カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

急に盛り上がるだけでは…

2008-01-31 | 時事
 終わったからいうのだが、元ハンド部でした。「そういう人がたくさんテレビに出てるよ」とつれあいも言っていたので、やっている人はやってたんだ、という当たり前の話である。元水球部だとか元(アイスで無い)ホッケー部だとかいう人だってそれなりにいるだろう。立場としては同じようなものだ(と、思う)。
 中東のお陰で注目を集めるというのは、残念以前に既にスポーツですらない。政治というものが代理戦争であるというのは、国際上しかたの無いことなのだろうか。オリンピックに不参加する場合もあるから、国際スポーツはスポーツ以前にやはり政治的であるということなのであろう。
 しかしながらハンドボールというのは観戦する分にはめっぽう面白い競技で、ちょっとの流れで逆転があったりして、なかなかスリリングである。ボールを使った格闘技とも言われていて、チャージも多く怪我も多い。展開が速すぎて笛が鳴っても一瞬何の反則か分からないという場合もある。僕は脳震盪を起こしたままプレーしていて、しばらく記憶を失ったまま動いていた経験がある。多くの仲間が同じようなことを言っていたので、確かに格闘技のようなものである。
 審判の判定は相性のようなものがあって、けっこう人によってジャッジが違う。中東の笛以前にそういう側面があるせいで、審判の判定程度によってはプレースタイルに微妙に修正をかけたりする。そういう意味ではルールとしてまだ途上にあるスポーツなのかもしれない。
 さて、そういう僕でも、久しぶりに試合を見た。全日本の試合は年に一度決勝だけNHKで放映されるが、それ以外で中継されているというのは記憶に無い。日本には大同特殊鋼の蒲生というサッカー界における釜本さんのような偉大な選手がいたが、今はどうしているだろう。他に湧永製薬とか大崎電気という会社は、ハンドボールを知る人間にとって大変にメジャーな会社である。
 つれあいも息子も「ハンドボールは体育館でするの?」と面白がっていたが、これも説明が難しい。確かに多くの場合外で試合することが多かったけれど、春の大会などは体育館でやったりしていた。外だと松脂が使えるが、体育館だと両面テープである、というのはやっていた人には分かる話だ。体育館だと汗で滑る場合があるので、大きな大会だとモップ部隊が控えていたりする。
 背の高い方が確かに有利だとはいえるが、日本のエースの選手みたいに極端にジャンプ力があったり、三歩まで歩けるので細かいフェイントをかけて間に体を割り込ませることも考えると、オフェンスにおいては小さい人もけっこういる。選手交代は何度でも出来るので、オフェンスとディフェンスで選手を交代させたりする場合がある。しかし、一点づつしか点がはいらないので、速攻で得点されるのが一番痛い。ゴールの後ろのスペースが狭い環境はすぐにコートにボールが戻ってくるので、したがって点が入りやすかったりする。45度の選手が直接シュート体勢に入ると、ディフェンスのサイドの選手は速攻に備えてダッシュをかけたりする。そういう駆け引きも面白いのだが、今回はパス一本で決まるという場面は見られなかった。まるでアメリカンフットボールみたいな縦一本のロングパスを受けてのランニングで得点が決まると、けっこう盛り上がって楽しいものである。
 結果としては残念だったが、やはり韓国のキャプテンの動きが素晴らしかった。ここぞという時のポイントで確実に得点できたというところが、やはり日本より韓国が一枚上手であると感じたところである。お互いミスは痛いのだが、そういう部分をどのように補えるかという部分にも違いがあったようである。そういうところはやはり何か精神力の違いというか、微妙な力の差が出ているのではないかとも思う。さらに欧州との力の差は大きいので、事実上オリンピックの夢は断たれたといえるので、この敗北はかなり大きいと思う。結局は一時的なものに終わりそうで、将来性という意味でもかなり残念な結果であった。
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ねじれ国会こそ正常である

2008-01-30 | 時事
 どうも風邪気味である。喉が痛いしくしゃみはでるし鼻水もたれてくる。ついでに微熱である。薬は飲んだ。車を運転していて眠気があって格闘していたが、薬のせいなのだろうか。目的地には無事に着き、そこでそういえば薬を飲んだことを思い出した。乗る前に思い出すと少しは気をつけたかもしれないし、関係なかったかもしれない。今度車に乗るときは気をつけてみよう。

