カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

憧れてるけど目指さない存在

2025-02-07 | 音楽

 何しろ現役キャリアがちゃんと長く、ほぼ切れまなく続いているというだけで、ただでさえ化け物的な存在ではあるストーンズである。でもまあ若い頃と大人になってからのストーンズのとの距離感というのは、微妙に違うものがある。以前は自分もギターを弾いていたということもあると思うのだが、今は真似することもしないからかもしれない。ギターを弾きだしてキース・リチャーズのテクニックの高さには驚くことにはなるものの、しかしなんとなくそれらしく弾くというのは、いわゆるべビメタのような超絶的なことをしなくても、出来てしまうという魅力ある上手さなのだ。それは単に瞬間芸であったとしても、いちおうその曲の細部を弾けるという事でもあって、なかなかに楽しいことである。基本的には単純なコード展開が多くて(それでもこれだけ多彩なのが素晴らしいのだが)、自宅で勝手に弾く分にもいいし、一緒にライブで物まねのように弾いたとしても、ストーンズの曲は素晴らしいのである。すぐに高揚する感覚になるのだ。
 そんな風にしてそれなりに真似して弾いては居たのだけど、例えばクラプトンの真似をすると、多くの人はクラプトンだとわかるらしいが、キースだとそうだと言われたことが無い。これはなんとなく不思議で、キースっぽい人は何人も知っているんだけど、確かに僕もキースっぽいですね、とは言わない。サンタナとかデイブ・ギルモアだと、すぐに言いたくなるが、キースにはある種の普遍性のようなものがあって、もちろん個性の強い弾き方であるにもかかわらず、キースっぽいとは言わないのかもしれない。
 エフェクターのかけ方もあんまり凝ってないというか、そのままアンプに直結しているという噂もあった。ファズのかかっている曲もあると思うが、あんまりあえて凝っていないというか、そんなもん知らねえ(って言ってたかは知りません)、って雰囲気はある。しかしながらギター弾きの多くは、この音をどうするか問題に凝っている人の方がむしろ多い訳で、僕の知っているアマチュアのギタリストで、アンプに直結なんて人は見たことが無い(もちろんアコースティックギターは別ですよ)。少なくともディスト―ションくらいは持っているわけで、いろいろ連結させてその都度足で踏んずけて弾くのが何よりかっこよさげだし、練習の時も、そういう音色をどうするかというのは気にして音を確認していることが多くて、うまく弾くことよりも凝っていたりする(だから素人なんだけど)。そういう意味でもやっぱりキースっぽい感じにならない、ということになってしまうのかもしれない。せっかくエレキを弾いてるんだから、音が歪まなきゃしっくりこない。でぎればガシャーンといったくらい歪んでくれないと、自分のテクニックがバレるようで怖いのである。
 ということで、憧れているけれどそれらしくない存在というのは、やっぱり抜きん出た存在ゆえであるのかもしれない。
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成長期とストーンズとの重なり

2024-12-13 | 音楽

 村上レディオでストーンズのソングブックをやっていて、(かけられた曲は)まあ順当だな、と思うのと、やはりずいぶん古いな、というのがある。確かに既に四十年前くらいに、ストーンズの代表的なヒット曲というのはあったのであって、僕が高校生くらいのライブの大全盛期の時には、それらの曲というのは、いわば古典の復活という感じすらあった。ライブになってギターのリフなんかが変化したものがあったりして(ジャスト・マイ・イマジネーションとか)、新鮮さもあったのだけれど、基本的には昔の名前で出ています、しかしそれが新しい、って感じだったのだ。
 僕が古典でないストーンズの曲をラジオで聞いたのは(リアルタイムという意味)、おそらく「ミス・ユー」で、最初の印象は、なんだか地味だな、ってことだった。僕はカセットに録音して聴いていたので、このストーンズにしてはへんてこな曲に戸惑いながらも、繰り返し聞いたものだ。それでもなんとなく気になるところがあって馴染んでいったのだが、ついにはこの曲が、僕にとって特別にストーンズの好きな曲に成長していくことになる。もともと黒人音楽をやっている白人バンドがストーンズってことくらいは知識としてあったのだが、このファンキーさのぶれ方は、黒人そのものって感じだったのかもしれない。
 それからちょっとしてエモーショナルレスキューが出るのだが、これはいったいどうしたのだろう? と思ったものだ。しかしキースの歌う曲があったりして、これはこれで良かった。当時そこまで真剣に考えては無かったが、なるほど、彼らはソングライティングの能力が高くてヒット曲が多いのだ、と気づかされることになる。まあ、当たり前すぎることなんだが、その後のライブバンドしての巨大な存在になるにつれ、そんなことを忘れてしまいがちになるのだ。
 そうして出たのがアンダーカバーで、当時の感覚として、なんだかずいぶん新しい音だな、と思ったものだ。現代風とでもいうのだろうか。よく聞いてみると、それなりのマンネリ度のあるストーンズらしさなのだけれど、音の響き方というか奥行きというか、そういう録音の音作りが、当時としては斬新さがあるのだ。
 でもまあこの間になんといってもライブアルバムのスティルライフがある。この印象があまりにも大きくて、ストーンズのスタジオアルバムの印象が飛んでしまっている。当時はライブの映像が頻繁に流れていて、そうしてそれとわかるその時の音源が、いたるところ流れていた。人々はそれらの曲に、一瞬で熱狂を悟る。それらに関連して売られる商品と共に、新しい時代が開かれる思いだった。そうしてそういう一連の出来事が、僕の若いストーズ体験と一体になっていったのである。
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これは確かにやっちまってるな

