カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

レズビアン、我が道を行く   ドライブアウェイ・ドールズ

2025-01-31 | 映画

ドライブアウェイ・ドールズ/イーサン・コーエン監督

 コーエン兄弟の弟が、一人で監督したらしい。なんでも弟の奥さんがレズビアンだったそうで、それを承知で結婚し子供をもうけ、今は別々のパートナーがありながら、それでも離婚はせず共同で暮らしているのだという(それが事実なのだろうが、それが一体どういうことなのか、考えてもよく分からない)。それでいわゆるレズ映画を撮る。徹底してそういう視点であるというところが、ミソでもあると考えていいだろう。下品でシュールなギャグ映画だけれど、そもそもコーエン兄弟には乾いた残酷性がウリではあった。一人になったら自制が利かなくなる、ということも考えられる。面白くないわけではないのだが、それがものすごく面白い訳でもない。
 真面目と奔放な女性の友人同士が居て、奔放な方はレズビアンだ。二人は訳あって南のフロリダ近辺の町まで、指定の車を配送するという業務を兼ねて旅に出る。ところがこの車には問題があって、積み荷はマフィア関連のブツが載っていた為に、彼らに追われることになるのだったが……。
 仕事を兼ねた旅行であるのに、奔放な方の娘はレズの相手探しの事しか頭にない。そうして旅の先々では、ちゃんとレズの集まるたまり場があったりして、セックスの相手探しには事欠かない。もともと喧嘩して別れた彼女もいるのだが、この元カノが警察官で狂暴性がある。マフィアと事件は絡んでいるのだが、そんなことはものともしない強烈さがある。ふつうならもっとシリアスに大変なことになるのだが、この物語はそんな方向には行くはずが無いのである。
 つかわれている曲もなかなかいいのだが、ラリっているようなときにファンカデリック(maggot brainという曲の一部である。ちょっと飛んでいる感じのギターリフなのである)がかかるのである。やっぱり僕の世代の人なんだよね。それにしても渋すぎるんじゃなかろうか。僕は日本にいるのでわからないのだが、こういうのを聴くのは黒人だけじゃなかったんだ。
 そんなに複雑な映画では無いのだが、それなりに事情が絡んで、いわゆる爆発を起こすしかなくなる(人間関係的な)。しかしそうなってしまうのは、意外な人たちなのだが……。まあ、こういう状況では、弱いものが壊れるのである。
 日本だとこういう映画は、ちょっとしたミニシアター向けという気もするのだが、やはりそれなりの大御所が絡んでいるので、ちゃんとした商業映画になるのかもしれない。見方にもよるだろうけど、こういうのが普通であるからこそ、現代的なのかもしれない。でもまあアメリカはトランプさんになったので、この方向が維持できるものなのかどうか……。
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どんぶりと言えば牛丼、ではないが

2025-01-30 | 

 誰かが書いていたのだが、どんぶりと言えば、圧倒的に食べてきたのは「牛丼」だ、という。なんとなく意外な感じがするのは、僕はぜんぜんそうじゃないからだ。牛丼を初めて食べたのは二十歳を超えてからのことだったような気がするし、食べた感想も、まあ、こんなものかな、というもので、たいしてリピートには至らなかった。僕は九州の人間ということもあると思うが、こちらの文化圏では、牛丼というのはポピュラーではない気がする。吉野家のチェーン展開で、身近なものになったのは、あんがい遅いのである(そうはいっても数十年前だが)。
 それでも牛丼が好きだという先輩がいて、やたらに飲んだ後に食べたがったので、つきあいでちょくちょく食べるようになって、牛丼屋でも多少は酒が飲めるということを知ったので、嫌がらず入るようになった。確か団鬼六が、吉野家では一人三合までという飲酒制限があるので、かえって自分には良い、というようなことを書いていたように思う。しかし、制限されていたような記憶はあまりない。まあ、基本牛丼を食べてしまったら、帰ったということなのかもしれない。
 朝飯に牛丼というのは、何度か行ったことがある。これも誰かと一緒だったと思うのだが、まあ朝から開いている店が牛丼屋だったということもあるのだろう。結構客が居たりして、需要があるんだな、と思ったことだった。基本ワンオベで、それでもすぐに出てくるのでいいのかもしれない。ただし僕の場合は、食べて外に出てもトイレの都合があるので、あんまり外で朝飯を食いたくない、というのがある。朝食抜きのビジネスホテルのそばにでもあれば、また行くかもしれないが……。
 関東近辺の友人のところに遊びに行って、牛丼を食べたというのもある。僕らは出身が関東では無いので、そういうのが面白い、という感覚があったかもしれない。せっかくだからあんまり聞いたこともないような店に入って牛丼を頼むと、基本的な味はやはり関東なのかな、という感じではあった。確かそこでも酒は飲み続けていて、僕らの存在はちょっと異質だったかもしれない。
 一度はかなりすき焼き風の味付けになっている店があって、それは少し高い牛丼だったのだが、やっぱりまあ、そういう風にどんぶりを食べたいという欲求なら、よく分かる気がした。すき焼きをやった翌朝に食べるご飯は、それなりのごちそう感がある。牛肉は残っていなくても、あのだし汁の染みた豆腐やネギは、実にご飯にあう。肉があればなおの事、牛丼としては最高なのではないか。
 そう考えると、牛丼はあまり食べてこなかったという思いがある割には、牛丼とはつきあいがあった訳だ。母がまだ元気なころにも、牛丼を食べたいというので連れて行ったが、まあおいしいとは言って食べていたが、もう行きたいとは言わなかった。僕らの牛丼との距離感というのは、つまるところそんなものではなかろうか。
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グッチの名前は偉大過ぎる   ハウス・オブ・グッチ