 ガードレールに民主党の代議士のポスターが張ってある。それとガソリン26円下げとあるのだが、報道などは25円という数字が大勢だとおもう。この一円の差はなんだろうか。本当は26円下がるのだろうか。切り上げ切り下げということなのか。
今日の展開でつなぎ法案というのが決まるそうだが、結局暫定という税率が10年も延長(今までもされていたにもかかわらず)されてしまうという感覚はどうなんだろうと思う。憲法も法律の基でありながらどうとでも解釈が可能が社会では、これは当たり前ということなんだろうか。言葉のセンスがまるで違う世界のようだ。十年前はひと昔であって暫定的(言い換えれば一時的)期間だとは言わないのである。
庶民が減税を反対するはずは無いが、だからといって勝手に民意を曲げるという感覚もやはりこの国の姿である。選挙の結果が一部の利益で成り立っているという証明になっているということである。この国の国民レベルがそれだけ低いということだ。しかし実際を考えて見るとコマということでは自民党が強かったりするわけで、民主党その他が駄目だから消去法でこうなってしまうのだという考え方もあろう。
 そもそも政策で選択が出来ない状況が続いていて、こういう状況こそ選挙をして欲しい時期には違いないが、それすら選択権が無い。システムがおかしいと考えるべきところだろう。
 国会の混乱が続いていて国民にとって良くない状況だといっている人がいるけれど、今の状況は国民にとってかえっていいことではないかとも思う。何しろ政治がダイレクトに関連してくる。国民が初めて政治参加している状況に近いのではないか。ねじれ国会は問題だと言う理屈はどういう神経の人がいっているのか分からないが、今の状況は非常にまともだと思う。二大政党がどうだという議論とは僕の意見は微妙に違うのだが、どの道いつもまともに議論されないで結果だけ押し付けられてきた現実を考えて見ると、今は本来の政治のあるべき姿であるという気がするのである。少なくとも多くの人にとって、この国がどうだということを初めてリアルに考えている可能性が高い。そしてそのことが、初めて意見として国会に伝わっている可能性も高いのである。
 画期的な政治の季節。出来れば早く結果を求めないでいつまでもねじれ国会のままでいてくれた方が、国民の直接的な利益になるに違いない。図らずもこのような状況になったお陰で、この国は少しづつ良くなっていくような期待が持てるようになった。物事は勝手に動かされなくなるだけでずいぶんと公正になると思う。
 たとえば勝手に操作できるので社会保険庁も勝手をしたまでだろう。国民には勝手をさせないためにいろいろと操作をするくせに、自分のほうは自由でいたいというのはまさに身勝手である。窓口業務がつらくて退職者が増えて退職金がかさむという状況だそうだが、どこまで甘えたら気が済むのだろう。第一そういう行動を取れる立場の人たちは、単なるサボタージュである。本来なら退職金は無くて当たり前ではないか。もっと追い詰めて正常に近くしていくことが、今後とも必要であると思う。
 世の中がクリアになっていくことで、次世代にもはじめて胸を張ってバトンが渡せるというものだ。まだまだ今のままではとてもじゃないが北朝鮮より少しだけいいという程度である。実際には誰も処罰されないし、ひょっとするともっと悪いかもしれない。本当に目覚めて欲しいと切に思うところである。
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暴走老人という現象

2008-01-29 | 雑記
 病院というところは季節感の無いところで、入院している分には快適だけれど、それなりに味気ない。僕のいたベッドは窓際で日当たりがよく、日中は暑いぐらいだった。朝方電気をつけているまま、昼まで電気をつけていることに気付かないような明るさで、僕の環境には良かったけれど、節約には気をつけなければならない状況だった。病人は普通は寝ているわけだから天井を自然に見上げることにもなり普通なら気付きやすいのだろうけれど、幸い体調がよく座って読書するかお隣の親父さんの延々と続く話を聞いているかしていたわけで、親父さんも僕も電気をつけっぱなしにして電力を浪費するような生活スタイルをとってしまっていた。それも春のような暖かい病室の中で。まあ、その分暖房代は節約できていたのかもしれないが…。そういえば夜になってエアコンから冷たい空気が流れてきて寒い夜の日があったのだが、くだんの親父さんがひどい剣幕で看護婦さんを叱っていた。昼間暖かかったので暖房を切っていたせいで、そのまま夜になっても冷たい風が出続けていたものらしい。「俺達を殺す気か」と親父さんは啖呵を切っていたが、殺す気ならもう少し効率よい方法をとるのではないかと僕は思った。老人が容易にキレやすいという話は聞いたことがあったが、確かにこのように簡単にキレるものらしい。妬みであるとか勘違いであるとか原因はいろいろあるだろうが、自分の落ち度には寛容で人には厳しいというのは確かに年配の人にはよく見られる傾向である。つまり人間関係がよく見えなくなっているわけで、経験をつんだから関係性を良好に保てるということではないことがよく分かる。結局は本人の相手を考えるだけの余裕のようなものが無い限り、お互いの関係性を潤滑にすることは出来ないということなのだろう。しかし既に気付かなくなってしまった人がこれから先に気付くようになるのかという問題もはらんでいるわけで、今となっては遠いところまで来てしまって自分の問題ではなくなったのでどうでもいいのだけれど、根本的な解決に至っていないことを思うと気持ちが暗くなるのである。家に帰って地図を開いて確かめて見ると(そんなことまでさせられるぐらいホラーな人なのである。本当に二度と会いたくない)、僕の散歩コースのともッぴーの家の近所にお住まいということも分かり、まじめにコースを検討しなければならないと思っているところだ。この雨が止むまでには結論を出さねばなるまい。
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見所満載の日曜日

2008-01-28 | 雑記
 昨日の大阪女子マラソンでは、十八銀行の扇さんが初マラソンにもかかわらず見事だった。将来性も期待できそう。
 もちろん優勝したマーラ・ヤマウチさんの、走りっぷりとは裏腹のキュートさにも驚いた。日本語も単語の使い方に、ものすごく知性を感じさせられる。ぜひ英国代表になってもらいたいものだと思った。旦那さんってどんな人なんだろう、とも興味がわくところ。
 報道では地味だが、二位に入った森本さんの粘りも素晴らしいものだ。あわや追いつくのではと思わせるところは十分代表でいけると思う。
 陸連は報道に惑わされるな。マラソンは環境ということが大きいことは間違いないのだから、勝負という結果が一番重要だ。記録はその勝負にそってつくかどうかということではないか。
 それにしても民放はスポーツ報道には向かないな、と改めて思わされた。もうぜんぜん駄目で悲しくなります。民放のテレビ局の人間には、人間の血が通っていないのだろうか。選手たちが本当にかわいそうだ。もちろんそれを見せられる僕らもかわいそうなんだけど…。この国は政治より報道の方を改革した方がいいといつも思う。北朝鮮じゃないのだから、いい加減、目を覚ます必要があるだろう。

