カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

類型を探す意味を探す

2014-05-31 | 境界線

 結論から言うと、血液型性格診断は完全に科学的には否定されていることは、おそらく誰もが知っていながら、それでも支持されている遊びである。もっとも信じている人はいるだろうが、それは単に頭が悪いというよりも、実感が伴っている上に、話題として楽しいということを優先しているということかもしれない。
 これは外国人にはあんまり分かりにくいものであるらしいのだが(そんなことを信じている人が少ないということと、そういう話題がそもそもあんまりないのだろう)、日本人が好きだということが、まずあるように思う。レッテルというか、階級というか、やはり根本には、共感ということと関係がありそうな分野だ。日本人にはA型が多数で、そういう人に、たとえば几帳面さという傾向に共感がある。O型にもAB型にもB型にも几帳面な人が必ずいるが、しかしそれはA型の傾向のある所型に過ぎないとされる。なんでもありの理屈だが、とにかくそういうことが簡単に許される類型の分類に、実感の伴う事例を見る人が多いということなのだろう。それはそういうことも無いではないから、まったく分からないではないのであるが、やはりこれがかなり分からない人間である。性格という複雑なものと血液型との関係が、なぜ有意に作用するようなことになるのかがまず不思議であるというのと、血液型にそういう性格面での類似があるとして、だからそれでそういう例があったりなかったりすることをそれぞれ確認してなんになるのか、というのが分からない為だろう。
 しかしながら素直にそう思うことをうっかり口にすると、それはあなたの血液型の典型的な特徴だといわれるのがオチなのだ。逃げようが無い上にかなり不快だ。これほどの言葉の暴力は少ないと思うが、しかしそういう人にはそういう気持ちに対して無頓着なのだ。
 そういう不快さの原因は、他ならぬ僕がB型という分類に属しているということはあるかもしれない。どういうわけだかB型というのはあんまりほめられた血液型ではないらしい感じがすることをよく言われるので、この類型をする背景に、B型を阻害する意図がもともと含まれている可能性はあると思う。理由は知らないが、類型の中での多数派でないからということは考えられよう。一番少ないのはAB型といわれているが、そこを狙わないのがミソで、絶対的少数になれば母体の中に含まれていないケースもあろう。比較的母体が少なくてもある程度含まれている程度の少数派である必要があるわけで、そういう兼ね合いにちょうどいい程度の割合にB型の存在があるらしいことが理由だろう。
 もっともターゲットがB型のみにあるのではなくて、多くの血液型には自虐的な意味合いがそれなりに強い。自分の失敗や過ちを、血液型の類型に当てはめて、運命論的に片付けるということもよくある話だ。その場合は精神衛生的にはそれなりに効果がありそうだが、単なる責任逃れであることはいがめない。反省をしたくない気持ちは同情できるものの、少なくとも何の解決にもならないだろう。
 とはいえ、僕がB型でよかったかもしれないな、と思うことも無いではない。B型の典型とも意外だとも両方ともに言われるわけだが、そういうことにあんまり関心が無くても許してもらえることが多いからである。まあ、B型なんだから仕方ないね、というあきらめの気持ちを誘うらしい。それで阻害されることもあるけれど、なんとなくつまらない表情を続けていると、この話題が比較的早めに収束する。嵐が去って良かったな、ということである。
 ただ僕は、血液型に関心のある人の考え方ということには、興味が無いわけではない。これに魅力を感じてしまう人間的な癖であるとか、文化的な背景であるとか、今の時代性を超えてそれなりに生き残っているということそのものには、それなりの意味を見出せそうにも思える。そういう人間の陥りやすい罠のようなものと、この血液型性格診断という題材は密接に絡んでいるようにも思える。振り込め詐欺のような馬鹿らしい犯罪が無くならなくて不思議に思う人も多いだろうけれど、この血液型だって簡単に無くならない。そういうことを関連付けて考えていくと、ひょっとすると解決の道筋も見えてくるのではないか。まあ、ボチボチと行くしかないようではあるが…。
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理想の父親は勝ち組

2014-05-30 | net & 社会

 アニメのキャラクターでの理想の父親ランキングというのがある。いろいろあるらしいが確認したら、3位に野原ひろし、という人が入っている。あの磯野波平(5位)を抑えての見事な存在感である。
 まあ実際に僕でも知っているが、クレヨンしんちゃんのお父さんである。確かに知名度がある人からの選択というのがあるし、しかしトップ10には僕は知らない人が5人もいるので複雑な心境だが、つまるところ若い世代の人間がそういう父親だったらいいなランキングの結果らしい。
 これがネット上でそれなりに話題になっているのは訳があって、多少厭世主義的な空気を代弁してのことであるらしい。
 クレヨンしんちゃんは既にアニメ化20年になるらしい。当時の設定としてひろしの背景を考えると、秋田出身で上京後おそらく大学中退して霞ヶ関の中堅企業に勤めて15年、係長で年収は600万~650万、春日部に一戸建て住宅をもっている。妻は専業主婦だし、息子のしんちゃんの下にもひまわりがいる。という具合である。これはおそらく二十年前の感覚だと、割合普通の若いお父さん像ということだったはずである。むしろあまりうだつがあがらず妻から虐待を受けるような駄目オヤジ・キャラという感じだったはずなのである。
 ところがこれが同じ設定のまま20年経過した現在の若者から見ると、完全勝ち組、理想の父親として崇められる存在になってしまったということだ。
 確かにそれは皮肉なことであるようには感じられるが、20年前は皆そのように豊かであって、現在はそんなに貧困化しているのか、ということはさらに考える必要はあろう。このモデルが平均以上だという感覚はなんとなく分かるのだが、やはりネタとして面白いというのに過ぎないだろう。20年前の物価から考えると今はデフレ化したおかげでかなり金銭的には少ないお金で豊かにはなっている。問題はやはりそれでもモデルとしての満足度ということになるのだろう。春日部に一軒家を持っていて都心に電車通勤出来る人が勝ち組だという認識の貧困さの方が、なんとなく問題という感じかもしれない。大多数はそれすら不可能じゃないかという閉塞感は、ほんとうに若者の共有する認識なんだろうか。
 確かにしかし、平均的日本人像というか、平均的な家庭像というものは現在描きにくくなっているということは感じられる。僕もいつの間にか気にもしなくなっている。皆が同じような一億中流という幻想も抱きにくくなっているのかもしれない(だって幻想だし)。平和が長く続くことはいいことだけれど、持つもの持たざるものとの差は、平時であれば当然開くというのが歴史的な事実である。若者というのは人生のスタート地点なので、むしろ同世代的には平均化の中にあるが、年齢を重ねると、当然ながらこの差が大変に開いていくことになっていく。格差問題というのは、老人になってからのその世代の所得格差が、もっとも大きく開くもので当然なのである。
 さてしかし、まだ若い野原ひろしの時点で彼らの世代のライフスタイルが既にかなり違っているというのは事実かもしれない。あくまで自虐であるとは思うのだけれど、理想の低さに(というかひろしはあんがいいいお父さんだとは思うが)社会を憂うより、やはり物語が長く続くと世の中は勝手に変わってしまうのだという、面白さをあらわした断片ということになるのだろう。
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何で愛されるのか分からない   華麗なるギャツビー

