カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

どんぶりと言えば牛丼、ではないが

2025-01-30 | 

 誰かが書いていたのだが、どんぶりと言えば、圧倒的に食べてきたのは「牛丼」だ、という。なんとなく意外な感じがするのは、僕はぜんぜんそうじゃないからだ。牛丼を初めて食べたのは二十歳を超えてからのことだったような気がするし、食べた感想も、まあ、こんなものかな、というもので、たいしてリピートには至らなかった。僕は九州の人間ということもあると思うが、こちらの文化圏では、牛丼というのはポピュラーではない気がする。吉野家のチェーン展開で、身近なものになったのは、あんがい遅いのである(そうはいっても数十年前だが)。
 それでも牛丼が好きだという先輩がいて、やたらに飲んだ後に食べたがったので、つきあいでちょくちょく食べるようになって、牛丼屋でも多少は酒が飲めるということを知ったので、嫌がらず入るようになった。確か団鬼六が、吉野家では一人三合までという飲酒制限があるので、かえって自分には良い、というようなことを書いていたように思う。しかし、制限されていたような記憶はあまりない。まあ、基本牛丼を食べてしまったら、帰ったということなのかもしれない。
 朝飯に牛丼というのは、何度か行ったことがある。これも誰かと一緒だったと思うのだが、まあ朝から開いている店が牛丼屋だったということもあるのだろう。結構客が居たりして、需要があるんだな、と思ったことだった。基本ワンオベで、それでもすぐに出てくるのでいいのかもしれない。ただし僕の場合は、食べて外に出てもトイレの都合があるので、あんまり外で朝飯を食いたくない、というのがある。朝食抜きのビジネスホテルのそばにでもあれば、また行くかもしれないが……。
 関東近辺の友人のところに遊びに行って、牛丼を食べたというのもある。僕らは出身が関東では無いので、そういうのが面白い、という感覚があったかもしれない。せっかくだからあんまり聞いたこともないような店に入って牛丼を頼むと、基本的な味はやはり関東なのかな、という感じではあった。確かそこでも酒は飲み続けていて、僕らの存在はちょっと異質だったかもしれない。
 一度はかなりすき焼き風の味付けになっている店があって、それは少し高い牛丼だったのだが、やっぱりまあ、そういう風にどんぶりを食べたいという欲求なら、よく分かる気がした。すき焼きをやった翌朝に食べるご飯は、それなりのごちそう感がある。牛肉は残っていなくても、あのだし汁の染みた豆腐やネギは、実にご飯にあう。肉があればなおの事、牛丼としては最高なのではないか。
 そう考えると、牛丼はあまり食べてこなかったという思いがある割には、牛丼とはつきあいがあった訳だ。母がまだ元気なころにも、牛丼を食べたいというので連れて行ったが、まあおいしいとは言って食べていたが、もう行きたいとは言わなかった。僕らの牛丼との距離感というのは、つまるところそんなものではなかろうか。
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今年もよく食べました

2025-01-22 | 

 毎年お正月は、カニ爪が欠かせない。買うところは決めてあるようで、しかし義理のあるような魚屋もあって、そこからは買わなくてはならない。分かっていることなので、それだけでも構わないのだが、来る客というか、参加する人数のこともあるので、それだけだと十分かどうかわからない、というのはあるようだ。そういう訳で、すでに義理の魚屋の前に、一つ買っておいたという。ふたを開けてみると、そちらの方が値段も安いし形も大きかった。それで実際に食べてみた感想としても、そっちの方が肉感といい、みずみずしさのようなものといい、バランス的にも非常に良かった。数量制限もあったが、名残惜しくもあったのだった。
 ローストビーフなどを含む肉のオードブルもあったのだが、刺身もあるし寿司も食べた。そのままでは並びきれない皿があって、取り分けてテーブルに並ぶことになった。それでもエビチリやかまぼこ数の子などが自分の席から遠ければ、なかなか取りづらいほどの距離になってしまう。飲み物も飲まなければならないので、テーブル事情として譲れない問題だったのである。
 人が集まると話をするので、食べる方は追いつかない。そうして一旦休止して、まだ余っているのでもったいない、と誰かが言って、それからごそごそとたくさん食べる。そうしなくても、実際は既にそれなりに食べていたりして、もう本当はお腹いっぱいかもしれない。でももったいないなら仕方がない。取り分けてくれる人が居たりして、そういうのを遠慮なく頬張る。そうしてやはり、カニ爪が旨かったりするのである。
 翌朝は贅沢に鰻丼をたべて、カレーライスも食べた。小にしたのを二つ、という感じだ。これらは昨夜もあったのかもしれないが、とても食べきれないので朝になったのだ。その後も雑煮を食べて、まだかまぼことか数の子とかあるので、夜にも酒のつまみは事欠かない。いったん熱めの熱燗にして、冷ましながら酒を啜って、ポリポリしあわせなのである。別段三が日が過ぎてしまっても、そういうのは正月気分なのであった。
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新米食べて嬉しいが