 相撲では安馬のインタビューが面白かった。日本語上手いけれど、ツボを外すのもなかなか上手い。てれた笑顔もかわいい青年である。しかし改めてモンゴル多いねえ。
 もちろん千秋楽の大相撲は、歴史に残る名勝負だった。今の角界はかなり水準が高いのではないかと思う。あれだけのひきつけあいが見られただけでも、一瞬の美学が濃縮している素晴らしいものだと改めて思った。人間が到達しうる、ひとつひとつのピークが重なりあった瞬間ではないだろうか。

 三洋電機も見事に連勝した模様。こちらのリーグもぜひ報道すべきだろう。それなりに人気も出ると思うんだけど、どうなんだろうか。
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KYというのはこのことか

2008-01-27 | 雑記
 せっかくだから少しは一人の時間を楽しめるかもと期待した入院生活であったが、隣のベッドの親父さんがやたらうるさい人で、とても気苦労した。
 勝手に話しかけてきて延々と持論をぶつ。まあ話をするぐらいいいじゃないかと思う人もいるかもしれないが、そのひとつひとつがなかなか納得のゆかない内容で、なおかつ脈略もなく、なんだか自慢話になり、だんだんと誇張が入りでかくなっていって、少しのことに怒りに任せて差別的であったりする。一言でも口を挟むと、12倍ぐらいは話が展開してしまう。うー、とか、はあ、とか言わなければ、ものすごい質問攻勢がやってきて身ぐるみはがされそうになってしまうので、徐々にカーテンを閉めていって、本などに目を落としながら適当に流してやり過ごした。後半になるとなれてきて、それでもほぼ8割方無視していたような感じだったのだがら健闘はしたのだ。
 その親父さんが外出中に、もう一人の同室の叔父さんから、「あんた、よく頑張っている方だ」とほめられたぐらいだ。退院するにあたって担当の先生からもねぎらわれて「うるさかったろう、よく頑張ったね」と肩を叩かれてうれしかった。
つれあいもどちらかというと人がいい方でなかなか無視できない。面会に来るたびに親父さんの一方的な話につき合わされ、やつれていくようでつらかった。早くこの環境を何とかしないと、家族にも被害が拡大するところであった。
 親父さんは調子に乗って、入院仲間というのは特別な戦友のような友人である、と言うのである。そのこと自体には普通であればなるほどと思わないではないが、こちらはいづれは切れる縁であるから我慢が出来るというものである。この地獄のような時間もいつかは終わりが来る。そのことが希望となって入院という時間とこの親父さんと付き合うつらさを耐え忍ぶことが出来るのである。
 しかしながら、話を聞いていると割合ご近所であるようで、「退院にあたって、今後もお付き合いのほどよろしく」といわれた時には、久しぶりに体が硬直して上手く返事が出来なかった。早速今年最大のホラー体験を味わったといっていい。社交辞令でこれほど萎縮するとは知らなかった。親父さんの不健康まで願うつもりはないが、出来るだけシャバに出ない方が平和というものではないか。少なくとも道でばったり出会わないように余生を送りたいものである。
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死人会

2008-01-22 | 雑記
 初の「死人会」会合を、とある焼き鳥屋で開く。僕らは昭和42年生まれなので「死人」という訳。ある先輩からはかなり不評なのだが、個人的にはなかなかいいネーミングではないかと思う。死んでいると思われるのならなおいいし、不気味がられる方が愉快だ。濃い人間が多いので、実際に疎まれているのかもしれないが…。
 どうしても聞こえが悪いようならゾンビ会でもいいとは思うが、ゾンビは死人なのかはよく分からない。結局なんで?と疑問が残るより、ちょっと考えれば分かる程度の明快さがいいのではないか。
 それでも42という数字にまつわるものは無いかとWikiってプリントアウトした参考資料を持参。
 42というのはなかなか神秘的な数字らしく、ルイス・キャロルなどはこの数字にとりつかれているとしか思えない。そういうことを知ると、まさしく42とはすばらしい数字のように思えてくる。
 犬の歯が42本なら犬歯会というのもいいかも。しかし犬歯というのは普通単独でもいうので紛らわしい。
 原子番号42番のモリブデンというのもなかなかよさそうだが、特に知的な活動は予定していないのでふさわしくないかも。
 千手観音の手が42本というのもなかなかおかしい。偽装問題にならないのだろうか。
「人生、宇宙、すべての答えは42である」ということがかいてある小説まであるらしい。僕もそうではないかと思っていた。なんていうのはウソだが。
野球にまつわる数字としてもなかなか興味深い。稲尾やスタルヒンはシーズン42勝もしたという。時代とはいえ凄すぎる。
 僕の誕生日は7月14日で、そのためなのか714という数字の並びを見ると、なんとなくハッピーだ。7も14も42の約数で、その整合性に僕の神秘を感じる。単なる偶然とは分かっているが、生まれるべくして生まれたような錯覚を味あわせて欲しい。
 というような議論は会合においては特に無く、そのまま「死人(の)会」で行くということになった。二月に一回ぐらいはなんとなく集まろうという感じ。小Mっちゃんがこっちにいるときで、今回欠席したミッチーの都合もいいときにしよう。幹事は持ち回りで次回は僕。丙午会との合流については、なんとなくうやむや。夏越には実働で協力するという力強い言葉も聞かれた、が、今の時期だから威勢がいいのかも。
 ああそうだ、この会合の中で僕のブログに言及が及んで、期待していた出来事が書かれていないという意見が聞かれた。今回もそのような結果になっているような気がする。入り口で既に脱線している。
 それに言い忘れたが、42歳になったときも周年(じゃ無いけど)のような事業をしてもいいかも、なんて個人的に思う。まあ、会としてしなくてもいいけど、4242と続くだけでかなりいい感じじゃないか。音の響きもとてもキュートだ。
 ああ、Tき理事長も呼び出されて参加したのでした。僕としてはこのような体育会系の流れは本意ではないが、約一名そういう人がいるのである。ただでさえクソ忙しいだろうに申し訳ありませんでした。そして、心よりお礼申し上げます。
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終日雨の日曜日