2014-05-29 | 映画

華麗なるギャツビー/パズ・ラーマン監督

 ロバート・レッドフォードのギャツビーも当然観たことがある。日本では村上春樹が熱烈にこの小説を好んでいるらしいことから、さらによく読まれるようになった米国の古典だと思う。その影響で僕も読んだ。そうしてまた、映画化されて、結局観てしまう。それで結局、不思議な気分に毎回なるのである。
 それというのも、毎回特に感心しないからである。だいたいフィッツジェラルドの文章というのは、英語では美しいのだろうけど、日本語に翻訳すると、その味わいを失うようなものじゃないかと思う。妙に技巧的だが、しかしそれが味わいとして成功しているように思えない。だが、おそらくそういうことではなくて、美しいのだろう。
 さらにお話においても、金持ちの道楽というか、素晴らしい恋愛劇という感じでもない。悲劇には違いないが、はっきりってよくありそうな昼ドラマの類とそう違ったものではなかろう。今回も豪華な映像のわりに、結局そんな話だったよな、とがっかりさせられるだけなのだ。
 それでもアメリカ人はみんな好きだというのはやはり不思議だ。アメリカの一番いい時代の悲しい物語だから、みんな好きなんだという話は聞いたことがあるけれど、まったくそんなもんかね、という感じもする。
 そういうことではあるが、個人的には僕には普通にこの主人公の気持ちはよくわかりはする。僕は金持ちではないのだけれど、さらにこんな回りくどい変な行動は取らないだろうけど、気持ちとしては分かるということだ。もっとストレートにやるだろうが、僕だって同じように諦めが悪い。ことはそれだけのことで、しかし、やっぱり相手が悪すぎて、同じようには思い入れが続くものなんだろうか、と不安になる。このキュートな女優さんは好みだけれど、しかしこの華奢で不安定な精神力にはとてもついていけない。はっきり言うと、とても残念なのだ。
 それにしても、それにしても…。僕のアメリカに対する幻想なんだろうけど、アメリカ人がこのように薄情で移り気でずるい人ばかりというのがそもそも違うんじゃないか、という思いがあるのかもしれない。誠実なギャツビーだって、裏では悪いことをしているというのが暗に示されているわけで、本当に善人らしい人は少ない。そういう視点というものがさらに、失点として刻まれている感じもする。ほんとにいいところなんてほとんど無いのに、英語の分かる人とアメリカ人を魅了してしまう不思議映画として、なんかの間違いでやはり残ることになるんだろうか。
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間抜け、はどっち?

2014-05-28 | culture

 コロンボの「闘牛士の栄光」の回で、こんな会話があった。休暇中にも関わらず殺人事件の捜査を手伝う羽目に陥って、嫌々ながらも捜査に没頭するコロンボが、「こういうのはなんと言うのか、わたしらの国(米国)では仕事の虫というんですよ(大意)」というと、メキシコ人の屋敷の使用人から、そういうのは(メキシコでは)「間抜け、というんですよ」とたしなめられるのである。
 実際にワーカホリックの気のあるコロンボもギャフンといった場面である。しかしながら日本人にとっては、もっとこれは堪える気分になる人が多いのではなかろうか。当時としてはまだ成長期だったからもっとガクンと来ただろうけど、今の日本人でもそれなりに参ったぜ、と感じる人が多いのではないか。
 しかしながら事実というのは厄介で、実際の労働時間の比較をすると、日本人は米国人より働いている時間は短いのが現実だ。あちらには年齢で定年になることはないが、その代わりいつ辞めさせられるかも分からない。だから稼げるうちは稼ぐし、働けるうちはガンガン働く、というようなスタイルの人も多いわけだ。ちょっと特殊に過ぎるが、ホワイトハウスの職員なんかは何年も無休(その代わり数年で辞めるらしい。というか、入れ替わる)で働くのも珍しくない。マイクロソフトなどのIT関連会社では、そのまま会社に寝泊りするような輩も珍しくないらしい。会社にベッドはもちろん、洗濯機などが置いてあるようなところも多いと聞く。給与はそれなりだろうけど、とにかく必死に働かないとクビになりかねない。景気が日本よりいいというのもあるけど、日本はなかなか米国の労働時間を追い抜けないのが実状である。
 さらに実を言うと、メキシコの平均労働時間こそ最悪の部類であるのは有名である。少し古いが、2012年のデータでは、日本の年平均労働時間は1765時間であるのに対し、メキシコのそれは2317時間である。調査がおかしいという疑問を持つ人も多いだろうけど、労働時間が極端に少ないヨーロッパに対して、南米諸国の長時間労働は際立って長いのは現実の話なのだ。
 細かく見ると低所得層がいくつも労働を掛け持ちして、ひとつの仕事では少ない時間だが、合計すると長くなるのではないか、などの話もあるのだが、実際のところ日本人の不満よりも日本人は働いていないのは有名な話で、働いていないのに拘束されたりするようなことがあって不満があるかもしれないというような話もあって複雑だ。一般的にはいいことだといわれている失業率も極端に低い社会でありながら、窓際族などを抱える労働効率の悪さも指摘されている。生産性が低いので、一部の人間の高い生産性で何とか社会を維持している可能性すらあるということである。
 まあ、話は飛びすぎたが、現実には「間抜け」なのはコロンボではなく、メキシコ人の使用人である確率のほうが高かった訳である。そうすると重層的な嘆きの声だったという考えもあるが、単なる勘違いで成り立つジョークであったということになるのであろう。
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犯人にも心のケアは必要だ   刑事コロンボ・闘牛士の栄光