2024-10-17 | 音楽

 これ七十年代初めにヒットしたらしいが、僕は中学生くらいの頃によく聴いていた。ジョージ・ハリスンもいいんだな、と思ったことでした。


 しかしながら当時も問題視されていたそうで、元歌らしいのがあるのだという。


 うーん、これは確かにやっちまってるな、という感じでしょうか。
 そういうのも、音楽史ってことかもしれません。
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古くなっても新しい世界はつづく

2024-09-02 | 音楽

 渋谷さんの状況がおそらく芳しくない中、伊藤政則氏と大貫憲章氏のふたりの、「洋楽シーカーズ」という番組が始まって早数カ月。僕としては、思った以上に番組に、かなりはまり込んでいるのであった。それというのも二人の掛け合いの面白さであって、漫才というのではないが、なんともおかしいのである。いまだに70年代の話題が出たりして懐かしい反面、まったく聞いたことが無いカリブとか、逆に北欧のバンドなんかも紹介される。その背景も含めて紹介されるのが常で、リーダー格のおばさんがドラムを叩いているだとか、そういう話題も事欠かない。今はネットがあるから、確かに以前よりは格段にいろいろな情報が入りやすくなってはいるものの、さすがに二人はプロということもあってか、その情報量と記憶力は、まさしく驚異的なのである。
 比較的伊藤さんの方が、古い感じのバンドの繋がりを重視して聴いておられるようで、既にギターのスラッシュなどは、実にたくさんのバンドなどの演奏に参加して活躍している様子が伝えられている。ミュージシャンの横のつながりもあろうけれど、そんなにもあちこちでプレーするものなんだと呆れるほどである。
 一方の大貫さんの選曲もなかなかに変わっていて、本当にまったく知らない人が出てくる。先日紹介されたキティ・リブさんは、ほどよく渋かったので後で動画でも確認してみると、前歯の隙間が結構空いているのだった。でもギタープレイ含めてカッコいいのだから、認識を改めなければならない。
 とはいえ、実際のヒットチャートがどうなのかというのは、ほんとのところあんまり知らない。渋谷さんの頃にはアルバムチャートが一応紹介されていたので、当時はシザとかビリー・アイリッシュが売れていたくらいは知らないでは無いが(それとテイラー・スイフトね)、同時にまったく興味のないヒップホップも聞かされていたことを考えると、多少苦痛だった。ポスト・マローンなら聞けないでは無いが、エミネムとかどうだっていい。
 しかしながらロックというのが少数派なのは知らないでは無いし、実際選曲には困っていたところは見て取れた。なかなかに話題に上ってこない現実があったのだろうと思われる。ところが伊藤さんと大貫さんに変わったところが、ほんとにロックが蘇ってきた印象をうける。いまだに世界ではロックをやっている人たちがいるわけだし、それなりに盛り上がっている人たちもいるらしいのである。日本だって人口一億を超えるような超大国な訳で、洋楽が衰退したとはいえども、まだまだ聴いている人たちがいる。タック・スミス&ザ・レストレス・ハーツなんて、日本の方が盛り上がっていたりするんだそうだ。確かにシンプルだし、盛り上がるよな。
 そもそもロック人口構成図を考えると、高齢化の波が押し寄せているのだから、高齢者に差し掛かる僕より上の世代の方が、ロックには親しみが深い訳だ。僕も何とか生き残って、残りの人生をまっとうするよりない。そこに少しだけ若い人が加わった構図で生き残りを図りたいわけで、そうすると新しいものも聞き続けることができる。最近は曲名まで覚えるようなことは無いのだけど、それでも新旧混ざったロックの世界に浸れるしあわせは、何物にも代えがたいものがあるのである。
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完コピ明菜のオメガトライブとは