2008-01-21 | 散歩
 終日雨天。最近けっこう雨が降っているという感じもするが、水はやはり足りないのだろうか。
 休日に雨が降ると楽しみにしているまとまった散歩が出来ない。というか万歩計の平均歩数が伸びないので、むしろそのことの方がストレスになる。コツコツ刻むことと、まとめて稼いでおくというものが組み合わさって、平均というものの高い維持が可能である。イチローだって時には固め打ちが必要なように。今週は入院もあるし、さらに平均値は下がるだろう。これは仕切りなおして再計画が必要かもしれない。とてもじゃないが目標達成が難しい状況になってしまった。
 さてそういう時は気持ちを切り替えて読書でもしようと思うが、前日の深酒がたたって目の調子が悪い。下を向いて本を読むだけでなんだかムカムカしてくる。当然なんとなく頭に入るものが無いような感覚である。読書も習慣だからそれはそれなりにクリアできないことも無いが、眠たい時にはどうにも字を追えなくなるように、切り替えた方がいい場合もある。雑誌に変えたり新聞を読み直したりと無駄あがきをして、結局テレビをつけた。日曜のテレビなんて面白くは無い。教育テレビぐらいしか目に留まらないが、面白いわけではない。そのうち囲碁になって、白黒増える場面は面白いが囲碁はまったく分からない。
 そう思っていたら駅伝があった。よし、これでいこうと思ったらつれあいから電話があって、息子の卓球の試合の迎えに行かなければならなくなった。
 迎えにいったのだけれど、もう少し時間がかかるということで、傘を差して歩くことにした。体育館でじっと座っているのが寒い。外は雨で気温も低いが、歩くなら何とかなるだろう。ああ歩けて嬉しいなあとは思うが、雨脚がそれなりにあってやっぱり調子が出ない。道行く車のはねる水も不快だ。
 ショッピングセンターの駐車場には、所狭しとぎっしり車が止まっている。雨の休日の行き場を求めて、多くの人がここに集まってくるのだろう。
 出入り口に車を寄せてつれている人を降ろし、運転者がまた駐車スペースを探してウロウロしている。たいてい若い夫婦という感じの人たち。そういう車が何台もあって、駐車場を縫うようにさまよってうろうろしている。相手方は先に店に入っていったので、後で落ち合うのだろう。待ち合わせ場所を決めているのかもしれないし、携帯電話で確認しあうのかもしれない。
 なんとなく日本も変わったなあと思う。恐らく香港の男達なら当たり前の行動かもしれない。しかし僕にはそういう配慮というのが、そんなに優しい好意には感じられない。仲がいいなら一緒に車から降りた方が楽しいんじゃないかとも思う。まあ、どうでもかまわない問題だが。
 買いたいものは何も無いので店には入らず、グルッと店を回って体育館に戻った。ちょうど全試合が終わって、帰るところだった。散歩というには短い時間だったが、雨なんだから仕方が無い。それにもう歩きたいという気力も無いのだった。
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一人の時間を楽しむ

2008-01-20 | 雑記
 新年会のために小浜へ。例年なら京都に行ってるんだよな、と思いながら車を走らせる。
 道中まとまって音楽を聴けるのはうれしい。どこかの社長が、出張の移動は読書に当てるために出来る限り一人で行動する、と書いていた。僕は音楽を聴くために一人で運転する、ということはあるかもしれない。完全に一人になる手っ取り早い方法って、トイレを除くと車であるかもしれない。
 四月から一時だけガソリンが安くなるのかもしれないけれど、今はガソリン代をケチって一人になれないというドライブ好きはいないだろうか。いや、楽しみのための運転時間が減るだけで、確率的に交通安全につながっているのじゃないか。ガソリンが高い方がいいというのは、交通安全の視点からはいいことではないだろうか。消費活動からしても物流に影響があるだろうから、控える人が増えるだろう。そうやってむやみな消費が減ることで、環境にもやさしいということではないか。物質的な豊かさのせいで心の豊かさが危ういのであれば、物質的な豊かさを犠牲にする方法が極めて有効だろう。そうであるから、物を高くすることでかなり心が豊かになるということを、この機会にPTAは主張するべきであろう。
 ガソリン税の議論は、そういうことで熱気をおびるということは、たぶんあるまい。僕にはそれがとても不思議に思える。
 今回の減税で必要な道路が出来なくなるという議論もあるようだが、必要な道路なら一般財源からもって来てでも作るべきだろう。政治ってやっぱり僕には嫌な問題だなあ、と思う。
 さて、小浜というのは一時間程度で着いてしまう。余裕を持って家を出たというのはあるけれど、約束の時間より五十分ほど早い。しかし温泉地なのでもちろん簡単に時間はつぶせる。
 ビジネスホテルだったので、どこがいいかと聞いたら、隣に温泉があるから自由にどうぞ、ということだった。男女の区別はありません、という。ふーむ、まあ、僕は目が悪いのであんまり関係無いか。部屋からタオルを持ち出して入ることにする。
 さて行ってみると、二つ部屋があって、どちらを使ってもいいということであるようだ。僕は混浴と勘違いしていたわけで、男女関係無く空いている方を使え、という意味だったらしい。
 どちらの部屋も空いていて、控えめな僕は、小さい部屋の風呂に浸かった。
 なんだか薄暗いなあと思いながら入っていると、後から急に照明が点いた。誰かがつけてくれたらしい。明かりがつくと本当に掘っ立て小屋のようなつくりで、妙に安っぽい風呂だった。親切はありがたいけれど、風情ということでは薄暗い方がいいのかもしれない。しかし僕は安っぽいというのもそれなりにうれしい。温泉といってもこんなところ、好き好んで入る人は少ないだろうなあ、と思うと、とても愉快な気分になった。
 顔を洗うと、塩湯なのでとてもしょっぱいのであった。
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病院の再建方法

