いつの間にかやらなくなってしまったが、選曲して編集して自分独自のアルバムを作るというのが音楽を聞く楽しみでもあった。昔はカセットテープだったので、ダブルデッキはレコードを丸ごと録音するためというより、編集のために必要性があった。CDになりMDになって、格段にこの作業が楽になった。いい時代になったものだなあ、と利便性をかみしめていた。今はパソコンになってもっと作業は簡単になってしまったが、僕も年を取ったのだろう、いつの間にかやらなくなってしまった。
しかしながらあの編集ということをしたいという欲求はなんだったのだろう、とふと思う。よく漫画などでもデート前の晩に厳選CDを作成する場面がみられるが、そういう下心のある時は、ムード作りに躍起になるのかもしれない。自分のセンスというか、そういうものを音楽に乗せて伝えたいということだろうか。
最近は仲間内で結婚をする人が減ったので結婚式に呼ばれる機会が無くよくわからないが、「今流れている曲を二人で選びました」というようなことを式場がことさら強調していたことがあった。二人の要望に沿った良心的な式場であるという宣伝になっていたのだろう。考えてみるとそれぐらいのことは当り前じゃないかと思うが、当たり前じゃない時代が僕らの前にはあったという証明であったのだと思う。決められたことに金を出させて従ってもらうという商売だったのだろう。
まあそれはいいのだが、僕はなんとなく自分の結婚式用に選曲CDを作っていた覚えがある。結婚式の予定もなかったのに悲しいことである。結果的に結婚したにもかかわらず結婚式を企画(当事者として結婚式を実施しなかったから)しなかったので、さらに無駄なことだった。新郎新婦の入場にはドアーズの「ハートに火をつけて」で決まりだと思っていたが、だから実現はしなかった。しかしZEPとか泉谷しげるのガンガンかかる環境が結婚式としてふさわしかったかどうかは、検証の必要さえないようにも思うが…。
学生のころは、あてもないのによくドライブに行った。そうすると、この厳選テープなりCDなりを作って参加するやつが必ずいるもので、強制的にこれをかけてくれと言われる。自分の車なのに車中で聞く音楽の優先権を失うということが、なんだかとてつもなく悲しかったものである。それを断れない自分に、さらに不機嫌になるのだった。
自分のお気に入りの曲を、人に聞かせたいとい欲求のようなものがあるらしい。それはやはり一種の自己主張なのであろう。僕は放っておくと自己主張の塊のような状態になってしまう人間だが、現在は音楽編集CDを作る欲求はほとんどなくなってしまった。我ながら不思議なことだなあ、と思ったのだが、よく考えると、たんに煩わしいだけのことであった。
音楽については、内向的な方向へ大きく舵とりして、自分さえよければいいようになってしまった。今は曲名さえ覚えようともしない。さらには誰の歌なのかさえ知らずにかまわなくなってもいる。他人を自分の車に乗せると、多くの場合音源を切っているようだ。今でもつれあいとは一緒に音楽を聴いてもいいとは思うけれど、他の人とはそうは思わなくなってしまった。趣味というものを共有したり理解しあったりする努力を、したくなくなってしまったためじゃないかと自分なりに分析している。めんどくさいのかもしれない。それなのにこのように文章にすることはめんどくさくない。これって自己矛盾なのだろうか。
しかしながらあの編集ということをしたいという欲求はなんだったのだろう、とふと思う。よく漫画などでもデート前の晩に厳選CDを作成する場面がみられるが、そういう下心のある時は、ムード作りに躍起になるのかもしれない。自分のセンスというか、そういうものを音楽に乗せて伝えたいということだろうか。
最近は仲間内で結婚をする人が減ったので結婚式に呼ばれる機会が無くよくわからないが、「今流れている曲を二人で選びました」というようなことを式場がことさら強調していたことがあった。二人の要望に沿った良心的な式場であるという宣伝になっていたのだろう。考えてみるとそれぐらいのことは当り前じゃないかと思うが、当たり前じゃない時代が僕らの前にはあったという証明であったのだと思う。決められたことに金を出させて従ってもらうという商売だったのだろう。
まあそれはいいのだが、僕はなんとなく自分の結婚式用に選曲CDを作っていた覚えがある。結婚式の予定もなかったのに悲しいことである。結果的に結婚したにもかかわらず結婚式を企画(当事者として結婚式を実施しなかったから)しなかったので、さらに無駄なことだった。新郎新婦の入場にはドアーズの「ハートに火をつけて」で決まりだと思っていたが、だから実現はしなかった。しかしZEPとか泉谷しげるのガンガンかかる環境が結婚式としてふさわしかったかどうかは、検証の必要さえないようにも思うが…。
学生のころは、あてもないのによくドライブに行った。そうすると、この厳選テープなりCDなりを作って参加するやつが必ずいるもので、強制的にこれをかけてくれと言われる。自分の車なのに車中で聞く音楽の優先権を失うということが、なんだかとてつもなく悲しかったものである。それを断れない自分に、さらに不機嫌になるのだった。
自分のお気に入りの曲を、人に聞かせたいとい欲求のようなものがあるらしい。それはやはり一種の自己主張なのであろう。僕は放っておくと自己主張の塊のような状態になってしまう人間だが、現在は音楽編集CDを作る欲求はほとんどなくなってしまった。我ながら不思議なことだなあ、と思ったのだが、よく考えると、たんに煩わしいだけのことであった。
音楽については、内向的な方向へ大きく舵とりして、自分さえよければいいようになってしまった。今は曲名さえ覚えようともしない。さらには誰の歌なのかさえ知らずにかまわなくなってもいる。他人を自分の車に乗せると、多くの場合音源を切っているようだ。今でもつれあいとは一緒に音楽を聴いてもいいとは思うけれど、他の人とはそうは思わなくなってしまった。趣味というものを共有したり理解しあったりする努力を、したくなくなってしまったためじゃないかと自分なりに分析している。めんどくさいのかもしれない。それなのにこのように文章にすることはめんどくさくない。これって自己矛盾なのだろうか。