2024-06-15 | 音楽

 録画でカバーズという番組を見ていたら、杉山清貴とオメガトライブが出ていた。知らなかったのだが彼らは解散してて、なんだか再結成して出ていたらしい。それもテレビは一回こっきりのラストステージなんだとか。
 僕の十代の半ばあたりで売れていた記憶があり、まちでもラジオでもよくかかっていた。何でも夏の定番と言った風情があったのだが、そういう売られ方をしたもののようだ。活動期間は短くて、売れているうちに解散しようってことで解散してたらしい(談)。
 改めて見ると杉山清貴は、なんだか松木監督みたいになっているし、だいぶ雰囲気は違うなあ、という感じなんである。そうなんだか、声は張りがあるし、バンド演奏のかっきりと締まっているし、いいんじゃないかという感触である。正直に言って若い頃の僕は、歌謡曲は熱心に聞いてなかった時期が長くて、オメガトライブの良さはよく分かっていなかったのである。今聞いてみると、しっかりしているうえに、バンドとして上手いだけでなく風情がある。まあ、それぞれは長年やってるんだろうから当たり前かもしれないが、自分たちの求められていることをしっかり知ってやっている感じがする。解散したんだから何か当時問題意識を持っていただろうことは想像できるが、今でも仲が良さそうなんである。何よりそういうのが、はた目には素晴らしいのではあるまいか。
 で、まあ最近というか、当時のいわゆる日本のシティポップと言われるくくりで、一連の楽曲などの再評価がなされているというのは、聞いたことがある。僕はこれも不勉強であんまり知らない部類なのだが、何しろ同時代なのでまったく知らないわけではない。そういう時代の空気感というのは確かに覚えていて、しかし僕にはノスタルジーなのであって、今風にいい感じという時代感は、今一つということかもしれない。しかしながら確かに米国のヒップポップなんかで、シティポップ風の楽曲は聞いたことがあって、ラジオなのでよく分からないが、あちらの黒人がこういう演奏をやってるのかというのは、かなり意外性がある。音楽に国境なんてないというが、時間軸も含めて飛び越えるというのは、やはりそれなりに面白いことかもしれない。
 それでさらに意外だったのは、彼らはカバーとして中森明菜を歌っていたのである。それもかなり素直にそのまんまに。で、思ったことは、中森明菜を完璧にやっても、杉山清貴とオメガトライブだったことだ。当たり前と言えばそうなのかもしれないが、完コピで相手の側に立って再現していて、そうなのだ。彼らの存在感を見た、ということになるのであろう。
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ご機嫌ロック

2024-04-26 | 音楽

 とうとう渋谷さんの番組が終わってしまって、最終回の録音されていたMDを聴きながら運転していた。最後のリクエストは「アキレス・ラストスタンド」で、ふつうの番組であればやっぱり「天国への階段」になってしまいがちだと思われるのだが、しかしそうでないところが渋谷さん繋がりで、なおかつリクエストする人の想いなのだろうと、改めて思った。代役の伊藤政則さんが、その代役を務めた最初の回でもこの曲はあえてかけられたわけだが、その時は渋谷さんの復活を願ってのものだった。その思いは今も変わらないものがあるにせよ、最後にもまたこの曲がかけられることになった訳で、それはおそらく、多くの他のリスナーとも共通しているだろう熱い思いであるはずだった。それも複数の人がこの曲をリクエストしたのだということでもあるらしく、皆がそういう気持ちを共有しているのみならず、やはり渋谷さんならこれなんだよな、ということが、言わずとわかっているということなのだろう。
 運転しながら聴いていて、しかしとうとう涙があふれてきて困るのである。アキレスは長い曲なのだが、非常にドラマチックでもある。しかしながら最初と最後は変わらない。いや、実はずっと単調でもある。何を言ってるんだということだが、実際そうなのである。そうしてその繰り返しやグルーブが、いつまでも続いて欲しいという曲なのだ。発表されたのは50年近く前のことだが、さすがに僕はその記憶がはっきりしない。ちゃんと聞きだしたのは小学高学年、10歳くらいの事だったろう。朝からこの曲を中心にヘッドホンで聞いて、それから家を出るということをしていた。子供のころから興奮体質だったに違いない。まだ携帯しながら聞けるような音楽媒体が無かったので、しっかりと曲を耳に残して、学校に行く必要があったのである。
 そうして4月からは「洋楽シーカーズ」という番組に鞍替えした。伊藤さんと大貫憲章さんが、二人の掛け合いで番組を進めるものだ。年末に渋谷さん抜きで年末特集の番組は放送されたのだが、そのままそれをやるという感じだろうか。いちおう新譜を中心に新しいものを探し出してかけるスタイルをとると宣言されたわけだが、なんと最初はボンジョビで、元ハノイ・ロックスにクーラ・シェイカー。クイーンにロッド・スチュアートにニルバーナだったのである! まあ他にもあるにはあったが、これってやっぱりいつの時代なんだろうか? いや、新譜はかかったので、今の時代にもまだ彼らは現代進行形なんだよな、ということなのだった。スゴイ。
 そういう訳で、複雑な心境はあるにせよ、まだ生きていけるんだな、生きていていいんだな、って感じっすかね。古くさい言い方だが、なかなかにご機嫌、っていうことになったわけである。
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リクエストで分かる皆の気持ち

