前回書いた池上不二子著「俳句に魅せられた六人のをんな」の中で、著者の不二子さんは、久女が翌年、昭和9(1934)年の上京の時も池上家に宿泊したと書いています。
前年の昭和8(1933)年の上京時には虚子の序文が貰えず、句集出版の運びになりませんでしたが、久女はあきらめきれず、昭和9年の再度の上京になったものと思います。
平成23年秋に北九州市で催された「花衣 杉田久女展」の図録の最後に、杉田久女年譜が載せてあり、この年譜はおそらく久女展のスタッフが作成したもとの思われます。それによると、この昭和9年の上京は4月17日~28日となっています。この時、星野立子、水原秋櫻子、川端茅舎に面会したが、虚子には会えなかったとの記述があります。虚子は故意に会わなかったのかもしれません。
花の旅とある下の句はこの時のものでしょう。
「 まだ散らぬ 帝都の花を 見に来たり 」
「 虚子留守の 鎌倉に来て 春惜しむ 」
同じくこの旅で、川端茅舎に面会した時にこんな句を得ました。
「 訪れて 暮春の縁に あるこゝろ 」
「 水そゝぐ 姫竜胆に 暇乞い 」
川端茅舎はこの年(昭和9年)に、虚子の序文を得て『川端茅舎句集』を出版しているので、そのこともこの面会の時、話題になったでしょう。虚子の序文が貰えず、苦しんでいる久女は羨ましかったでしょうね。
『俳句に魅せられた六人のをんな』の中には、昭和8年、9年と2回上京し、池上邸を宿として句集出版のために懸命に奔走する久女の姿が書かれているのですが、そこまでしても虚子の序文が貰えず、結局句集出版とはなりませんでした。
<池上不二子著『俳句に魅せられた六人のをんな』>
本の中に〈句集の刊行が出来ないと決まってからの久女さんは、いたいたしい程焦慮していた。〉との描写があります。この時の久女の焦燥、嘆き、絶望はいかばかりかと、哀れで胸がつまります。
久女が出そうとしていた、まぼろしの句集の題名は『磯菜』で、装幀は池上浩山人、出版社は龍生閣、出版予告まで出たそうですが、虚子の序文が貰えない為、久女の意志で出版取りやめになりました。
久女の長女、石昌子さん作成の久女年譜にも、昭和9(1934)年に句集上梓の希望を持ち、虚子の序文を要請するも希望容れられず、とあります。
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