今朝、715C特急羽田空港行きに2000形の第1編成が就いた。あと2年保ってくれたら良いなぁと先日の年号と編成番号が合うのだが…。
涼風鈴子「はい、おはよー。さぁみなさ~ん、何時ものインチキDJの声が聞こえて来ましたよ~。ついでに、今日は、月曜~日~。ということは?‘‘ブル~マ~ンデ~,,(エコー)ですねぇ~。嫌ですねぇっ!、嫌ですねぇっ!!、嫌ですねぇっ!!!、嫌ですねぇっ!!!!、嫌ですねぇーっ!!!!!と5回も繰り返して何になる?何にもならない、はい正~解~っ!(キンコンカンコンキンコンカンコンキンカンコンという効果音が入る)何をやってんでしょーね、アタシは。朝から馬鹿ですかぁー?という声は無視しまして括弧ヲイヲイ…でごぜぇーます。今朝は、“!”や“ー”に‘‘ェ,,、“~”が多いですね。いや何分にも‘‘ブル~マ~ンデー,,ですから致し方ありません。悪いのはアタシじゃなくて、ブル~マ~ンテ゛~がいけないのです。何だか今朝は繰り返しが多いですね。急行特急THさん、早くもネタ切れですか?」
急行特急TH「正~解~……なんつってー、って、ヲイ、何で私がMorning onに出てんだよーヲイっ!!」
涼風「だから脚本書いてるのはあんたなんだからこの際、はっきりお言い。毎朝、涼風鈴子ちゃんに、アファな事言わせ暴走させてすみませんって…ほら、頭下げんかいこのネタ切れマンネリ管理人がっ!!!!!(無理矢理急行特急THの頭を下げさせる)」
急行特急TH「いででで、なにすんじゃいこのインチキDJっ!!これでも喰らえーっ!!!(涼風の頭上から盥が落ちる)」
涼風「ありきたりなパターンね。呆れて物が言えませんが、まー今朝はですね、このネタ切れマンネリ管理人急行特急THが頭下げたということで勘弁してやろうじゃ無いのねぇー。あんまり気はおさまりませんが、良い事にしましょう。んではまた後程お会い…出来たら良いね。それまで何時もの‘‘つもり,,コーナーです」
急行特急TH「正~解~……なんつってー、って、ヲイ、何で私がMorning onに出てんだよーヲイっ!!」
涼風「だから脚本書いてるのはあんたなんだからこの際、はっきりお言い。毎朝、涼風鈴子ちゃんに、アファな事言わせ暴走させてすみませんって…ほら、頭下げんかいこのネタ切れマンネリ管理人がっ!!!!!(無理矢理急行特急THの頭を下げさせる)」
急行特急TH「いででで、なにすんじゃいこのインチキDJっ!!これでも喰らえーっ!!!(涼風の頭上から盥が落ちる)」
涼風「ありきたりなパターンね。呆れて物が言えませんが、まー今朝はですね、このネタ切れマンネリ管理人急行特急THが頭下げたということで勘弁してやろうじゃ無いのねぇー。あんまり気はおさまりませんが、良い事にしましょう。んではまた後程お会い…出来たら良いね。それまで何時もの‘‘つもり,,コーナーです」
他人に何かを求める時に私には有りがちの話なのだが、「他人が打ち出した何かを打開する為の策」というものが、自分には出来ない事である事が殆どで、何だか取れない高嶺の花だなぁ…とか、ハードルが高いなぁ…と言うのがある。
となれば、文句に不平不満を自分自身や他人に浴びせはしても、結局は「このままで良いか」という妥結に終る。
他人のヒントというか論を素直によく胸の中に落とせ、それが行動につながるなぁ…と思う私である。
それだけ臍曲がりで素直でないのが私なんだなぁ、と思うが、他人の要求は、常に「ハードルが高い」。高いハードル越えこそが人生何て言う考えはどうもキツすぎて首を傾げざるを得ない。その高さにかえってストレスを感じてしまうのは私だけだろうか?