2024-12-23 | 

 一時期コメ不足が騒がれていて、さすがに田舎は関係ないだろうと思っていたのだが、どうも都会に住む子供や知り合いにお米を送る人々が一定数いるということも相まって、スーパーの棚から米袋の数が減っていった。時には売るのに個数制限があるなどという騒ぎになった。普段より何割かも高い値段の米であるにもかかわらず、複数買うことさえ許されないのだ。まあ、まったく棚からコメが消えるということは無かったように思うが、ともかく変な米騒動だった。
 ところが新米が出回るようになって、また少し驚いたのは、これがまた例年よりも高いのである。便乗値上げというのとは違うのかもしれないが、古米もちゃんといつもより高い値段で売られ、さらにその横で積み上がっている新米さんが、堂々の値段で売られている。強気なんだよね、という態度も見えるが、これがちゃんと売れる値段ということなのだろう。なんとなく呆れてしまうような気分もあるのだが、新米だから食べてみたい気もする。でもまあ、新米はしばらくは新米である。待ってやってもいいか、などとうそぶいて買うのをやめるのである。
 そうしてそんな高い米を買うくらいなら、すでに炊いてあるご飯を買う、ということもしてみた。これがまた売れているようで、忙しい時などの代替手段くらいにしか考えてなかったが、こういうごはんも結構売ってあるのである。非常時の備蓄などもあるかもしれないが、やっぱり日本にいると、米を食べる手段は案外たくさんあるのだ。
 そうはいっても新米をくれる人もいる。せっかくとれたのでおすそ分けしてくれたり、なにかのお礼だったり、ちょっとしたあいさつ代わりだったり。お米はつまるところ邪魔になるものでは無くて、頂くのは本当にありがたいし、何しろ新米である。新米が出てくると、食卓の色どりまでなんとなく華やいでくる。いや、おかずは特に気にしなくても、やはり米自体が旨い。岩のりでも梅干しでも何でもいいのだが、お米ってうまいな、と改めてかみしめて頂くことになるのである。
 そういう訳で、既に高くなっている古米と言っていいコメのことを再度思う。そのまま強気で売られ続けているけれど、やはり新米が出回るまでの事では無いのか。それともまだ、先々に至るまでコメ不足が続くという流れを借りて、利益重視なのか。市場のことはよく分からないのだが、米が採算が取れるということになれば、おそらく作付面積も増えるだろう。二毛作をやるところだってあるかもしれない。そうしてまた米が豊富になるとだぶついてきて……。
 いつまでも非常時にするわけにはいかないのだが、適量というのはそれなり難しい問題のようだ。さらに人為的な介入のあるコメ市場である。必ず作為的なものでは対応できないことが起こりうる。計画経済が必ず失敗することと、米の相場は同じようなことなのかもしれない。
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〆にちゃんぽんは、無い訳ではないが

2024-12-20 | 

 先日某会で客人を迎えていて、懇親会済んで二次会でのことで、これからちゃんぽんを食べたいと言われた。長崎の銅座などで飲んでいるのとはわけが違って、こういうのは少し困る。それに時代があって、僕の若い頃にはこの飲み屋街にも遅くまであいている町中華のような店はあったのだが、代替わりもして、夜にあいているのを見なくなって久しいのである。ラーメン屋はあるのだが、おそらくちゃんぽんは無かった。ちゃんぽんを食わせる店がまったく無い訳ではないが、車での移動が必要だろう。それにこの地に来て、チェーンの店を紹介しても仕方なかろう。
 食事屋でちゃんぽんを出しそうなところ、というのも無いではない。〆で頂くことはあるのだが、しかしそれも準備との兼ね合いがありそうだ。いつもスープがあるとは限らない気がするのだ。
 考えてみると、ちゃんぽんは昼限定では無いとはいえ、飲んだ〆ではあんまり食べない。いや、これは我が町で、という意味ではある。まちの規模感というのがあって、そういうのをうまく内包していないというか。だから飲み屋街の中に、あまり飲食店が含まれていないのかもしれない。居酒屋はあるが、やはりちょっと違うのである。
 ところがよく話を聞いてみると、昨夜も食ったというのだ。何のことは無い、客人の泊っているホテルの国道挟んで斜め向かいのラーメン屋が、夜は居酒屋化していて、メニューにちゃんぽんもあるらしいのだ。こういうのは需要に合っているが、あの辺りは飲み屋が少ないので、単体で取り込めるということかもしれない。
 飲んでいない仲間の車と、別にタクシーを呼んで、ご一行はちゃんぽんへと消えた。観光のまちではないというのは、こういう事なのかもしれないとは思ったのだが、しかし、ピンポイント需要にこたえるだけのことは出来はしない。こういう時に、それではこのまちではこんなものを食ってはどうか、という提案をする、という道もあったかもしれない。ちゃんぽんは基本的には腹いっぱいになる食事だから、夜遅くには食べない方がいいということはあるんだけれど……。
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とんかつ愛が育ったこと