2025-01-29 | 映画

ハウス・オブ・グッチ/リドリー・スコット監督

 グッチ家の物語と言っても、おおよそ僕とは相当距離のある無関係ぶりなのでいったい何のことだ、ということにはなるが、しかしそれでもなお、グッチというブランド名は知らないではないのである。それにこの映画を観て改めて思ったが、イタリアにおいてもグッチという苗字は、それなりに珍しいものであるようだ。イタリア人の名前に詳しい訳ではぜんぜんないが、そういわれてみるとこのブランドのグッチさん以外に、グッチという苗字の方をお見受けしたことは無い気がする。
 ということで、運送屋の娘が、あるパーティでグッチという名の青年と出合う。そうして二人は恋に落ちるわけだが、グッチ兄弟が経営している弟の一人息子であることで、父親はこの結婚には猛烈に反対する。資産目当てであると考えたからだ。それでも考えを変えなかった為グッチ家から追い出された息子は、この娘の親の経営する運送屋で働くことになる。しかしながら後に娘が生まれ、事実上家族となったことによりグッチ父の気も緩み、親子の仲たがいは終わるのだが、経営権のもとである株の半分は、もう一人の叔父さん家族が握っている。それでもグッチ家の莫大な資産を思いのままにできる立場となった嫁は、グッチブランドの支配をかけて、占いの言うことを聞きながら、コマを進めていくことになるのだった。
 これだけの変なお家騒動にもかかわらず、これまでドラマや映画化されなかったことの方が驚きかもしれない。満を持して大御所職人監督のリドリー・スコットがメガホンを取った訳だ。それで面白くならない筈は無い訳で、なんとまあ、よくもこんなお家芸のずさんな人間関係があったものか、と考え込んでしまった。金を持つというのは絶大な権力を持つことと同義だが、しかしながらそれで何をやってもいいということにはならない。金持ちボンボンは結局経営能力が無く、いとこも同じく馬鹿である。しかしブランド力は強力で、それを欲しがる勢力はしたたかなのだ。
 歌手のレディガガが主役を演じていて、それなりの迫力がある。単なる話題集めのようなものだと思っていたが、イタリア娘からの恐ろしい欲望の女として、なかなかの怪演であろう。
 グッチのブランドは貴族などの特別階級のためのものなのだろうが、日本などの金持ち(というか日本の場合、そういう訳でも必ずしもないのだろうが)などからも分かりやすい高価な象徴となったことで、さらに高額で売れる商品へと成長したと言えるだろう。何故人がこれを欲しがるかと言えば、それが持っている人への羨望へとつながっているからである。しかしながらその大元のブランド家には、さらに大きな問題があった訳だ。
 ということで、さすが職人監督さんだな、という出来栄えで、少し長いがダレることなく楽しめた。いい気分にはなれないだろうが、ある意味人間らしい物語かもしれない。
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旧正月がやって来た

2025-01-28 | culture

 日本が新暦になったのは明治の最初のころからだそうだから、もう基本的には生きているすべての人々は忘れてしまっていることかもしれない。僕も中国に留学していなかったら、ほとんど意識していることも無かったことだろう。もちろん中国も新暦を使っている国なのだが、そうであっても旧正月は実に重要な日なのだ。長崎でもランタンフェスティバルが催されるが、ランタンを飾る風習があるのは、旧正月だからである。日本も旧暦のころは提灯をまちに飾ったというから、中国の風習をまねていたのではないか。しかし現在の正月に提灯を飾ったりはあんまりしないから、すたれてしまったのだろうか。爆竹もやらないので、何かそこらあたりに謎があるのかもしれない。まあ外は寒いので、やらなくなっただけかもしれないが……。
 中国に限らず、アジアの多くの国では、旧正月を祝う風習が残っているようだ。基本的には日本の正月は、旧正月が移動しているだけのことで、考え方は似てはいる。正月になると家族が集まり、一家団欒というか、大宴会になる。多くの人々は故郷を目指して、ものすごい荷物を担いで移動する。あらゆる移動手段が、大混乱となる。旧正月前からそんなことが起こるので、それ自体が風物詩のようなものだ。日本も飛行場や高速道路は大変なことになっていたので、同じと言えば同じだ。肉親家族が集まるという考え方は、西洋ではクリスマスだろうけど、アジアは正月なのだ。厳密には旧正月なのだ。
 日本はもう新暦で正月は済ませているので、旧正月にまた同じような正月は行わない。他のアジアンな地域は、だから新暦の正月はたいしたことは無くて、旧正月を待って正月を行う訳だ。新暦になった時に日本はそういうものを切り替えたが、他国はそれはそれとして、風習は切り替えなかったということだ。そこに何か、日本の、いわば節操のなさというか、柔軟さもあるものの、芯のない大衆性のようなものが、見ては取れないだろうか。逆に言うと、そういう習慣に対する頑固さのようなものが他国には存在するが、日本にはそういうものが希薄なのかもしれないとも考えられる。もしくはお上のようなものに対して従順だからこそ、そうなってしまったのか。今は政府の言うことだからと言って、そう簡単には聞かないよ、という人もたくさんいそうなのだが、そうはいってもこれからあるようなバレンタインのような行事とか、節分の恵方巻だとか、新しいものはどんどん取り入れていくようなところがある。何かはすたれてしまってもいいような気もするが、なんとなく面白かったら、人々に伝播され、一種の風習化する。そういう事と、旧正月を今の正月に移行するような意識とは、あんがい同じようなものがあるのではないか。
 そうはいっても旧正月は、忘れられている。もう元には戻らないことなのだろう。
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テロを美化して連鎖させるには   HOW TO BLOW UP

