ちょいボケじじいの旅・酒・エーとそれとね

毎晩酒を愛で古き日本と温泉を愛す、少し物忘れも出始めた爺が、旅日記やコレクション自慢などと、時々の興味のままを綴る。

第二日目 高野山奥の院大師結縁後、龍神スカイライン経由で熊野詣でへ 6月4日その1

2010-06-12 15:32:05 | 旅日記
 高野山の早朝は標高1000mという高所だから軽井沢と同じぐらい、涼しくて風が清々しい。鴬の鳴声を聞きながら5時少し過ぎに宿坊を出て近くを散策、やはり壇上伽藍以外では金剛峯寺本坊は見ておこうと。
 金剛峯寺本坊はこのあとの奥の院ガイドの話では事務方の本部であって本来は高野山全体が金剛峯寺なんだそうで、それで本坊と付けて呼ぶらしいが桧皮葺の立派な建物、面白かったのは梯子が屋根まで架かっていて、屋根最頂部の棟の両サイド二箇所に乗かった樽(天水樽というらしい)まで横の低い手摺と縦上下の鎖で登って行けるようになっている、あれは消火用なんだと合点、しかしあんな量で足りるのかな。そのあとはまだ閉まっている商家が並ぶ高野山商家千軒の中心部らしきを少しだけ歩いて宿坊に戻る。
          金剛峯寺屋根に天水樽
          古めかしい商家が並ぶ
 帰ってすぐに昨夜説明のあったお庭を縁側に座ってジックリと拝見、ちょうどアヤメが咲いていて彩りを添え、池に鶴松の配置の造りはさすがです。手前の芝生だけの広がりはやや散漫な感じではあるものの、池周辺の造りは日本庭園の本道を踏んでいると思える。この庭園は一般開放していないので、宿坊に泊まらないと見られない。
 
                小堀遠州作の庭園の左と右半分ずつ          
 そのあとはやはり宿坊に泊まったからには朝のお勤めなるものがどんなものかと本堂に行けば、皆さんお揃いで信心深いということにしておきましょうや。この朝のお勤めというのはお寺さんでやる法事みたいなものですね、しかし本場のお経は今まで聞いたことがない語り口風の二重奏が入ったりしてお見事です、最後には昨晩食後に永代供養や先祖供養を申込んだ人達の名前も聞こえて、でも朝のお勤めでは胡麻は焚かないんですね。
 約20分ほどのお勤めが終ればそのまま昨夜と同じ広間に移って朝食に、膳は一つで昨夜の胡麻豆腐に対して朝はがんもどきが決まりだそうで、これも手作りで具が多く普通に売っているものよりずっと美味しい。朝はシッカリとご飯二杯、汁は昨夜はおすましだったが朝は味噌汁であっという間に食べきってしまった。ちなみにこういうものを食べたせいか、胃腸の具合が良くなりすぎて僕の場合は便秘気味になってしまったぞ。初めて宿坊なるものに泊まったのだが、気分も改まって観光客にも結構いいんじゃないですか。
             朝食はさすがに質素
 宿坊を7時50分に出発してすぐに中の橋大駐車場に、奥の院参りは一の橋からだとゆうに2時間以上かかるから中の橋(冒頭写真は中の橋入口)からの歩きとなり、まずは団体記念撮影にお付き合い。作務衣姿のベテランガイドからの最初の事前注意が団体は一般客を考えて右側半分だけに並んで歩くようにと、そのほかは行く先々で注意があったら言いますと、それから歩く道筋は行きと帰りは別筋にするもので所要時間は80分だという、我々は団体観光グループでは一番乗りだったから境内はまだ空いていてよかったね。また昨日は昼過ぎに高野山では猛烈な集中豪雨があって、傘をさしても間に合わない土砂降りだったが今日は幸いですとも。それで昨日の急流がものすごく濁っていたんだね。
       奥の院参道ガイドマップ  