2008-01-19 | 雑記
 病院にいくと待つ時間が長い。病院にいるあいだにしている行動の9割以上は、椅子で待っていることではないだろうか。それだけ多くの人が病院を必要としているということでもあろうし、何か処置をするのに時間がかかるということでもあろう。医者が患者を診るという行為が続いて時間がかかるのであれば、自分自身が受けている診察時間の割合が高くなるはずだが、医師と話をする時間を含めた診察時間は決して一割にもならない。指定された時間に来ているにもかかわらず、やはり待つということが中心に座っている。
 いや、単純に批判をしているわけではない。検査をしたり、その検査の結果を検討したりする時間も厳密には診察時間だろう。そういう時間を経て、さらに診断し、説明を受ける。以前と比べても非常に丁寧になっているし、心遣いも感じられるようになっている。医療現場は確実に進化している。こと、サービスという視点に立てば…。
 この病院は赤字だと聞いている。赤字の病院なら人が少ないだろうと思っていた。繁盛しているところは、きっと待ち時間が長いに違いない。もちろん最初に診察を受けた病院から紹介されて来たのだから自分の選択とは厳密にいえないが、待つことが少ないというのは、病院にいくという動機の一番上位にあったかもしれない。たとえ具合が悪くても、待つ事に比べたら苦痛は少ない。ま、僕の場合にかぎるが。
 医療の効率化ということを考えると、やはりこの待ち時間の問題が一番大きいのではないかと思ったりする。これだけ混雑(実際の人数はそう関係ない。待たせているというのは滞っている状態であるから、数人であっても混雑と考えてよかろう)しているにもかかわらず赤字になっているというのは、経費がかかりすぎているのであることが、先ずは疑われる。ただでさえ医療費の自己負担の割合が高くなっているのだから、まともな提案とはいえないが、さらに医療費を上げるというのが一番の解決策だろう。少ない利用者から効率よく収益を上げるということだ。もちろん混雑はなくなる。
 医療は必要な人を治療する目的があるのだから、それでは本末転倒である、というのはもちろん分かっている。医療保険はそういう理屈で組み立てられたものだろう。
 しかしながら、と実は思っている。じゃあ、経費の方を削減する気があるのか。多くの人から少なく分担してもらうために効率を上げる必要がある。医者を含めたスタッフ一人当たりの処理人数を増やす必要があるということ。一人でこなせる人数に限界があるのならば、スタッフ自体を増やさねばならないだろう。しかし大体経費がかかっているから赤字なのである。
 えらく意地悪して遠まわしになってしまったが、スタッフの一人頭の単価を下げるしか本当には解決策がないことになる。まあ、その為に今の混雑があるといういいわけにはなるかもしれないが…。
 実はもう少し実験的な方法もある。いっそのこと他の病院より、思い切って給与を引き上げるのである。優秀な人材が必ずしも給与だけで職場にひきつけられるものではないのかもしれないが、ひきつけられないとも言い切れるものではあるまい。むしろ現在のスタッフ自体も、今よりやりがいを感じて能力を上げるかもしれない。それが出来ないのであれば、入れ替えするしかあるまい(これも現実は難しいが)。
 待ち時間が長いと暇だからいろいろ考えることになる。この理屈だと日本の政治をよくするためには、政治家の給与を上げると解決することにもなろう。利益というのは少ないコストで高く売るだけ単純に増える。だから病院の再建にはそれしか方法がないが、政治という仕組みがそのようになるかは良く分からない。何しろ借金を積極的にしてきたほうが、今までは優秀だったわけで、効率がいい考えかたの人が政治家を目指すことはなかったようである。まさか政治家の給与を目的にして政治家になったわけではないから、違うところから金を調達しようとしているのではないか。財政の健全化のためには、給与所得のみで政治が出来るというシステムにすると効果があるのではないかとも思うのだが…。
 さて、何時までも待っているわけにはいかないので、帰ることにしよう。
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天然か養殖か