2024-03-15 | 音楽

 ワールドロックナウが、3月いっぱいで放送終了になるという。97年から放送していたというから、27年の歴史に幕が下りるわけだ。DJの渋谷陽一が病気療養中ということであるが、何の病気でどういう状態かは不明のまま、続行が困難と判断されたのかもしれない。代わりに今は伊藤政則が留守番で番組を務めているが、渋谷さんが戻らないまま、代わりが最後までということになる。伊藤さんの番組運びは、それはそれで大変に楽しいものだけれど、どうにもわびしい気分に陥ってしまう。ワールドロックナウの終了後は「洋楽シーカーズ」という番組に鞍替えするとのことだ、大貫憲章が加わってというから、伊藤政則と掛け合いでやるものなのか。詳細は追って、ということになる。
 考えてみると僕は二十代後半の、わりに放送の始まる最初のころから聴いていたことは間違いない。実のところ前身とまでは言えないかもしれないが、同じくNHK-FM番組のサウンドストリートは、中学生から二十歳前くらいまで聴いていたのである。最初は木金の二日間渋谷さんが担当していて、洋楽も邦楽も扱っている番組だった。結局金曜一日になり、何故か終了していた。十代の終わりは忙しい時期で、金曜の夜にはもうほとんど聴けてなかったかもしれないが、ときどきはカセットテープに録音して聴いていた。僕はこれ以外のラジオ番組を聴くタイプではなかったし(好みの傾向でない音楽を聴くほど心が広くないのだった)、歌謡曲は飲み屋で聴くカラオケしか聴いたことが無い。テレビの歌番組は小学生までで、それ以後は日本の流行歌とはほとんど縁がない。もちろん、ぜんぜん知らない訳では無いが、興味が無いというか。通勤は毎日1時間はCDか、この録音した番組を聴く。そういうのを何十年と繰り返してきた訳だ。そういうものから一旦は強制終了がかかる訳で、これを何と言っていいのかよく分からない。もう僕はあとそうしないうちに、死んでしまうのではなかろうか。
 渋谷さんの紹介する音楽の傾向が、必ずしも自分とぴったり合っていたわけではない。ヒップポップなんて歌詞の分からない日本人が聴いても仕方ないし、前衛的なダンスミュージックも耳障りだった。リクエストはあったのだろうが、何十年も前から、基本的には渋谷さん自身が気に入っていたものだけを受け付けていたのではないか。以前は月に一回リクエスト特集というのがテーマを決めて行われていたので、そういう時は皆リスナーは張り切ってリクエストを書いていた。普段はそんな風に、渋谷さんならかけてくれるという曲を考えないと放送に乗らない。自分の好きな曲を選んではならないことくらいリスナーは知っていたので、リクエストで何回も聴いたことのあるラジオネームの人くらいしか、リクエストしていなかったのではないだろうか。
 それというのも、伊藤さんにDJが変わってから、実はだいぶ前からのリスナーだという人の、リクエストが増えているように思う。リクエストを出すことがリスナーとしての存在意義だとまでは言わないが、こういう場面が来ないことには、なかなかメッセージを送ろうとまでしないだろう大多数の番組ファンがいる筈で、結局僕も一度として葉書やメールをすることは無かった。一度だけ、番組へのメール受付をすべきだという意見を送ったことがあるのだが(10年くらい前だと思う。その後最近はフォーマットがやっとできた)、それは無視された。いわばそのような保守的な部分を含め、歴史のある番組だったのである。
 最後になって番組リスナーの、実に多彩で見事な選曲に唸ってしまう思いがする。みんな多かれ少なかれ同志であって、そうして渋谷さんの申し子だ。気分は沈んでしまうものがあるにせよ、切り替えて楽しまなければ、という思いのみである。どうか元気になって下さい。
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少し楽しみが減り、しかしホッともする

