カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

メモを取る毎日

2025-02-19 | つぶやき

 僕はテレビを見ながらメモをする癖がある。というか、メモはいつでもするわけだが。
 しかし考えてみると、この表現はあまり正しくない。メモするときに、その流れとして音声は聞きながら取るときと、一旦画面を止めて取るときがあるのだ。わかりにくいかもしれないが、要するに録画している訳だ。タイムリーでもニュースなど見ているが、それでも気になるとメモくらいはする。しかし画面は止められないので、時々内容を見失う。世の中の流れはスピードが速すぎてついていけない。まったく困ったことだ。
 僕がテレビを見ているといっても、ほぼ9割以上、録画である。だから画面を止められるし、メモも楽ちんだ。メモのためにそうしている訳ではないのだが、わがままな性格には、これくらいの自由度がちょうどいいのかもしれない。しかしながら何事も、立ち止まって僕を待ってくれることなんてことは、むしろ少ない。僕は立ち止まるが、風景は動く。
 それでも僕はメモを取り、いったん立ち止まらずにはいられない。それを書きとめなければ、過ぎ去った言葉が、そのまま流れて消え去るからだ。あとで落ち着いてネットだとか辞書だとか、そういうものをパラパラめくる。それでわかることもあるし、疑問が広がるものもある。なんで書きとめたのか不明のものも多いのだけれど、いちおう書いてあるんだから何かあったのだろう。しかしそれを知った後になんでこれが気になったのか、推理しても思い出せない。意味はつながらないまま宙に浮く。まあそれでも調べてみたんだからいいだろう。そのまま忘れてしまうかもしれないけれど。
 そんな風にしてメモしたものが山になってくる。職場のテーブルの周りには、メモした紙が散乱している。場所によっては積み上がっている。あまりにたまって来ると、エイヤッと思って捨ててしまうが、一定の時間は、なんだか積まれている内容を見返すような時が来るような気がして、積んだままにしている。本も積み上がっていくが、ときどき段ボールに入れて、倉庫に運んで忘れる。メモもそうしていいかもしれないが、やはり棄てる方が無難だろう。何が無難かわからないが、誰かの連絡先だとか、気になって書きとめたことだとか、今となっては、その時どうしていたのかさえあいまいになって、僕自身もその意味がよく分からないものばかりだ。記憶というのは、基本的には自分の脳の中のどこかの引き出しに収まっていて、しかしそれを見つけられないだけで、そこにはあるにはあるらしい。何かのきっかけでニューロンが繋がり、思い出せることがあるのかもしれない。もっともそんな偶然に期待しても、めったにそういう事が起こらないような年頃になってしまったのだろう。若い時と記憶力は年をとっても変わることは無いのだという。人間の脳の機能は、生きている間は、よっぽど年を取らない限り変わらない。しかし記憶の蓄積は当然違って、たくさんメモのように散らばったものが溜まっていて、見つけ出せなくなるようなものなのかもしれない。そうしてまた、せっせとメモをためていく。つまり、終わりなんてものは無いのである。
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人前であがらない自分を獲得すること

2024-10-10 | つぶやき

 人前であがらない方法ということで、実際にはスピーチをこなす方法を書いてしまった気がするのだが、そうやって自信がついてくると、だんだんとあがらなくなるものなのだよ、ということだったので、必ずしも結論は間違いではない。それでもあがるときはあがるので、緊張というのは厄介なのであるが……。こういう話は、実際のところ即効性が無いというだけの話である。そもそもあがらなくする方法として、即効性のあるものがあると言えるほど、自信のあるものは無い。しかしながらこのような努力をしない人たちに向けて(おそらくあがる人のほとんどは、努力をしないのだ)、あがらないための考え方というのはあるような気がする。
 いちおう人前に出て何かを話さなくてはならない状況ということで、前提条件はそういう設定であるという仮定の上での話である。他にもあがる状況はあると思うが、すべてに汎用性がある方法とか考え方であるとは、厳密に言えないかもしれないからである。
 一番大事なことは、何故緊張したりあがったりするかという本人の気持ちの持ちようが、問題なのである。「人前だから」と本人は思っているが、人前で、あなたが「何を」気にしているかである。人から見られている状況は、なにか一体いけないのだろうか。見られたってかまわなければ、何も気にすることは無いではないか。
 簡単に言うと、人前であなたは、その他人の目から自分をいいように見せたい思いが強いのではないか。笑われたくない、という言い方をする人もいるが、何故笑われるのか。失敗すると笑われるのか。ひとが言い間違うと、あなたは笑うのか。だから同じように笑われるのだろうか。言い間違うと言っても、よっぽど面白い間違い方をしない限り、笑わないのではないか。
 恥ずかしい、というのも理解はできるのである。人前に立つような状況に置かれることは、多かれ少なかれ恥ずかしいような状況だ。そうでない人もいるだけのことで、実際は程度問題で、恥ずかしがっている可能性はある。それに人によく見られたいとか、そういう欲求は、考えてみると自然でもある。別段欲求というよりも、わざわざ悪く見られる必要なんて無い訳だ。悪く見られたい人だって、そういう悪そうな自分が自分なりによいからそう思っているという事であって、ある意味で格好つけである。
 よく聴衆をキャベツと思え、なんていう人がいるのだが、要するに目の前の大勢の人が、人間でなければそんなに問題は無いのだ。なかなかキャベツには見えないものだが、人間の格好をした何か別のものだと思い込むことができれば、確かに緊張感は緩むかもしれない。
 でもまあ、慣れてくるとなんとなくそこまで大変なほどあがらなくなる現象を考えてみると、目の前が人だとは理解はしているものの、いわゆる得体にしれない人間というか、いつもとあんまり変わらないような大衆がそこにいるというか、そういう事があるのではないか。いつもの風景であれば、この間と変わらない今である。実際のところ、人がたくさんいたとしても、以前のたくさんと状況は大して変わらないという予測は、ある程度当たっているのだろう。そういう加減の気分のようなものが、あがらない状況への慣れのようなものかもしれない。
 ということで、見られたってどうだっていい自分が獲得できていくと、あがらなくなっていく自分も手にできるかもしれない。でもまあ多少の緊張感があるから、いいパフォーマンスが生まれるというのがあって、しかしそこはまた、別の次元の話に移っていくのであろう。
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人前であがらなくなる方法

