先日、いたち川周辺を散歩中に、フッと考古学に思いを馳せた。
本郷台周辺は、鍛冶ヶ谷という地名が残るなど、刀剣の歴史と縁深いのです。
特に、いたち川流域の古代文明については、数多くの遺跡が発掘されており、多くのたたら場跡が確認されています。
図書館などで調べると、鎌倉時代以前よりいたち川流域には渡来人がコロニーを形成しており、周囲の原始的な住民とは次元の違う文化圏をカタチ作っていた様です。
ちなみに、いたち川の由来を調べてみると、イタチが生息していたとか、戦へ向かう武人がこの川で身を清めた「出で達ち」が語源といいます。
刀剣職人として言わせていただくと、「それはないだろう!」と思ってしまいます。
理由は、おびただしいたたら製鉄所跡や砂鉄の調達跡からみて、当時の川は常に真っ赤に染まり、魚はおろか小動物が生息するには過酷な環境であったことが想像できるからです。これは、伯耆の日野川の由来を考えれば、同様にかつ安易に想像がつきます。
この事から、まずイタチの生息域という説は除外せねばなりません。イタチどころか魚すら生息には厳しい環境です。
次に、清めの川としてですが、汚染された水で身体を清めたいとは思わないのではないでしょうか?
さらに、イタチの語源を調べてみました。
川の生態系の上位に位置し魚を食べ干してしまうため「魚絶ち」が語源とするもの、立ち上がった姿が火柱の様で「火立ち」を語源とするものなどです。
興味深いのは、後者です。
動物ではなくイタチという言葉の語源が「火柱」から来たとすると、大鍛冶施設が充実していたいたち川流域を表現するには、これ以上なくシックリきます。
ちなみに当時のたたら場は、傾斜地に縦型に設置され、火柱が天を焼くような構造であったと思います。
なお、いたち川という名称の河川は、国内にもう一ヶ所あります。
それは平成の名水100選にも選ばれた、富山県富山市のいたち川です。
富山には、鎌倉よりもさらに古い古代文明が栄えた形跡があるといいます。
富山も当然、渡来の高度な文化圏が形成されていたことが考えられますので、同じく鉄器の製造を行っていたことは間違いありません。
いずれにしろ、いたち川周辺では、当時の科学水準をはるかにしのぐ、文明圏が確立していました。その文明人達が富山から来たとする証拠はありませんが、同一の文化圏(つまり大陸)からもたらされた技術をもっていたのです。
ここで話をガラリと変えて、頼朝が鎌倉に幕府を定めたのはなぜでしょうか?
この辺りの歴史は極めて曖昧で、ともすると無策に鎌倉入りした様にすら感じます。
しかし、戦略家として有名な頼朝が、突発的に暫定政府を置くわけもなく周到な用意がなされたはずです。
実際に、頼朝は挙兵前に、逗子や葉山、鎌倉を事前に訪れている形跡があるといいます。
当然、いたち川流域の高度な文明圏にも接触を試みたことが想像できます。
いや、むしろいたち川流域文明を手中に収めることが目的であったかもしれません。
当時の刀鍛冶は、今日のように一人で作業をすることは出来ませんでした。
基本的に大鍛冶と呼ばれるたたら場職人と小鍛冶と呼ばれる刀鍛冶は、一連の技術者集団として行動を共にしていました。
そのため、恐らくたたら製鉄の段階で、刀鍛冶が炭素量の調整や操業に関与していた可能性は否定できないのです。
鎌倉幕府の武器量産体制の確立には、いたち川流域の職人(唐鍛冶系)の大鍛冶技術がないと、他国から招いた小鍛冶の技術は発揮されません。
いたち川流域唐鍛冶系と粟田口系や備前系の鍛冶とのコラボによって相州伝が完成したのではないでしょうか?