2024-12-07 | 

 福田和也が死んで、なんとなく彼の本をパラパラ読んだりしていると、「とんかつ」に対する尋常ならざる愛があったことを知った。が、僕はふだんは、あんまりとんかつのことは考えないようにしている。それは何より僕が肥満体だからだが、太っていようと痩せていようととんかつの誘惑が恐ろしいからでもある。一度頭の中がとんかつ脳になってしまうと、それはもう苦しんだ上に食べないことには収まることが無い。そうして食べてしまうと、必ず体重は増えてしまうのだ。若い頃にはそんなことは無かったのだけど、若くなくなるとそうなってしまう。それは実に恐ろしい現実なのだ。
 子供の頃に父親に連れられて、鍛冶屋町の「浜勝(当時はそう表記した。今は「濵かつ」)には連れて行ってもらったことがある。この店のとんかつは、今ではどこでも食べることのできるありふれたものになってしまったが、その初めて食べた衝撃は、それなりに強かった。こんなにサクサクしてて濃厚な豚肉の揚げ物は、食べたことが無かったのだ。もちろんとんかつ自体は食べたことくらいある。家庭料理にとんかつはあったと思うし、いわゆるカツ丼とかカツカレーだってとんかつが乗っている。それらのとんかつも素晴らしくおいしいものだが、浜勝のとんかつは格別だった。その後あちこちに店が見られるようになって、ドライブがてらそれらの店で食べてみたりするようになる。浜勝ランチというのがリーズナブルで、とんかつなのに千円以下で食べられるのだ。もっとも若い胃袋には量的には物足りなくて、キャベツでご飯をお替りして食べなくてはならなかったが。
 おそらく長崎県人はおしなべてそうなのだと思われるのだが、この浜勝のとんかつの味がベースになっていて、よその土地に行ってとんかつを食べても、物おじしなくなるのではないかと思う。今でこそとんかつのレベルは全国的に底上げされているとは思われるのだが、以前までは庶民的なとんかつの店では、あんがいそこまで旨いというとんかつは、少なかったのではなかろうか。もっとも高級店というのはあったようで、それなりの値段ならばいい豚と揚げ方で、いいとんかつは食べられたとは思う。大人になってからぼちぼちそのようなとんかつを食べる機会を得て、他県にもうまいとんかつはあるのだと認識を改めるまで、それなりの時間を要した。
 もっとも鹿児島の黒豚だとか、お隣の佐賀なんかにも、知らなかっただけで旨いとんかつを食わせる店はあるようだ。なるほど庶民的でも、旨いとんかつ屋はあるのだ。僕が世間知らずだっただけかもしれない。いや、とんかつというのはなかなか高級な店が増えていて、若い頃には簡単に立ち入る雰囲気では無かったのだ。
 そうやって時は流れて、長崎市内でバザーをやっていて昼飯を食おうということになって、つれの人が行っているという古川町の文治郎に初めて入った。ふつうならちゃんぽんなのに、その時はまあいいか、という感じだったと思う。そうしてそこのとんかつを食べて、またまた衝撃を受けてしまった。揚げてあるとんかつをかじると、肉汁が口の中に広がるのだ。断面を見るとほんのりピンク色である。実に素晴らしい。
 そういう訳で、長崎に生まれてちょっと良かったのは、そういうとんかつ状況にあると言えるのではないか。もちろん、他の地区だって素晴らしいとんかつはあるだろう。しかしながらその環境の良さという点では、さらに庶民的というところでも、とんかつと親しめる環境があったことは、しあわせなことなのである。
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スープを飲んだ思い出

2024-11-19 | 

 ある映画を観ていたら、一定の食事のシーンが度々出てくるのだが、彼らが集っての食事の風景に、よくスープを飲んでいたのだ。スープなんて僕らだって飲むのは間違いない事だが、特にかしこまった食事の風景でもないのに、スープを飲んで話をしたりする。いわゆる平べったい感じのスープの皿に、具材までははっきりとわからないが、豆か何かを一緒に煮たような、液体のものをスプーンでしきりにすくって食べている。時々パンをちぎって食べたりもしているようだが、主にスープを食べる時は、忙しくスプーンを口に運んでいる。さらに金属のスプーンがこすれるように当たる音はするが、基本的にすする音は無いし、ちょっとだけ口をもぐもぐさせてもいるくらいで、黙々とスープをすする食事をしている。おそらくは昼食で、スープのほかにはパンとかチーズがあるんだろうか。たまに大鍋のようなものから、スープを継ぎ足している者もいるように見える。まさに日常の食事の風景で、彼らは日常で昼間にスープを飲んでいるようなのだ。
 僕がまだ小学校に上がる前のことだと思うのだが、それというのもその絵本を読んでくれたのが他でもなく母であった。僕はまだ字を読めなかったのだ。そうしてその絵本でも、熊の親子が、一緒にスープを飲むのだった。熊の子供は何度でも母熊にスープをねだり、そうしてスプーンを使ってスープを頂くのだ。僕はその場面が大好きだった。
 しかし翌朝になって僕らが食べるスープは、他でもなく味噌汁で、スプーンを使って食べることはしない。僕は箸を使うのはそこまで得意ではなかったけれど、朝ご飯は箸で食べていたのではなかろうか。幼稚園だか小学校だったのか記憶がはっきりしないが、学校の給食で、いわゆる先割れスプーンを初めて見て、そうして多くのおかずはそのスプーンを使って食べることになって、なんだかとても不思議な気分になったものだ。とにかくわざわざ使いにくい道具を使って食事をする訓練をする。いちおう給食は楽しく食べようということになっていて、それにその頃は特に何を食べても文句は無かったが、甘いジャムと変な味で中途半端に柔らかいパンをちぎりながら食べ、先割れスプーンで特にスープとは限らないおかずを食べる。食後には肝油なんかをつまんで、牛乳で流し込むのだ。お代わりをすると女の先生が喜ぶのでそうしていたが、特に本当に腹が満たされていなかった訳ではないように思う。たいして美味しくない食事でも、子供だから食べられたのだ。
 僕は絵本に出てくるようなスープを食べたいと、母親にせがんだかもしれない。後にクノールスープのようなものが売り出される前のことで、おそらくだが鶏のだしをとったものに、ベーコンか何かを刻んだものが入っていたり、ジャガイモが入っているようなスープだったと思う。僕はこれを夢中で食べたものだ。いっぱい食べてもあんまり腹が膨れなくて、しかし鶏の出汁のきいたスープは飽きることが無い。僕はその時はすっかり子熊の気分になって、たくさんのスープを啜ったのだった。
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爆弾、ってところもいいね