単純で素直である事は大変素晴らしい事だなと感じはしてもあまり他人の意見に同調して、流され続けるのは苦しい。では、自分にそれを代替出来る力があるのかと言われれば、無くて、おおきくは出られない。ジレンマに陥ってしまうのと同時に、「単純・素直を憎んでしまう」事に繋がる。
その辺りが複雑なというか対人関係でトラウ゛ルを産む原因なんだろう。
それはそれとして、自分に合う何等かの打開策ってないのかなと思う。手を変え品を変え人を変えはしても、どれも同じでその同じが、受け入れられないとすれば果たして、私はどうすれば、である。
道に迷っている事は違いない。だから答えを求める…しかしその答えはどこか手が届かない物だったとすれば、あまり求めない事が答えなのか?どうも私には解らない。それはきっと助言をする人もまた同じ事を想うのだろう。
「この人は何に悩み何をどうしたいのか解らない」
と言うことを。
となれば、文句に不平不満を自分自身や他人に浴びせはしても、結局は「このままで良いか」という妥結に終る。
他人のヒントというか論を素直によく胸の中に落とせ、それが行動につながるなぁ…と思う私である。
それだけ臍曲がりで素直でないのが私なんだなぁ、と思うが、他人の要求は、常に「ハードルが高い」。高いハードル越えこそが人生何て言う考えはどうもキツすぎて首を傾げざるを得ない。その高さにかえってストレスを感じてしまうのは私だけだろうか?
単純で素直である事は大変素晴らしい事だなと感じはしてもあまり他人の意見に同調して、流され続けるのは苦しい。では、自分にそれを代替出来る力があるのかと言われれば、無くて、おおきくは出られない。ジレンマに陥ってしまうのと同時に、「単純・素直を憎んでしまう」事に繋がる。
その辺りが複雑なというか対人関係でトラウ゛ルを産む原因なんだろう。
それはそれとして、自分に合う何等かの打開策ってないのかなと思う。手を変え品を変え人を変えはしても、どれも同じでその同じが、受け入れられないとすれば果たして、私はどうすれば、である。
道に迷っている事は違いない。だから答えを求める…しかしその答えはどこか手が届かない物だったとすれば、あまり求めない事が答えなのか?どうも私には解らない。それはきっと助言をする人もまた同じ事を想うのだろう。
「この人は何に悩み何をどうしたいのか解らない」
と言うことを。
とある街の駅にある小さなデパートの階段の壁を撮影したのだが、本来の色である「水色(空色)」が全く現れていなく、がっかり…である。
「出せない海の色だそうとしている。パレットには創りそこねた青。そして私も海になれない青」と篠原美也子の1993年に発表されアルバム『海になりたい青』収録曲『青』の詞の如くであるが、思い通りに形にならない、思い通りの色が出ない…というのはこんな感じに似ているのかな?とこれを書きつつ不意に思ってみたり。
人生設計というと大袈裟ではあるが、今はまだなくてけれど時間が経てば必ず訪れる未来・将来という時を形創るのは、人々に課せられた1つの的であるが、今日すらどーなるか解らぬ今に、明日より先いや今日より先の事を形創るのはなんて出来やしないとか思うのと同時に、たどり着いた今この時が、この画像の如く、表現仕切れぬ色として私がある様にも思える。何と深夜話に相応しい話になったなぁ…と、思う私は暇人も良い所だが、多分、10数年前、いつかラジオで聴いた放送の雰囲気はこんなだったよーな気がする。何かを言わんとしていてもうまく掴めぬままに時間に流されていたあの時代。あまりに若くて解りもしない自分より先行く世代の声を聴いても意味が解りやしないのによくも流れされていったなぁと思うばかりである。何1つ解っていやしなかったのに、解ったよーに、いや、自分に良いよーに解釈してたんだろうな。画像の壁を観るが如く。
「出せない海の色だそうとしている。パレットには創りそこねた青。そして私も海になれない青」と篠原美也子の1993年に発表されアルバム『海になりたい青』収録曲『青』の詞の如くであるが、思い通りに形にならない、思い通りの色が出ない…というのはこんな感じに似ているのかな?とこれを書きつつ不意に思ってみたり。