 さてということで弘法大師の高野山開山の由来から説明が始まり、ここ奥の院は弘法大師が壇上伽藍を開いて中心の根本大塔の傍の平屋の庵で暮したのち、62歳という最終厄年の後厄最後の年齢になられて、生れ年(誕生日は6月15日)と同じ寅の日3月21日にこちらに移られて入定されたと、そして今も地下で三鈷と数珠を手に瞑想されている最も重要な場所なのだと。その場所の正面前で三鈷と数珠を大きく模した仏具に触れて大師と結縁するのが高野山参りの主目的になっているとは、ガイドさんがいないとよほど調べてこなければ不調法なお参りになってしまう、以前にこんなことをした記憶が無いものね。全国に何々大師、不動、観音、薬師と名が付く寺院は皆真言宗が元で、この奥の院が全国3700の末寺の総本山になると、弘法さんの縁日は入定された21日かその前日の20日、90%強は21日だが10%弱は20日としていて、皆さんの関東では川崎大師が20日弘法じゃないですかと、これも知らなかったな。最近は全国のパワースポット人気が高まっているが、ここ奥の院はお大師様のお膝元で最も神聖な場所、そして6月はお生まれ月で一番パワーが強いときのお参りですよなどと、これはあとでの狙いの伏線だったんだけれどね。
 さらにこの高野山と熊野古道3日間の旅は世界遺産になった2004年に阪急交通社が開発して人気があまりにもあるからと他社も追随してはいるが、本家本元がやはり抜けていると、私もこのガイドを6年間していることになりますだって。その熊野古道は何処から何処までを言うか知っていますかとまず質問から入るのがこのガイドさんの話し方スタイル、ここ高野山から皆さんが最終にお参りするお伊勢さんまでが熊野古道、高野山の神様は伊勢神宮の天照大神の2歳下の妹の丹生津比売だそうで、熊野神社はイザナギ、イザナミ、スサノオ尊などを祀るからみんな縁続きなのだという話には皆さんがホーと。
 まずは企業の殉職者慰霊墓などが並ぶ新しい世界遺産には含まれない場所を抜けると古くからの大名達の墓が並ぶこれまでの半分ほどの細い道になり、ここからが説明の本番に、そして面白い講釈が始まる、でも一の橋からここまでの武将達の墓は見られないね。
              巨木の中の奥の院参道     
 奥の院での最初の講釈は古い墓石の話で、3番目に大きい五輪塔の墓石の加賀前田藩の前で、今までこの石がどう運ばれてきたかという質問はこちらが聞かなければ誰もしたことがないと始まり、大名達の石切り場は幕府が小豆島だけを指定し、切り出した石は出来るだけ舟が使えるところまでは船運で、あとは牛に引かせどうしても急な場所だけ人力だったという話はまずは想像がつく、でも大きなこの石の中は空洞になっていて軽くすることと木杭を差し込んで扱いやすくしたということは初めて聞いた。そして墓には遺骨は一切なくて土葬で残る骨以外の爪、歯、髪のいずれかが納められているという。さらに墓石の形は五輪塔で頭首胸腹足をなぞらえ、その下は土で最後は土に帰るということなんだそうだ、それで庶民は石が使えず木で作ったものが卒塔婆で、角材を同じような形に削って土に刺したのだと。それが今は板材になったのは文字を印刷するためで、それでも下が三角形になっているのは土に刺すためであると。関東みたいにカロートを作って骨壺に入れた骨を納める形式では遺骨が土に帰れない、その代わりに卒塔婆をということであくまでもそれは土に直接埋めるもの、墓に卒塔婆立てを付けるのは土に返るという本道を知らないのだと憤慨しておった。関東の墓石屋さん勉強し直して下さい、そういえば我家のお墓でも卒塔婆立てに立てていたな、でも古いものから焼却して土に帰っているはずだよね。
              前田年長の墓