2014-05-27 | コロンボ

刑事コロンボ・闘牛士の栄光/テッド・ポスト監督

 闘牛になじみがなければちょっと分かりにくいお話だという前提はある。しかし、当のコロンボ自身も、闘牛そのものには一応まったくの無知という設定にはなっている。最初はちょっと批判的な心情さえ吐露している。まあそれはスペインを除く西洋や日本のような遠い文化の国においては、おそらくある程度は共通のものではなかろうか。メキシコはスペイン文化が色濃く残っている国で、お国言葉でさえスペイン語だ。そうして(今は少し事情が違うようだが)大変に闘牛が盛んな国であるようだ。
 闘牛のことを知らない癖に解説すると、闘牛は勇気と芸術性とが加味した、スポーツとも儀式とも取れる文化だ。勇気のある人間というのは、人間性の高い最も尊敬すべき人物像として崇められている。これは今はあまり意識しなくなっていることではあろうが、理解できないではない考え方ではなかろうか。無鉄砲に何も恐れない人間は、ただの無謀な人間だったり馬鹿だったするのだろうけど、しっかりとした技術を磨き、さらにその裏づけから自信に満ちた勇気の持ち主の証明が、闘牛士の置かれているもっとも素晴らしい立ち居地だということが、まずは最大の前提なのである。相手がライオンやトラやクマなのでなく牛だというのがミソだと僕は思うが(調達が難しいということもあるだろうけど)、恐ろしく力強い、さらに大きくて恐ろしい自然の驚異の象徴であることは間違いあるまい。そのような恐ろしい牛に向かって、恐れなどはおくびにも出さず、如何に華麗に戦い仕留めるかという芸術が闘牛の最大の見せ所なのだろう。牛の本能的に持っている死を恐れずに最後まで戦う闘争心に敬意を払いながら、さらにその死を昇華させる技能と儀式が、闘牛を愛する民衆を興奮させるのであろう。
 とまあ、そういうことを基にして殺人が行われたわけだ。実はそれがすべてなのだが、そうであるからこそ、僕は犯人が精神的に病的な状態に追い込まれている危険を感じた。結末で納得することなどは現実に無いだろうし、国民的な尊厳を集めていた希代の闘牛士だった人間が、このような殺人を犯すまで追い込まれ、さらに事件解決のためとはいえ、最後はコロンボの罠にもはまってしまう。それも本当に最悪な形において…。
 さらに追求して考えるに、犯人のこの心の病気は、最後の事故の影響が大きかっただろうことがうかがえるし、さらにそうでありながらこのような職業から離れられなかったということ、秘密をいつまでも保持し続けなければならなかったなどの不幸が重なり続けていたせいではなかろうか。治療の必要な領域であろうとも思うし、さらに自殺のリスクが非常に高いようにも思われる。事件は解決したようだけれど、引き続きのケアの必要な案件だったのではないだろうか。
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給食残され組の怨念はどこへ

2014-05-26 | 

 それなりに好き嫌いの多い人間でありながら、偏食家ではない。要するに嫌いなものでもとりあえずは食べてしまえる。イナゴをはじめとして、カナブンとかゴキブリでも、または蟻や蜂というものまで、調理したものなら食べたことくらいはある。ゲテモノ好きではなく、無理をすれば何とかはなるという程度だが(時にはそれなりに旨い)。だいたい普通の人でも、あんなに可愛い豚や牛を平気で食っているんだから、僕が特に変わっているわけではなかろう。
 さらに卵をはじめアレルギー体質であるらしい。豚肉鶏肉をはじめ、ほとんどの食材にアレルギー反応がみられると、検査上では言われている。牛乳も好きだが、体が受け付けない。衰弱を楽しむためにあえて飲むことは時々あるけど…(外出予定がない場合に限る)。
 ではあるから、だいぶ過去のことで忘れかけているが、給食で何か食べられず、残されたという経験は無い。第一現代では給食残され問題というのは既に無い話だろうが、僕らの時代には普通に見られた光景だ(僕は70年代ということになるかな)。今となってみると、明確な先生による児童いじめだったわけだが、しかし残さず食べさせる、というのは、明確に教育方針があったに違いないと思う。どの年代になっても、必ず担任の先生はこれを強要していたという記憶があるからだ。
 残さず食べる、というのは、その頃の親社会の、望ましいルールだったのではなかろうか。食べ物に苦労した記憶のある年代の人々が親だったわけで、この価値観はゆるぎなかったのではあるまいか。既に豊かになりつつあった社会の中で、子供の偏食に悩まされることは、本当につらいことだったのではないか。せめて給食という微妙な教育的配慮の中で、子供の偏食を減らせることが出来るよう、願望を抱いていた可能性がある。それは偏食家の子供には不幸なことだったが、ある程度致し方ない背景だったかもしれない。
 また、偏食というのは一種の反抗でもある。食べ物を食べられないという表現は、考えようによっては文化否定でもある。小さいながらそういう反抗の芽をつぶしておきたい。子供の忘れ物が勉強意欲の減退を表すように、給食の偏食をなくすことは、いわゆる軍隊的な名残のある学校教育において、必須の考えに含まれていたのだろう。
 人参やピーマンが嫌いだというのは、ある程度の子供に共通することのようだ。むしろこれが平気ということのほうが少数派かもしれない。家だと怒られながらも何とか逃げ切ることが出来ても、学校という集団の中で圧力に抗しきれず、思わず飲み込むように食べてしまった人も多いのではないか。嫌いでも出来るじゃないか、という達成や克服をみた人もあるのは当然だろう。
 しかしながらこれが絶対に駄目だった人というのは当然いた。給食を泣きながら食べている風景は、割と日常的だった。友人にも、この絶対駄目頑固人間(と当時は思ってた)がいて、昼休みが終了しても絶対に口をつける意思がなかった。先生に殴る蹴るの暴行を受けても、頑なに食えない姿は立派だった。が、いつも泣いていたわけだが…。
 給食は特に旨かったということは無かったのだが、既に食べ盛り意識のある人間にとっては、それなりに楽しい思い出である。これが不幸だった人の話ばかり聞かされることが何故か多いのだが、それでも現在でも給食は続いている。今やこれが家庭教育問題のような捉え方に変化しているのが気になるところなのだが、給食残され組の怨念は、何故給食廃止への機運へつながらないのだろうか。そういうところが、僕には大変に疑問なのである。(たぶん、これも続く)
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スタイリッシュな方のコロンボ   刑事コロンボ 仮面の男