2008-01-18 | 
 小説を読んでいたら牡蠣のことが書いてあった。手元にないので細かくは忘れたが、「小ぶりの養殖などでなく天然のぷりっとした大きい牡蠣」といったような記述だった。
 気になったのは、本当にそれは養殖ものではなかったのだろうか、ということだ。
 僕は牡蠣について特に詳しいものではないが、岩に張り付いている天然の牡蠣は見たことがある。そしてそれは大抵小ぶりである。一方広島などの養殖の牡蠣は、網で引き上げると大抵は、それこそぷりっとでかくなる。
 小説の中の登場人物の感想なのだから、どう思おうと勝手なのだが、彼に向かってそれは認識不足ではないか、といってやりたくなる。彼はそれなりに食通のような雰囲気があり、そういう感想持つことで、しかし少しばかり残念な印象を持ってしまう。小説としてはその場面は流れるように進むわけで、特に齟齬があるわけではない。描写としてもそれは旨そうで、彼もその牡蠣の味に満足して食べたようだ。一個二百五十円もしたにもかかわらず、彼は四個も食べた。
 いや、僕のほうの認識違いという可能性はないではない。天然のぷりっとした大きな牡蠣が、まったく存在しないとは確かにいえない。
 しかしながら小説の方は素晴らしい味のある話で、読後感はすっかり感心してしまった。
 僕は家に帰って食事をし、ビールを飲んで少しだけつれあいが飲んでいたワインを分けてもらった。その赤ワインの奥に広がる世界を味わいながら、読んだ小説を反芻した。やはり僕の瑣末な疑問は残るにせよ、素晴らしいできばえのものだったと思った。この著者の外の小説も読んでみたいものだと思った。
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幼い自分

2008-01-17 | 雑記
 なんだか久しぶりにいろんな人のスピーチを聞いた気がする。また、飲みながら聞き役というのも久しぶりかも。ま、最後は聞いてもらったわけで、K村君ごめんなさい。
 流石に人と会うと自分なりにいろいろと考える。そして他人という存在は、自分自身より自分以外をどうにかしたいという欲求が強すぎる気がする。僕には人をどうにかしたいという気持ちはそんなに強くないと思っていたが、いや、鑑みてそうではない可能性も考慮しなくてはならないかもしれない。何故なら迷惑だから。
 期待にこたえたいという気分が無い訳ではない。自分の努力を認めて欲しいということもあろう。しかしそのために自分自身が何をしなくては、ということもなんとなく分かっている。かなり荷が重いし、無理が必要だろう。自己の主張や鍛錬の必要性がないとはいえないけれど、既にそういうことを求めたり主張する気も無い。今の僕にはそういうものより身の回りの信用の方が重要かもしれない。
 時期ということもあるだろうし、相手方の実績という見方も出来るだろう。僕としても彼らの人と考え方も信用できるし、むげに出来ないというこちらの気持ちがある。もちろんそういう立場関係もあって、強く要求されているという側面が強いのだろう。そういう中で非常な圧力を受けているように感じられるが、僕が考えているよりも相手が切望していないということも実は理解できている。しかし対面して話をしていると、いつまでごまかしてもごまかしきれない、つらいものがある。いい加減他の話題にして欲しいものだが、既に他の話題など興味が無いのだろう。趣味だって本当には合わない。
 僕自身にもう少しハングリーさが必要なのかもしれない。これが必要だからという欲望。それどころじゃないというひたむきさ。
 実は卒業後にはという考えもあった。いや、現役時代もそれはあった。しかし自由を手にすると、なんだかそんなに切迫していない。〆切が無いせいだろうか。こうして書いているブログの方がよっぽど早急めいている。完全に任意のはずなのに、いつのまにかそうではないらしい。
 いや、やはりかなり無理がある。気分が乗らない以前に。時間より金銭問題もネックだ。そうなれば馬鹿げている。かえって信用も失う。僕自身のやるべき仕事ではないのだ。
 関係ないようだが、もう少し本を読まなきゃなあ、と思う。ヒトは本を読まなくても十分に生きていけるけれど、本を読まないで生きていけるほど世の中は甘いものではない。本を読まないヒトはそれを知らないに過ぎない。僕は知りかけているが、理解できていないのかもしれない。
 多くの人が敵のように思えてきた。これは鬱の入り口だな。たぶん疲れているのだろう。二日酔だし。他人の期待にこたえたくない病。神経過敏に免疫不全。たぶん僕以外の問題というより僕自身の問題。分かってるんだけれど、そういう自分になれないのも僕自身だ。
 なるほど、まちを変えるとか変革とか、まわりのことを変えるためにやらなければならないことがある。つまりそれは環境より自分からのスタートだ。僕が変わると世界が変わる。それもきわめて劇的に。
 自分の時間を他人に取られてはならないとジョブスは言っていた。死とは、今日訪れるものかもしれない。なかなか今すぐにすべてのことは出来ないけれど、今日が最後と思えるならば、切実な今を生きられるだろう。結局はそういうことを考えずにできるかということか。僕はまだ見つけていないのだろう。まだまだ幼い僕ということを思い知ったのであった。(
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日本的、あまりに日本の悲しさ