2024-11-07 | 

 長崎県出身の大スターと言えば、ふつうは美輪明宏、なのだが、今はともかく福山雅治ということになっている。このあいだ地元コンサートがあったのだが、市内ではとにかく大変な騒ぎだったという。関係者以外にも目に付くような騒動になるらしく、まあ、凄いことになるのである。スターだから。
 福山さんはふつうに出身が長崎市内の人で、地元の高校を出ていると言われる。その頃まで市内をウロウロしていたものだろう。それで、福山さんが立ち寄ったと言われる店があると、これも凄いことになって巡礼地と化す。そういう店が何店かあるらしいのだが、聞いた話だからぜんぶは僕は知らない。しかしながらネットで人々が並んでいる場面が上がったりする。福山さんが食べた店のものを食べたいという心情は、ファンならよく分かるところであるし、そういう事で何かが盛り上がるというのは、素晴らしいことである。
 問題は、そういう素晴らしさという反応とは違うものを、やはり目にすることかもしれない。長崎はちゃんぽん文化があるためであると言われているが、僕が子供のころにはあまりラーメン屋が無いまちであった。ぜんぜんない訳じゃないが、ともかく今ほど多くは無かった。だいたいラーメン文化というのは、たいしたものが無い町だから栄えるものだという説もあるくらいだ。
 まあ、それはいいとして、福山さんがよく立ち寄ると言われ、さらに地元に帰ると貸し切りにして寄るともいわれているラーメン店が「思案橋ラーメン」である。普通でもそれなりに入っていると思われる店だが、福山関連の何かの行事があると、それこそ大変な騒ぎと行列の店になる。という訳で、今回もすごかったと話題になったのだ。
 で、そうなると、長崎市内の人に特に顕著なのだが、「地元の人がろくに立ち寄らない店」とか「味がひどくて食えたものでは無い」とかいうコメント付きで、たくさん写真がネット上に上がる。とにかく弁舌が汚い言葉だらけだ。
僕は素直に、どうして福山関連の人気店で、そんなに憎まれることが起こるのか、と思う訳だ。それというのも、僕が高校生の頃なんとなく友だちとラーメンとかちゃんぽんを食べに立ち寄っていた店だからだ。確かにものすごくスペシャルに旨い店という風に感じない人がいても不思議ではないのだが、そこまでひどい店では無かった(今は並ぶのでとても行けないが)。さらに長崎にはふつうにまるよし系ラーメン文化というのがあるらしいことは、僕が二十代になって先輩から聞いたことがある。僕は市内の人間ではないので、そんなことはまるで知らなかったが、しかし思案橋ラーメンは当時からあったのは間違いない。たまたま行ったことがあって、それでなじみとはいえないまでも、何度も行くようになったのだろうと思う。子供のこづかいなんて知れているので、友人とはまんまちをぶらぶらして立ち寄った場所、という感じであるに過ぎない。だから福山さんとは状況が違うだろうけど、僕にも思い出のある店である(大人になってから別のラーメン屋に行くようになってしまったが。おそらく大人になっての付き合いのある人の行く系列から外れたということだろう)。     
僕と一緒に居た連中は長崎市内の同級生だったので、地元の人が行かない店という事でも、だから違うと思う。ふつうに繁華街のそばにある地元のラーメン屋だろう。観光客のためにある店という事でも、当てはまらないと思うのだ。
 まあ、何の義理もない問題ではあるのだが、広義上での長崎人としては、このようなラーメン店批判は、人間性の上で悲しい出来事である。おそらくだけれど、他にもうまい店があるけどね、という程度の地元の人間の個人的な狭義の感想に過ぎないものを、一般化しようとしてそうなってしまうのだろうけど……。ああ、並んでるな、福山のファンが福山さんと味を無事に共有できるといいね、というのが僕の素直な感想である。それで長崎のことが好きなってくれると、なんだかよく分からないけど、こっちだってしあわせなことである。だって長崎はいいまちだからである。
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氷を入れて飲む