2014-05-25 | コロンボ

刑事コロンボ 仮面の男/パトリック・マクグーハン監督

 策士策におぼれるというお話。多かれ少なかれコロンボにトリックを破られる運命の犯人にとっては、そういうことはいつものことではあるけれど…。それにしても重層的にトリックを準備しており、しかしそのトリックそのものより、細部にわたる観察眼でトリック周辺の根拠を覆すというあたりが、さすがにコロンボなのである。犯行の説明は映像で見せて、謎を解いた意味はすべて気の利いた会話で行うということもあって、後半のスピード感に釈然としなかった覚えがある。今回は見返してみて、それなりに説明になっていることが分かったが、僕の子供時代には少しハードルが高かった作品かもしれない。
 ハードルが高いというか、この最後のオチのわけのわからなさは、ネットの解説を見るまでやはり意味は理解し得なかった。分からないのも無理もなく、翻訳では意味不明である。本当は、「中国がまた気が変わってゲーム参加するらしいですよ」というコロンボの引っ掛けに、「それはオリンピックじゃなくて、マージャンというゲームの方にだろ」というやり返す会話に、面白さがある訳だ。麻雀を使うのは、劇中にも複線がひいてあり効果的である。おそらく翻訳者もその面白さは分かっていただろうが、会話にそのような説明を入れるのは野暮だし、ちゃんとした日本語でオチを面白くするのを断念したと考えられる。懲りすぎた会話というのは、吹き替えの翻訳泣かせに違いない。
 ところでいろいろ仕掛けも面白いのだけど、マクグーハン監督もの(いくつかある)には、妙にハードボイルド的なスタイリッシュさを出したがるようにも感じる。コロンボの犯人を追い詰めるいやらしさというよりも、お互いの駆け引きがかっこいいということに主眼が置かれているように思える。コロンボがしつこく犯人を追い詰めるという流れそのものが、社会的地位がありながら殺人という罪を犯した人間を既に精神的に罰していると思われるわけだが、そういう部分をあえてそぎ落として、いわばゲームとしての犯罪の暴き方に主眼が置かれているわけだ。
 そういう考え方が悪いとは言わないが、だからそういう展開になると少しばかり見ている方が戸惑うということはあると思う。それなりの優れたトリックであるばかりか、本当に確信的な犯行を認めるすべての要素ではなさそうだ。確かに主要なトリックが崩されたことは間違いなさそうだが、それで犯人は犯行を認めてしまって良いのだろうか。
 答えとしてはそれでよい。犯人はトリック合戦に、いわば知性戦として敗れたのだから。そういうもうひとつのコロンボの面白さを強調した作品が、これだ、ということであり、マクグーハン作品は、そういう部分を際立たせたかったということなのだろう。
 コロンボは、重層的にさまざまな世代から愛される作品群になっているわけだが、このような多様性のある作品群があるからこそ、ということでもあるようだ。作品によっては好き嫌いもあるだろうが、また次も観たいと思わせるのは、単純なワンパターンでない所為ともいえるのかもしれない。
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なんだか不思議だが現実的だ   真幸くあらば