2025-01-27 | 映画

HOW TO BLOW UP/ダニエル・ゴールドヘイパー監督

 この映画には原作があるらしいのだが、それは小説なのではない。いわゆる啓蒙書としての、環境問題テロの呼びかけらしいのだ。環境を守るために施設を破壊し、まじめに暮らす人々を恐怖に陥れる。それが未来の人々を救うことになり、環境テロの連鎖を招くことになる。そうして実際にこの映画は、その思想を支持し、テロの連鎖を望んでいるのであろう。
 そうであるから問題作として話題になり、上映に躊躇するような動きもあったという。観ていて確かに娯楽作にしては、奇妙な正義意識と、そうして罪に対峙する甘い考えが見受けられる。もちろん、実行にあたっては様々な困難があって、場合によっては命がけである。守る側も武装しているので、その環境に身を置くことは、妨害を受けるということを意味する。分かっていてやるのだから自業自得なのだが、それは美的な正義のもとの事であり、テロリストの精神性なのかもしれない。そういう意味では、おそらく過激なイスラム組織とも通じるところがあって、実際ほぼ同じようなものだとも思うのだが、それは思想であって宗教ではない、とでも思っているだけの事であろう。明らかに間違っているのだが、それにどうしても気づけない人々がいる。それは、間違いをもとに信じているからなのである。
 役割分担があって、それをきちんとこなすための計画がある。爆破するためには、それなりの準備期間と資金も必要だったであろう。それなりの理論武装と、それに至る不幸もあるだろう。さらに自分たちの正義の犠牲も最小限にとどめる工夫もある。捕まった後のことも考えて実行しているのだ。それ自体にも自己犠牲があり、後に続くテロのヒントにもなっている。今だけの成功ではなく、将来的にも連鎖を望む目的がある。いや、テロの目的は環境保護のはずなのだが、テロを始めるにあたっては、そのようなテロの誘発こそが目的にならざるを得ないのだ。
 そういうところが何しろホラーなのだが、確かにテロ心理を理解する道具にはなるかもしれない。そうして人間というのは、そのような愚かさに自分の命さえも懸けられるような、奇妙な考え方の仕組みがあるようだ。
 変な映画だし、ちっとも感心できないし、事実たいして面白くもない出来栄えだが、そういうことを考えるということに対しては、その材料にはなる。もっともこれで、この思想に染まって、実際にテロの連鎖を生むと洒落にならないだけである。まあ、そんな力はないと思いたいが……。
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サンタに何か持って行ってもらう