2024-09-24 | 

 だいたい以前は晩酌には日本酒も飲んでいたのだが、どういう訳か朝から腹を下すようになってしまい(それはもう数十年来変わらない事ではあるのだけれど)、日本酒をやめたら、症状が治まった。本当に日本酒が原因だったのかは、実のところよく分からないところはあって謎ではあるが、通勤に支障が出るほどだったので、怖くて日常的には復活できないでいる。たまには飲むが、たまになら、そこまで尾を引かないのではある。
 しかしながらビールを飲んだ後に、すぐに焼酎に移行するにおいて、ちょっとだけ抵抗があるような気もする。要するに何かまだ食べている最盛期に、煮物のようなものなら焼酎でかまわないのだが、味的に少し特徴があるものも飲んでみたくなるのかもしれない。
 それでワインならどうなのか、というのはあったのである。でもまあワインというのはあまりに味が多様で、なんとなく当たりはずれも大きい。それに750ml程度の量なのに、ふつうに数千円のバリエーションも多い。できれば2000円以下でない事には、日常的には抵抗がある。B級グルメという言葉もあるが、基本的にそんなような位置にない事には、落ち着いて食事ができない。毎日がハレの舞台というのはつかれるもので、いやそれ以前に不可能な毎日は送れない。基本的にB級以下の生活を送るにあたって、出来れば1000円以下の方がさらにいいのである。というような、いささか言い訳めいた前置きがあって飲めるようなワインになると、ふつうにスーパーやコンビニなんかで手に入るものが、好ましいことになる。しかしそのようなワインになると、これはもう結構外れも多いのである。人の評判も聞いてみて、慎重にいろいろ飲み比べて、しかし出張の折など飲んだ後にホテルの部屋でコンビニワインはふつうに飲めていて、あれくらいなら問題ないとは踏んでいる種類は覚えておいた。
 そういうものを、家でもちびちび飲むようになって、これはこれで楽しいのだが、まあささやかなる密かなものであったのである。
 それである時の宴会の折に、ある上級のご婦人が、いわゆる5000円以下のワインは基本飲まないと噂されてるような方で、そうしてやはりその席でもワインをたしなんでおられた。聞くとことによると、ふつうに居酒屋などで飲む場合にも、自分で持ち込んでおられるそうだ。で、手元のワイングラスをよく見ると、氷を入れて飲んでおられるのである。で、このようにして飲むのが、私にはちょうどいいの、ということなのだった。
 まあ、なんというか、少なからぬショックのような、目覚めのような感覚があって、確かに自分がおいしく飲むのが一番なので、自由でいいな、と感じたわけだ。
 実はそんな風にしてワインを飲んだことは無かったのだが、夏になれば暑い訳で、いちいちボトルを冷蔵庫に冷やすのも面倒である。そういう保管をする習慣もない。いい見本も見たことだし、氷を入れて飲んでいるのである。これがまたことのほか確かによくて、ひんやり冷えたワインと夏の食卓の料理は調和している。なんとなく酸味が抑えられていて、飲みやすくなっているようにも感じる。いつの間にか飲みすぎるという事さえ注意すれば、快適な感じすらする。それにパンのようなものがあっても、当然ワインならよく合うのである。そうして日本料理のようなものでも、あんがいワインは違和感が無かったりもする。数杯飲んだら焼酎に移行はするものの、氷を入れたワインを飲むのが、夏の定番になりつつあるようだ。
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動画はラーメン食い歩き

2024-09-06 | 

 待ち時間なんかに手持無沙汰になると、やはり携帯を見てしまう。現代人のふるまいは伝播力が強い。なかなかに抗えるものでは無い。僕の場合事故とか災害なんかも多いのだが、いまだにラーメン屋だとか、チャーハンだとか、手際よく料理を作るのだとかの動画が勝手に流れているものが多い。仕組みはよく分からないのだが、そういうのを最後までよく見ていると、また新たにその系統の動画が上がって来やすくなっているのではないか。フォローなどはあまりしないのに、いつの間にか常連の食べ歩き動画を見る機会が多いようだ。
 とんかつとか、メガ盛り定食なんかもあるにはあるが、やはり圧倒的に多いのはラーメンである。以前はどういう訳か二郎系というのだろうか、豚と野菜が山盛りになっているようなラーメンが多く紹介されていたが、今はチャーシューは凄いのがあるものの、基本的にはとんこつラーメン系が復活しているような感じである。紹介しているキャラクターも新しめの人に代わっていて、前だと店の様子と手元でのラーメンリフトがなんと言っても多かったけど、今は圧倒的に自分で食べる姿が多くなった。要するに撮影者と食べる人二組での動画作成が主になっているのだろう。気になるのは、替え玉はすることが多いくせに、スープを飲み干さない人がいるのである。最初にスープをすするくせに、完食とか言ってるくせに、少し残している映像である。まだ若いんだから、全部食べたとは、それでは言えないことなのではなかろうか。スープは濃いものが多いので、ぜんぶは飲まない方がいい、というような医療系のアドバイスは聞いたことがあるけれど、たぶんラーメンの食べ歩きなんてしてる人に、健康のことを考えるというのは不健康である。ラーメン好きは長生きしないとは言われてはいるものの、動画配信する人が長生きする必要もない。一生そんなことをするとは限らない訳であるし。
 とまあ、そんなことも考えるが、僕はと言えば、特にラーメンの食べ歩きには興味が無い。若い頃にはそんなことをしたこともあったけれど、もうそんなことはやることは無いだろう。地元にある限られたラーメン店であっても、行ったことのない店があるくらいだ。若い頃には考えられないことだったが、新しい店ができたと聞いても、だから何だ、としか思わない。旨そうなラーメン店の紹介であっても、店のチェックを改めてすることもしない。たぶん行くことも無いからだ。ラーメンはものすごく旨い必要などそもそも無い種類の食べ物で、腹が減ったから適当に食べるというのが一番ふさわしい。噺家が俳優の真似してラーメン屋の店主をやっているようなラーメンであればなおよろしいとは思うものの、実際にはあまり噺家みたいなラーメン屋のおやじなんていない訳で、なかなかに風情の無い世界になりつつある。ラーメンの世界から遠くなはれてしまったからこそ、動画くらいは観てみろ、ということなのかもしれない。
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料理番組は、ムック本とずいぶん違う