2014-05-24 | 映画

真幸くあらば/御徒町凪監督

 最初はなんかちょっとふざけた感じの自主制作ものかな、とも思ったが、至ってまじめな話だった。あえて素人くさい演出で、現実と夢のような境界を上手く表現している。後で知ったが、いわゆるヌードが話題になったらしいが、まあ、そういうところも上手く撮れていると思う。演じる人たちは大変だったろうとは思ったが、偉いというべきところだろう。お話としても、悲しいながら、これは確かに愛だなあ、ということかもしれない。
 婚約相手が浮気をしていて、ちょうどそのときに空き巣のつもりで家宅侵入していて衝動的に二人を殺してしまった死刑囚に、その元婚約者が面会に行くという物語である。設定が面白いというのがあるが、お話は特段変わったことは無い。衝動的に殺人を犯してしまった犯人が、いわゆるとてもいい奴で、偶然にそうなってしまったということはそうなんだろうけど、死刑廃止論者らしい弁護士の勧めを無視して控訴を断念し(つまり大変に反省して罪を受け入れているわけだ)、淡々と死を待っているということである。たぶん偏見だろうが、こういう人は人は殺せないんじゃなかろうかとも思うのだが、それではこのお話が成り立たない。心を通わせる手段もいいし、だんだんと気持ちが重なり合うまでの気分もなかなかである。
 とまあ、映画は素晴らしいのだけど、現実問題として、僕はこのようなプラトニック関係はあんまり信用してない。結局性的な関係を結んでいることと同義だからこの映画のお話は成立していると思うが、そうでなければ、やはりちょっと違うかもな、と思うわけだ。セックスがすべてではないとも同時に思うが、ある程度の納得のためには、そのようなことは具体的にしておくべきだということかもしれない。出来なければ出来ない段階なだけのことであって、やはり少し違うものが残るだろう。むやみに関係を持つのもどうかとは思うけれど、なんとなくいい感じだったな、という寅さんや無法松の一生というようなものは、どうしても僕には理解不能という気がする。いくら深く愛しても、それはやはり麻疹のようなものではないかと、言ってしまえば言いすぎだけど、そう思ってしまうのである。つまるところ人間は傷ついても、本当に勇気を出して超えなければならないものがある。というような変な考えがあるのかもしれない。本当に恥ずかしきは、その後に感じることのほうが大きいのではないか。
 不思議な話だが、恋愛としてはこれでいいのである。後は早く忘れてしあわせになってもらいたいものである。死んでしまったものは、もう元には戻らないのだから。
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超簡単速読法(&自己啓発法)

2014-05-23 | 読書

 前にもちょっとだけ書いたことがあるけど、速読に興味のある人がいるようなので、簡単にやり方を説明します。

 速読法(術)といわれるものにもいろいろあるが、怪しいものも多いのが実際だ。僕も騙されていろいろ試した。しかしながら実用的には、速読めいたものはある程度はやれるようになる実感はある。後は自分に合うと思ったものを実際に試してみて、しばらくできるかどうかを実感できるか、ということだろう。
 日本語というのは漢字を使っているという特徴がある。とにかく漢字だけを読んでいってだいたいを掴む方法がある。これはほんとに簡単で、確かにそれなりに意味を掴める。確か司馬遼太郎とか立花隆なんかも、これに似た方法で読んでいるようだ。多くの読書家といわれる人々には、この方法の自分なりの工夫を加えたやり方である可能性が高い。
 二行ずつ読んでいく方法もある。最初はうまくいかないが、それなりに慣れる。つまり誰でも出来るようになると思う。
 斜めに目を走らせたり、全体をぱっと見てイメージを掴むような方法もある。これも実際には漢字を拾ったりしているんだろうと思うが、なんとなく分かるようになる人がいるらしい。本にもよると思うが、うまくいくような時と、そうでない時がある。正直言って、ちょっと怪しいと思わないではない。
 新書や実用書系のものだと、目次がしっかりしている。まずこれを頭に入れて、ぱらぱらページをめくる方法がある。いわゆる決め読みというヤツで、だいたいの内容を予想して読めるので、そういうふうに読んでも意味が理解できるという寸法だ。
 文字は音読をしなくても、頭の中で音を出して読んでいる人がほとんどだと思われる。これを訓練して音で読まない方法もある。とにかくすばやく文字を追って、音にしないで読む訓練をする。これも才能がある人ならそれなりに出来る人がいるようだ。なんとなくなら出来るように誰でもなる可能性はある。イメージの感じで内容が理解きるような感覚かもしれない。
 逆に、最初はあえてじっくりゆっくり読むという方法もある。文体には癖があるのが普通だから、そういうものを飲み込めたら、だんだん読むスピードを上げていく。これも慣れの問題で、好きな作家ならこれで他の本もさらさら読めるという場合もある。
 速読法らしい、という感じならそのようなものが普通だが、まだ他にも方法ならある。実地にそれらのハウツー本を買って読んで実践するのが一番だろうとは思う。相性があるので、自分にあったやり方をやればいいのだ。
 さらに速読とはいえないのだけど、普通に飛ばし読みというのがある。本の好きな(と自分が感じたら)ところだけは読んで、後はどんどんすっ飛ばしてしまう。ひどい人は前書きとあとがきだけ読むというのがいる。それでだいたいが理解できる本も実際にあって、つまり内容の無いのはそんな程度でも十分だろう。

 速読なんてそんな方法だと知ったら、皆さんのほとんどは、なんだかかえって不満を覚えるのではなかろうか。実は僕だってそうだった。でもたぶん本当のことである。そういうものを組み合わせて必要に応じて読む勇気、というのが真相だと思う。だから誰でも出来るわけで、特殊な人しか出来ない技能であれば、そもそも使えないではないか。
 さらに、まず、背景はすっ飛ばすけど、実は誰でも速読は普段からやっているはずだ。たとえば新聞は、そのような速読法で飛ばし読みしているはずだ。雑誌でも見出しだけ読んで内容を大雑把に理解している人もいるだろう。新聞や雑誌で出来て本で出来ないということの方が不合理で、結局は応用するだけのことだろう。

 これらの方法でガンガン本を読むというのは楽しいが、しかし意味の無い本も多いのが実際だ。数学や哲学などの本は、行間を読むというか、結局ゆっくり考えながら読まなければ、意味が不明だということにもなる。
 文学作品であっても、たとえば詩なんかを速読しても意味は無かろう。いや、それで楽しければそれでいいけど…。
 さらにあらすじを読んで面白いか問題もある。内容はそのような展開だと理解できて、読書が楽しいか問題である。結局それでいいのだという本を選んで、早く読めばいい。
 また、映画なんかも早送りして場面をざっと見て内容が理解できるものもある。繰り返すが、それでいいならそれでいいが、本だってそれでは駄目なものがあるということだ。本を読まないくせに最初から速読したいという人には、結局本を読もうという興味さえ失わせてしまうことにもなりかねないと思う。面白いと思うような本は、他人から止められても、ついつい後を読んでしまう。そういう本は、結局早く読めるはずだ。つまらない本なんて放り出して、自分の好きな本だけ選んだらいいのである。
 さらに本というのは最初から最後まで読まなければいけないなんて、決められた事でもないのに信じ込んではいけない。そういう自分で決めた常識というか、自己規制というか、そういう心の障害を取り払うことができると、本というものとのつきあいが根本的に変わるだろうと思う。これは僕も長らく勝手にそう思っていたので反省もあるのだが、本というのは自分との付き合いのような側面もある。どのように読んでもいいという自分自身の自由な発想を手に入れることが出来たら、それだけでも速読法をマスターしたことと等しいと思われる。人間というのは厄介なもので、そのような自由を忘れているからこそ、結果的に速読が出来ないということを理解できればいいのである。
 では、楽しい読書を。ちゃお!
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生きるつらさと強さに気付かされる作品   暗闇から手をのばせ