2025-01-26 | 境界線

 サンタに何か贈り物を願う、というのは、子供のころにはあったのだが、すっかり忘れていた。いや、自分のこどもに対しては、その子供時代によってもあるにせよ、親として悩まされた、というのはあるのだが、これは基本的に妻があれこれ演出をやってくれたので、夜になって枕元にプレゼントをわからないように置く、という苦労しか知らない(かれらは普段よりよく起きるのだ)。
  しかしながら、クリスマスに何か欲しいものを、という願いは、自分に課しても良い問題だ。実際の話、この楽しい祭りの時期に、じぶんに、いわゆるご褒美として、何かを買うという行為は、一般的なものなのかもしれない。この時期に高級なものが売れるというのは、贈り物が主であるとは考えられるものの、そうではなく、自分自身に何か買うという行為も含まれているのではないか。
 そんなことを思っていたのだが、雑誌で益田ミリの漫画を読んでいて、ちょっとした衝撃を受けた。それと言うのも、いわゆるせっかくサンタが来るなら、何か自分が持っている不要なものを、ついでにもっていって欲しい、というのだ。欲しいものは、具体的な何かではなく愛であり、しかし、たまっているものに対して、減らしたい、というのが、最も大きな問題だ、ということなのだ。さすがという視点も含めて、なんだか、凄いですね。サンタに何か持って行ってもらうという発想は、ちょっと無かったな。
 しかしながらこういう願いは、欲しいものより要らないものの事の方が、生活の中のウェイトが大きくなってしまった、ということをあらわしているようだ。欲しいものは無いではないのだろうが、そういうものを新たに上乗せするよりも前にやることがあり、まずは埋めるべき空いたスペースを確保したいというか。考えてみると恐るべきことだが、現代人というのは、そういうやるべきことの方に、考え方が偏ってきているのではないか。それをやれてない自分に対して、というか、一種の理想的な在り方があって、それに対しての自分への不満というか。ちょっと考えすぎだろうか。
 やれてない自分は残念かもしれないが、それがまぎれもなく今の自分だ。反省して改善するのはいいかもしれないが、不満に押しつぶされるような感情というのは、なんとなく不健全だ。そういう病理のような感じというのは、本当に病気ではないにせよ、結局自分を苦しめているだけでは無いのか。
 サンタに頼る姿勢にも問題が無いとは言わない。元は西洋のことだから、そういう神から降ってくるような幸運というのを指しているのかもわからない。もっともそれは親など具体的な人はある訳だが、贈り物を贈り合うような、実際は共助的なものだろう。そうであるならば、やはりそれは自分だけの不満に納めることなく、表に出してもいいということになる。相談する相手が無いというのであれば、やはり困ったことであるけれど……。
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変わってしまった生活も長くなると……   千夜、一夜

2025-01-25 | 映画

千夜、一夜/久保田直監督

 主人公の女性は、30年前から夫が失踪している。何しろ長い年月だから、本人以外は、もう戻って来るなんてことは諦めているようすだ。そんな彼女にたいして、幼馴染でもあろう漁師の男は恋心を抱いていたが、それには応える気にはなれなかった。そんなある日、同じく夫が失踪してしまった自分より若い女の、その夫と偶然出会ってしまう。実はその若い女は、すでに別の男と同棲生活を始めていて、新しい人生を歩みだそうとしていた。そんなときにひょっこりと前の男を連れ帰ってきてしまったせいで、いわゆるまちに全体にも、不協和音のようなことが起こってしまうのだった。
 寓話と言えばそうかもしれないが、表情だけで多くは語らないので、本当のところ、彼女らが何を考えているのかはよく分からない。ただ夫が帰ってこなくなって寂しい訳だが、しかしそれを認めてしまうことも、意固地になってというだけでなく、そう簡単ではない、ということなのである。分かっているけど、分かりたくはないのだ。そういったあたりのことを、周りの人間も心配はして、そうしてどうにかならないものかとは、気にはかけている。そういう事も分かっているけど、素直に受け入れることもまた、出来ない相談なのである。それくらい傷は深く、わかり得ない問題なのであろう。
 世の中にどれくらいの失踪事件があるのかは知らない。事件がらみというのもあるだろうが、精神的な病気も含めて、それなりの数は、実際にはあるのかもしれない。家出と言えば、いつかは帰って来るもののように思うかもしれないが、そのまま出ていって、その出て行き先での生活などが長くなったりすると、今度は逆に、元に戻るのがどんどん難しくなってしまうのかもしれない。都会では一定数いわゆるホームレスと言われるような人々や、そこまでいかないまでも、出稼ぎのまま、そこに居つくなど、事情のある人々は相当数いるものだと思う。また、日本はそういう事が可能な国でもあるのかもしれない。いいことも悪いこともあると思うが、そういう事情がよく分からないまま、待っている人々もいるのかもしれない。この映画は、そういう現実のことも訴えたいのではなかろうか。よく分からない演出も、そういうあたりの事件についての複雑さをあらわしているのであろう。それにしても、罪深いことではある。皆さん連絡は、ちゃんと取るようにしましょうね。まあ、そういう教訓めいた事でもないのだけれど……。
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年賀状は気楽になった

