを振り返ると、時代の風俗としてのナンパで自由なアメリカという感じがして少し辟易する。それはそうかもしれないが、なんだか少し違うんじゃなかろうか。


 しかしながらベタベタの魅力も確かに捨てがたい。僕はサイモンとガーファンクルの方を先に知っていて、改めてプレスリーのものを聞いて、なんか笑ってしまうけどいいなあ、とは思うのだった。

Elvis Presley - Bridge Over Troubled Water (april 1972)


 彼は42で死んだんだよな。いつの間にか年下じゃん。ちょっとというか、改めて愕然とする思いであります。
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ホリエモンとTシャツ

2011-06-21 | 時事

 昼間のことだから当然見てなかったのだけど、昨日ホリエモンが収監されたというのは知っていた。僕は友人でもなんでもないから感傷的にもなれないが、2年半近くというのはそれなりに長いなあと思う。彼は時代の寵児だからある程度は復活するだろうけど、それでも今の様な状態になるかは微妙なタイムラグじゃなかろうか。
 さて、収監されるにあたってはモヒカン頭になったということでそれも話題のようだが、確かにこんな機会じゃないとなかなかなれないヘアスタイルではある。似合うかどうかはともかく、好感を持たれるいい態度だと思う。もちろん嫌悪感があるという人が多ければ、という条件はあるわけだが。
 そうしてよく知らなかったのだが、彼の着ているTシャツもなかなか面白い。抗議の意味もあり洒落でもあるんだろうが、ちょっといい感じである。Tシャツを着て運動するタイプの人間ではないけど、話の話題に着る人がいるのは、コントラストとして楽しいかもしれない。もちろん、僕はそんな人と友人になっていいです。

追伸:Tシャツに書かれている企業も怒っているようで、作戦は大成功みたいです。反応してくれなきゃ反抗している意味無いですもんね。
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三色ボールペンとペンカット

2011-06-20 | 感涙記

 昨日は父の日ということで息子たちからプレゼントを貰った。一人からはジョットストリーム三色ボールペンを二本。すでにストックは数本持っているけど、僕は一種のメモ魔なのでいくら買い置きがあっても大丈夫。酒がいくらあっても邪魔にならないのと同じである。いつかはちゃんと無くなってしまうのだから。
 そしてもう一人からはペンカットという携帯ハサミだった。
 嬉しくてすっかり舞い上がってしまっていろいろ切りたくなる。一夜明けても熱が冷めなくて不必要にチョキチョキ切ってしまう。まあ普通に切るなら専用のハサミの方がよく切れるようだが、いちいち変形させてハサミにする動作が無いと落ち着かなくなってしまうのだった。
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北米体験再考

2011-06-18 | 読書
北米体験再考/鶴見俊輔著(岩波新書)

