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俳人杉田久女(考)、旅行記&つれづれ記、お出かけ記など。

俳人杉田久女(考) ~高浜虚子について~(58)

2016年05月13日 | 俳人杉田久女(考)

ここで、久女の師高浜虚子について少し書いてみたいと思います。

高浜虚子は明治7(1874)年に四国松山で生まれました。正岡子規の弟子で、子規が友人とともに創刊した俳句雑誌『ホトトギス』を子規から受け継ぎ、東京に移転しました。虚子という号は子規から授けられたものです。
<高浜虚子 1874-1959>

虚子は最初小説を書いていましたが、河東碧梧桐の新傾向俳句運動が起きた頃から、俳句の創作と弟子の育成に力を注ぐようになり、彼の俳句作品と俳句観は多くの俳人の支持を受け、『ホトトギス』は一大俳句雑誌へと成長しました。

(6)で書いた様に久女が大正6(1917)年に東京の実家に里帰り中に、飯島みさ子邸の句会で初めて虚子に会ったのは、彼が俳句の創作と弟子の育成に力を注いでいた丁度この頃で、虚子44歳、久女28
歳の時でした。

その後虚子は、大正から昭和にかけての1920年代~1940年代に『ホトトギス』という巨大な結社を作り上げ、俳壇の最高の権威者として強いニラミをきかせ、又、戦後になっても、俳句界唯一の文化勲章の受賞者として君臨し続けました。

虚子の俳句の理念は、季語を重んじた伝統的な五七五調で、「花鳥諷詠」「客観写生」を旨としました。
 
虚子に関する本などに、彼の人となりとして
必ずと言っていいほど書かれているのは、彼が人一倍子煩悩であったということです。親が子を思うのは当然ですが、虚子の場合それが極端で、度はずれていました。周囲に「子供ほど可愛いものはない」などと公言し、骨肉の情愛がけたはずれで身内偏重であったと表現されています。

〈虚子の身内偏重は目にあまる思いがする。『ホトトギス』主宰者の位置を高弟ではなく、血がつながっているという理由だけで、息子の年尾に与えてしまったのもその証のひとつだろう。正岡子規が生きていたら、何と批判するであろうか〉と、こんな調子の文章がいくつも出てきます。

しかし、当時は誰一人として俳壇の最高権威者である虚子の身内偏重に異を唱える俳人はいなかったようです。

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