2023-12-21 | 音楽

 渋谷さんが病気療養してしまって番組はどうなってしまうのだろうかと心配していたが、療養は一応長期になるということなのか、代打として伊藤政則さんが番組を仕切るようになっている。最初は思いっきり、なんというか、リクエストなんかも、ずいぶん昔だったら渋谷さんもかけたかもしれないストレートなものが多くて、のけぞってしまった。ツェペリンはもちろんかかるし、ニール・ヤングにスプリングスティーンである。翌週はピンク・フロイドもきた。確かにそうなのだろうが、あえてそういうリクエストでは、あんまり直球じゃないものをかける傾向のある人だったように思うし、かえって代弁者としては良かったのではなかろうか。少なくとも、聞いている僕らには、届いた。しかしまあ、年末特集というのは、やはり無い事なんだろうな。残念である(※ところがその後、大貫憲章と伊藤正則二人でやることに決定した)。
 中村さんの報告にもあったが、グラミーのノミネートは、ほとんど女性陣が独占しているという。まあ、そうだろうな、という年ではあった。ずっとテイラー・スイフトが何枚ものアルバムをヒットチャートに乗せたままでいたことと、アメリカ経済を引っ張ってもいるとさえ言われる巨大なツアーを組んで、ものすごいお金が飛び交ったという。とにかくスケールがでかすぎるわけで何が何だか分からない。ずいぶん昔からいる人のように思うけれど、最初はまじめで清楚な感じすらしたけれど、今はもうマドンナよりも女性を象徴する存在かもしれない。すでにカントリーはやってないようだし。マイリー・サイラスは街中でもなんとなく聞こえていたし、シザはやっぱり聞きやすいし、印象に残る。そうして今は何でもロザリアになってしまった。まだ若い子だけど、なんとなく成熟したような曲を書く。そうしていい意味で予測ができない。でもまあ僕としてはボーイジーニアスが、一番ロックっぽいところあるように感じて好感がもてる。僕ら男に対して歌っているわけでは無いのだろうけど。
 でもまあ特に総括したいわけでもないし、グラミーに興味もない訳だが、こういうものに賞がつくというのは、やはり何らかの思惑でもあるのだろうか。売れている人にさらに何かやらなくたっていいようにも思う訳で、例えばボブ・ディランがノーベル文学賞を取ったりすると、かなりシラケる。そういうのとらなくたって彼は素晴らしいので、上からやるようなことをすることは無いのである。グラミーがどうなのかは、やはり分からないが、でもまあ授賞式にいたっては、皆嬉しそうにして感謝しているようである。泣いている人もいるかもしれない。そういうのをみていると、やっぱり茶番めいてもいる。そうか、感謝する場を与えるという意味では、売れた人に言ってもらいたいのかもしれない。
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曲を飛ばしながら聴くアルバム

2023-11-25 | 音楽

 なんとなく目にとまって、ひさしぶりにジョン・レノンの「ダブルファンタジー」を聴いていたのだが、ああそういえばこれ、あんまり聴いてなかった理由を再び思い出した。
 このアルバムの背景として、当時としては、子育てのために活動を休止していたジョンだったが、長い間休んでいた後に、満を持して活動を再開する期待感と共に、最高の形で「スタンディング・オーヴァー」で始まる訳だが、その次にガクッとずっこけることになる。オノヨーコなのである。日本語で「抱いて、ダイテ、だいて……」と繰り返し色っぽく歌われる訳だが、どうにもこうにも人前どころか一人で聴いていても恥ずかしくて落ち着けない。そうやってジョンとヨーコの曲が交互に入っているのである。
 買った当時最初の一回だけは通して聴いたと思うが、その後はヨーコの曲をわざわざ飛ばし飛ばし聴かなければならなくなった。そういうのってちょっと面倒なのである。オノヨーコは元日本人の女性として、そうしてジョンのパートナーとして、世界的にも有名で、そうして日本でも最初はちょっと誇るべき女性という立ち位置だったはずなのだけれど、日本のジョンのファンの少なからぬ人たちからは、なんとなくスルーされているわけだ。いや、はっきり言って、かなり疎まれていたはずである。そうしてこのアルバムは、ジョンがそのあと殺されたという衝撃と共に、ジョンの曲以外と共に、ちょっと葬られてしまった感がある。思い出すにはあまりにつらい。
 僕なんか中学生で、やっとビートルズでもはっきりとジョンの足跡をたどるようなことと、そのロック性に目覚めたときだったので、もうオノヨーコの声を聴くのが嫌だった覚えがある。当時はビートルズは、はっきり言って古典で(今の古典感とはちょっと違うのである)、新しいものがたくさんある中、神格化した部分では聴かれたが、それはほとんどレットイットビーか、抱きしめたいか、イエローサブマリンであって、ジャーナリズムの思い出だった。今はもっとひどくなった部分はあるけれど、ジョンのロック性はむしろ封印されてしまった。時々はイマジンであって、コールドターキーがかかるなんてことは無いのである。
 でもまあオノヨーコを落ち着いて聞いてみると、その構成においては、ジョンがそれなりに色付けして遊んでいることも見て取れる。変な声で歌も下手だけど、なんとなく本人が持っている芸術性のような方向も分かる気がする。勘違いかもしれないけど……。東洋的で神秘的で、そうしてちょっと変な前衛的なところが、ジョンのこころを捉えていたことは間違いなさそうだ。まあ、今後もこのアルバムを聴くときは、やっぱりヨーコの曲は飛ばしながらという作業は、必要になっていくのだろうけれど……。
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ひっくり返して聴く意味