 なんとなく紀行文の様なものかと思って手に取ったのだが、どうも様子が違うようだ。戦時中に北米に留学していた著者は、敵国日本人ということもあってか、つかまって取り調べを受ける。何もしていないのだからそのまま残っても良かったのだが、何故か帰国を選択してしまう。その後日本は負けたのだから、恐らくそういう選択をした方が苦労したに違いないのだが、留学当時から著者は漠然と反米意識を持っていたらしい。日本のエリート知識人であり、かつ反米思想をもつ左側の人の人生を振り返るということになっていく。
 米国内では日本人は少数の立場であった所為で、同じく少数の虐げられてきた立場の人達とのかかわりがあったものらしい。日本人自体は特に迫害を受けてきたわけではないのだが、米国の歴史の中で、まさに命を削りながら戦ってきた少数者からは、好意を持って接せられるという立場にあったようなのだ。
 アメリカというのは、人種的に正に複雑な国である。もともとの原住民であるインディアンから土地を奪い彼らを虐殺して住み込んだ歴史から、黒人の奴隷を使い差別しながら発展をしてきたという土台を持っている。その上で左側知識人までも迫害しながら、曲りなりにも現在に至るまで、悩みながら、偏見を抱えながら、ある意味で成長を遂げてきた超巨大な国家である。問題は内包しているが、今現在に至るまで、たくましくも世界の王である。傲慢で厄介だが、君臨者としては、現在に至るまで、その力強さは変わらないようにも思える。
 そういう姿に、やはり一貫して反米意識を持ちながら対面してきた自分というものはいったい何なのか。個人の体験であり、しかし同時にアメリカの深いところでドロドロと渦巻く傲慢な姿をあぶり出していく作業を通して、近代アメリカの苦悩や問題点を考えていくということになる。それは、多くの日本や日本人にも共通して理解できる反米感情の姿であるとも考えられる。もちろん多くの人は運動家ではなく、静かに傍観しているだけなのだろうけれど、米国に好感を持ちながらも、どこか割り切れない感情も同時に持ち合わせているのではなかろうか。漠然と形にならないまでも、それが何なのかというのは、著者の視点を交えて考えることにもなっていくのだろう。
 僕の中にもかなりはっきりとした反米感情はある。しかしながら同時にアメリカから逃れられない立場がそうさせていることも理解できて、客観的な憧れられる米国というのもよく分かる気がする。比較して日本という国の将来においても、恐らくこれからも続くだろう米国との関係が、やはり重要であることに変わりがないことも理解している。逃れられない一蓮托生でもあり、しかし離れたくも無い頼もしさもあるのだろう。今の日本は誤解を恐れず言い切ってしまえば、アメリカ無しに現在を迎えられなかった。事実は事実として受け入れ、これからも考えていかなくてはならない、かなり重要度の高い対象なのである。それがあるときには情けなくもあり憎らしくもあるのであろう。
 僕自身は必ずしも左側の知識人にシンパシーを感じないのだけれど、彼らの分析する米国の姿には考えさせられることが多いのも確かだ。この本でももともと知っていることも含めて、改めて歪んだ米国の精神史の様なものが垣間見えて、そして日本という立場が、このゆがみの中で翻弄され続ける怒りの様なものを共有することは多かったのである。そして、やはりどこか無力に見える日本についても、少なからぬ怒りの様なものを、もどかしくも感じたのだった。
 国に対峙するなかで、個人の力というのはあまりにも小さい。しかしながら個人が深く考えることによって、その国の在り方というものを見つけ出すことは可能だろう。そして、そのことが本当に共感を持って受け入れられる事があるのなら、ひょっとすると流れをつかむこともできていくのかもしれない。誰もが運動家にはならないといったが、今や世論は(行使されることが無い)武器よりも力が強い存在になった。そして多くの人は、本当の米国史などは深くは知らない。知っていることが本当に武器になりえることも、個人としては知っておいてよいと思う。むしろ知識人が力強いのも、このような共感を理解できる度量あってのものなのだろう。
 紀行文ではなかったものの、読後感としては、思考の旅はできたのではないだろうか。
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朝が来た あ

2011-06-15 | 音楽
Bob Marley Soul Captive


 敬愛の念を抱きながら完全録画し視聴している「0655」のオープニングの原曲。我が家族のためにあげておく。
 真心ブラザースの歌っている歌詞の、なんとも言えない馬鹿らしい様な清々しさもまた、いいんですよね。実に当たり前で潔い。不思議と元気になるものなんです。「(朝が来て昼が来て夜が来て、地球が)もう半分回ったら、次の日だ」って言うんですけど、そうだなあ、とうなづくしかないです。毎日は地球が回っているから訪れてくるんだよな、という不思議な感動を味わうことができます。天気予報も見なきゃいけないけど、これも見なきゃなあ、と思いながら毎日過ごしております。
 
追伸:最近「アルデンテの歌」が復活したのがまた、嬉しいです。
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不誠実なまじめさ