2024-09-04 | 

 料理にまつわる番組を録りためて観ている。時にはそういう番組のムック本が、並行して売られていることがある。シリーズになると、そういうコラボがあるのかもしれない。そうして本の方では、番組で作られたり食べられたりした料理の詳しいレシピが載っていたりするので、なるほど、より実用的に観ている人向けなのかもしれない。
 そういう事情があるのはよく分かるが、テレビで見た印象とずいぶん雑誌の紹介の仕方が違うのも、気になるところなのだ。僕が観ていたのは、「シェフの休日:しあわせごはん」というもので、ぜんぶの人を番組で観たわけでは無いが、その数人のものすべてが、番組の内容と本のそれとは、ずいぶん違う感じなのだ。シェフの休日の風景が、その人たちの厨房での姿から離れている姿がテレビの方がリアルで、本ではそれが完全に脱がされていない、というか。
 例えばイタリアンの日高良実さんの場合は、愛犬を失って傷心でありながら好きな永ちゃんを聴いて涙しているのが印象的だったのに、それがバッサリとなかったりする。餃子店の按田優子さんも、三浦半島での第二の生活っぽいところが印象的だったのだが、そういうのはムック本ではよく分からないのである。フランス料理の菊地美升さんも、函館の実家の商店跡だとか友人のお姉さんが吉田美和さんだとか、お母さんに料理を褒めてもらった嬉しそうにしている姿こそ番組のメインだったのに、なんだかそんな感じはそぎ落してあった。まあ、方針というか、視点が違えば、そこまで違うのか、ということなのだろうが……。
 薬膳の薮崎友宏さんの場合も、基本的に足利との二重生活で、その足利の風景と森里千里の「渡良瀬橋」の歌ともに哀愁をもって紹介されているところが良かったのに、それが無い。さらに基本的によく似た顔の娘さんに対する、何か愛情がにじみ出ている様子こそが、番組のメインと言ってい良かった。娘さんも、週末に帰って来るお父さんが好きでたまらない、という感じが良かったのだ。だからこそ、休日のごはんがおいしくできるのだ。他の人たちもみんなそうなのだが。
 もちろん僕が料理番組を好んで観ているのは、なんとなく料理をする風景が面白いからだろうと思う。僕はまったく料理はしないし、基本的に下手なのだろうと思われる。好きかどうかさえ自分では分からない。市場やスーパーをめぐるのも、買わないのに好きである。イイダコが、地元と他ではずいぶん違うな、とか、そういうのが楽しいのである。
 まあしかし、雑誌も落ち着いて活字でその人となりを再現しているので、そういうのは楽しんで読んでいる。見落としていたかも、というのがあるので、二重に楽しめるというのはあるかもしれない。録画は一度見たら、基本的に消去する。溜まっていくのが好きでは無いし、観たら消去する行為自体が、なんだか精神的にすっきりする。なんでそうなのかは、自分でもよく分からない。そうやって料理の番組を日々見て暮らし、僕は食べるだけの人になっているのである。
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しあわせは早く過ぎ去る

2024-06-27 | 

 僕は食にうるさいとかグルメとかいうのではない。しかしながら、別段不味いものを好んで食べるということもない。そんなことは当然だとは思うが、しかしながらせっかくだからうまいものを食べたいというのは、人並みにはあるはずだと思う。日々の食事は楽しみだし、おいしいものを食べるというのは、ささやかなる幸福である。
 他人と比較してどうなのか、というのはよくわからないのだが、例えば外食をする機会があって何かを食べるわけだが、これは最初にビールで乾杯などをして、それさえ済めば、あんまり食べるものはどうだっていい気分では普段はいる。そうなんだが、その時の自分の体調のようなものがあるのか、何かその店と相性のいいことがあるのか、忽然と食べ物に集中したくなる時があるのである。はっきり言って何もかも旨く感じるというか、味覚が冴えわたるというか。気が付くとバクバクと食いついており、いくつもの皿が空になっている。僕はおしゃべりだからその間も絶え間なく話をしているはずだが、話をしながらでも食べ物はちゃんと咀嚼しており飲み込んでいる。廻りの人間も同じようにバクバク食べているのならともかく、明らかに自分だけ非常なペースでもって食べてしまったようなときには、さすがに何か自分でも呆れてしまうような、気恥ずかしいような気分に襲われている。そうなんだが、旨いというのはそれだけ魔術的なものが潜んでおり、安易に止められるものではない。
 そういう時の食べ方というのは、やはりあまりよく噛んでいない気もする。例えば「カレーは飲み物」という言葉はよく聞かれるようになったが、だいたいにおいてカレーは、あまりよく噛んで食べられるような食べ物ではない。一所懸命よく噛もうとしても、スルスルと食道の方へ消えて無くなってしまう。だから次の動作としてスプーンを動かさなくてはならなくなって、カレーもライスもいつの間にか皿の上から消えている。実際は飲み物だとはみじんも思いもしないが、上にカツなどが乗っていない限り、あまりよく噛んで食べるものではそもそも違うのである。
 さてしかし、旨いものならよく咀嚼して味わうべきもののようにも感じられるのだが、無意識ではそれはあまりできていない。何故かというのはあまり考えないが、旨いものを食べているときには、何故か忙しいのではないかとも思う。食べることに忙しくなって、よく噛んでいる余裕を失う。だからいつの間にかやはり食道に逃げてしまうので、次のものを口に放り込まなければならない。これはもう忙しい。だからやはり早くなる。そうして気が付くと、あらかたもう食べつくしている。そうして呆然とする。これはもうある種の悲劇である。しかしながら旨かったのだから、救われない話ではない。単に過ぎ去った幸福だったのである。
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キウイはスーパーフルーツともいわれているらしい