2023-11-08 | 音楽

 ツェッペリンのレーベルが75周年ということで、アルバムの四枚目(実際には名前はないアルバムだが、フォースシンボルズ、とか単純に4と言われている)がリイシューされて再販されている。アナログのレコードで透明なやつらしい。日本がどうなっているかはよく知らないが、英国などではアナログのレコードはまた聞かれるようになっていて、若い人でも買うんだそうだ。もちろん僕は、中学生の頃にこのレコードは買っていて、黒い奴だが今も持っている。もっとももうプレイヤーは動かしてない(倉庫にしまい込んでいる)ので聞くことはできないが、CDも持っているし、おそらくだがリイシュー版も探せば持っていると思う。僕はコレクターでは無いのでもう買うつもりは無いが、もちろんファンだから、こういうニュースを聞くと心躍るものがある。ピンクフロイドなんかは、また当時のアルバムが今ヒットチャートに躍り出たりしているわけで、古典ロックであっても、現代で根強く再評価されるだけでなく、若い人でも聞くようになっているのである。もっとも知られているロックの名曲ともいわれている「天国の階段」が収められているツェッペリンのアルバムなので、こういう事になっているのであろう。
 ところで今となってはサブスクで一曲のみをピックアップして聴かれることがほとんどなんだろうけれど、以前のアナログ盤というのは、A面とB面に分かれていた。CDの登場でそれすら忘れられていると思うのだが、ツェッペリンのこの4枚目のアルバムというのは、いわゆる前衛的な曲と構成になっているのが特徴になっていて、A面の展開と、B面の展開ははっきりと分かれている。A面の最後に最高の形で「天国の階段」を聴くことによって、B面の何やら難しい局面へと、レコードをひっくり返して臨むことが大切だったのである。ツェッペリンに限らずだが、ビーチボーイズのペットサウンズだとか、ビートルズのサージェントペパーズなんかも、そういうアルバムの構成を、凝りに凝って作られていて、そういう意図も理解しながら聴くことによって、我々はロックの理解を、哲学的なものに高めていったのである。まあ、当時はよく分からないながらも、勝手にそんなことを考えていた、ということではあるのだけれど。だからCDで古いアルバムを聴くようになって、ずいぶんと印象が変わってしまって、もうあのような意図を読み取れることが少なくなったことに、違和感を覚えたものなのである。いやもう手間はかからないので、それはそれで元に戻るようなことは無かったのだが。
 ということで、単に昔のことを言っているだけのことなのかもしれないが、アルバムというのは曲順も大切だし、構成も大切である。ベスト盤もいいかもしれないが、出来ればその時に、彼らがどうしてそういう事にこだわって作ったのか、ということに注力しながら聴くということも、大切なのでは無いだろうか。
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姉御シンガー好き

2023-09-22 | 音楽

 僕の子供のころの女性ロックシンガーと言ったら、なんと言ってもジャニス・ジョプリンなのだが、実のところ僕が知ったころには既に死んでいた。しかしながら名残はあって、ちょっとした女性ボーカルのコピーバンドなんかは、実にジャニス的な歌い方をする人も多かった。とにかくかっこいいので真似たいわけだが、そう簡単にはジャニスにはなれない。あくまでジャニスっぽくなっているだけなのだった。でも、みんな頑張ってはいたな。
 でもまあ外タレのボーカルは、高いキーの人が結構多くて、日本人の声帯とは何かが違うのかもしれないとは思われた。だから男性ボーカルの歌であっても、女性じゃないとそういうキーが出ない歌ばかりという感じになって、コードを変えてみたり苦労した。僕ら少年はまだ未熟なので、そう簡単にコード変換ができない。いろいろ頭を使ってすっかり疲れて、もっと簡単な曲を選ぶ傾向にあった。思い切って低いキーで歌うと感じが出なくて、かえってかっこ悪いのだった。
 別段アイドルということではなかったし、どちらかというと姉御なのだが、はやっていたのはクイッシー・ハインドだった。これはロックシンガーとしても素晴らしかったのだが、曲の構成が良かったという感じもある。プリテンダーズというのは適当にあんまりうまくない感じもあって、そういうところがパンク的なロックの要素がある訳で、ポリスなんかは実は超絶に上手いのに、レコーディングでは適当に下手な粗削り感を出すのに苦労していたりしたものだが、プリテンダーズは頑張っても上手く聞こえないのだった。
 それからしばらくしたらシェリル・クロウなんかが出てきて、これはかっこいいなと思って、ちょっとコピーなんかもしたりしたものだが、友人ウケはあんまりよくなかった。何故だったんだろう、それなりに売れてたはずなんだが、それは僕らの方面のことではなかったのかもしれない。今はちょっとカントリー歌手みたいな感じになっていて、もともとそういう素養のあった人だったということなのかもしれない。アメリカというのはそういうところがあって、あのテイラー・スイフトだって、出はカントリーだったはずだ。日本で民謡歌手がロックを歌ったりするとかなりの違和感であろうが、あっちはそんなことは無いのだろう、って、やっぱりずいぶん違う比喩かもしれない。
 で、カントリーということになると、僕は何故かジェイフォークスが好きで、カレン・グロットバーグというおばさんの歌が、またいいのである。あんまり姿は知らないので声だけということだけど、僕は姉御シンガーが好きなのかもしれない。
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そろそろ移行時期なのは分かっているが……