このような考察から、正宗の工房は鎌倉城内ではなく、いたち川周辺つまり本郷台周辺であったと推測しています。
本郷台周辺は、鍛冶ヶ谷という地名が残るなど、刀剣の歴史と縁深いのです。
特に、いたち川流域の古代文明については、数多くの遺跡が発掘されており、多くのたたら場跡が確認されています。
図書館などで調べると、鎌倉時代以前よりいたち川流域には渡来人がコロニーを形成しており、周囲の原始的な住民とは次元の違う文化圏をカタチ作っていた様です。
ちなみに、いたち川の由来を調べてみると、イタチが生息していたとか、戦へ向かう武人がこの川で身を清めた「出で達ち」が語源といいます。
刀剣職人として言わせていただくと、「それはないだろう!」と思ってしまいます。
理由は、おびただしいたたら製鉄所跡や砂鉄の調達跡からみて、当時の川は常に真っ赤に染まり、魚はおろか小動物が生息するには過酷な環境であったことが想像できるからです。これは、伯耆の日野川の由来を考えれば、同様にかつ安易に想像がつきます。
この事から、まずイタチの生息域という説は除外せねばなりません。イタチどころか魚すら生息には厳しい環境です。
次に、清めの川としてですが、汚染された水で身体を清めたいとは思わないのではないでしょうか?
さらに、イタチの語源を調べてみました。
川の生態系の上位に位置し魚を食べ干してしまうため「魚絶ち」が語源とするもの、立ち上がった姿が火柱の様で「火立ち」を語源とするものなどです。
興味深いのは、後者です。
動物ではなくイタチという言葉の語源が「火柱」から来たとすると、大鍛冶施設が充実していたいたち川流域を表現するには、これ以上なくシックリきます。
ちなみに当時のたたら場は、傾斜地に縦型に設置され、火柱が天を焼くような構造であったと思います。
なお、いたち川という名称の河川は、国内にもう一ヶ所あります。
それは平成の名水100選にも選ばれた、富山県富山市のいたち川です。
富山には、鎌倉よりもさらに古い古代文明が栄えた形跡があるといいます。
富山も当然、渡来の高度な文化圏が形成されていたことが考えられますので、同じく鉄器の製造を行っていたことは間違いありません。
いずれにしろ、いたち川周辺では、当時の科学水準をはるかにしのぐ、文明圏が確立していました。その文明人達が富山から来たとする証拠はありませんが、同一の文化圏(つまり大陸)からもたらされた技術をもっていたのです。
ここで話をガラリと変えて、頼朝が鎌倉に幕府を定めたのはなぜでしょうか?
この辺りの歴史は極めて曖昧で、ともすると無策に鎌倉入りした様にすら感じます。
しかし、戦略家として有名な頼朝が、突発的に暫定政府を置くわけもなく周到な用意がなされたはずです。
実際に、頼朝は挙兵前に、逗子や葉山、鎌倉を事前に訪れている形跡があるといいます。
当然、いたち川流域の高度な文明圏にも接触を試みたことが想像できます。
いや、むしろいたち川流域文明を手中に収めることが目的であったかもしれません。
当時の刀鍛冶は、今日のように一人で作業をすることは出来ませんでした。
基本的に大鍛冶と呼ばれるたたら場職人と小鍛冶と呼ばれる刀鍛冶は、一連の技術者集団として行動を共にしていました。
そのため、恐らくたたら製鉄の段階で、刀鍛冶が炭素量の調整や操業に関与していた可能性は否定できないのです。
鎌倉幕府の武器量産体制の確立には、いたち川流域の職人(唐鍛冶系)の大鍛冶技術がないと、他国から招いた小鍛冶の技術は発揮されません。
いたち川流域唐鍛冶系と粟田口系や備前系の鍛冶とのコラボによって相州伝が完成したのではないでしょうか?
このような考察から、正宗の工房は鎌倉城内ではなく、いたち川周辺つまり本郷台周辺であったと推測しています。
なるほど!イタチと火は切っても切れない関係にあるわけですね!
富山のイタチ川について調べておりましたところ、私の説が正しければ非常に面白い共通点を見つけました。
後日、紹介したいと思いますが、秀吉をして天下三作と言わしめた3名の刀工に関連する奇妙な共通点です(粟田口は調査中)。
かつて抹殺論がささやかれた正宗といい、在銘の存在が確認されない「お化け」といい、共通点が火を操る妖獣イタチとなると、もはやファンタジーの世界です(笑)。
まさに「火立ち」ですね
WIKIによれば
「日本古来からイタチは妖怪視され、様々な怪異を起こすものといわれていた。江戸時代の百科辞典『和漢三才図会』によれば、イタチの群れは火災を引き起こすとあり、イタチの鳴き声は不吉の前触れともされている。・・・」
とありました。
イタチと火とはこの世界でも切っても切れないようですね。