2024-09-14 | つぶやき

 人前で話す機会というのはそれなりにあるせいか、ときどき人前で話す時にあがらない方法が無いかと聞かれることがある。方法があると考えている時点で、何かそういうものでは無いような気もするのだが、いちおういくつかは答えらしいものはある。一つは求められている答えでない事は分かっているのだが、経験を積むことである。要するに、慣れてしまうというのがある。芸能人やアナウンサーなどになれば、いつも人前に出ることになるので、最適な訓練になるだろう。
 もう一つは、人前で話す練習をすること。知った人とか家族とか、そういう人に頼んで話すのを見てもらう。家族は時々辛辣な批評をしてくる場合があるので注意が必要だが、そういうのにいちいち気にすることをしないで、とにかくそういう環境で練習をする。なんで話す機会があるのか、事前にその内容が分かっているのなら、いちおうメモなどに話す内容を箇条書きにしておいて、それに沿って話してみる。原稿を書いてそれを読むのも、必ずしも悪くは無いのかもしれないが、俳優のように丸暗記する気が無いのであれば、読まない方がいいと思う。書いてある通り話せないと、失敗した感じになって残念な気分になる。失敗体験を積むことは、この際あんまりよくない気もする。ますます話すのが嫌になるかもしれないし……。
 メモに書いた内容を、なんとか言葉に出して言ってみる。そういうのを10回くらい繰り返していると、だいたい形が整ってくる。できればそれを100回くらいやれたらいいのだが、おそらくそんな根気は無くなるだろうし、聞く方もかなり大変になる。何回か聞いてもらったら、シャドーボクシングみたいに、自分だけで話を繰り返してみる。車の運転中とか、散歩とか、何かをやりながらでかまわないので、出来る限りたくさん繰り返してみる。そうしてもう一度知人や家族の前で話してみる。前回よりも必ずうまくなっているはずなので、まずまずOKが出るのではないか。いや、話してみるだけを目的にして、評価してもらわなくてもいいかもしれない。だいたい話をしたからと言って、相手がどう思うのかなんて考えてはならない。それも一つのあがらないコツでもある。うまく話せなくて笑われたとしても、ウケたんだからそれでいいのだ。お笑い芸人だったら合格である。
 そもそもスピーチというのは、うまく話せるときもあるし、いまいちの時もある。だけど話した後に、そんなことをいつまでも思い返す時間がもったいない。どのみちどうにもならないことだから、次の機会の経験になっただけでももうけもので、忘れてしまうのが一番だ。そうして次に機会がありそうだったら、また再度練習をする。そういうのを何回かやってみると、まあそんなに得意にはならないかもしれないまでも、いちおう何とか話せるのではないかという、度胸のようなものが付いてくるはずなのだ。いつまでも嫌だというのはあるかもしれないが、その時が来たってなんとかなると思えたら、それでいいのである。
 噺家さんだって人前で話すのが商売だろうけど、よく聞いてみると、あんがい話が下手な人も多い気がする。じょうずに話せないのに、なんとなく面白みがあったりするのが不思議なもので、まあそんな感じで芸になっていくものなのではないか。それに普通の人は、話を芸にまでする必要なんてない。その場しのぎでいいのだったら、何を話したところで気にすることなんてないのである。
 という感じになっていくと、不思議とあんまりあがらなくなるものである。という話を聞いたところで、おそらく今あがりたくないと考えている人に最適の答えでないことは分かっている。でも、だから何もしない人は、結局いつまでもあがり続けることを気にして生きていくことになるのではないか。それでいいのなら、別段かまわない事ではあるのだけど……。
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パラレル・マザーズ、僕のネタバレの感想

2024-05-22 | つぶやき

 映画「パラレル・マザーズ」を観終わった後、ちょっと気になってこれを観た人々の感想をググってみたわけだ。普通ネタバレはあんまり書かないけど、ネタバレしなくては書けない内容が多いので、ここに分けて感想を書こうと思う。この映画を観ようと思う人は、ご注意を。
 他の人の感想で一番驚いてしまったのは、ジャニスの行動の意味について、僕と多少解釈が違うようなのだ。ジャニスは子供の取り違えを疑いDNA鑑定をする。そうして自分と娘のセリシアが生物学的な親子でないことを確信して、悟る。当たり前だがジャニスはひどくショックを受けて、知っている弁護士に電話するが彼は不在で、慌てて後で自分から掛けるという。ここで病院にかけるべきではないか、という感想を持つ人もいたようだが、基本的に弁護士だろうと病院だろうと、同じ意味であると考えるのが自然だろう。法的な処置その他のことを知る上では、弁護士の方がより適切で、その後に病院に問い合わせるという手順を踏むのが、いわゆる一般的に過ぎない。まあ、そこはいい。
 それから彼氏に掛けるが、途中でやめる。そうして本当の自分の子を育てている可能性のある、母親のアナに掛ける。しかし子供を風呂に入れているとかで、本人は電話口には出られない。その後彼氏から何の電話だったかという電話が来るが、誤作動か何かだろうと嘘をつく。そうして翌日には、自分の携帯電話の番号を変えるのである。
 これらの行動で明らかなのは、自分の血のつながっていない目の前にいるセリシアを、なんとしても自分の子供として傍に置いておきたい、という気持ちの現れのはずである。
 ところが多くの人の感想は、ここで何としてでも元の自分の子供を取り戻そうとする行動を取った、と考えているらしいのである。混乱したようすはよく分かるが、取り乱した後に改めて子供を抱いて自分の電話番号を変えたのだから、これはやはり身近にいる血のつながっていないものの、深い愛情を注いている赤ん坊を手放したくない、という行動であるはずなのである。何故多くの人は、これを読み間違ったのだろうか。
 その後しかし、自分がどうすべきなのかはっきりとは決められないまま、いや、その戸惑いを胸に秘めたまま、その他の関係のやり取りをしているのである。それは彼女の苦しみだったはずだ。そうだったが、やはり真実を話すべき時が来たと考えた時に、アナが育てていた生物学上の自分の子である可能性の高い娘が死んだことを聞かされる。ここでもかなり動転するが、しかしだからこそ、もう少し慎重に、後になって自分の子がこのアナの子であることを確かめるのである。それからもしばらく、複雑な恋愛のやり取りなどがあって、改めてアリシアは、実はアナの子であると告白することができる。僕がこの映画で最大限驚いたのは、それを知ったアナは、アリシアを抱いて荷物をまとめて出ていくのである。自分の気持ちをちっとも考えない身勝手なジャニスだと罵ってまで、そのような行動をしてしまう(もちろん嫉妬心が混じっている、複雑な心境なのだが)。その高圧的な行動を、ジャニスは許さざるを得ないのである。しかし普通に考えてそれはあり得ないことで、観ている僕からすると明確な誘拐である。少なくとも許しがたい暴力だろう。アナはジャニスを愛するがゆえに、まだそこまで愛してもいないアリシアを奪って復讐しようとしているだけのことである。ふつうの見方をするとそうなるように感じるのだが、これも多くの人とは感じ方が違ったようなのだ。何故なのだろうか。
 結果的にこの映画は、一度は同性愛も受け入れはしたが、そうではなかったからこその大団円ということにはなる。それはなんとなく都合が良くて驚いたが、そうでもしなければ収まらなかったというべきだろう。
 そのような感想が、僕の正直なところである。結果的に不倫の勝利という物語なわけだが、そういう風に捉えると、さらに理解がこんがらがることだろう。映画を観るという事や、物語を追うということは、そういう事なんだと僕は考えるのだが、実際はどうなのであろうか。
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ボタンを留める前に

