ダークナイト/クリストファー・ノーラン監督
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バットマンといえば僕でも子供のころから知っている米国のコミック漫画である。日本の子供が見てもいかにも子供っぽい漫画で、劇画でかっこつけている割に、魅力に乏しい。アメリカンコミックは日本の漫画に比べると、変に中身が薄っぺらで、漫画を普通に読む人にとってはなんだかはぐらかされたような気分にさせられるようなものが多い。スタイリッシュなところがあるのは分からないではないが、ルパン三世が漫画だと面白くないように、なかなか心をとらえるような力の乏しいものが多いように思える。よく読むと面白いのかもしれないが、そこまで根気が続かない。米国人というのは、よくこんな漫画文化で満足しているものだと気の毒になるような感じだ。
映画の方も最初からそんなに面白くはなかった。ティム・バートンの演出は、ダークでなかなかいいとは言えても、所詮アメコミの映画化にすぎないのだな、とがっかりした。それで、続編は観ていなかった。
しかしながら、この映画の絶大なる評判には、気にならないわけにはいかなかった。米国では驚くほど大ヒットし、日本ではなんとなくコケた。なるほど、それは宗教的な問題か何かがあるのだろう。別に宗教に強いわけではないが、ますます気になる。ヒース・レジャーが死んだのは、直接関係ないが、それも気になる要素だ。馬鹿にしている自分自身を変えて見せてほしい。それは、願いというか、期待の屈折したもののようだった。
そうしてやっと観ることができたのだが、途中何度も声を出して笑ってしまった。いや、その悪の圧倒的な力につい笑いが出てしまうのだ。ある意味でレクター博士のようなダークヒーローのジョーカーが凄すぎるのである。おぞましくて、思わず目をそむけてしまう癖に、いつの間にか応援している。彼が活躍するとぞくぞくするような期待が膨らんでゆく。人間としてどうしたらいいのか。恐怖というものの前にひれ伏してしまう快感のようなものが自分の中にあることを悟る。バットマンの正義の薄っぺらさがなんとも気に入らなくなって、むしろ憎悪や復讐というもので行動する人たちの方が、ずっと人間的ではないかと思えてくる。もちろんそれでいいはずはない。いいはずはないのだが、誰がジョーカーを止めることができるというのだ。バットマンが勝つことが本当に意味のあることなのか。
すっかり堪能して150分という時間は気にならなかった。これは確かに売れるだろう。そして日本では売れないのも無理もない。日本ではバットマンもジョーカーも意味なんてない。そういう意味のないものにこだわってしまうのが西洋人だということもよく分かった。彼らは日本人がわかりきっている二面性の葛藤が、表面に出なければ理解できないのだ。嘘というものの罪が重いために、二面性が同時に成り立つということが驚きなのだろう。日本人は嘘をついている自覚がないまま嘘つきなので、このような二面性が人間の内面に普通にあることに十分に自覚的である。だからこそ、何でこんなことをしなければならないのかというジョーカーの欲求がよく分からないのだろう。もちろん彼のやっていることに本来的な意味なんてないだろう。それは、自分に忠実な行動をすることが、必ずしも悪でないという悪を証明しているからだ。そんなことを証明する必要のない日本人にはさらに訳が分からないのだが、米国においては自覚がなければならない分野の話なのだ。
バットマンというのは、確かに米国の持つ確固たる正義の証である。それは誰もが信じる悪を、法を冒してまで撲滅する純粋さにある。彼は圧倒的な力や知性を持っているけれど、実は生身の人間で、銃さえ扱わずに悪を倒すという勝手なルールを背負いながら行動している。まるで小学生だ。しかしバットマンがまっとうな正義すぎるために、実は正義というエゴであるということもまた事実なのである。自分の中のエゴや悪についてまったく自覚的でないために、ジョーカーという敵に対して困惑し、嘘をつかずにいられない。悪のジョーカーは正直なのに、バットマンの正義は嘘をついたり隠し事をしなければ成り立たないのである。
これには観ている方が驚いた。なるほど。正義というのは隠し事をしなければ民衆の同意を得られないのだ。民主主義というのは嘘つきが勝ち取る制度なのだ。すっかりやられてしまって感動した。こんな映画をアメコミを基に作ってしまうなんて。
やっぱり米国という国は強い。これだけの哲学に自覚的な人間が国を操っているのだ。いや、これは映画じゃないか。そんな風に思っていると、これからも日本は米国の傘の下でなければ生きていけないだろう。これだけの葛藤を内面に持ちながら、ダークな世界で生きようとする決意がある国ならば、彼らは諦めることはしないだろう。今は負けていたとしても必ず勝つまでやろうとするに違いないのである。彼らのしつこい粘着質の正義というものの価値は、このような根本的な純粋さにあるようだ。だからこそ彼らはいつまでもジョーカーを必要とする。そうでなければ、正義は根本から成り立たないからなのである。
この映画は間違いなく映画史に残る映画になるだろう。分からない人も含めて、この映画を楽しんでもらいたい。ただ、純粋な人ほどやけどには気をつける必要はあろう。日焼け程度済めばいいが、大やけどするとハービー・デント検事のように取り返しかつかなくなるかもしれない。まあ、観ないで済ませるのも安全なことには違いないが、安全な人生が楽しいとは限らないから皮肉なものである。さあ、観ていない人、どうしますか。