2025-01-24 | 掲示板

 今年は(昨年末は)年賀状の数が大幅に減った。職場で出すものは、減ったとはいえ三百枚程は固定があるので、そこまで実感は無いが、なにしろ個人のものがだいぶ少なくなった。若い頃は先輩にもさまざまな仲間にも出さなくてはならないという使命感のようなものがあったので、二百枚程度まで伸びた時代もあったが、だんだん返信の無いものを減らしていって、百五十枚あれば十分、というところまでは近年来ていたと思う。昨年もだいぶ減った印象もあったが、とりあえず実績のありそうな百五十枚は一応葉書は買っておいたのだが、昨年来た人を中心に書いたのは百枚にもならなかったし、予期せず来たものは四枚程度だった。一気に百枚を切るまでになってしまったのだ。
 改めて年賀状じまいをする人が周りに増えたものだと、つくづく思う。昨年に、来年以降はお気遣いなく、という文面が目に付いたものだが、今年は予告として、年賀状は出さないというのまで来た。丁寧というのはあるが、さすがだな、と思う。ある人の話だと、そういう予告も何もなしに、賀状が来てもとにかく反応しないということをしても、数十枚は来るものだ、と言っていた。だからもう何もしない、ということなのだろう。
 はがき代が上がったという理由も、それはきっかけにはなったと思われる。しかしながら一番多い理由は、やはりSNSなどでリアルタイムに年始の挨拶は交わすようになったのが一番だろう。つながっている状態で挨拶を交わしているのに、さらに賀状まで出す必要性が薄くなった。もともと年賀状は、年始の挨拶ができかねる場合を考えての書式での挨拶なので、年始の挨拶をすることが分かっている人には出す必要はないのかもしれない。そもそもの年賀状の役割に、現代人は戻りつつあるということなのだろう。
 僕としては特に来年以降この流れに沿って年賀状じまいをするような気分には無いが、年賀状を年末に書くという重責から、実際にかなり負担が軽くなったというのはあると思う。減ったおかげで数時間なんとかしたらいいことになったので、逆説的に、これなら続けてもいいかもな、という感じかもしれない。この程度ならいい、という気分と、さして重要でない気分が合わさって、出し忘れや、思わぬ人から一方的に頂いたとしても、そこまで心を痛める必要が無いような気もする。実際どう思っておられるかなどは分かりようがないが、ずいぶん気楽な行事になったものだ。デザインはつれあいにやってもらうようになって久しいので、そんなに負担を感じないでも、そもそもよかった問題だったのである。字の練習になるのであて名を書いていたようなところもあるし、しかしそんなに簡単に字なんて上手くならない訳だし、さらに利き腕が以前よりうまく使えないような年頃になってしまって(ちょっと麻痺があるのである)、そんなことも気にならなくなった。いい時代になったなあ、ということになるんだろうか。まあ、そういう事で、皆さんあんまり気にしないでくださいませ。

追伸:今年頂いた年賀状で感心したこと。数枚蛇の絵を手書きしている人がいた。一筆書きのようなものと、漫画チックなもの。それぞれとても良かった。ヘビは単純なようで、描いてみるとあんがいむつかしい。しかし、やはり味があるものである。
 アプリがあるのだと思うが、家族の写真などをきれいにはがきサイズに合わせて印刷してあるものがある。毎年このサイズがきちんと印刷されてない事に悩んでいるので、こういうのを見ると、いいなあ、と思います。もう済んだことだけど、来年はこういうあたりをブラッシュアップさせたいです。
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超人たち、ナチスと戦う   フリークス・アウト

2025-01-23 | 映画

フリークス・アウト/カブリエーレ・マイネッティ監督

 イタリア映画。ナチスの力の影が覆う時代背景にありながら、超能力を持った集団は、ユダヤ人の団長のもとにサーカスをやっていた。しかしながら戦火が広がる中、団長は事情があっていなくなってしまう。バラバラになりかけたサーカス団の仲間たちは、それなりに協力しながら、謎のテロ組織など渡り歩き、ナチス直属の天才音楽家率いるサーカス団に潜り込んで、つぎの生き残りをかけていくことになるのだったが……。
 独特の世界観とはいえるが、炎の少女チャーリーなどの超能力もの(もしくはキャリーなど)の系譜と言えば、そんな感じもないではない。基本的には、超巨大な能力を封印している人間の活躍次第、といったところだろうか。そこらあたりはじれったいところもあるのだが、理由としては分からないではない。ユダヤ人の運命も握っており、ともかく頑張らなければならない。皆は仲間ではあるが、なんだか仲はあんまりよくない。恋愛もあるんだが、いったいこんな男で本当にいいのか? イタリア人の価値観というのは、微妙によく分からない感じだ。そうではあるのだが、最終的には大迫力のクライマックスに向かって、物語は収斂していくようになっていくのだった。
 個人的には思っていたのとはだいぶ違ったのだが、奇妙な映画を観たという事であれば、それはそれでいいのかもしれない。いわゆる戦時中の映画ながら、反戦とか、そういう思想はあんまりない気がする。ナチスというのは一方的に悪い存在であるので、そういうものは説明不要で、戦って殺ししてしまえばそれでいいのである。まあ、そこまでは言って無いのかもしれないが、よく分からない正義集団と姿を変えて、サーカス軍団の一人が頑張ってくれるということになる。そうでなければ、この物語は、いったいどうなってしまったことだろうか。
 まあ、大した映画ではないのだが、こういう娯楽というのは、大衆演劇場で観たことあるような、そういう単純性が引っ張っているのかもしれない。お国は違えど、人間的な感情というのは同じようなものなのであった。
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今年もよく食べました