2024-05-12 | つぶやき

 ズボンをはき替えていると、つれあいからチャックが開いてるよ、と指摘される。確かに閉め忘れている。時々開いていることに気づいて一人赤面することがあるが、やはり閉め忘れる時があるからだ。問題はいつ閉め忘れているのかだが、それが分かれば閉め忘れないことだろう。
 チャックを閉めてから、上のボタンを留めないからだ、とつれあいから指摘される。チャックを閉めてからボタンを留める? そんな手順は思いつかなかった。そんなズボンのはき方をしている人が他にいるのだろうか。ズボンは足を通した後、まずボタンを留めてからチャックを引きずり上げるのではないのか。そういう手順こそが正当なズボンの着衣の仕方、作法とでもいえるものでは無いのか。
 いや、しかし他の人がどのようにズボンをはいているのか、子細に注意しながら眺めたことが無い。男同士の脱衣場などで着替えているときであっても、自分のことで手いっぱいで、他の人がどうしているのか、思い浮かべてみても良く分からない。
 一応ググってみると、これもなんだかはっきりしない。ただし僕のように疑問に思って質問している人がいることも発見する。しかし、どちらが先かというよりも、どちら派も存在することを知る。世の中は便利になったが、白黒がはっきりするとは限らない。
 トイレで用を足した際に、意識してチャック(ファスナー)から先に閉めてボタンを留めることをやってみる。できなくは無いが、落ち着かない。やはりそれは何か不自然であるように感じられる。しかし閉め忘れは防ぐことができたことは、慶賀に値する。
 閉め忘れはしかし、無意識だからやっていることと思われる。既に着衣は無意識の行為であり、習慣である。いつもの手順をいつも通りに行えば、ほとんどの場合閉め忘れていないのだから、その事故は防ぐことができるはずだ。しかし時には閉め忘れている。それが問題なのであって、手順なのではないのではないか。いや、やはり手順を意識することで、閉め忘れが防げるかもしれない。しかしざわざわと心が落ち着かない。それはそれでいつかは慣れることなのだろうか。慣れるまで続けられるのだろうか。こんなことを書いているが、ズボンを履くタイミングで、いつもいつでもこれらのことを思い出して実行できるのだろうか。
 僕にはとても自信が持てない。そんなことができるなら、そもそも閉め忘れるなんてことが、起こらないはずだからである。いや、未来は変えられるはずだ。これから赤面する機会を減らす未来のために。
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あの財布は戻ったか

2024-04-30 | つぶやき

 先日つれあいの買い物にスーパーについていった。買い物が済んでカートを返しているときに、つれあいが何かを掴んで店の中に戻っていく。そうして何やら店員さんと話をして帰ってきた。前の人が返したカートの上に、大きな財布(おそらくカード各種も納められるやつだろうということだった)が乗ったままになっていたのだそうだ。店外に出たすぐには違いなかろうが、そのままだと危なそうだし、店員さんに預ける方が良いと判断したようだ。間違いなく気づいていないから買い物を終えて車に戻ったはずで、その後失くしたことをどこで気づくかだ。家に帰りついてからになるか、途中で気づくか、それは分からない。確実に慌てるだろうし、果たして買い物カートに置き忘れたとわかるのだろうか。
 しかしながら財布に何が入っていたか正確には知らないが、確実に自分の取った行動を紐解いて、失くした場所を探し回るはずである。冷静になって考える人なのか、慌てふためいてパニックになる人なのか、それは分からない。いや、失くしたことを知った時点で、少なからぬ動転をするものと思われる。それでも探すことをあきらめるとは考えにくい。買い物をした時に財布は使われたはずで、落とした可能性もあるとは考えるだろうけど、いちおうスーパーに問い合わせる行動にまで、行きつくことにはなるのではないか。それまで事故に遭わずに行動してほしいものであるが……。
 僕自身は財布を無くすような経験はあんまりないとは思うのだが、財布でなくともものを失くすとか、置き忘れるということはあるものである。そのまま返ってこないことがほとんどだが、まったく返ってこなかったという事でもない。日本は落とし物などが見つかる国だともいわれているが、友人などが財布を落としたりするときに、戻ってきたことはほぼ無かったように記憶する。日本人のほとんどは、高価なものならそのまま取ってしまうのだろうと思う。自分に関係ないものなら、届けてくれる場合もあろうが。
 僕はあちこち散歩して歩いて回るので、いろんなものを拾う機会がある。もちろん財布も何度も拾ったことがある。中身が入っていたことは無いから、中身を抜いた後に捨てられたものであろう。だいぶ前に運転免許証が入っているものを拾って、何やら電話番号も書かれてあるものがあって電話したら、呼び出された上に、お前は誰だと住所から何から取り調べのようなことを受けて脅されたことがあって(だいぶ前に失くしたもので、僕がこれを取った可能性を疑ってやったらしい)、それで懲りて届けるのをやめた。というか、道に落ちている財布をみても、拾わないだろう。店やホテルなどで財布を拾ったことも何度かあるが、その場合だけは例外的に店側に届ける。身分は明かさないでいいからである。警察なら行かないと思う。
 さて今回はどうなったか。顛末は分かりようがない。もちろん戻っていると、信じているのだけど。
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ノックはほどんど必要なし

