マチネの終わりに/平野啓一郎著(文春文庫)
先に映画を観たというか、読んでいる途中でつい、映画を観てしまった。結末を知りたかったというより、筋としてはそうかもしれないが、小説はそうして読んでも損なわれずに読めるかもな、という思いからだった。それでよかったかどうか、今となっては分からないが、映画は映画、小説は小説って感じにも読了後なっているのであるから、まあ、かまわない感じ、と言ったらよかっただろうか。ただし、大筋での事件は基本的に変わらないので、そういうショックというか、読んでいてのお楽しみは、少しばかり減ぜられてしまったかもしれない。僕としてはこのような「時のいたずら」というか、取り返しのつかなさについては、あまり寛容ではない。読みながら激しい怒りを覚えたままに、なかなかその後の話をも肯定することができないように感じられた。この物語は、過去は変えられるということも大きなテーマなのだが、生きていく中での時間軸は、やはりそう簡単には変えられないのではないか。そうした思いに捉われたままでは、たとえ今がしあわせだとしても、なかなか厳しい心情を変えることはできないのだった。
また映画としてのキャストについては、観ている分には良かったと思っていたが、小説を読んで主人公たちのイメージを自分なりに膨らませていくうち、映画のキャストとは別の人物が浮かんだのも事実だ。それは誰かということではなく、映画の人物とはどんどんずれていくのを感じた。簡単に言ってしまうと福山雅治の美男だが可愛い感じとは違って、もう少し神経質そうな感じで、やはり歌まで歌わないのだから、クラシックを弾く一般の人とはあまり語り合わない感じのイメージが、僕の頭を支配した。福山さんの顔が浮かばなくなったというだけのことかもしれないが……。それはヒロイン洋子も同じであり、洋子の方はもっと線の太い人というか。
そういう意味では、結局映画はそこまで引きずってはいなかったのかもしれない。さらに映画とは別に、蒔野の才能のために人生が決定的に変わってしまうギタリストも出てくる。これは極めて残酷な話だけれど、手の届くような近しい間柄でありながら絶対に届かないところにいる人物だからこそ起こりえた悲劇で、これも罪悪感として深い印象を残す。そういう人物だからこそ、このような恋愛に至るリアリティでもあるのだ。
何か突飛もないような引用が会話などの中に入ることがあるが、その引っ掛かりが登場人物の置かれている立場を、むしろ明確にしたりする。なるほど、うまいのである。それだけ感情を揺さぶられたのだから、こういう小説を読む意味もあるのだろう。できれば登場人物のような立場には、おかれたくないものではあるが……。