2025-01-22 | 

 毎年お正月は、カニ爪が欠かせない。買うところは決めてあるようで、しかし義理のあるような魚屋もあって、そこからは買わなくてはならない。分かっていることなので、それだけでも構わないのだが、来る客というか、参加する人数のこともあるので、それだけだと十分かどうかわからない、というのはあるようだ。そういう訳で、すでに義理の魚屋の前に、一つ買っておいたという。ふたを開けてみると、そちらの方が値段も安いし形も大きかった。それで実際に食べてみた感想としても、そっちの方が肉感といい、みずみずしさのようなものといい、バランス的にも非常に良かった。数量制限もあったが、名残惜しくもあったのだった。
 ローストビーフなどを含む肉のオードブルもあったのだが、刺身もあるし寿司も食べた。そのままでは並びきれない皿があって、取り分けてテーブルに並ぶことになった。それでもエビチリやかまぼこ数の子などが自分の席から遠ければ、なかなか取りづらいほどの距離になってしまう。飲み物も飲まなければならないので、テーブル事情として譲れない問題だったのである。
 人が集まると話をするので、食べる方は追いつかない。そうして一旦休止して、まだ余っているのでもったいない、と誰かが言って、それからごそごそとたくさん食べる。そうしなくても、実際は既にそれなりに食べていたりして、もう本当はお腹いっぱいかもしれない。でももったいないなら仕方がない。取り分けてくれる人が居たりして、そういうのを遠慮なく頬張る。そうしてやはり、カニ爪が旨かったりするのである。
 翌朝は贅沢に鰻丼をたべて、カレーライスも食べた。小にしたのを二つ、という感じだ。これらは昨夜もあったのかもしれないが、とても食べきれないので朝になったのだ。その後も雑煮を食べて、まだかまぼことか数の子とかあるので、夜にも酒のつまみは事欠かない。いったん熱めの熱燗にして、冷ましながら酒を啜って、ポリポリしあわせなのである。別段三が日が過ぎてしまっても、そういうのは正月気分なのであった。
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一種のプロモーションフィルム   キリエのうた

2025-01-21 | 映画

キリエのうた/岩井俊二監督

 岩井俊二はプロの監督さんで、商業的にもヒットしたちゃんとした監督さんではあるのだけど、いわゆる素人というか、この映画もそうだけど、そんな感じの残る人なのである。それだけ完成度が低くて、自分本位な作品だと言い切っていいだろう。でもそれが魅力でもあり、至らなさでもあり、しかしこの監督は、それを狙ってもいるのかもしれないのである。まったく厄介だ。
 観ていて随所にイライラさせられるのは、そういう自分本位なところである。常識では考えられない、背景のしっかりした社会を構築出来てはいない。さらに甘えた社会観のままに、平気でお話を進めてしまう。前提がダメなので、今現在もダメなのに、社会が悪いとでも言っているようなところがある。この人は、本当に社会生活を送れているのだろうか。そんな危惧さえ抱きかねないが、しかし、奇妙な魅力が継続するのも確かで、たいした映画だとはとても思えないが、観てしまうという愚行を生んでしまう。まったく困ったことだ。
 一応お話のスジはあるようだが、雰囲気を楽しめばいいと思われる。様々な場面で歌われるプロモーションかもしれない。基本的には悲劇的だが、それらは不幸なこともあるかもしれないが、自分で窮地に陥っているところもある。いったい誰が悪いのか。ある種の悪ふざけのようなところもあって、とても感心できない。特に地震の場面は最悪なのではないか。ちょっとしたエロが混ざっているので、目的は実際はそういうところにあるのかもしれないが、人のやさしさというのは、そういうところには無いのだ。
 ともかく長い映画で、歌い手さんの個性はよく出ているとは思われるし、監督もこういう感じが好きなのはよく分かる。過去にはチャラも個性派だったし、基本路線としての好みのようなところは分かるところがある。ちょっとエキセントリックな感じがするけれど、それも含めての狙いがあるのだろう。映画の見どころも、そういうもののようだ。
 不必要に見える暴力なども散見されるのだが、そういうコントラストがあることで、人物の悲哀を浮き彫りにしたい狙いがあるのだろう。ある種の奇抜さというのは、どうだ、という気負いにも感じられるのだが……。
 という事で、観てはしまったが、疲れてしまった。過去には良かったこともあり、期待が大きすぎたのだろう。もう離れてしまうだろうけれど。
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ハイジへの憧れとは何だろう