2014-05-22 | 映画

暗闇から手をのばせ/戸田幸宏監督

 いわゆる、楽しい映画ではない。人によっては嫌な気分になる人も(ホントはまずいないと思うが)いるかもしれない。しかしながら完全に映画的に素晴らしい作品だ。いや、映画のつくりとしては、なんとなくぎこちない感じはあるのだが、この作品のアイディアというか、存在そのものが、大変に素晴らしいと思う。でている役者さんたちがそれぞれ素晴らしいし、ドキュメンタリーとしてみているような、大変なリアルさも感じる(おそらくエピソードの元になっている実話があるんじゃなかろうか)。言葉遣いなどは結構どぎついのだけど、それは普通のドラマ的な飾った文法を使ってなくて、極めて本当の気持ちを使っているためだと思う。いろいろ思惑はあったわけだが、徐々に自分の心が開かれていき、そうして実際に開放されていくことが感じさせられる。本当には理解していない人たちばかりの社会の中で、やはり呼吸をして生きている人たちがいる。それは他ならぬ性を通してこそ、やっと少しだけ分かり合えるのである。
 障害者の性問題は特殊性があるものの、よく考えなくても特別なことなのではない。あって当たり前のことだからだ。しかしその当たり前のことだからこそ、いわゆるプライバシーが非常に限られていく。ある程度開き直ったりしたとしても、しかし働けない人もいるわけで、低所得の状態でどうするか問題というのがさらに追い討ちをかける。どうしても許してくれない環境もあるだろうし、この映画のように、逆に完全公認で、個人の感情などまったく無視して処理されるような場合だって起こってしまいかねない。秘め事として誰もが通る道ではなく、ぴかぴかの明かりの元に自意識を殺して接するより他にない人もいるだろう。しかし、それでも性欲がなくなるのかというと、たぶんそんなことはなかろう。苦悩しても苦悩しがいのない問題としていつまでも消えないとしたら、これほどの難問はそうそうなかろうということになる。それでも風俗のことを批判するとしたら、彼らは本当に死ぬより他に選択がなくなってしまうのではないか。
 しかしながらそのように風俗で春を提供する立場の人も、本当にしあわせなのか問題というのが絡む。むしろ満ち足りたしあわせいっぱいの人がその職業を選択するものなのだろうか。ヒロインの風俗嬢も理由あって、比較的身体の不自由な人のほうが性を売るのに面倒が少ないのではないかと、漠然とこの世界を選択している。しかしその安心感からか、ストーカー行為を受けて、死ぬような大変に怖い思いもしてしまう。しかしその犯人に面会に行き、当時は指名されて嬉しかったという告白をするのである。限りない心の障害に近い告白を見るわけだ。そこで、本当の意味で障害というものを理解した人間が生まれる。そうして障害者と健常者という垣根のようなものが取り払われてしまう。最悪の状態の中でのこの混沌としたバリアのなさを描き出したというだけでも、この映画を観るべき価値があるというものだろう。
 繰り返すが、人によってはびっくりするかもしれないが、こんなに「いい映画」も珍しい。人間が本当に生きるというのは、やはり誰かの理解なしには無理な話なのだ。障害を克服する強さは、やはり自分で生きると決めることなのだ。自分で生きていない人は、たとえ障害者でないとしても、本当には生きていないことに変わりはないのである。
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ベストでなくともいい選択だ   ハッサン・ハラーの反逆 刑事コロンボ

2014-05-21 | コロンボ

ハッサン・ハラーの反逆 刑事コロンボ/テッド・ポスト監督

 イスラム社会への風刺とも取れる展開である。外国の文化に不寛容なアメリカらしいお話だけれど、まあ、逆手にとって面白いのだからいいだろう。実際にイスラム社会の人はほとんど出ていないのだろう。いや、出ていたとしても、そこのあたりはアメリカ的に面白がっているのかもしれない。お国の人は怒るだろうけど。
 しかしながら、実際にはイスラム社会と米国社会は裏表のようなものでもある。ともにコーヒーが好きだが、ある意味では単なる共通なわけではない。英国社会の反発もあってコーヒーになった米国社会と結びついているわけで、まったく皮肉なことだろう。考えてみると聖書とコーランはほぼ同じ書物の翻訳違いのようなもので、何で表面的にはこんな違いになったものか大変に不思議だ。同じような考えかたで違う生活を営むと、極端に反発しあうようなことになってしまうのかもしれない。まあ東アジアもそういうところはあるので、もともと分かり合えなかったり片意地を張るところは、お互いに気付かないものなのだろう。
 ところで、国が違うと法律も違うというのは日本においての大使館のような場所でも同じらしい。日本だと日本国内だけど、たとえば米軍基地などがそのようなことになっているらしい。時にはこれが大変な悲劇を招いていることもある。米軍兵士が日本の女性に悪さなどをしても、日本で罰せられないのは大変にけしからんように思う。そこのところをちゃんと米国社会流に裁いてくれればいいと思うが、どうもそのまま逃げ切ったりするように写るが、果たしてどうなんだろう。この根源にも、米国人の日本社会への不信がうかがえるわけである。占領している人間が現地人に必要以上に反発されると勝手におびえて、そのような、必要以上の防御を行っているとも考えられる。与える立場だと寛容な社会である米国も、受ける立場だと非常に不寛容になる。物語の根本にある背景は、実際にはそのような文化摩擦であるように思う。
 そういうことを、米国人の立場で一方的にイスラムを見る視線に僕ら日本人もなりがちなのではないかと思う。不寛容なのはイスラムのほうではないか。もちろん僕らの文化からはそのように見えるものが多すぎはする。しかし、だからといって不寛容かは実際には別の話なのである。
 結局は必要以上に相手の懐に入って犯人は自滅する。そこまで読んで相手を陥れるコロンボが憎らしいわけだが、実際には犯人を助けても居るわけだ。懐に入るというのはリスクも大きいが、その分の恩恵も受けられる。もっとも本当に望んでいるベストではないにせよ、である。
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今更肉じゃが問題