2011-06-14 | 境界線

 有名なパラドクスに「クレタ人は嘘つきだ」というのがある。確か、そう言った人がクレタ人である場合、彼は嘘つきであるクレタ人なのであるから、クレタ人は嘘つきで無いことになる。いったいクレタ人は本当に嘘つきなのであろうか。
 これは悩ませることに主題がるわけで、悩むのを楽しむゲームだと考えた方がいいようだ。本来嘘つきが嘘ばかりつくというのは、嘘をつくことに正直な人だといえて、正直な嘘つきということになってしまう。嘘つきというのは本当の中に嘘が含まれているからめんどうくさいわけで、必ず嘘だと分かっている嘘は本当の発言ととらえても何ら問題は無い。また、クレタ人という設定が胡散臭いわけで、クレタ人の中でどの程度嘘をつく習慣があるのかということで判断する方が筋だろう。嘘が含まれている状況が困るわけだから、10分の一でも嘘の可能性があるというだけでも、クレタ人の信用度は著しく損なわれるような気がしないではないが、しかしその確率で広く「クレタ人」全体を嘘つき呼ばわりするのは不当だという意見を仮に尊重するならば、過半数である半分以上であれば、クレタ人をうそつき呼ばわりしてもいいというようなことにしてはどうだろうか。
 しかしながら嘘の武器は、本当かどうかさえ判断がむつかしいことにある。むしろ本当であるということが最初に信じられなければ、嘘として存在価値が減退してしまう。仮に嘘をつくことで得をすると仮定すると、嘘をつく確率は高まるだろうとは考えられる。だが、嘘をついた人が得をすることで、嘘で騙された人が損をするということになると、つまり嘘つきの信用度が下がり、長期的には信用の無い嘘つきは損をするという考え方もある。嘘というのはバレる時期がどこにあるのかということで、損得勘定に違いが出るようだ。もちろん人間関係の短期か長期かという問題が前提にありそうだが、嘘そのものがバレやすいものかバレにくいものかということが、嘘としての価値として関係がありそうだ。
 要するに嘘なのか本当なのか、容易に判定できないものが、嘘として一級品のようなのだ。いつまでたっても嘘とは判定できないものを嘘と呼んでいいものかどうかという問題はあるのだけれど、あえてすぐれて高度な嘘はそのようなものであるらしいとは覚えておいた方がいいのではないか。
では、そのような嘘になりやすいものは何かというと、その本当か嘘かの境界線線上にある判断がそうなのではないかと思われるのである。
 よく白黒はっきりつけようじゃないかということは言われるわけで、微妙な問題であっても、はっきりさせてすっきりしたい欲求が人間にはあるように思う。どちらかよく分からないままでいると、どうにも落ち着けない。そうして境界線上にあるものを無理に右か左かに置き換えようとしてしまうことがあるのではないか。見ている位置によっては、はっきりどちらかに見えてしまうような場合だってあるだろう。しかし反対側の人から見ると、明らかに間違っているわけだ。そういう境界線上のある問題が、嘘の発生源のようだ。
 あえて嘘という言葉を使ったけれど、実は嘘は嘘をつく主体的な問題であるようでいてそうではなく、嘘をつかせるような客体的な環境問題なのかもしれない。嘘をついたとされる発生源には、必ずと言っていいほど嘘を要求するような客体的な欲求の方が先にあるのではあるまいか。問題はその境界をどうするかが問題であって、どうしたかという結果の問題ではないのではないか。もちろん、その結果によっては、どちらかに利害が偏る場合が多いわけで、損害側から言わせると、結果が嘘の様なものに見えるわけだ。
 嘘というのは被害者の側から見える風景なのではないか。いや、問題視する方はどちらかといえば被害をうける方だろうから、加害者である方も嘘に見えなければ賠償が確定しない。つまり嘘つきは嘘を認めないというのが、まじめで真っ当な態度なのだ。
 嘘つきに不誠実だとなじる人があるが、本当に嘘つきであれば、不誠実な態度でなければならないのだ。ゆえにまともな嘘つきの多くは不誠実だ。そんなことを証明されても、何の救いも無いわけだけれど…。
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強いものが生きにくい社会