人生設計というと大袈裟ではあるが、今はまだなくてけれど時間が経てば必ず訪れる未来・将来という時を形創るのは、人々に課せられた1つの的であるが、今日すらどーなるか解らぬ今に、明日より先いや今日より先の事を形創るのはなんて出来やしないとか思うのと同時に、たどり着いた今この時が、この画像の如く、表現仕切れぬ色として私がある様にも思える。何と深夜話に相応しい話になったなぁ…と、思う私は暇人も良い所だが、多分、10数年前、いつかラジオで聴いた放送の雰囲気はこんなだったよーな気がする。何かを言わんとしていてもうまく掴めぬままに時間に流されていたあの時代。あまりに若くて解りもしない自分より先行く世代の声を聴いても意味が解りやしないのによくも流れされていったなぁと思うばかりである。何1つ解っていやしなかったのに、解ったよーに、いや、自分に良いよーに解釈してたんだろうな。画像の壁を観るが如く。
冬のこんな時期に、飲むもんじゃねーな、と思いつつも、たまたま缶コーヒーをこの時飲んだ後だったので、なくなく…であった。
賑やかそーな雰囲気があるかも知れないが私一人で頂いた。携帯をカタカタ弄りつつ時間待ちであった。
画像の話とは異なるが、これを飲んでいた店内で、クリスマス時の曲がインストゥルメンタルで流れて居た。稲垣何とかという歌手の『クリスマスキャロル』(タイトルもあやふや)が流れたけれど、妙にせつない感じがした。ちなみに、有名なB’zの『いつかのメリークリスマス』にWham!の“LAST CHRISTMAS”等、割と嬉しい筈のクリマス時に「切なさがある歌」が流れるのが不思議な所である。クリスマスに失恋は、それはそれはドラマティックだが、あんまり観たいクリスマスとも言えないし体験も出来ればという感じである。
嬉しい時のクリスマス時に、新年も間近という事で、反戦歌らしいジョン・レノンの“HAPPY CHRISTMAS”も有名だが、クリスマスに反戦というのもなんか不思議な感じがするが、平和・ユートピアこそが人々が最も望むクリスマスプレゼントとはとても壮大過ぎて、高嶺の花な感じである。そんな無形であっても有形に無理矢理仕立ててた「平和・ユートピア」を運ぶサンタクロースにトナカイの役割はあまりにも重たいだろうなと言う妄想をしてみたり。それ以前にあまりにも重たくまた大きすぎて、ルパン三世の『カリオストロの城』でのルパン三世の「俺のポケットには大き過ぎらぁ」の如くで運べもしない物かも知れないなぁ…と思ってみたりする。
とメロンソーダの話から掛け離れた話をする私は、何と首尾一貫性が無いんだろうと呆れる事を日曜深夜25時に語ってみたり。書いてる本人はノリノリだったりするが…。
賑やかそーな雰囲気があるかも知れないが私一人で頂いた。携帯をカタカタ弄りつつ時間待ちであった。
画像の話とは異なるが、これを飲んでいた店内で、クリスマス時の曲がインストゥルメンタルで流れて居た。稲垣何とかという歌手の『クリスマスキャロル』(タイトルもあやふや)が流れたけれど、妙にせつない感じがした。ちなみに、有名なB’zの『いつかのメリークリスマス』にWham!の“LAST CHRISTMAS”等、割と嬉しい筈のクリマス時に「切なさがある歌」が流れるのが不思議な所である。クリスマスに失恋は、それはそれはドラマティックだが、あんまり観たいクリスマスとも言えないし体験も出来ればという感じである。
嬉しい時のクリスマス時に、新年も間近という事で、反戦歌らしいジョン・レノンの“HAPPY CHRISTMAS”も有名だが、クリスマスに反戦というのもなんか不思議な感じがするが、平和・ユートピアこそが人々が最も望むクリスマスプレゼントとはとても壮大過ぎて、高嶺の花な感じである。そんな無形であっても有形に無理矢理仕立ててた「平和・ユートピア」を運ぶサンタクロースにトナカイの役割はあまりにも重たいだろうなと言う妄想をしてみたり。それ以前にあまりにも重たくまた大きすぎて、ルパン三世の『カリオストロの城』でのルパン三世の「俺のポケットには大き過ぎらぁ」の如くで運べもしない物かも知れないなぁ…と思ってみたりする。