2008-01-16 | 雑記
 葬式に行った帰りにちょうど昼時だったので飯を食うことになった。僕らはちょっとした集団で総勢十二名。テーブル席三つ分。会席などを出す和食の店であった。
 さて、オーダーだが、誰かが厨房を煩わせないために同じものを頼んだ方がいい、と提案する。簡単そうなので丼ものがいいのでは、と矢継ぎ早に提案が続く。それではカツ丼とかそういうものがいいかも、ということなのだが、肝心のメニューには、昼定食リストが並んでいる。うな丼は無く、うなぎ定食はある、という感じ。丼ものとしては海鮮丼というのがあって、吸い物など無しの単品でも注文可能らしい。
 それでは、ということで二名ほどその海鮮丼でいい、という声が上がる。
 さて、ここで事件が。
 私はうなぎを食いたいと主張する人が出たのである。先ほどもあったようにうなぎは丼でなく定食でなければこの店には存在しないとのこと。まあ、食べたいと明確な主張があるのだから、この定食を食えばいいという了解の空気もこの場に流れる。
 すると、なんだ、定食でいいのなら、私は刺身定食がいい、という声が上がって、じゃあ私も、と二三人続くのであって、最初に同じものをと提案した人までこの声に流れて刺身定食が主流になって六名にまで膨れ上がる。まあ、後はバラバラと個人注文。唐揚定食二名、茶蕎麦一名、ということで見事なバラバラ感である。
ばらけた割りに、ほとんどの品物は同じような時間帯でできあがり(三分程度は差があったかも)、最初の統一の必要性はなんだったのかと思うけれど、お店としてもなかなかあっぱれである。
 しかし僕としては最初に海鮮丼を注文した人に同情したくなった。彼らは本当に海鮮丼でよかったのだろうか。というのも、うなぎ定食を食べた人が吸い物はいらないといったら、じゃあ僕がもらうと海鮮丼の一人の人が言ったから。定食を食いたかったとは、後になって言えなかっただけなのではないか。そうなると、最初に同じものをと提案し、丼ものをと同調した人には罪は無いのか。ちなみにこのふたりは多数派の刺身定食なので、だいたい流されやすいともいえるのかも。
 まあ、ありがちな話なのだが、日本的だと思いませんか。これって日本の政治の世界じゃなかろうかとも思うわけで…。
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史上最速のインディアン

2008-01-15 | 映画
史上最速のインディアン/ロジャー・ドナルドソン監督

変人の信念は幸運になる

 インディアンというのはオートバイの名前らしい。そのことに気付くまでずいぶん時間がかかった。人間の思い込みというのは恐ろしいものだ。いかに型破りかということも、それだけ極端でなければ破ることが出来ない。それこそ彼のようにつきぬけでもしないかぎり。
 何が起こるか分からないのがロードムービーだが、この映画はある意味で最後はどうなるかということがあらかじめ予想できる。なんと、僕はひねくれているので外してしまったけれど、普通の素直な人々は、恐らく映画の流れの予想がつくはずである。しかしそれでいて退屈するかといえばとんでもない話で、どうなるのかウキウキしながら映画にかじりついてしまうに違いない。僕だって思わず両手を上げてハイタッチしたい気分にかられた。気分よく高揚感の持続する映画である。本当にすばらしい。
 年齢で人間が固くなるという話はよく聞く。しかしこの人は頑固であるが硬くは無い。限りなく自由である。しかし世の中は障害だらけ。難題が次々降りかかってくるが、自分自身の力だけでなく、明らかな幸運を積み重ねて、どんどん前にすすんでゆく。完璧な楽観主義だからということではない。運を呼び込むのだ。もちろんそのためのリスクも大きい上に数も多い。ちょっとこれは無謀だと思えるほどだが、不思議と応援せずにはいられない。映画を観ているほうがそうなのだから、映画に出演している人たちが同情しないはずが無い。そういうことで幸運が得られていくのだろう。
 なんていうのは半分冗談だが、実際のところそうとしか思えないような気分のいい幸運だ。本当に心が優しい、人のいい人たちばかりが協力してくれるのではない。協力してくれる人たちだってひと癖もふた癖もあるような人たちばかりだ。しかし彼に少しだけ協力する気になって、彼だけでなく自分自身が幸福なっていくのである。彼から影響を受けて、心の中のわだかまりのような何かが少しだけ解けて、そうして何かをしたくなるのである。彼はそういう賭けのような人間の感情に勝てるだけの強靭な人物なのだろうか。いいや、ぜんぜん違う。恐らく未知の変人だ。そしてここまで変わっているからこそ、信じることが出来るのだ。
 物語が終わってテロップが流れ、さらに呆れてしまう。これで終わらなかったのか。人間粘っこく生きていけるものなのであるなあ。あははは。
 アンソニー・ホプキンスは久しぶりに怖くない役に当たってよかった。だいたい個性的だが善人である方がいいようにも思う。この映画の主人公に負けず劣らず変人であるという噂は聞くが、彼が本当にこのような人であったらいいのになあと、本心から思ったのであった。
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沽券より勇気だろう