 次は結城秀康の沖縄みたいな廟所風の立派な墓の前に立つ鳥居を指差して、隣との二つの鳥居の違いが分かりますかときた。僕も鳥居には簡単な貫が柱を貫通しないものと貫通させてさらに華やかさを加えたものと二種類があることは知ってはいたが、貫が貫通しないものは神様だけ祀るもので伊勢鳥居といい、貫通したほうは明神鳥居といって神仏どちらも居られるのだという。皇室関係は全て伊勢鳥居で靖国神社もこの形、熊野三山は明神鳥居だけれど那智の滝にある鳥居だけは伊勢型なんだそうだ。そして日本人は神も仏も同じく拝むのが当り前、お願いは目的に合せて上手にすれば良いと、昨夜泊まった天徳院は檀家もあって葬式をするが、本山自体は檀家を持たず願い事への祈祷の護摩焚だけをするもの、関東の川崎大師や成田山も同じという、お願い事はそういうお寺や神社でしましょうと。
 歩きながらの話でも、墓に備えられている花と高野槇の枝葉の二つを指差して、花は地元の人のお墓、遠方の人が高野槇を使うのはこの葉が長持ちするからだと、それでもこんなにまで枯れるままなのはどれだけお参りに来ていないかが分かってしまう、皆さん関東だから戻ってそろそろお参りにいったほうがいいですよとこの持ち主に言ってやってというそれは有名な牛肉料理の店であった、これには皆で笑っちゃう。
 また占いが好きな人もこの中にいると思うけれど値段が高くても1回だけで運勢を判断する人に看てもらいなさいと、1週間後にもう一度なんていう占い師はヤメなさい、その間に家族状況なんて調べられるからそれで騙されちゃうんだというご忠告まで。途中で我々を追い抜いていった団体のガイドを見ながら、途中を端折って御廟あたりでやたらと長々と説明するのもいるけど、僕は場所場所でキチンと説明しますだと。蛇足気味に出てきた話では、関西でもこの辺りではタイガースファンはあまりいないのだと、じゃぁどこかというと地元南海電鉄のチームだったホークスで、福岡に移った今でもまだ根強い人気で自分もホークス一本で来ていると、そのあと松中だけは辞めさせてほしいと声を絞っておったがそれは何故か分からなかった。和歌山は徳川御三家が治めた土地、同じ関西でも商都大阪に対して対抗心もあるだろうし、気位が高い伝統があるのかも知れないね。
 御廟橋まで歩いてきたところで手前で全員を停めて、この橋からが奥の院の聖域になると、ここからは脱帽して写真撮影も不可、そして礼で入り出るときも礼を必ずというお達し。南無大師遍照金剛と尊名を唱えながら一礼して橋に足を踏み入れる、その下の小川にも木製の卒塔婆が川底に差し込まれていて紐が付いたものもあるのには不気味、海難で死んだ人やへその緒が付いたままの水子の供養なんだそうだが、これは少しばかりおどろおどろしくもあるな。奥の院は誰の眼にも霊気漂う感じを与えるから写真を撮るのも憚られて、なるべく写すのを遠慮してしまったほどだ。
 御廟の前の正面に建つ鉄筋コンクリートの建物には、一番格が高い仏閣建物は桧皮葺なのにこんな拝殿を造っちゃってと言いながらも中に入ってお賽銭をどうぞと。そして今日も右手奥で僧侶がお札を前に祈祷しているのを見たと思います、でも護摩焚をしていなかったでしょうと、最近こういう状況が続いているんがそうだ。なんでも祈祷札の注文がとても多くなって、ネット注文もあるしで護摩焚が間に合わないんだそうだ、これはイケマセンな。
 再び正面に出てから順回りという右回りに回って奥の裏側に案内、そこが大師様が入定された御廟でこの地下で現在も祈られていると。そして周辺に聳え立つ杉の大木を見渡しながら、ここの杉は建材には一切しません、杉の葉で作る線香は一日中持つと人気で全国から注文がくるんですという宣伝もさりげなく。御廟地下の正面へはさらに回って拝殿の横から階段を降りて、信者の寄進した灯明が低い天井に並ぶ地下室を進んで三鈷と数珠が置かれた結縁場所に、ここは皆さんが順番に並んで大きい三鈷と数珠に触れることになる。その正面奥の暗がりにはあの記憶にある弘法大師の御影がぼんやりと浮かび上がって、ガイドも今日はよく見えます大師様はご機嫌がいいようですなどと、皆さんこれには感嘆の声、上手く浮き出るように描かれているものだ。さすがにここでは我々以外にも観光客や四国八十八箇所、坂東西国秩父百箇所の満願お礼に来た白装束の人達が早朝からもかなりおられた。その中の3人グループのお婆さん達が金剛杖についた鈴を鳴らしながら歩いていたらいきなりガイドさんから注意が、鈴は獣除けでこういう聖域に入ったら鳴らしてはいけません、大師様のお祈りの邪魔になるからと、ベテランガイドともなると威厳がありますな。しかし元々は女人禁制だった高野山も今では女性参拝客が多いようで、時代は変わっていますねぇ。