2024-03-11 | つぶやき

 僕は基本的に、筆記具はボールペンである。でもそうでないときももちろんあって、それは試算というか、ちょっとした計算の必要な時に鉛筆を使う時がある。書き込む紙があって、元になっている表には印刷の文字が並んでいる。それに鉛筆であれこれ書き込んで、消しゴムでたまに消して書き直す。まあ、何を言っているかわかりにくいかもしれないが、そういう作業を月にほんの数回だが、やる場合がある。そのままその試算表を計算し直して、記録に残す。そういう作業には、やっぱり鉛筆の方が、都合がいいのかもしれない。というか、消しゴムで消して修正する必要から、そうなってしまうのだろう。
 鉛筆と書いたけど、それはそもそも鉛筆がそこにあったからで、別段シャープペンシルを使ってもいい。僕の持っているボールペンの中にも4色というか、ボールペンとシャープペンの機能のあるものがある。そういうことに備えて、シャープペンの芯の替えも買っておいている。そういう事で、数年前から専用のシャープペンも買っておいて、時折使っていた。鉛筆は時々芯を削らなければならない。ナイフやカッターナイフで削ってもいいのだが、専用の鉛筆削りの小さいヤツも買っておいたのだが、これがどこかに紛失してしまった。それで面倒になってシャープペンシルを使ったのがきっかけだったかもしれない。
 ところが僕が使っていたシャープペンシルの、芯の出が何だか悪くなったのである。仕方が無いので、芯を逆から差し込んで使ったりしていたが、今度は、目が詰まってしまった。これは買い替えだな、と思って、つれあいと買い物のときに、自分ではなんだか選びきれなくて、選んでもらった。今度は調子よく書けるのだが、これもあるときふと気づくと、注意書きがしてあって、芯を出さずに使え、とあるではないか。芯を出さずにシャープペンが書けるなんて変だけど、書かれているままに書いてみると、書けるのである。なんだか変だけれど、鉄の部分が紙にふれると、芯が少しだけ出てくるようなのだ。
 調べてみると、ぺんてるの「オレンズ」というシリーズのシャープペンシルらしい。厳密には一回だけノックすると、芯が出ないまま先のパイプ部分が伸びる。そうして書いていくと、そのパイプ部分が芯の減りと一緒に縮んでいくようだ。オレンズというのは、芯が折れずに使えるという意味なのだろう。確かにこれだと、芯の部分が外に出ていないので、そもそも折れにくいということになる。説明によると、これでさらに細い0.3㎜という芯なども折れずに使えるようになったのだそうだ。僕が買ったのは0.5㎜なので関係のない話なのだが……。
 さらにこれには利点があって、一度ノックをすると、かなりの間再度ノックする必要が無くなるのである。伸びたパイプの部分が芯と一緒に縮むので、その間は再度ノックする必要が無い。これは最初そんなことを気づかないくらい長い間、書き続けることができることを意味する。気づいたときに、やっと、そういう事だったのか、と気づいたくらいだ。
 こんなことで感動しても仕方ないのかもしれないが、実に画期的技術革新と言えるのではないか。まだほかのメーカーでこれがあるとも知らないのだが、特許かもしれないし、独走しているのかもしれない。もっともこの良さに気づくには、やっぱり一度使ってみないことには分からないことかもしれない。宣伝めいてきたが、カチカチやる神経質なシャープペンのイメージが一新すること必至である。
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ノレない自分と反省すべき偏見

2024-01-23 | つぶやき

 正月はなんとなくなのだが、たくさん映画を観て、たくさん読んで、という気分になる。たぶん毎年なる。しかしながらそれを実行しているのかは、結果的にはよく分からない。相性のようなものがあって、いいものに当たらない、という感じが続いた。ちょっと期待が大きかったのか「GUNDA」という豚とか家畜の映像の続くものを観たのだが、途中でどうしても寝てしまう。名作と名高いが、退屈するのは確かで、更に正月で酒を飲んだりしていて、堪えられなくなったのかもしれない。断念してもうすぐ配信が終わるというので「わたしは最悪。」を観たのだが、これも調子が悪い。途中でヒロインが取る行動に、違和感がぬぐえなくて、とても共感ができない。結局途中で寝てしまって、もう一度覚えている場面まで戻ってみたりするのだが、またこのヒロインが意味のない嘘を語ったりする。映画的には意味のあることかもしれないが、なにかげんなりさせられる、そうしてまた睡魔が来て……、観る気もなんとなく失せた。また別の配信で見切る機会があるかもしれないが、いったんは距離を置こう。
 それでは気分を変えてジャッキー・チェンだ、と思って「プロジェクトV」を観るのだが、これもなんだかちょっとノレない。アクションは激しい上に悪く無いとはいえるが、なんというか嘘臭い上乗せが多く、場面のカラーが特撮の多さの所為か、原色に近く不自然だ。ディズニー映画を観ているような妙な健全さがあって、これも見続けるのがつらくなってしまった。香港も、娯楽作はもうだめかもしれない。ネトウヨが喜びそうだが、中国の所為なのだろうか……。何か資本の要求がそうなってしまうのかもしれない。
 村上春樹の特集をやっている雑誌を読んで、村上春樹が傑作だと絶賛している安西水丸の「普通の人」を読んでみるのだが、ぜんぜんノレない。まったく面白くないのである。絵が下手とかいう以前に、悪ノリをしているのがバレバレというか。こういう身内的センスを笑うというのは、ときどきニューヨークの映画なんかではあるのだけど、そういうのを東京でもやってみようということになったのだろうか。都会的というのは同時に田舎臭い訳で、そういうのはやっぱり身内じゃないと面白く無いのじゃないか。同時に褒めていた佐々木マキの本も買おうかと思ったのだけど、値段もあって躊躇していたのだが、断念に変わった。これもまたの機会にしよう。それにしてもデジャヴ的に新聞で佐々木マキが登場して、彼が女でなく男であることを知った。どういう訳が何十年も前から佐々木マキは女だと思い込んでいた。これは反省すべき思い込みかもしれない。そういう風に脳内転換をして佐々木マキの絵をみていると、今はもう男が描いたとしか思えない。感覚というのは、本当に思い込みを排除できないものなのかもしれない。
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地元に来て欲しいチェーン店など