2011-06-10 | HORROR

 人間はもともと邪悪なものなのか、それとももともとは純粋なのに生きていく上で悪を獲得していくものなのか。つまり性悪説なのか、それとも性善説なのか、という議論がある。どちらの話にもそれなりに納得できるので、場合によって違うのではないかとは思うし、どちらも正しいのであれば、人間がもともと持っている悪さと、後から獲得する悪さがあるのだから当たり前ではないかという気がいつもしている。どちらかだけであると言い切るには、あまりにも悪事が多すぎる。
 さて、これは性悪説であるといえるのだろうが、規制緩和をして自由に競争することがいいことであるという議論があると、必ずと言っていいほど行きすぎる自由は社会を壊す、というようなことをいう人がいる。何事もいきすぎは害だというのは理解できるものの、すでに行きすぎた規制があるという前提から話がスタートしているのだから、基本的には今を肯定する根拠を示す方が先だと思うのだが、そういうことは事前には言わない。代表的なのは小泉改革であるといわれ、いろんなものが壊れたらしいが、形の上で壊れたのは何であったのかさっぱり分からない。今となっては、むしろ改革には手をつけなかったのではかろうかといわれている始末である。
 まあ、政治や経済の方は、その分野の人たちにはいろいろと言い分があるんだろうが、結局良く分からない話まで展開するので結構なのだが、多くの人々の共感のある自由の恐怖というのがあるような気がする。
 確かに弱肉強食という世界は、自由な野生社会の象徴のような気がする。何も規制の無い世界に生きるということは、原始や野生の世界を観察するとよく分かるということなのだろうか。しかしながらその野生の世界を実際に観察すると、実は秩序だっておさまるところに自然におさまるようにも見える。大いなる自由の摂理。まるで神の存在を確認するかのようだ。また、確かにライオンは強いが、本当に有利に繁栄しているのは別の動物なのではあるまいか、とも考えられる。強いものが本当に頂点だというのは、人間の勝手な印象にすぎないのではないか。
 または、規制や決まり事というのは、守らない人がいるから生まれたルールであるともいえる。またはそのような危険を防止するという本来の目的があるのだろう。
 それでは決まりを守らない人達とはどういうものか。それこそが、人間の利己的な欲望の強い人達であるというのが、規制支持派の多くの印象なのではあるまいか。自分の欲求の強さのまま行動をすることが、必ず害悪への道へつながっていくという考えがあるのだろう。確かにそういうところは自分の胸に手を当てて鑑みてみても、なんとなく後ろめたく納得できる。欲しいものは際限なく欲しくなるというのは、実感のしやすい感覚かもしれない。また、決まりを守らない代表格であるヤクザの様な人達からも、決まりがあるから守られているというのは、おそらく確からしいことなのだろう。
 自由ということの背景に、実はそのような欲望や、邪悪なものがオートマティックに連想されている可能性があるのではなかろうか。まさに自由の信用の無さ、そして恐怖である。
 もちろん空気抵抗があるから鳥は自由に空が飛べるという理屈がある。多くの人々は決まりに守られて自由を満喫しているという実感が強いのだろう。そうして規制は際限なく積みあがっていく。いつかは羽ばたく余裕さえ奪ってしまうだろうところまで。
 人々の恐怖感は欲求の裏返しで際限がない。安心のための対価として、不平等な規制が蔓延しているという実感までたどり着けない。規制緩和を考えるという時に新たな規制強化の様な代替案が登場したりするのは、結局はそのような心情を払拭できないためなのではなかろうか。
 痛みや恐怖は人間の生存を守る機能との関係がある。もちろん規制に守られている既得権益を得ている人々にとっては、生存権をかけての戦いである。そうして弱者である人々にはさらに大きな規制が敷かれ守られていく。そうした正義の思想が弱い人達をもっと弱くしていくにもかかわらずである。
 弱いことが強いこと。これからも弱さを誇る競争は、激しさを増していくに違いないのである。
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就職するなら政治家に

2011-06-09 | 読書
国会議員の仕事/林芳正・津村啓介共著(中公新書)