とメロンソーダの話から掛け離れた話をする私は、何と首尾一貫性が無いんだろうと呆れる事を日曜深夜25時に語ってみたり。書いてる本人はノリノリだったりするが…。
先程2224H特急金沢文庫行き乗車の前に、ある場所で撮影した物。クリスマスツリーをイメージしたものではどうもなさそうだったが、昨今の夜の寒さを彩る光のオブジェの美しさに惹かれて撮影アンドネタ創りの為。こうやって書くと、何の為に撮影したやら解らなくなるが…。
昨今、金曜深夜に表題のひぐちアサ著『おおきく振りかぶって』のアニメが再放送されている。
先日、2009年12月18日に放映された話は、悔しくも私がリアルタイムでオンエアされていた時に観損ねた話だった。まさか再び観られるなんて夢にも思わなかった。
タイムスリップして観ると多分こんな感じの印象を受けるんだろうな、と放送を観ながら思った。それは、不思議さと嬉しさが雑じり、なるほど、こんな展開だったんだ~という想いと共に、とっくに終ってしまった話をもう1度観てどうなるものでも無い。しかし過ぎ去った時間の中で行われた話を確かに自分は今、時と場所を変えて観ている事は間違いなく穴を埋めた形になったのは事実。時間が経ってから、空白を埋めるというのは、単に1から揃っている本やらCDを集めて、喜びに満ちるというのともまた違い、変な感じだなと思った。嬉しさはもちろんあったけれど。
しかしそれにしても、創られた話であるとは言え、相も変わらない、物語の中の人間模様は、何と輝いているんだろうと思う。リアルにこんな話がある訳は絶対に無いと思う。だからこそ、より美しく観えるんだろうな、と思う。単純な体育会系的なムードがそこにはなく、けれど、野球をベースに話が進み行くその姿に惹かれた私である。だが決して、私は「野球は好きではない」。スポーツ嫌いな私は、観るのもやるのも嫌いである。そんな私がこの作品に惹かれるのは本来有り得ない話である。
この作品の主人公、三橋廉を始めとする人間模様と彼が少しずつ色んな面で成長していく姿と共にチームも成長していく姿に、決して、バイオレンスさや差別偏見という悪い側面が一切見え隠れしていないのが良い。
そんなまだ放映が終ってから月日が浅いうちに再放送されるのはどこか意外な感じがするが、第2期のアニメ化がされたら良いなぁ…と今は思う。主人公とこのチームの移り行く様を再び観る事が出来たならと思うが果たして、夢は叶うだろうか?
先日、2009年12月18日に放映された話は、悔しくも私がリアルタイムでオンエアされていた時に観損ねた話だった。まさか再び観られるなんて夢にも思わなかった。
タイムスリップして観ると多分こんな感じの印象を受けるんだろうな、と放送を観ながら思った。それは、不思議さと嬉しさが雑じり、なるほど、こんな展開だったんだ~という想いと共に、とっくに終ってしまった話をもう1度観てどうなるものでも無い。しかし過ぎ去った時間の中で行われた話を確かに自分は今、時と場所を変えて観ている事は間違いなく穴を埋めた形になったのは事実。時間が経ってから、空白を埋めるというのは、単に1から揃っている本やらCDを集めて、喜びに満ちるというのともまた違い、変な感じだなと思った。嬉しさはもちろんあったけれど。
しかしそれにしても、創られた話であるとは言え、相も変わらない、物語の中の人間模様は、何と輝いているんだろうと思う。リアルにこんな話がある訳は絶対に無いと思う。だからこそ、より美しく観えるんだろうな、と思う。単純な体育会系的なムードがそこにはなく、けれど、野球をベースに話が進み行くその姿に惹かれた私である。だが決して、私は「野球は好きではない」。スポーツ嫌いな私は、観るのもやるのも嫌いである。そんな私がこの作品に惹かれるのは本来有り得ない話である。
この作品の主人公、三橋廉を始めとする人間模様と彼が少しずつ色んな面で成長していく姿と共にチームも成長していく姿に、決して、バイオレンスさや差別偏見という悪い側面が一切見え隠れしていないのが良い。
そんなまだ放映が終ってから月日が浅いうちに再放送されるのはどこか意外な感じがするが、第2期のアニメ化がされたら良いなぁ…と今は思う。主人公とこのチームの移り行く様を再び観る事が出来たならと思うが果たして、夢は叶うだろうか?