くまぐー日記

くまさんの電脳室リポート

追悼

2010年08月31日 | Weblog
■昼、KさんからOさんが亡くなったという連絡を受けた。ついに来るときがきたか、という思いだ。彼女は同じ行政書士仲間というより、最近は時々パソコンを教えて料理をご馳走になりながら、ご近所のKさんと一緒に世相をののしりあうという関係をつづけていた。お通夜の日は僕は岐阜のサルサパーティに行く予定で、翌日は仕事なのでKさんにはお通夜にも葬儀にも出ないと言った。死んじゃったらそれまでだ。所詮葬式なんて生きてる身内のためのものなんだから、、、。

僕より1コ上の彼女は彼女の母親が妊娠中に広島で被爆していて、彼女自身も被爆手帳を持っており膠原病だった。25年ほど前の話だが、最初彼女が司法書士事務所の事務員のとき知り合って驚いた。顔色一つ変えずコップで冷をぐいぐい飲むと底なしなのだ。こんな人は知らない。原爆のせいに違いないと今でも信じている。

両親の介護に専念するため事務所をやめて自宅で開業していたが、先般父親もなくなり母親の介護で手一杯の日々だった。マツダの元社長をしていた父親は評判の人格者だった。兄弟もいるのだが両親の介護を押し付けるだけでなくいろいろ面倒をかけているのだという話はいつも聞いていた。

公害によって生まれた奇形児と同様、被爆した母親が病気の子供を出産することで母親自身が健康に生き続けるのが節理というものならば、その子が63歳まで生きたということ自体が奇跡、医学の勝利とでもいうのだろうか?

僕の記憶にある彼女のイメージは目と鼻の穴をまんまるにして口をとんがらせて文句を言っている表情と目じりにしわを寄せてとてもうれしそうににっこりした表情の2通りしかどうしても思いつかない。困難に打ちひしがれたり悲哀にくれるというようなこととは無縁なイメージなのだ。周りで彼女の病気のことを知っている人は意外に少ないかもしれない。

病気や事故のために出世街道からはずされたとか仕事に失敗したと愚痴をたれるやからを見聞きするたびに「そりゃあお前の性格が悪いせいだろ!」とぶち切れたくなる気持ちになるのは僕の記憶にある彼女のイメージとなにか関係があると思う。

1年ほど前、彼女と一緒に大阪の研修会に行ったとき、電車の中で隠れてティッシュに血を吐いていたのを見ていたので近いうちいつかその日が来るような感じがあった。そんなときほどその日が来ると驚くのかもしれない。

中瀬さんと僕の車でサルサパーティに行った。すごい熱気でなにもかも忘れて楽しく踊った。帰りの途で高速をぶっとばしながらふっと見ると車の窓越しに彼女の顔が、、、。

「くまちゃん、あんたいったいここでなにしてるの?」、、とかなんとか、言わないかな?いつものように、、、。

そしたら僕が「あんたこそ何でここに、、お通夜には本人がいないとあかんやろ」と言ってやるんだが、、、。

その晩は中瀬さんとサルサの話をしながら牛丼食って帰って寝た。

合掌


コメント
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