ついに来てしまったか、とカレンダーを眺めながら思う12月1日。
何と無くせわしなくなる感じがする2009年12月だがこれという宛てもなく単に妄想として根拠もなくそう思うのだが、決して特別な物にはならないのもまた事実で、時の流れのままに行くんだろうなぁ…とカレンダーの12月31日の欄を見ながらそんな事を思う。
色の無いキャンバスは、色をつけなければ絵にはならない…それと同じくして、創り出さなければ単なる日々になるんだろうと言う事を知りつつも、ではどうすれば創れるのかやり方が解らない。だが今はやり方をたとえ知ったとしても動きはしないだろう自分自身がそこにいる事もまた事実。
しかし、何故に創りださなくてはならないのか?という問いがそこにはつきまとう。今の私は、「世間体」の為という答えが出てくる。何と無く周囲がそうだから、色にそまならないと取り残せされてどこか淋しい、その為に、教科書的には「自分自身の為に」の筈が「義務」に変わっていて…。
創り出すのが面倒、それが何のかんの理由をつけても、その事が滲み出て来て、醜い言い訳にしか過ぎないのだが、それは単に上っ面なだけで、困り果てている面がある。
そんな時思うのは、「世間体を無視し切る確たる意志が欲しい」と言う事。私は私という力強い、揺るぎ無い物があったならと、思うが1対多数ではどうしてもうちひしがれてしまう物。と同時に、強行的な姿勢から後ろ指刺されるのも辛くて、想いはゆれっぱなしな訳で。
矛盾する想いが、迷いが心を支配して何だか息苦しい所であるが、やはり「確たる意志」が必要だろう。それが出来ないというのであれば、「幸事を祝福する」事で、事態を受け止め、羨望を止める事しか無いだろうが言葉以上にそれは難しい。
険しく複雑な時になりそうな2009年12月。果たして、乗り切れるか?
何と無くせわしなくなる感じがする2009年12月だがこれという宛てもなく単に妄想として根拠もなくそう思うのだが、決して特別な物にはならないのもまた事実で、時の流れのままに行くんだろうなぁ…とカレンダーの12月31日の欄を見ながらそんな事を思う。
色の無いキャンバスは、色をつけなければ絵にはならない…それと同じくして、創り出さなければ単なる日々になるんだろうと言う事を知りつつも、ではどうすれば創れるのかやり方が解らない。だが今はやり方をたとえ知ったとしても動きはしないだろう自分自身がそこにいる事もまた事実。
しかし、何故に創りださなくてはならないのか?という問いがそこにはつきまとう。今の私は、「世間体」の為という答えが出てくる。何と無く周囲がそうだから、色にそまならないと取り残せされてどこか淋しい、その為に、教科書的には「自分自身の為に」の筈が「義務」に変わっていて…。
創り出すのが面倒、それが何のかんの理由をつけても、その事が滲み出て来て、醜い言い訳にしか過ぎないのだが、それは単に上っ面なだけで、困り果てている面がある。
そんな時思うのは、「世間体を無視し切る確たる意志が欲しい」と言う事。私は私という力強い、揺るぎ無い物があったならと、思うが1対多数ではどうしてもうちひしがれてしまう物。と同時に、強行的な姿勢から後ろ指刺されるのも辛くて、想いはゆれっぱなしな訳で。
矛盾する想いが、迷いが心を支配して何だか息苦しい所であるが、やはり「確たる意志」が必要だろう。それが出来ないというのであれば、「幸事を祝福する」事で、事態を受け止め、羨望を止める事しか無いだろうが言葉以上にそれは難しい。
険しく複雑な時になりそうな2009年12月。果たして、乗り切れるか?