結論から言うと、血液型性格診断は完全に科学的には否定されていることは、おそらく誰もが知っていながら、それでも支持されている遊びである。もっとも信じている人はいるだろうが、それは単に頭が悪いというよりも、実感が伴っている上に、話題として楽しいということを優先しているということかもしれない。
これは外国人にはあんまり分かりにくいものであるらしいのだが(そんなことを信じている人が少ないということと、そういう話題がそもそもあんまりないのだろう)、日本人が好きだということが、まずあるように思う。レッテルというか、階級というか、やはり根本には、共感ということと関係がありそうな分野だ。日本人にはA型が多数で、そういう人に、たとえば几帳面さという傾向に共感がある。O型にもAB型にもB型にも几帳面な人が必ずいるが、しかしそれはA型の傾向のある所型に過ぎないとされる。なんでもありの理屈だが、とにかくそういうことが簡単に許される類型の分類に、実感の伴う事例を見る人が多いということなのだろう。それはそういうことも無いではないから、まったく分からないではないのであるが、やはりこれがかなり分からない人間である。性格という複雑なものと血液型との関係が、なぜ有意に作用するようなことになるのかがまず不思議であるというのと、血液型にそういう性格面での類似があるとして、だからそれでそういう例があったりなかったりすることをそれぞれ確認してなんになるのか、というのが分からない為だろう。
しかしながら素直にそう思うことをうっかり口にすると、それはあなたの血液型の典型的な特徴だといわれるのがオチなのだ。逃げようが無い上にかなり不快だ。これほどの言葉の暴力は少ないと思うが、しかしそういう人にはそういう気持ちに対して無頓着なのだ。
そういう不快さの原因は、他ならぬ僕がB型という分類に属しているということはあるかもしれない。どういうわけだかB型というのはあんまりほめられた血液型ではないらしい感じがすることをよく言われるので、この類型をする背景に、B型を阻害する意図がもともと含まれている可能性はあると思う。理由は知らないが、類型の中での多数派でないからということは考えられよう。一番少ないのはAB型といわれているが、そこを狙わないのがミソで、絶対的少数になれば母体の中に含まれていないケースもあろう。比較的母体が少なくてもある程度含まれている程度の少数派である必要があるわけで、そういう兼ね合いにちょうどいい程度の割合にB型の存在があるらしいことが理由だろう。
もっともターゲットがB型のみにあるのではなくて、多くの血液型には自虐的な意味合いがそれなりに強い。自分の失敗や過ちを、血液型の類型に当てはめて、運命論的に片付けるということもよくある話だ。その場合は精神衛生的にはそれなりに効果がありそうだが、単なる責任逃れであることはいがめない。反省をしたくない気持ちは同情できるものの、少なくとも何の解決にもならないだろう。
とはいえ、僕がB型でよかったかもしれないな、と思うことも無いではない。B型の典型とも意外だとも両方ともに言われるわけだが、そういうことにあんまり関心が無くても許してもらえることが多いからである。まあ、B型なんだから仕方ないね、というあきらめの気持ちを誘うらしい。それで阻害されることもあるけれど、なんとなくつまらない表情を続けていると、この話題が比較的早めに収束する。嵐が去って良かったな、ということである。
ただ僕は、血液型に関心のある人の考え方ということには、興味が無いわけではない。これに魅力を感じてしまう人間的な癖であるとか、文化的な背景であるとか、今の時代性を超えてそれなりに生き残っているということそのものには、それなりの意味を見出せそうにも思える。そういう人間の陥りやすい罠のようなものと、この血液型性格診断という題材は密接に絡んでいるようにも思える。振り込め詐欺のような馬鹿らしい犯罪が無くならなくて不思議に思う人も多いだろうけれど、この血液型だって簡単に無くならない。そういうことを関連付けて考えていくと、ひょっとすると解決の道筋も見えてくるのではないか。まあ、ボチボチと行くしかないようではあるが…。