 友人に政治家がいるので(そしてたぶん僕のブログも読んでいるだろうことから)言いにくくはあるが、僕は政治家になりたいという気持ちがさっぱり分からない。いや、この国のために何かやりたいとか、政治の力で何かを変えたい、というような気持ちは少しばかりは分からないではないし、僕だって世の中の多くの問題は、政治的力で変えるべきものがたくさんあるということは認める。しかし政治家になるにはその前に選挙を戦わなくてはならない。それはもちろん当然のことであるけれど、選挙で勝ち取った後に初めてそういう仕事ができるということに、職業としての政治家ということがどうしても自分自身の憧れとなり得ないところがあるのだろうと思う。
 別段官僚になりたくもないしなれもしなかったが、広く公務員になりたいというのは、仕事を選ぶ選択としては少しばかりは分からないではない。収入の安定があるという理由はさておき、国のために働きたいとか、行政のために働きたいというようなことは、少なくとも理解できる。実際の仕事ぶりがそのようには見えないことがあるにせよ、多くの役人さんの最初の志の中には、そのような心持があっただろうということは信じたいし、今でもそのような気概を持って働いている人は皆無ではなかろう。
 さて、実際の国会議員の人たちは日頃何をやっているのか。日常的には頻繁に政治のニュースは流れているけど、あんがいその舞台裏というのは知られていないのではなかろうか。著者たちは日本の政治家としてはまだ若い部類だけれど、経験としては中堅からそろそろベテランといったところだろうか。一人はある意味で世襲議員(内容的にはそんな感じではないようだけど、事実としてあんがいこんな感じというのも面白い)。もう一人はまったくの転向組。自民党と民主党ということもあって、それなりに今まで起こった出来事の見方には大きな違いがあるようだが、基本的に政治に取り組んできた姿には似たところも多いのは意外だった。さらに自民党の林の方は、政権交代が必然だったとも書いている。そういう若い政治家の発言自体も、なかなか面白いことがたくさん書いてあった。
 政治家の仕事をしていく上で、二人ともやはり選挙にはそれなりに苦労していることはよく分かった。二大政党制の実現のためにも小選挙区制というのは必要ではあったわけだが、やはりゼロサムで雌雄を決する厳しい選挙が頻繁にあるのは、落ち着いて仕事をする妨げになっていることもよく分かった。もちろん、そのような激しい選挙があるからこそ新陳代謝が進んでこのような若手の台頭が実現したのも事実なのだが…。その上に日本においての二大政党制というものについても、まだまだ過渡期であるともいえて、今後もそれでいいものかどうかについてさえ迷いがあるようだ。
 やはりある程度は僕の政治家に対する疑問点である選挙というものが、同じく現役の政治家を悩ませている現実が良く分かる本だった。もちろん民主政治において選挙を経ることなしに政治家の道ができることはあり得ない。しかしだからこそ、その後の仕事をすることにおいても、選挙に対するウエートが重くのしかかり続けることになっていくのであろう。うがった言い方をすると、政治家としての仕事は二流であっても、選挙に勝てる政治家でなければ舞台に立てないからである。政治家として仕事ができるから選挙に強いというのであれば、おそらく現役の政治家でなければ選ばれることはないだろう。だから投票に対するインセンティブは、あくまで未来の期待値で決断がなされる。特に小選挙区の選挙であれば、現在の失政が代謝を促す要因に大いになり得る。今の政治情勢がほぼすべて失政に見える報道が続く限り、彼らは政党政治をやっているにもかかわらず、支持政党の無い無党派層のその時の気分のようなものに左右され続けることになるわけだ。そうなるとさらに仕事ができることが重要では無くなり、より単純で魅力的な主張のみが威力を持つことにつながっていくことになりかねない。結果的に嘘になろうとその時に信じられさえすればそれでいい。しかしながら本当にそれでいいわけはないわけで、当事者としては脅威であり、深い悩みであることだろう。
 結局は民主政治には大きな欠陥を抱えているということは確かなのであろう。しかしながらその欠陥を抱えたままでなければ民主制は担保できない。内部の矛盾を解消する方法は、今のところ見つかってさえいないようだ。そのような現実の前に、本当に日本にとって望ましい政策が実現されにくいように見えるのも、あえて言うと愚民政治が展開されてしまうのも、民主主義の宿命になってしまっている。正しい選択は民衆には理解されにくい複雑さを持っているし、その結果が明確になる時間的判別がむつかしい。その上何かを選択するということは、必ず片方の何かを失うことで実行が可能になる。そのためにより困難な問題こそは棚上げのまま放置され続け、安易なバラマキ政策の様なものは比較的通りやすくなってしまったのではなかろうか。
 こんなめんどくさいものを潔白のままやろうというような政治家というのは、本当に信用していいものだろうか。そんなに苦労してまで何の見返りも無いような政治家を求めることは、本質的な何かを損なわせているのではあるまいか。実は僕の疑問はそこにつながる。つまり根本的な政治不信は払拭が難しいのである。
 また制度ばかりをいじって内容に結果が伴わないということにも、かなりうんざりさせられている。交互にある国政選挙の結果は、常にねじれ加減になっていくだけである。本当に政策を戦わせて議論を深めるには、党の拘束のある決議だけでは無理なのではなかろうか。
 それでも(特に若い政治家)政治に期待するのは、たとえ困難であっても政治的な決断無しになしえないことが多すぎるからだ。何事も自然に解決するのであれば誰も苦労はしない。民衆は政治に左右され苦しめられるが、政治に期待しなければ来るべき未来に希望を持てない。国家という大きな枠の中あるから、ある意味でそれなりに安定した自由な生活を送ることができたことも確かである。変な国家のもとに、多くの民衆が幸福を享受できないことは、近くのある国家の名を持ち出すまでも無く理解できるだろう。他に選択の道が無いのだから政治家に期待するより無い。是非多くの子供に憧れられるような政治家ばかりになってもらいたいものだ。誰もが政治を志すような国こそ、実は未来も明るいのではないだろうか。
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