2024-01-05 | つぶやき

 地元には若い人が遊ぶところが無いので、例えば「ラウンドワン」とかライブハウスを誘致して欲しいという要望が、けっこうあった。ライブハウスは箱としての問題かもしれないが、これは一旦置いておく。まあ、そういうものかな、とは思うものの、地元にボウリング場が無い訳でもないし(それだけの施設では無いのだろうけど)、企業の考えもある訳で、という話は少し書いたかもしれない。でも率直に僕が思うのは、そういうのはあっても無くてもどうだっていいのである。それが地元の魅力だとは、とても思えないし考えられないからだ。繰り返すが、それは企業が思うその地域の魅力であろう。
 とはいえである。こういう話になると、そう思っている人が案外いることを改めて知ることになる。そういう話になってみると、せっかくだからIKEAに来て欲しいとか、コストコがいいとか盛り上がったりしている。ああいうのは遠くにあっていいという感じもするが、それだけ郊外の敷地問題もあることだし、そういう適当なところという感覚があるのだろうか。
 少なくとも映画館が欲しいという話はあるが、映画館にはたまにしか行かないが、いい映画に限ってガラガラなんで、なんとも言い難い。もう映画はすべて配信でいいと、極端には思う。たまに行ってもいい映画はあるんだろうけど、そんなの観る前には本当にはわかり得ない訳で……。名画座は欲しいと思うが、何処の地区のものも、それなりに苦戦してると聞くし……。そういう篤志家がいないことには、成り立たない産業は、もちこたえる努力もいるので、ちょっと新たになくてもいいかもしれない。
 でもまあ複合施設は欲しいよね、というのは聞く。ジャスコがあるじゃん、と思うが、もっと大きいヤツのことらしい。たとえば隣町にそういうのができるんだっていう事なんだが、隣なら近くだから車で行けばいいのに。佐賀ならあるんで、これも車で行けばいい。広いところにできるのなら、広いところに行けばいいのだ。
 まあそれでは話にならん、ということになろうが、飲食店のチェーンも来て欲しいってのがあるようだ。吉野家もすき家もあるじゃん、と思うけど、そうじゃないらしい。それだったらなか卯も松屋もということかもしれないが、更にそうではなくて、資さんうどん(これはちょい遠くにできたが)とか、牧のうどんとか。もっとローカルでも地元には無いヤツなんだとか。うーん、ちょっとこれは訳が分からない。ウエストもあることだしな。
 出張の時に日高屋とか杵屋なんかには入ることがあるが、あれは夜にも飲んでる人がいたりして、僕のような中年男性には優しい感じはする。でもまあ、今ある別の店でも、それは別段かまわない。飲食店というのは、やろうと思う人が開業しやすい場所で、開業しやすい支援をすればいいのではないか。その上で続くかどうか、の方が勝負だろうし。
 僕がチェーン店の飲食店で、唯一来て欲しいと思うのが、そういえば、あった。サイゼリヤである。どこに行ってもたいていあるのに、どういう訳か地元には無い。振り返れば二十年以上前に、友達と待ち合わせしてて、一人だけ何故かかなり遅れてくるというので、もう一人の奴と、待つ間サイゼリヤでちょっと飲もうということになった。何もかも安いうえに、どんどんワインを飲んでしまってしこたま酔っぱらって、もう一人の奴が来る頃にはもう僕らはべろんべろんだった。その後どうなったかは忘れたが、それで気に入って埼玉でも横浜でも行ったように思う。まあ数回だけど……。佐賀にはあるようだが、わざわざ出向いていくような店ではなくて、目の前にあれば入って楽しい(美味しいし、安い)ということなのである(でも客層は悪いとも聞く。安いからかな)。地元に似たような店も無いので、これはウケると思うんだけどな。どうでしょう。
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解約って本当に難しい技術だ