2014-05-20 | 

 僕らの若い頃の話だからずいぶん古いが、その頃グループ談義なんかしていて、「肉じゃが食いてえ」問題というのがあった。最近小保方事件で初めて聞いた「女子力」という言葉で、なんとなく分かりはするものの、ちょっと引っかかるものがあって、それはなんだろうという思いがあったのだが、そういえば、この「肉じゃが」問題に似てるな、ということなのである。
 肉じゃがを食いたければ食えばいいだけじゃん、というのがその頃の僕の素直なスタンスで、それでは何の話の進展もないのだけど、廻りの男達はしかし、そうではないらしいというのはあった。僕には最初から共感がなかったから分からなかっただけのことなんだが、やたらと肉じゃがで引っ張って盛り上がるというのを何度も聞くわけだ。繰り返すが何の共感も持たないから聞き流しているだけだったのだけど、あれは一種のナンパのようなきっかけだったのだろうということと、いわゆる女子力というものを測るリトマス紙的なものだったのかもしれない。
 カレーでもチャーハンでも男達の好きなものはなんだってよかったわけだが、それは空腹を満たす食い物だ。僕はそっちを食いたいという思いが強すぎた。しかし肉じゃがは、ほんの少し家庭料理らしい一品だ。ひょっとすると準おふくろの味ということなんだろうが、お母さんに会いたいという意味ではなく、君の作った肉じゃがを食いたいということが、素直な解釈だったのだろう。そういうことのできるような女性というのが、男達の憧れだという意味なのだろう。だから少ししつこくこれで盛り上がろうとしていたのは、そこにいる女の子たちが、実際にこの肉じゃがを作ることが出来るのかの確認をするとともに、実際に「作ってあげようか」の一言を引き出したいという思いがあったのだろう。なるほど、今更だが、これはそれなりに工夫して使える手口だ。
 まあしかし、そんなことは女の子たちは当然了解済みだったのだろうな。そういうのは使えるとは分かっているから、キタ来たとか思いながら、どいつになら同意してやろうか、などと考えていたに違いない。チャンス到来とばかりに家に作りに行こうという作戦を立てていた人もいたかもしれない。
 そこまでえげつなく表現する必要はなかったかもしれないが、「女子力」というのはそういう意味があるというので、いいでしょうか?
 ちなみに僕のおふくろの肉じゃがは鯨だった。いや、牛のこともあったかもしれないが、あんまりに記憶にないだけかもしれない。
 今の人たちは肉じゃがの代わりに、何を食いたいというのだろうか。そもそもそういう手法は、時代的にNGなんだろうか。だいたい選ばれるのは男達の方だろうから、実用的な料理力というか家庭力のようなものは、自分自身がアピールする武器になっているかもしれない。草食系男子というのは、たぶんそういう自己主張なのかもしれないと、僕は素直に疑っております。
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食べる場面は見たくない

2014-05-19 | 雑記

 秘密のケンミンSHOWという番組があって(今もあるみたいですね)以前はそれなりに楽しく見ていた。ご当地ご紹介というのもあるだろうけど、日本というのもあんがい広いという感じと、アンチグローバリズムを感じさせる爽快感がある。狭い社会こそ人間的なのだ。それで時々驚くわけだが、それがまた楽しいということだった。
 それはいいのだが、いつの間にか見なくなった。理由は単純で、やたら食う場面ばかりになったからだと思う。現地の食リポートはわかるが、ほとんどその絵を放送するのが目的化したような感じだったかもしれない。不快というのもあるが、ほんとにこんなものが面白いと思っているのだろうか? もっと他の面白文化を知りたいものだが、正直じれったくなったのかもしれない。スタジオで食ってばかり。ほんとにつまらない。
 街のレポート番組というのもあるが、それが目的であるのは理解できるのでそれでいいけど、ほぼ食べ歩きである。たまに食べたってそれはそれでいいが、全部の店で食べて見せないでもいいんじゃないかと思う。一口食べて捨てているんだろうと思うと、店としてはPRだろうけど、やはり勿体無いじゃないか。テレビだから現品を見せて、他の客が食ってるのを見せれば、それでいいと思う。
 そのような番組なら、しかしそれでもいいのである。しかしながら今の時期とは違うが、恵方巻きの紹介くらいからだろうか、普通のニュース・バラエティのようなもののなかでもこれを皆で食うようなことが行われるようになった。ネットの紹介を見ると分かるが、ほとんどこれはエロネタである。エロは急速に普及するので、以後定番になっているのではないか。
 あんまり民放を見ないので疎いのだが、時々見るともなしに見ていると、本当に食べる場面が増えている。大食い競争なら見てもいいが(何故か下品すぎて好きである)、ほとんど話の筋と関係が無くても食べている。聞くところによると、テレビの食材はたいてい冷えていて、まずいらしい。だから、美味しく(そうに)食べるというのが、タレントの才能であるらしい。しかしながら、ニュースのコメンテーターのような、いわば専門外の人も一緒に食べたりしている。これはうがった見方かもしれないが、これが上手い人が、重宝がられて次の仕事ももらえるのではないかと思える。何故なら旨そうに食えない人は、テレビ画面から早々に消えてしまうように思える。見ていて痛々しいのだが、だから個人的には共感を持っているかもしれない。
 こういうのは流行のようなものかもしれないのだが、しかし確実に僕の子供の頃とは違った文化という気がする。それで興味を持てなくて見なくなるというのがあるから、僕らを排除する目的があるのかもしれない。そのほうが社会的には平和だから、語られるのも迷惑な話だろう。しかし食べる作法を見せることまで要求されるタレント文化というのが、今の文化人や教養人のような人々にまで及んでいることを思うと、大変だなあ、と同情を禁じえない。そういうのが得意じゃないから専門性にのめりこめた人もいるだろうに、世の中というのは上手くいかないものではないか。
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僕らが忘れてしまった本当の人間の姿   セデック・バレ