2025-01-20 | ドキュメンタリ

 「アルプスの少女ハイジ」は、50ヵ国以上に翻訳して読まれているスイスの代表的な小説である。作者のヨハンナ・シュピーリは、50以上の作品を残した当時の流行作家だった。最初に記したハイジの評判がよく、出版社から続きを催促されるままに書いた。しかしながら実際には、ハイジものとしては二作で、他は別作品である。ところが特にフランス語訳では6巻になって、ハイジの教師時代、老後まで描かれる大河ものになっている。フランス語の翻訳者が、ヨハンナ・シュピーリの別作品などから引用して、勝手に続編を作ったためだった。そういう訳で、ドイツ語圏ではハイジは二巻だが、それ以外の国では長いものが存在するのである。
 そのような作品であるが、国家的な象徴となった理由はもう一つあって、それは他ならぬ日本で製作されたアニメの為である。高畑勲や宮崎駿、小田部羊一らの製作者は、事前にスイスに行って、構想を練った。リアルなアニメを作るというよりも、実際にそこにいるように感じられるような、リアリティのある作品にするためだった。彼らはスイスの大自然に驚き、現地の人々の話を聞いたりして作品を形作る参考にした。当初予定していた三つ編みの女の子から、ざっくりと短髪の活動的な女の子へと変更したとされる。そのような愛されるキャラクターの姿は、当時の挿絵のものとはまるで違うものだったらしく、フランス版などはブロンドの髪だったりしたそうだ。
 ハイジの姿は基本的にこのアニメのものが模倣され、商品のパッケージで使われたり、人形になったりして、さまざまな商品として世に出回っている。僕はドキュメンタリーでこれを観たのだが、撮影側のインタビュアーは、ハイジの商品や資料館で働いている人々に、しきりにそのような商業主義に対する批判のコメントを求めたりしていた。相手側も仕方なく、ハイジの物語の素晴らしさがそうさせているのだ、と答えていた。ジャーナリズムは、そのような映像があるから商業として成り立っているわけで、そういう認識の足りないジャーナリストというのが、批判にさらされるべき存在である。
 ともあれ、スイスに訪れる多くの人は、ハイジの暮らしていた幻影を追い求めている。作者のヨハンナ・シュピーリは、父が医者で自宅が病院を兼ねていて、母もともに忙しく働いていて、事実上叔母に育てられた。ハイジの孤独な境遇と重なるものがあったのかもしれない。さらにハイジは都会になじめず苦労するが、そのような心情をつづった物語だからこそ、スイスの大自然賛美のようなものにつながっていったのだろう。
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実話が元だってさ   理想郷

2025-01-19 | 映画

理想郷/ロドリゴ・ソロドイェン監督

 こういう映画を何といえばいいのだろうか? 最近のヨーロッパ映画に多いのだが、そういう流行りなんだろうか。僕は確かに日常的に映画を観ている訳だが、観た後にいやな気分がずっと残る感じのものがたりなのである。これでいいはずはないのだが、そういう分野としては、確かによくできている作品なのだ。映画として、いってしまえば、なかなかの佳作だ。しかしながら、この気分の置き所を考えてみると、娯楽作とはとても言えない。しかし、考える映画として、と限定すると、それなりにいい位置にあるのは間違いなかろう。
 自分たちの理想もあって、フランス人夫妻はスペインの田舎に越してきて土地を買い、農業をしている。やっとスペイン語もなんとか話せるようになっている。ところが地元の人とはなかなかうちとけることができず、むしろ嫌われていく度合いが高まっていく。それというのも、地元に風力発電の誘致の話があって、村人の多くはその補償金を目当てにしていたのだが、この移住夫婦がそれに賛成していないのだ。特に隣の牛を飼っている兄弟のいる家では、執拗に嫌がらせを繰り返し、実際に農作物の被害など、生活に支障が出るような犯罪行為まで仕掛けてくる。だが、警察は相手にしてもくれない。こんなことに耐えながらしあわせな生活など送れないのだが、夫はちょっと意固地にもなってもいた。そうではあるが、なんとか関係を改善して、ここに住み続けるように努力を重ねていくのだったが……。
 なんと、実際に起こった事件を題材にしているという。いくらなんでも酷い話だ。隣人問題のこじれは、どの国でもあることだし、外国人差別も、あると言えば普遍的な問題だ。しかしながら、こんなことをやっていい国なんて、とても許される問題ではない。気持ち悪さや、怒りや、復讐については、人間らしく考えられる問題であるが、ここまでくると、もう何もかも取り返しがつかないのではあるまいか。観てしまったものは仕方がないが、なんだかスペインという国そのものにまで、嫌気を感じるような気分になってしまった。みんな貧困が悪いともいえるかもしれないが、人間の自由なんて、案外限られたものなのかもしれない。みんな不満があっても土地に縛れている。それはつまるところ、やはり人間の本性が悪いのであった。
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尊敬するというのとは違う気がしていた