2023-12-07 | つぶやき

 アマゾン・プライムで配信の映画を観ているのだが、その中で日本映画NETというのがまたあって、これは月額500円くらいだったと思うが、しかしお試し期間というものがあって、半月だか二週間(だいたい同じだ)だか、無料で視聴できるという。ただし、その後は自動で契約に至るとあって、なるほどそれが狙いだな、ということは分かる。
 それでレンタルだと500円かかる映画があって、そのサービス対象でもあったので、お試し期間で観たわけだ。もう一本観たい有料の日本映画もあったが、そちらはU-NEXTで観てしまっていたので、もういいや、ということになって、忘れないうちに解約しようと試みた。そこでなのだが、これが非常に難しいのである。ふつうに解約ページにたどり着くのが困難なようにできているとしか思えなくて、どうしてもたどり着けない。ネットで別に解約の方法を検索して、その手順通りやるのだが、これもやっとこさ、である。で、たどり着いて解約しようと思うのだが、その解約のページに解約の文言が一言もないのである。よくよく読んでみると、継続しないでいると12月の1日まで視聴する、というところをクリックしなければならなかったことを知る。そこでお知らせがあって、再度解約の手続きをする場合の選択の方が大きく載っている。できるだけ解約できないように誘導しているのである。これに騙されて、いちおうはお知らせがあっても、うっかり解約し忘れて、また同じように継続してしまうよう仕組まれているのである。まったく卑怯な会社は、何処までも卑怯な手口を使い続けるということなのだ。まあ、無料で釣るというのはそういう意味なのだろうが……。
 しかしネット社会というのは、この解約の手順を無料で教えてくれるところが検索で見つかる訳なのだが、それはたいへんに助かる思いがするのも確かだが、やはりこれもこれに苦労する人がたくさんいることを見越して解説文をつくって公開することによって、おそらくそれで検索されることによって広告収入などを得ようとするものがあるようである。なかなかに考えさせられる妙な仕組みではないか。ある意味で結託しているようなもので、アマゾンという卑劣な会社があるからこそ成り立つサービスともいえる。しかしながらその恩恵を受けるしか選択肢が無い世界に住んでいるのが我々であり、それに対応しながら生き延びていくよりないのである。皮肉なことだが、それがアマゾンというジャングルに迷い込んだ住人の試練なのだろう。
 それにしても、このまま視聴できる期間を利用して、なんとかみられる映画でも観ておこうという考えも浮かぶわけで、いくつかクリックして頭のところだけ見てしまった。日本映画の多くは日本語なので日本語字幕がそもそもないものが多く、しかし音声が劣悪なものが多い。映画のイロハさえ分からない監督が作品を作っているものが多すぎて、結局途中で観るのを断念せざるを得なかった。韓国映画ではそんなことは皆無だから、やっぱり日本って相当エンタメの世界では遅れているのだな、という確認はできた。悲しいが、それが現実なのである。
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パスワードを複雑に作る方法

2023-11-09 | つぶやき

 先日ホテルの支払いをカードでやろうと思ったら、暗証番号が違うという。いつも使っているはずなんだけどと思ってちょっと動揺してしまったが、まあ、サインに切り替えて事なきを得た。そのように違った方法での決済はできるものの、やっぱりパスワードって厄介である。
 カードもいつの間にかたくさんたまってしまっていて、ぜんぶパスワードが必要なものばかりではないだろうけれど、必要なものは10枚近くあるのではないか。全部覚えられるはずが無いという気もするが、皆さん覚えておられるのだろうか? 現代人が普通に生きていくためには、ある種の才能や能力が必要とされていることは間違いない。それにカードに限った話では無くて、パソコンの作業にもさまざまなパスワードが絡んでいる。毎日これらに苦しめられていると言っても、過言では無かろう。
 覚えられないのは複数あるだけでなく、複雑化したものを作るように強要されているからでもある。さらに定期的にこれを変えろ、と迫って来る銀行系のセキュリティもある。彼らは本当に無責任である。どれもこれもセキュリティの問題があるからで、安易なパスワードは危険だと脅されている。自分の名前なんてもっての外らしいし、誕生日も危ない。妻など家族の名前もそれなりに危ないというし、そんなものって調べればそんなに簡単にわかるものなのだろうか? 知り合いなら簡単だというのは分かるけど、SNSなどの問題もあるのかもしれない。情報って駄々洩れって感じの世の中になっているからこそ、パスワードが重要なのだろう。
 しかしながら問題は、これを覚えなければならないことである。忘れないために覚えている単語を使い、数字や記号も思い出しやすい、自分と関連のあるものにしたいのである。また1234のようなものは誰もが思いつくものらしく、今はセキュリティに引っかかるものが多いようだ。それだけ安易な考えの人は少なくないようで、実際にこれは使われている数もそれなりに多いのだそうだ。だからセキュリティは容易に突破されている日々があり、被害も甚大になっているということなのだ。
 しかしながら安全なパスワードをつくる、コツのようなものはあるらしい。例えば自分の好きな動物であるとか、好きな食べ物であるとか。犬が好きならdogでもいいしinuでもいいい。それに好きな食べ物を組み合わせて、dog curry なんてことにしてもいい。これに適当に好きな素数とかを組み合わせたら、かなり完璧だろう。まあ、これを複数作ると考えると、やはり頭が痛いのだが……。
 忘れるかもしれないからメモに書いたりするんだけど、これもすぐに失くしてしまう。記憶術の本を引っ張り出して暗記する術を学んだりするけど、これも実際には一定期間過ぎると(使わないと)かなり忘れてしまうようだ。好きなものや嫌いなものなど複数ストックしておいて、それをどうにか組み合わせて忘れない方法を編み出すと、ハウツーものとして役にたつと考える人が、教えを請いに来るかもしれない。まあ、その前に自分で会得する必要があるのだけれど。
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ここには無く、ここにしか無いもの