2014-05-18 | 映画

セデック・バレ/ウェイ・ダーション監督

 評判は聞いていたが、長いので(4時間以上)少し敬遠していた。しかし、それもほとんど杞憂だった。前半後半という具合に分けてみても差し支えないし、実際の感覚として、たるんだところは無く、実にシャープである。情緒的な部分もしっかりあるし、一筋縄ではいかない物語ではあるけれど、やはり評判どおり素晴らしい作品である。
 しかしながら実際のところ、悪人は日本人である。台湾を占領していたんだから当然ではあるし、悪く描かれているのは仕方が無い。そうではあるが、不思議と日本人である人間が観ても、日本人自身を嫌悪で蔑む目的で描かれていないことを感じることが出来るはずだ。もちろん中には唾棄すべき人間も描かれる。後にちゃんと殺されるわけだが、普通の復讐劇ならもっと残酷にねちっこく殺しても良さそうなところ、ずばりと殺してしまう。描写はえげつない所はありながら、しかし本当の憎悪でやっていることではないのである。人を殺すのが狩猟としてやっている感じなのだ。軍と関係の無い人も虐殺されるが、やはりそれはそれで悲惨ながら、壮快にやっているわけではない。深い悲しみを内包しながら、まさに自分らの誇りをかけて戦っている結果なのだ。
 戦争だとかこのような動乱のようなものの動機に、正義というものがある。大儀ということでもよい。普通のそれは思想的なものであったり、あんがい都合的なものであるわけだが、時代において致し方ないものもあろうけれど、これがどうにもいただけないものが多いように思う。この物語の基本にも、このセデック族の誇りということになっているはずなんであるが、しかし厳密な意味で、現代的な誇りというものとは、少し違うのではないか。人間としての生き方そのもの。別段決まりで定められているわけではないが、代々そのようにして生きてきた、生き方というか定めというか、もっと根本的な生き物としての習性のような根本的なものが、現代的に言って「誇り」というような言葉で代用されているという感じではないか。近代では人は支配されても生きていくしかないが、野生動物が人に飼いならされないように、古代から生きている本来的な人間は、たとえ相手が人であろうと、支配されることは無いのである。
 結果的には滅びの美学のような感じにはなっている。考えようによっては、無謀だし、愚かだ。しかしだからこそ、本来人間とはこのような崇高さを持っていたのではないか、ということなのだろう。
 集団自決はするし、考えようによっては危険な思想なのかもしれない。強烈な共感と悲しい物語に心を打たれるわけだが、現代では既にいなくなってしまった人々だ。もちろん台湾人の中にはこの血が受け継がれている人もいるだろうが、精神が残っているものかどうか。日本人にだって、あるとすれば古代日本人の血が流れているかもしれないが、もう思い出されることは無いだろう。今は無くなってしまった人間の生き方がこのような映像で蘇る。CG全盛の世の中にあって、改めてこのような作品が世の中に出る。それもハリウッドで無く台湾である。映画の可能性がまたひとつ飛躍したような、強烈なスペクタクル巨編といってよかろう。
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元いた場所は、遠くになりにけり

2014-05-17 | 掲示板

 既に引っ越して二月以上。落ち着いたといえばそんな感じで、もうだいぶ長い間前の職場跡に近づきもしないので、頭の中ではかなり風化した思いがする。実は用事があり以前の建物そばを通ったが、こんなに狭い道だったのかと素直に感じた。当時も狭いと思いながら通っていたはずだが、人からそれをいわれると、そんなにいわれるほどではないと心の中で思っていたが、他人がそのように思わずつぶやいてしまうのも、実に無理も無い道の狭さであった。
 ところでこのブログのタイトルにある「中岳龍頭望」なのだが、それは場所を指した名前であった。この以前の職場のあった場所から北の斜面を下ると、龍頭泉という景勝地の滝が点在している場所に下りる(徒歩のみ可)。実際にはもう少し下った後にさらに登らねばならないが、まあだいたいのところでその景勝地・龍頭泉を望む場所ということで名付けたわけだ。
 しかし引っ越したのだから、実際はこのままでは少しばかりどうなのか問題というのが個人の心の中に持ち上がっている。ネット上のことだから、場所なんて関係が無いことだ。実際のところ自宅で書いたものもあるし出張中に書いたものだってあったわけで、その場所限定ということではなかった。無かったが気になるのは、そういう自分自身の立ち居地との距離感の感覚だろう。そんなに遠くない場所だが、しかし既に遠い。そう簡単に忘れられるところではないし、まったく関係がなくなったところでもない。しかし、現に日中の活動場所ではなくなってしまった。無意識で車を運転したとしても、自然に今いる場所へ向かうだろうし、現にこうして座っているところにもう馴染んでしまった。今後何年こうしているのかは不明だけれど、おそらくまた長い間はここで身を落ち着けることにはなるのだろう。(つづく、たぶん。)
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