2024-03-07 | 

 キウイは食べごろが分かりにくいのだが、基本的には頭とおしりのところの柔らかさで、食べごろを判断するものらしい。そもそもエチレンを使って熟成させる過程を踏まないことには、自然に食べごろになったりしないものだそうだ。買ってきた段階でまだまだだと思われる場合は、リンゴと一緒に袋に入れておくなどすると、リンゴは自然にエチレンを出す果物なので、追熟作用があって甘くなるようだ。
 キウイは一般的には夏の果物だと思われていることが多いが(実際年中出回っているけど、あえて旬だということで)、それは多くのキウイがニュージーランドから輸入されていた関係がある。ニュージーランドは南半球なので、日本とは季節が真逆だ。つまりニュージーランドで収穫されて日本にやってくる季節が、最初は夏だった為に夏の果物という印象がついたのだろう。
 キウイの原産国は実は中国で、元はマタタビの仲間であるシーホータオと言われるものだ。現在はニュージーランド産が世界的に有名になり、中国でもキウイの名で通じるようになった。もともと食べられていたものだが、現在は生産量も増えていて、実際にニュージ―ランドよりも生産量が多い。そもそもイザベル・フレイザーという女の先生が、このシーホータオをニュージーランドに持ち帰ったのがきっかけだったという。その後生産量が増えていき、見た目がニュージーランドの鳥であるキウイに似ていることから、あえてキウイの名で売り出すようになって普及した。品種としてはニュージーランド産のほとんどは、ヘイワードと言われるものである。このようになってからの歴史は、まだ100年にもならないものなのだという。
 日本でも60年代くらいから輸入されるようになり、その後70年代になるとミカンの価格の大暴落が起こり、代わりに温暖な地域なら育つキウイを栽培する農家が増えたという。それで日本では秋から冬にかけて収穫されることから、冬の味覚としても出回るようになった。日本で品種改良されたものも多く、大きさや甘さも様々なものがある。
 またキウイと肉とは相性が良く、食後にキウイを食べると消化を助けると言われる。肉料理にキウイを使うことで、肉自体を柔らかくし味を良くすることも知られている。まだまだ可能性を秘めた食材と言えるかもしれない。
 また、タネが多いほど旨いともいわれているので、切った断面をよく観察して食べ比べてみるといいだろう。
 肥料にアミノ酸の入っているものを用いると、味も良くなるらしい。個人で栽培する人は少ないかもしれないが、いちおうご参考までに。
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今年も食べました

2024-01-11 | 

 正月は、やはり暴飲暴食をしていた。うちの場合は少しだが人が集まるので、つれあいは準備で大変である。彼女は正月や盆をほとんど憎んでいる。そんなものが無ければ、大変な思いをしなくて済むはずなのに……。だったらおめえがなんとかしろよって問題は、残念ながらそう簡単ではない。いったんは別で論じるべき問題ということで、すいません。
 では一体何を食べているのか、ということにもなるが、なんだったっけ? そうだ、今年もカニをたくさん食べた。実際には正月の集まりが終わって、せっかくだから残ったものを、たらふく食べた。ほとんどこれは夢中であって、これが正月の体重のだめを押すものだったはずである。カニはそれでも食べることが可能な食材で、買った場所での違いがあるのか、多少パサつくものとしっかり身のうまみがあるものとがあって、しかし結局そういう事にはかまわず食べた。ハサミを使ったり、身をこそげ落とす道具も使って、ちょっと休んではまた食べ出して、もう酒でさえ飲んでも酔いが回らないくらい食べた。他に鰻なんかがあって、食べなければ捨てるだけだからもったいない、という意識がありながら、それはもうどうでもよくなってしまった。
 他に何を食べたかというと、皿うどんを食べた。これは家庭で作られたもので、今回は都合で固麺であった。しかしこれはじきに柔らかくなって、最初のパリパリはもちろん前日の昼までのことであり、その後はひたすら柔らかくなったものを食べた。エビやウズラの卵がたくさん入っていて、これはもうそういうものを食べなければならない。ちょっとだけソースをかけて食べたが、僕の場合あまり皿うどんにはソースを掛けない。焼きそばでも掛けないし、目玉焼きにも掛けない。それとは別だよ、って言われるかもしれないけれど、皿うどんにもやっぱりあんまり掛けない。そういう感じの味が好きなのかもしれないし、たくさん食べるには、そうした方がいいような気がするのかもしれない。
 数の子は好きでこれはビールを飲み始めて、ワインを飲んで、焼酎を飲んでいるときにも、中間でポリポリいただく。時折ほんとに旨いなあ、と思ったりするが、ほとんどは無意識かもしれない。これと色が似ているだけのことだが、からしレンコンもつまむ。これは酒と合うせいだが、ということは、たぶんごはんにも合うはずだ。でもまあ酒を飲むときに食べることがほとんどなので、ご飯と合うのかはよく分からない。
 寿司や刺身は当たり前だから端折るのだけど、今年はあんまり寿司は食べなかった気がする。天ぷらもあんまり食べなかった。他のことに熱中でもしていたのだろうか。
 あんまり意識はしていなかったが、かまぼこを昆布で巻いたのも結構食べた。五島かどこかのものだと思うのだが、定かではない。少し昆布のとろみが口の中に残って、そういうのも楽しいかもしれない。
 母が熱中して黒豆を食べていて、これは頂いたものだという。普段は僕は基本的に黒豆は好まないのだが、これを少しつまんでみて、あまり甘くなく、そうしたらいくつも頬張っていた。なるほど、黒豆もおいしいものがあるのか、と思った。色合いがきれいなので並べてあるものとばかり思っていた。認識を改めなければならない。
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ごはんにシチューをかける

