日々の暮らしに輝きを!

since 2011
俳人杉田久女(考)、旅行記&つれづれ記、お出かけ記など。

『おくの細道』

2019年02月03日 | つれづれ

昨秋、平泉の中尊寺に行った時、金色堂の旧覆堂の近くに松尾芭蕉の句碑があるのを見ました。風化してよく読めませんでしたが、下の句が刻まれているようです。

                  五月雨の 降り残してや 光堂



この句碑を見ながら、「ここ平泉は『おくの細道』で芭蕉が立ち寄った所だったなぁ~」などと思いました。『おくの細道』のことは習ったことはあるけれど、はるか昔のことで、「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。」というよく知られた前書きで始まる、くらいのことしか思い出せません。そこで旅行から帰って少し調べてみました。

『おくの細道』は、元禄2年(1689)3月27日に、松尾芭蕉が門人の曽良を伴い江戸深川の芭蕉の草庵を出発し、奥州、北陸道を下のコースをたどって巡り、8月21日に大垣に到着、9月6日に大垣から伊勢に向かって出発するまでを書いたものなんですね。旅に出発した元禄2(1689)年という年は、源義経が平泉に自害し、奥州藤原氏が滅亡して500年目にあたるのだそうです。
<芭蕉達が辿ったコース>

この距離約六百里(約2400㎞)、日数約150日にも及ぶ長旅をまとめた旅行記が『おくの細道』で、この旅はすべて徒歩だったそうで(籠にも乗っていない?)、この時、芭蕉46歳、同行の門人曽良は41歳でした。

芭蕉達が平泉に着いたのは、出発して44日目の1689年5月13日でした。上の写真の句碑はそれから57年後の1746年に建てられました。『おくの細道』によると、平泉では芭蕉は下の様な、よく知られた句も詠んでいます。
             
              夏草や 兵どもが 夢の跡

この句は義経の居館があった高館に登り、栄華の儚さと義経の最期を偲んで詠んだ句だとされています。芭蕉はこの『おくの細道』の旅の5年後(1694年)に亡くなり、旅の間に書いたものが『おくの細道』として出版されたのは、死後の1702年なのだそうです。

『おくの細道』は芭蕉が訪れた場所の様子を文章でまとめ、俳句を一句詠むという形で書き進められていますが、名吟といわれる句を旅の各地で詠んでいます。その幾つかをあげてみましょう。

   立石寺(山形県)にて
                    閑さや 岩にしみ入る 蝉の聲


   最上川の河港大石田での発句改め
                    五月雨を あつめて早し 最上川


       越後(出雲崎)にて
                    荒海や 佐渡によこたふ 天の河

芭蕉は『笈の小文』や『野ざらし紀行』などを著し、何度も旅をしていますが、『おくの細道』は生涯最後の旅で、また最長の旅だった様です。この旅の中で詠われた俳句が、300年以上経った現代でも多くの人々に親しまれていることを考えると、『おくの細道』は俳人としての芭蕉を決定付けた旅だったといえるかもしれません。

(芭蕉が辿ったコースの画像はhttp://www.basyo.com/ogaki/map.htmlからお借りしました)