2025-01-18 | 母と暮らせば

 子供のころに作文だか何かで、じぶんの尊敬するひとの事を書くというのがあった。ふつうはエジソンとか野口英世みたいな人を書かなくてはならないものだとばかり僕は考えていたようだが、クラスの優秀な子たちは、両親とか、特に母親について書いて、褒められていた。実際にその作文を朗読したりもしていたので覚えているのだが、朝早く起きていろいろ準備してくれたり、ご飯を作ってくれたり、優しくしてくれたり、話を聞いてくれたり、家族のことを細やかに面倒を見る姿を書いていたようだった。なるほど、そうだな、確かにうちの母もそんなことをしているはずだ、とは思った。
 考えてみると、そんな母に感謝をしていない筈は無かった。それはありがたい存在だし、精神的にも頼っていたし、母が嫌いなわけではありえない。しかし真剣に尊敬しているかと言えば、なんだかそういうものとは違うような気もする。お友達の優秀な作文のように、そういう手があったな、とは思うものの、母を含め両親などを尊敬、という感じは、今一つ分からないのだった。尊敬というのは、もっと外的な何かで、特に母の場合は、自分の内面にも通じている存在であって、仰ぎ見たり、崇拝するようなものでは無いのではないか。そういう感じは、ちょっと水臭いようなものがありはしないのか。
 実際のところ、母から料理を作ってもらったからと言って、面と向かってありがとう、などとは言わない。だいぶ大人になって、改めて母にありがとう、というのはあるような気もするが、自分が子供であるのに、母に向かって感謝するというのは、ちょっと無かったようだ。それこそ学校の行事のようなもので、母の日に何かしましょう、という事であれば、お母さんありがとうという似顔絵を描いて、肩たたき券などをプレゼントしたことだろう。そういうスペシャルな時に限って、改まってありがとうという存在ではあるのだけれど、それこそ日常生活において、母が僕に対してやってくれていることのほとんどすべてに、感謝の念を持つことを忘れていた。本当に考えもしなかったのである。
 むしろうるさく言われるあれこれに対して邪険に対応したり、文句を言い返したり、嫌いな料理が食卓に並ぶと、露骨に嫌な顔をした。こづかいを増やせとせがんだり、何かを買ってくれと頼んだりした。テレビを見ているのに話しかけられたら怒ったり、朝眠いのに起こされたら起きたくないと駄々をこねた。そういうあれこれの中に、母を傷つけるようなことも、きっとあったに違いないのである。いや、相手が傷つくような攻撃も、実際にしていたのである。今思うと罪なことだとは思うが、母は激しい気性のものがあって、今でいう逆切れのように激しく怒られ返したものだ。そういうやり取りを経て、母に対する激しい憎悪のような感情も併せ持っていた。もちろん、時間がたつと、そういうものは、消えて無くなってしまうのだったが。要するに甘えていたのである。
 そういう事も、今となっては本当にずいぶん前の記憶でしかない。現在の母のことを思うと、そういう母の若い頃というのは、あんがいに短くなってしまった。僕も年を取った訳だが、そういう大人時代の付き合いの方が長くなって、ずっとおばあちゃんとしての母と接する時間が長くなったのである。たとえ激しいやり取りがあったとしても、そういうつきあいのあった方が、やはり母と子の張り合いのある関係だったと言えるかもしれない。尊敬であるとかそういうことを考えなくてもいいような、やはり近すぎる関係性が、そこにはあったのである。
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ゾンビではない死者蘇り   屍者の帝国

2025-01-17 | 映画

屍者の帝国/牧村亮太郎監督

 アニメ作品。舞台は19世紀末らしいが、その時代には、死者をある意味蘇らせて(ゾンビではない)、労働力に使う技術が活用されていた。その研究に携わる若者と、半分死んでいるような友人と、暴れん坊の用心棒のような奴と共に、この屍者に感情を持たせる技術を持った人間を探しに冒険に出る。死者の活用は主に労働力だが、当然ながら軍事的にも利用されていて、憎しみのような感情をもった死者の兵士は、動きも俊敏で、戦闘能力が高いのだった。
 主人公のワトソン君は、友人のフライデーの死者のこだわりが強く、自己中心的に世界を滅亡させるような事ばかりして足を引っ張っている。何がすぐれているのかよく分からない人なのだが、これに人類の未来がかかっているらしい。この屍者の活用に優れたグループは、当然複数あって、段階的に謎に迫っていくのだが、皆の壊滅的な思惑はなんとなく違うようで、そもそもこれを完成させている技術は、既に過去からのデータがあるらしい。これをめぐって争いがあるのだが、これを活かしていわゆる世界征服のようなことをしたいのか、もしくはこれを破棄して、元の秩序に戻すべきか、というのが大筋の考え方らしい。主人公は個人的にこれを活かして友人を復活させたいだけのことなのだが、正義としては、これを破棄すべき立場にあるという葛藤がある訳だ。なんだか気持ちの悪い機械への接続の仕方があって、一種のミステリ・ホラーという趣である。
 確かにアニメだから時代背景や、さまざまな国や、超人的な飛躍表現が可能だというのはあるが、激しい葛藤のある中で、ややその説明の端折り方が分かりにくいところがある。キャラクターの顔も似ている人が居たりして、なかなか覚えづらい。こういうのはやっぱり若者向けなのかな、という気もした。いろんな国の人々が、ぜんぶ日本語で会話してくれるので、そういうところは助かりはするんだけれど、リアルさは、やはり無いかもしれない。
 どういう訳か日本のアニメは、個人の事情が世界情勢に大きく関与するものが多い。いわゆるセカイ系ということなのかもしれないが、多くの人の命がそれで失われたとしても、あまり気に病んだりする様子が無い。それよりも自分の愛する誰かの事だけが、比重の重さにおいて比較しようがないほどに重要なのだ。それはそうかもしれないが、やはりなんとなくバランスにおいて、観ていて大丈夫かな、と心配になるのである。大人が観る場合、これがアニメ離れの第一の原因ではないかと、僕なんかは思うのだが。
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