2023-11-03 | つぶやき

 マイタウンの課題として、特に若い方の不満として多く聞かれることに、「休日などに過ごす遊び場がない」というものがある。買い物する場所がない、というのもあるし、映画館がない、というのもある。具体的に商業施設が少なく、たとえば「ラウンドワン」が無いという。そういうものを誘致すべきではないか、という。
 確かにそうかもな、とは思う。僕も若い頃にはそう思っていたかもしれない。ライブハウスなんかも無いという意見もあったし、そもそも有名どころがライブにやってくる機会などほとんどない。まったく無い訳ではないだろうが、極端に少ない。
 おそらくだが、この程度の人口規模で、多くの人が集まるような興行を組むというのが、まずは困難なのではなかろうか。地元の人が主体となって、一所懸命資金をかき集めて興行を打つという必要がありそうで、そうして大相撲やサーカスが来るというのはあるかもしれない。比較的経費の掛からない可能性のある寄席であるとか、生演奏を伴わない歌謡ショーというのは可能かもしれない。
 僕も若い頃にそのような不満を持っていたようで、長崎市や、遠くは福岡まで、目当てのライブを見に行った記憶はある。その経験は楽しい思い出だったかもしれないが、はしゃいで汗だくになり風邪をひいたりしたと思う。着替えが必要だし、そのような荷物を伴っての準備も必要だ。さらに遠方に行く経費も掛かる。田舎の若者には、そのような負担が大きいともいえる。結局一緒に行くような仲間も減り、自分一人で行くかというと、そういう選択をしなくなってしまったということか。
 また、途中でそのような仕組みにも気づいた、ということもある。そのようなカルチャーというのは、そもそも都会のものなのである。洋楽雑誌などで外国人のライブ情報などを見たりもしていたが、当然ながら東京中心で、ちょっと大規模でないと、大阪や名古屋でさえあまりない。日本においての文化の多くは、実は日本ではなく東京である必要がある。そうして東京に集約したのちに、地方に情報だけ届けられる。あとはメディアの配信やら配給があり、そういうものに乗っかる以外に地方でのエンタメの楽しみはない。そういう事に気づくと、もう特に欲しがる気持ちは無くなった。無いものをねだっても無駄なことである。ラジオを聞いてCDなどを買う。今はそれさえあまりしないが、要するに住むところを変える以外に解決できる問題では無いのである。ここに居ながらという課題とは無縁ということになろう。
 でもまあ歌舞伎の趣味がある訳でもないし、オペラなどを見たいわけでもない。恒常的な小屋ものの演芸も、出張の折などに見る程度でも不満はない。東京には確かに場所ごとに小さな小屋でも、情報次第では人だかりができるようなイベントが組めるが、基礎となる人口規模が違いすぎる。インフラどころか交通手段も違う。これは根本的な課題解決には至りそうにない。
 しかしながらそうであっても、そのような娯楽以外ならどうなのだろうか。いわゆる自然を楽しむエンタメというのは、田舎でなければ上手く行かないものも多いのではないか。サーフィンには向かない場所だが、釣りやキャンプは可能だ。サイクリングもできなくなさそうだし、走るにも問題はない。登山もできるし、ハイキングも可能だ。ボウリング場だって無い訳ではないし、いわゆるコストコは無いのかもしれないが、いつも行かなくてもいい場所ではないか(よく知らんが)。多少しけているかもしれないが、イベントはそれなりあるし、子供連れでもそこそこ楽しめるものはあるだろう。そういうものじゃない、という声も聞こえそうだけれど、そういうものこそ好きな人もいないではないのではないか。それは必ずしも多数派ではないのかもしれないが、得難い楽しみがここには含まれている、ということなのである。主体的に楽しみを考えるとすると、ここにはいったい何があるのか? ということになろう。そうしてそれは、作り出せるものなのではなかろうか。
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必要なのは一時の逃避

2023-10-04 | つぶやき

 先日久しぶりに神戸に出張した。以前来たときは亡くなったあの人もいたな、という事も思い出した。今回は実際には時間に余裕があって、予定の会議には間がある。三宮まで行って、観光がてらぶらぶらすることもできたのだが、外は暑いし、なんとなく断念した。飛行機の便には、コロナ過を経過して、だいぶ減ったままになっていて、こういうことが起こりがちである。
 時間があると、ふつうは散歩する。単にぶらぶらしてあれこれ見て回るだけなのだが、この暑さではそれもあんまりできない。小一時間一応は歩いたのだが、とにかく汗があふれて、来ているシャツがべったりと肌にまとわりついてしまう。冷房の効いている建物に入ると、最初は快適だが、多少の時間の経過とともに、やはり濡れたシャツが不快に感じる。またちょっと外に出て体を休め、しかし暑くならないうちにまた建物に入る。なんだか馬鹿みたいだが、いつもしているので本当に馬鹿なのかもしれない。
 用事もいくつかあって、合い間で電話もした。これがまた込み入った話もあって、多方面にいくつも電話を繰り返す。精神的には疲れるが、どうにもなることでもない。自分でも何か考えながらなのだが、振り回されないようにはしている。しているが、内容が自分自身のものとばかりは限らない。そういう問題は、つまるところ自分にはどうにもならない。そういうことは最初から分かっているのだが、ちょっとわからなくなっていく感覚もある。
 水を飲んで椅子に座って天井を眺めたりする。ひどく立派なホテルである。たくさんの人が、何かぼーっとして座っているように僕には見える。皆さんは今の僕とは関係が無く、しかし同じ空間に座って時間を過ごしている。別段それが何という事でもないのだが、そういう感覚は僕を落ち着かせてくれるような気もする。勘違いかもしれないが……。
 実際に会議の時間になって、いろいろと議題が矢継ぎ早に審議され、そういう事も自分を整えているようにも思った。たいして楽しい時間とは言えないが、僕の住んでいるところと距離のあるところで、淡々と審議はつづく。あたりまえのことでありながら、なんだかシュールな気もするのである。
 終了後、久しぶりに会う先輩方と歓談して、そうしてお酒を飲んだりした。その一部の時間は、今抱えていることを考えない時間でもあったわけだ。
 結果的に翌日は一日缶詰研修で、ほとほと疲れ果てた。帰りの飛行機では、持ってきた本の文字を追えないほど、なんだか疲れ切っていた。しかしながら、この地元との距離感は、肉体を疲れさせたものの、精神的には楽だった。旅行をしたわけではないのだけれど、こうした肉体の移動は、逃避という意味では、人間に優しいのかもしれない。
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時の流れにやり過ごす積極性