2008-01-14 | 雑記
 最近の子供は洋式便所に座って用を足す、という話は少し前からされていた話だ。そしてこれを嘆かわしいという文法でなされるということも含めて。男の沽券にかかわる問題、ということなのだろうか。そういう問題になると僕にはよく分からなくもあるし、どうでもよいといえばどうでもよさそうなので考えないでいた。ちなみに僕はこの話を聞いて、座ってすることでお掃除が楽だというのは確かにそうだろうと感じて、時間のある限り座って用を足すようになった。特に朝においてはそれなりに事情もかさなるし、そうして実行するにいたって感じることは、至極快適であるということである。
 そういうことなので物事は既に解決しているようなものなのだが、さて、こういう話をうっかりすると、僕は男の裏切り者だとか、情けない奴だと言われるような人間に成り下ってしまうことに気がついた。まあ、それでもいいといえばいいけれど、このことの反論をする余地もないらしいというので、やはりそれは不当だと思う。あるJCの先輩にいたっては、そういう態度であるから事業拡大など出来なくなるし、人々をしあわせにすることも出来なくなるなどと頓珍漢なことを言い出す始末だ。まあこの先輩は元から馬鹿であるからそれでもいいのだが(しかしこういう人にかぎって事業所がでかかったりするのでタチが悪い)、まわりの人はそういう話を有難く聞いたりしているのである。ああ、OB会には参加したくないなあ、とこういう時にはひどく思う。僕まで馬鹿みたいである。
 しかし彼らがそうまでして男の沽券にかかわることのように思えるのはなぜだろう。座って小用を足すことがやはり屈辱的だということなのだろうか。そのように男の子を教育させるということが許すべきことではない、ということなのだろうか。そもそも便所掃除を女がするものと決め付けている問題には勝手にスルーして、この問題の議論を進めてもいいものだろうか。
 男の便所には朝顔といわれる小用の便器が並んでいる場合が多い。大の方、つまり間仕切りをしている個室にはもちろん大をする人しか普通は利用しない。ものすごく込み合ってくるとこの個室にも小用のため使用する場合が出てくるが、このときは大抵鍵をかけずに利用する人が多いようである。なかには扉を半開きにして自分は小用を仕方なくしているのだと主張しているような人もいる。すぐにこの個室が開きますよ、という意味もあるのかもしれない。本当に大をしたい場合にはもちろん利用しても差し支えない部屋であるが、大人数で使用しているときに個室を選択するのは、確かにいくばくかの勇気が必要である。切迫感がない限り堂々と使用する人は少ないような気がする。出来れば誰もいないときか、人々が気付いていない隙を狙って、個人が確定されないような状況ですばやく個室に入るという姿勢が、男便所における個室のあり方である。
 つまり長くなったが、男の沽券というより、大をするのが恥かしいということに過ぎないのではないか。その恥かしい大をするという行為において便器に座る行動が伴っているのに、小用のときまでその屈辱を味わいたくないということなのではなかろうか。女ならばどちらの行為なのか入る段階では分からない。利用するという前段階で躊躇があろうはずがない。男のあの個室の嫌悪感とは次元が違うということも言えないではない。
 実を言うと僕は胃腸が小さい頃から弱く、学校で大便をするという体験が少なくなかった。しかし確かに休み時間に個室に入るのは、子供社会では許される行為ではなかった。だから授業が始まってから、個人でトイレットペーパーを準備した上で先生に断ってトイレに行くようにしていた。もちろん「お腹の調子が悪いようです」か、「お腹が痛くなりました」というような言いみちは、幼いながらに覚えた。僕は苦労人だったのである。そしてだからなのか、大便には寛容な大人になったのかもしれない。
 しかしながら家であっても大をすることを恥かしがって、なおかつ便所を汚してはばからない沽券という仮面をかぶった羞恥心とはなんだろうか。こういう見栄が必要な空気ということが、男社会の病理であるような気もするが、まあ、僕はそういう部分では特殊な面もあるものなのかもしれない。
 しかし座ってするのはいいですよ。なにより多くの人がハッピーになれるんだしね。ちょっとしたことを踏み出せる勇気こそ、男にかぎらず必要なのだと思うけどね。
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静かに波乱の一日

2008-01-14 | 雑記
 どこかへ行こうと思っていたのだが、緊急の事態があって中止。子供との約束を完結していなくてよかったのかもしれない。僕の仕事にはこういうこともある。子供には申し訳ないし、僕も寂しいが、ここで仕事をしないわけにはいかない。いや、これは人間的な道徳ということなのかもしれない。
結果的に物事は滞りなく運んで、昼過ぎの夕方前という中途半端な時間にとりあえず終了。昼食時にちょうど交渉ごとが入って、気がついたら伸びたラーメンを食わざるを得なかったことだけが残念な一日だった。あれは手をつけずに残すべきだった。
 いろいろと思うところはあるわけだが、仕事上の機密事項なので記述はパスする。ただ、道義上の問題もあるにせよ、人間という存在自体がはかないと思えた。今後どうなるかということは少し預ける事も含めて、相手の出方次第。もちろんそれなりに万全なので不安は無い。そしてただはかない。
 家に帰って小琳ちゃんたちをつれて少し散歩。杏月ちゃんは相変わらず激しく興奮しているが、小琳ちゃんの方も珍しくけっこう歩くじゃないか。20分ほどだが、抱っこせずに歩きとおすことは珍しい。やはり想像以上に足の具合が悪かったのかもしれない。
 家に帰ってつれあいが夕食の準備をしているあいだ、再度僕だけ散歩に出る。歩数をノルマのように稼ぐという意識があるのだろう。しかし歩き出すとやはり散歩の哲学者(たいしたことは考えていないなりに)となり思索にふける。ほとんどは忘れてしまうのだが、体を動かしながらだから考えが進むということは確かにあると思う。気分的に愉快になる頃には体も温かくなって、上着を脱いで歩いている。手はかじかんでほとんど動かなくなっているけれど、体からは湯気が出るような熱気が発散している。
 帰ると海老ワンタンにキャベツのサラダ、厚揚げのあんかけにネギの炒め物。ビールを飲んで、最初は芋焼酎をお湯割にして、後半はなぜか米焼酎に切り替える。映画も観て完璧な一日となった。
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