 この中の所々に刳り貫き孔を設けた四角い和紙が上の横木から張り下げられていて、昨夜泊まった宿坊の部屋の床の間落とし掛けにもあって何だろうかと思っていたのでガイドさんに訊いたら、あれは注連縄の代わりで、雪で閉じ込められる高野山では稲藁が正月準備の頃には手に入らないから代わりに和紙を貼るんだそうだ。それに加えて注連縄は地の神様を祀るものでそれは蛇に象徴されていて、その伸びている姿が注連縄、トグロを巻いた姿が鏡餅だとは初めて聞いた、皆さんもヘーと。いやはや大変に勉強させてもらいましたです。
 奥の院メインイベントが終了して御廟橋まで戻り振り返って一礼、ここからはお参りに来た道とは別ルートを歩くのが帰りの仕来りなんだそうだが、こちらの道筋は大して見るべきものはない。そこでガイドさんが話し出したのは厄年の話、数え年で男女とも13歳と61歳は同じく、ほかに男だけで25と42歳、女では19と33歳が大厄で一番危険なのはどれですかと。壮年時の大厄は体力があるから何とかなる、その場合は本人じゃなくて関係者に難が生じるのを心配すべし、一番怖いのは13歳で今を見てもこの頃の子供がオカシクなる例が多いじゃないですかと、次が61歳で大師様はその後厄の最終厄年に入定なされたとモットモラシイことになったね。そして今結縁してきた大師様のお姿がこれ、入定して三鈷と数珠を手に持ち瞑想座禅する大師肖像画を見せて、このお姿の前に靴が描かれているのは何故か、それはいつでもまた履いてこちらに戻ってこられるのを表しているのだと。中の橋近くの境内にあるお札販売所に戻ってきて納得できました、恐らくはここの売場を仕切っているのがこのガイドさんじゃないでしょうか。最後に力説されるのはお守りには大師様の霊力が付いているかどうかということで、永代供養の大師肖像入り金箔護符や奥の院マークの入った指輪を見せてこの文字が入っていなければダメですと、これは恐らく似たようなものがお土産屋などでも売られていて、それとの違いを強調していると思われるんだけれど。ご利益の更なるアップを生れ月6月参拝ですからと、改めて強調しながら話し方に熱がこもっていたものね。それに70分火に気をつければあとは南無大師遍照金剛の文字が浮き出て、一日中立ったままでいるという線香も熱心に勧める。このガイドの物知りで有難い説明に感心しちゃった女房は何か買ってあげなくちゃなどと、まぁ自分のお小遣いで買うんならいいよと、でも講釈料としたら高いんじゃないかい、もう我々の大厄は無事過ぎ去っちゃっているんだしね。しかしこのお札売場の女性達は若い人ばっかりだったなぁと、僕は変なことに感心しちゃったぞ、それでここは境内にはあるけれど奥の院札所とは関係なさそうだと思ったんだけど。
          これが3000円は高いんじゃない     
 来る2015年は大師入定1200年、その時にも是非どうぞということでお参りは終了、最後はガイドが同乗したバスでまた一の橋に戻ってガイド毎に提携土産屋があるという一の橋観光センターなる店での高野山土産タイム、ガイドお奨めは角濱総本舗製の胡麻豆腐とジジミみたいな味のする生麩佃煮だそうだ。ここでは昼のオプション弁当である柿の葉すしも積み込んで10時には一路熊野詣でに向う。

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