2023-10-02 | つぶやき
 だいたいにおいて人間関係というものは難しいのだが、それは自分のことでもそうだが、自分以外の人の話になるとさらに混迷を極める。人間関係には相性のようなものがあるのかもしれない。馬が合うとか合わないというのもあろうが、何か心の引っ掛かりがいつまでも取れないような関係性というのがあるかもしれない。自分のことならば、のれんのような感覚でやり過ごしているわけだが、そういう方法論では、そもそもうまくいかない場合もあろう。ケンカしたことがきっかけでかえって仲良くなったという話もあるのだが、そういう風になったから美談として残っているという事であって、そううまくことが運ばないことも多々あるという事だろう。
 さて、こじれてしまうとそのこじれようによって周りもそれなりに影響がある。特に共通の関連のある人物という事になると、翻弄されてしまうのである。何とかならないかと取り持つ動きも出てくるが、当事者と相互に会って話を聞いたところで、その間にあるうちの問題というのは、やはりどこか宙に浮いたままになっているものがある。それはどうにかなるように客観的に見えたとしても、浮いているものはつかみようがないものだってあるのである。いや、つかんでもいいのだが、相手にはつまるところ届かなくなっているというか、そういうものは当事者間でなければ、やはり実のところ本当には届きようがない。困ったことである。
 今はまた取り巻く環境というか、考え方の相違がある立場の人が現れてきたようだ。最初は何のことなのかわからず、解釈を勘違いしていたけれど、どうも話がぜんぜん違う。そんなにこじれている問題には見えていなかっただけで、そちらの視点が加わると、大きく誤解を含めて動かそうとしている根本がずれている。それは実のところ良いものではないのだが、いや、それに乗るのも案かもしれない。一応の対応の流れは、絵にかくことはできる。それにそういう絵を描いてくれる人も現れている。必ずしもそれでいいようには思えないところもないではないが、一応の解ではある。先送りの部分は気になるのだけれど、まあ、そこはいづれにしても今すぐにはどうにもできない先の話ではある。それに今度はそれを受けて、僕が動けばいいという事でもあるらしい。オートマティックである。
 実のところ僕は疲れている。疲れすぎていると言えるかもしれない。一緒に動いてくれた人々含めて、それには感謝をしているが、かなりの徒労感があるのも事実だ。やることはそれなりやっていたのである。それももう、ずっとずっとやってきたのである。思い起こせば、ずいぶんたくさんの時間がこのことに費やされてきた。タイミングが悪くてこちらも時間が無い中に、何とか捻出した時間をつぎ込んだ。それは他ならぬ、何とかしたいという思いがあったからである。最適解なのかは正直言ってよく分からないところはあったけれど、一つの答えのありようとしては、提示してきたことは確かなのである。もっともそれでも不十分という事には、なるのかもしれないが……。
 いまここ、って感じでもあるんだが、そういうゲームボードの前に立って、時を刻んでいるという事なのかもしれない。いっときの休息はあっても、それが本当にそうであったのかさえ疑問だ。やるべきことの本質とは外れることばかりであって、消耗しているという感覚が重なっていく。そういうことと言うのは、自分自身というよりも、次の世代の人にとっても良くないことであるだろう。だから僕にとっては、経過するスピード感というか、そういう流れに身を任す以外にないのである。つまりそういう事として、外部化してやり過ごしている。処方としての生き方が試されているのかもしれない。
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楽になるために苦しめられる

2023-09-24 | つぶやき

 肉体的に疲れると、休んだり、たくさん寝たりするとたいていよくなる。しかしながら人間関係で疲れたりすると、どんなふうに休んだらいいのか分からないし、そもそもあんまり眠れなくなったりもする。僕が何かをしたということはあんまりなくて、いわゆる巻き込まれるというか、そういうものに付き合わされるということの方が多い。だからブログなどには詳細に描くようなことはしないが、書いた方がいいのではないか、と自分の精神状態を鑑みて考えることがある。中身を文章にして表すと、いわゆる物の形のようなものがはっきりして、いい場合もあるのではないかと、思ったりするのである。
 相手のことに囚われてトラブルが起こるのは、最初は多くの場合、相手のことに困らせられる、というのが代表的にある。本人は困っているのだが、困らせている相手の方は、何か意図的に困らせているとか、そういう事では無かったりする。少なくとも、特に大きな問題として意識しているということではなさそうだったりはする。困らせていないというか、それくらいは許容範囲のものだろうとか、勝手に思っている。問題になろうはずがないと、たかをくくっているのかもしれない。ところが困らされている方は、大問題だったりする。小さなことで片付かないことだから、困っている。やめて欲しいとか、どうにかして欲しいとか、もうどこかに行ってくれ、と思ったりしている。そうして表面化するのは、そうした思いが僕らにも分かるように爆発した後なのである。事が大きくなって周りに延焼して、より収拾が困難になる。そういう時は、困らせた方も困るような状態に陥る。そうしてそちらも延焼する。目的がそうだったのかどうかは分からないが、そうなると、少なからぬ人が、さらに困ることになる。困らない人でも、落ち着かなくなる。不安になって、嫌になったりもする。うんざりもさせられる。話をよく聞いても、よく理解できない。どうしてそこまでのことになっているのか、それは普通はそうはならないのではないか。どうして話し合いで解決できないのか。人間の関係することは、要するに話し合えばいいのではないか。そういわれてそうだと思うこともあるが、こじれているのは話し合うとほどけるとは限らなかったりする。すでに延焼しているので、何処に落とすかというのは、その場所が明確でない。とてもじゃないけれど当事者が考えているところに、落とすとか落ちるとかいうようなことの方が、現実的でなくなっていたりする。それはとてもできないが、現実的な対処が何処までなのかは、やはり話し合っても落ち着かないところにある。最悪は、すべてなにもかも吹き飛ぶことになり、その修正のための労力は、さらに何年という禍根を残した後に、不条理を含めて進められていくだろう。何故なら本来の道筋以外のところから駆り出された人に、お願いしなければならなくなるからだ。僕の立場も過去にそのようなことがあったからそうなっているということもあるので、つまるところ第二第三の僕の生産である。
 だんだんわかってきたが、結局そういう事になって困らされた人々が、さらに荷重を課されて、疲弊したのちに道が続いていくのである。騒いでいる人もつらい事であったのかもしれないが、なんだかそうしたことができるということに、憧れではないけれど、いいもんだなあ、と心のどこかで思っている自分がいる。僕にはとてもできることではないけれど、そういう生き方ができたら、少しは楽になれたかもしれない。
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