2023-07-16 | 音楽

 僕はもっぱらMDに録音した音楽を車で聞いているわけだが、やはり最近のアプリには関心が向かないわけではない。パソコンではミュージシャンの曲を知りたい場合ユーチューブ検索が普通だけど、アマゾンでもその他でも、いくらでも検索方法はある。そうしてそのようにして検索していくと、やはりそれなりの未知の領域というものへの紹介のような機能があって、しかしそれなりに関連のある分野なので、面白いのである。
 しかしながら面白いからと言って、いつまでも遊んでいる場合ではない。それが苦しいところではあるのだが、さて、近年よく聞くところによると、いわゆるアプリを用いて音楽を聴くのが主流になっているらしい。僕のような聞き方は、いささか古いスタイルという事らしく、いまだにCDは購入しているし、繰り返すが、MDで曲を編集してパーケージ化している。そういうのを繰り返し気が向いたら聴いている訳だ。それでアプリで検索して聴くのもこのようにやってはいるが、これをパソコン以外でやることに移行すべきか否か、ということになる。理屈としてCDを買うよりも、そのようにアプリで聴いた方がはるかに得であるということと、いくらでも検索可能なので、自分なりの編集も簡単で、いつでも聴けるではないか、という疑問が投げかけられる立場なのである。
 そうなのかもしれないな、とは思ってはいて、僕が聴く種類のパッケージの中にも、既に現在手に入りにくい分野のもの(要するに古い)が結構あることと、そういうのは実に高価になっていたりして、いまさら買ってまで聞かない。さらにアプリで検索すると、そういうのがあんがい見つかったりすることもあったりして、それなりに驚く。一億曲あまりが検索可能だともいわれており、なるほど、売っているものより、はるかに充実した世界になりつつあるということなのだろう。
 本当はまったく面倒くさいことなのではないはずなのだが、実はそういういものに移行する気分が面倒なのである。そっちの世界が魅力的だと言われ続けていると、別段意固地になっているわけでもないのに、既におおかた間に合っているのに、わざわざ移行すべきなのか? と、疑問に思ったりするのだ。
 しかしやはり迷っている自分がいる。それというのも、車で聴くためのMDプレイヤーは既に作られていないので、中古品を買っているが、これが三代目であることと、録音を編集するミニコンポは二台持っているが(これは説明が難しいが、使い分けているのである)、そのうちの一台については、MDを取り出すエジェクトの調子悪く、数十回ボタンを押さないとMDを取り出せなくなっている。たったそれだけの修理のために電気屋に持っていくのがめんどくさいが、再度購入となると数万円は飛ぶ。そういう気分がまためんどくさい。だから取り出す時には、数分間に渡って数十回ボタンを押し続けている。正直言って、こんな生活は何とかしたいところなのだ。
 広告を気にしなければ、アプリを使って検索するのは、とりあえず今は無料である。しかしもっと充実して自由に検索出来て、曲をさらにストックさせるためには、定量料金制に移行すべきかもしれない。そうすると、もうCDを買うわずらわしさからは、解放されるのかもしれない。車では、ブルートゥースで飛ばせばいいのだろう。それは分かっているが、いまだに悩み続けているところなのである。
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その気にさせるキンボウゲ(?)

2023-05-26 | 音楽

 そもそも僕は古いソウル・ミュージックを好んで聞いていたわけではない。だからアトランティックの音楽と言われても、やっぱりその代表をツェッペリンだと思ってしまうくらいだ(だってレコードに記されていたんだから)。しかしそれは僕の子供のころの今の姿であって、若者はいまを生きているのである。
 それでもRC(特に清志郎は)古いソウルミュージックを愛し、それをルーツにしていることは分かっていたし、そういうものの下地なしに、僕の好きな音楽は無いのだという自覚はあった。それでもラジオ(テレビでは僕の流行ではありえなかった)でかかる音には今の流行が求められたし、ビートルズはクラッシックとして聞いていたが(何しろまだジョン・レノンは現役だったし)、流石にプレスリーは既に古典だった。
 古典的なソウルミュージックを面白いと思ったのは、だからそれらのミュージシャンの、カバー曲だったかもしれない。なかにはカバーだと気付かず(ビートルズやストーンズなど)聞いていたものも多かったのだけど、それとわかってて面白い、というのは多かった。
 衝撃というのには大げさだけど、そういうものに元ニューヨークドールズのデビット・ヨハンセンのBuild me up buttercup. があった。ファウンデーションズが歌っていたということまで詳しくは知らなかったが、それなりに聞いたことがある子供っぽい曲だと思っていたのだが、あの激しいロッカーのヨハンセンが軽快に歌っていて、なかなかいいのである。まあ、面白いものだな、と思って耳に残っていた。
 時は流れてファレリー兄弟の「メリーに首ったけ」というというバカ映画の傑作があるのだが、楽しく観終わってエンディング・テーマで、またしてもバターカップが流れたのである。なんだか感激してしまって、その後サントラ盤まで買ってしまった。結局この曲が僕は妙に好きなだけかもしれない。
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いい曲というのは再生産かもしれない