2023-12-15 | 

 お好み焼きがご飯のおかずになる、という話でもそれなりに違和感があるのだが、シチューをご飯にかけて食べるというのも、なんとなく嫌かもしれない。ところが新聞を読んでいると、日本人の約3割は、シチューをご飯にかけて食べているそうだ。3割だから多数派ではないものの、少ない数字ではなさそうである。多少地域性があって、濃い味を好む東北などの方が西側より掛ける傾向が強い。また例外というか沖縄でもかけて食べる人の割合が若干高いという。
 シチューと言っても色々あるので、いわゆる白いクリームシチューの方がより抵抗が強いかもしれない。ビーフシチューであれば、いくぶん抵抗感が弱まるというか、仕方なさ感が少しある。白さはなんとなく牛乳を連想させるものがあって、そういうものをご飯にかけるのはあんまりよくない気もする。黒っぽければ、例えばハヤシライスもあることだし、ビーフシチューも、その仲間だとすれば、許されるかもしれない。許さない人もいるかもしれないが。
 元々カレーライスも、なんとなく最初は抵抗があった可能性もある。インドのものが英国経由で伝わって、それはおそらく軍隊のもので、舶来だからハイカラ感はあっただろう。しかし日本にはどんぶり文化があるので、西洋にもどんぶりがあっても良かろうと思ったのかもしれない。それなら面白いので食べてやっても良い。その上に旨いのでさらに良い。
 いや、シチューをご飯にかけて食べる人は、おそらくそれが旨いからなのだろうか。ご飯のおかずにシチューがあって、めんどくさいからかけて食べているのではないか。猫まんまもあるんだからいいじゃないか、という開き直りがあるのではないか。そういう態度は良くないんじゃないか。
 しかしながら考えてみると、ウチでも子供はそうやって食べていたかもしれない。子供がそうするのなら、親としてはまあ許してしまうかもしれない。食べ方なんて好きにすればいいことで、家庭内の問題なら、そんなにおおごとにはならない。
 そうであればよそ事なので反応しないこともできるのではないか。実際の話、誰かれがそうしようと僕には関係の無いことである。好きにすればいい。ところがそれが当たり前になりそうになると、不安になるのではないか。僕はそうしたくないのに、世間はそうしている。同調圧力かもしれない。しかし実際は3割で、そこまで過剰に怖がる必要もないはずだ。単に文化的に憶病になっているということで、そういうところに保守性が現れるのかもしれない。人間性に不自由なところがあるゆえんだろう。
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和からしだけで、日本化する

2023-11-22 | 

 マスタードと和からしは別物だが、原料となるのはどちらも「からし菜」の種である。アブラナ科のからし菜の種は、そのものはあまり辛くは無いが、つぶして水を加えると辛くなる性質がある。マスタードは主にからし菜の白い種を使うことが多く、酢や砂糖、ワインなどを混ぜて作る。比較的マイルドな辛みを出すことを目的としている。それと比較すると、和からしの方は、かなり辛さと独自の香を強く出すことを目的としているのかもしれない。
 そうではあるのだが、おでんなどの料理に使われる際に味が際立つのは、辛さだけでなく、うまみなのだそうだ。いっけん辛さを目的とされているようでいて実はそうではなく、食の相性でいうとうまみが目的になっているとされている。なんだかちょっと不思議ないいまわしに翻弄される思いだが、単純に油分を抜いて粉にしたものを水やお湯でといただけのものでありながら、やはりずいぶん日本的な味になる。あえて他の調味料と混ぜないで、辛みと香りを強くして料理と調和させることを考えているということのようだ。
 あまり試してみたことは無いのだが、だから生魚のようなものとも本来相性は良いらしく、カツオの刺身などにも和からしは用いられることがあるという。ワサビとは使い分けられているようにも思うのだが、地区によっては和からしを、もう少し大胆に使うところもあるのかもしれない。
 ところがこの原料となるからし菜の種を生産している農家は、日本ではほとんどいなくなってしまったという。つまり、原料のほとんどすべて、外国産なのだ(ほぼカナダ産)。粒が小さく機械での選別が難しく、したがって手作業が多く生産性が低いために、日本で作ることが困難なのだろう。そうなると国産だと、それなりの金額になるかもしれない。一般市場に出ることが困難になるということなのだろう。
 日本だとおでんには定番だし、ちょっとしたあえ物だとか、からし酢味噌でネギとか鯨の湯引きとかも食べる。皆僕の好物である。それとこれは中華なのだが、豚の角煮には和がらしが欠かせない気もする。
 それで思い出したが、中華なのに中国では確かに和からしは付けてなかった。中華の角煮はだから中華であって、日本の角煮は日本料理(卓袱など)ということなのだろうか。ちょっと分かんなくなってきたが、日本に来た中華には、日本人が和からしを用いたということなのかもしれない。シューマイなんかも向こうでは、からしはつけてなかった気がする。
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