1月からEテレでやっていた「日本人は何をめざしてきたのか」のシリーズ
http://www.nhk.or.jp/postwar/program/past/のうち、「未来への選択 第5回 教育 “知識”か“考える力”か」です。録画していたものを少し前に観てました。
その番組うち、最後に、新しい答申による義務教育での「アクティブ・ラーニング」の話しがでてきます。そこで、あれこれって、35年くらい前に、私が都内の小学校5,6年の時に、班単位での学習が流行って?いて、先生抜きで、班で勉強を教え合ったりする時間があったのと同じで、今さら…注目されるようなことなの…と、ちょっとビックリです。こういうスタイルというか感覚が、最近の小学校には無かったのかな…と感じてしまいました。
さらに、放課後にも勉強の苦手な子の家に班で集まって、宿題を教え合ったりもしてました。ただこれは今考えると、先生が放課後のことを指示するとは思えないので、誰かの家に集まって宿題教え合うというのは、子どもたちが自主的に考えて、一応先生にOKもらってやってたのかもです…。今と比べると、おそるべし自主性の欲求?に感じます。
この放課後の時には、同級で障害のある子も区別が無くて、当然にそこへ呼んだり家へ行ったりしてました。いつも居たわけではないし、勉強を教えていたわけではなかった記憶ではありますが。これらの子どもらだけで自主的になんとかする感覚や、子どもというか人を区別する感覚の無い感覚は、今になっても、私の意識のとても大きな原点の一つです。
班での勉強に限らずこういう雰囲気だった背景には、クラスの大半が担任の先生を煙たがっていて、とにかく先生抜きでやりたかった?感じがあったと思います。学級委員とかしっかり者がクラスに7,8人いて、クラスで決めることの一部は、先生に干渉させず自分たちで決めたい、という意識が強く、先生から内緒で?やるために、こっそり屋上で学級会やったりしてました。
なので、先生からダメ出しはされるけど、班でのやり方や障害のある子への対応なども、こうしなさい的に言われた記憶はあまり残っていません。都合の悪いことは忘れてるんだと思いますが…。今思うと、先生も親御さんたちも、我々が勝手に色々始めたりやろうとするのを、ある程度容認して、その意識を尊重してもらっていたように強く感じます。なので、我々もその時代にもらった尊重を、今の子どもの世代に返していかなくてはなりません。