2023-05-23 | 音楽

 村上レディオでスガシカオがゲストで出ていて、二人でアトランティック・ソウルの話をしていた。実に面白かった。まあ、僕は特にアトランティックとモータウンなどを分けて聞くというようなことは無かったので、この番組でかかった曲は、知ってる曲がほとんどだったけど、新鮮に思えた。アレサ・フランクリンはあっても、ダイアナ・ロスは無いのである。そういわれると、そうなのかって感じだけど……(そういう具合にレーベルを気にしたことは,日本人には、ほどんどないことでは無かったのではなかろうか?)。
 村上春樹はもちろん日本を代表する音楽オタクだから詳しいのは当たり前だけど、スガシカオもまたやたらに詳しいのである。音楽談義はこうでなくちゃね。
 誰もが知っているパーシー・スレッジの「男が女を愛する時」は、実はホーンセクションの音などが少しずれてたりしてたので、ちゃんとしたのを録り直したのにかかわらず、何かの間違いで直してないほうがレコーディングされてしまった。しかしそれがそのまま受け入れられ、大ヒットしてしまった。それだけでも凄い事なのに、この曲の影響力はそれだけに終わらなかった。
 さらにこの曲がモチーフになって、プロコル・ハルムの「青い影」になったらしい。確かにそういわれてみると、よく似てますね。すごい。今まで気づかなかったけど、この曲をうまい具合に解体して、作り直したのはよく分かる。
 さらにだけど、この「青い影」をモチーフにして荒井(松任谷)由美が「ひこうき雲」などの曲を作ったというもの有名は話である。番組では語られなかったけれど、そういう土台になった歴史というのは、僕らが体験したはずのことなのである。
 音楽というのは、もしくは文学もそうかもしれないが、記録としてはこれからも残る可能性はあるとして、しかし極めて同時代性のあるものかもしれない。多少古いものであっても、体験しなければ分かりえないものなのだ。再体験というものがある可能性はあるにせよ、やはりそれも時代性なくしてはほとんどありえない体験である。すでにずいぶん昔の話になりつつあるものであっても、それは僕らが生きているレンジの中にあるのである。
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作品がすべてだと思いたいだけ

2023-02-25 | 音楽

 それにしても最近はよく死ぬな、という感じだ。ロック高齢化問題という背景があるので当たり前だけれど、要するに僕らの若いころに聞いていたちょっと先輩たちが鬼籍に入るお年頃になったのである。ただ、だいぶお久しぶりで忘れていた人ばかりだった頃とは違って、今もそれなりに活動していたりするから、ちょっと驚いたりするのかもしれない。昔の名前で出ていますが通用するのは、昔の名前を憶えている人が生きているからである。要するにもう少ししたら、僕らもその後を引き継ぐのだろう。確かにそう考えると、寂しいな。
 そうして過去を思い出したりするんだが、思い出すついでに知らなかったこともずいぶん知るようになる。自分の記憶違いも見つかるし、あんがい当時考えていたことと違う印象が、新たに生まれたりする。当時はネットも無かったし、買える雑誌も限られていた。ラジオでもそこまで詳しく解説は無かったと思う。そういう意味では、ある種純粋に曲だけを聞いていたのかもしれない。その曲とその時の青春の情景とともに。
 作家などでもいわれることだが、人物よりその人が生んだ作品こそすべてだ、という考え方がある。ミュージシャンも基本的にはそのように考えたいという気分はある。だから多少素行の悪い面があろうとも、たいがいのことは目をつむって、次に生まれる作品を楽しみにしているし、素晴らしいパフォーマンスを期待している。それで十分じゃないか。
 そうなんだけれど、いわゆる著名になっていくと、パパラッチというか、私生活を含めたゴシップの方が、人々の関心を集めていく。そうしてそのような情報をたくさん知っているからこそ、さらに上級のファンになっていくようなところもある。あの曲はすでに別れたあの子のことが書かれている、という話はごまんとある。今だと有名人同士付き合っていて、その恋愛の情景をそのまま歌詞にしていることで、さらに爆発的に売り上げを伸ばす女性シンガーもいるほどだ(あの人のことですが、複数いるな)。そういうリアリティこそが作品の面白さをさらに引き出し、そうしてアイコンそのものを引き立てていく。実際のところ生きているのに伝記が書かれ、さまざまなメディアに露出するゴシップこそ、今を生きている僕らの生活の糧になっていくようなところがある。作品がすべてである著名人なんてものは、それこそが理想的な幻想に過ぎないのではなかろうか。
 しかしながらその人のことを本当に知りえることはむつかしい。いつまでもその距離は縮まらない。集めるのはその人の周辺の情報のみであり、その人の生のものではありえない。偶像化された人物は、その人そのものではありえないのである。
 結局は曲に向き合って、同時代性と自分の記憶をたどるよりない。自分が生きているからこそ曲が聞けるのであって、この先のことなんて知りうることもできないのだから。
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