信州では病中吟も合わせると165句の信州吟が生れました。前回書いた紫陽花の句もそうですが、ほかの幾つかをあげてみましょう。
「八月の 雨に蕎麦咲く 高地かな」
「浅間曇れば 小諸は雨よ 蕎麦の花」
「簾巻かせて 銀河見てゐる 病婦かな」
東京の実家に戻っても久女の病いは癒えず、入退院をくり返したようです。腎臓病は長引くと言われますが、彼女の場合も治るまでに1年近くかかっています。
どうにか病が癒えた頃、久女の実家で、森田恒友画伯、長谷川零余子かな女夫婦、阿部みどり女などを招いて送別句会が開かれました。お題は”柿の花”でした。
「障子しめて 雨音しげし 柿の花」
この送別句会の後、大正10(1921)年の7月、久女は離婚話のしこりを残したまま、約1年ぶりに小倉に戻って来ました。この時の事を彼女は〈私が東京をたつ時は、都落ちのような寂しい心境だった〉と後に「葡萄一房の思い出」の中で回想しています。