日々の暮らしに輝きを!

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俳人杉田久女(考)、旅行記&つれづれ記、お出かけ記など。

飛鳥Ⅱクルーズ ~博多港出港~

2016年04月18日 |    飛鳥クルーズ

4月10日から18日まで、夫と飛鳥Ⅱの「煌めきクルーズ2016」に参加して、博多港から釜山、新潟、函館、大船渡、横浜、博多港の順に廻って参りました。


私は本格的なクルーズは初めてで、いつもの旅行とは一味違った旅になりました。

こんな感じで、博多港箱崎埠頭から飛鳥Ⅱに乗り
ます。


船に乗り込むと、すぐにデッキで避難訓練が始まりました。


その後、船に宅急便で送っていた荷物を船室で整理していると出港の時間になり、デッキに出てみると、出港セレモ二ーが行われていました。




船上でクルーもセレモ二ーに参加


船が港を出るとデッキはグラス片手の船客が談笑する、ちょっとしたパ-ティになり、クルーや楽隊も加わり、輪になって踊ったりの楽しい時間になりました。写真がないのが残念。

その後、船室に戻り、残りの荷物の整理をしました。ホテルを移動しない9日間の旅なので、持参した衣類は全部クローゼットに納め、その他の物はすべて引き出しに整理しました。

私達の船室はこんな感じです
。狭い船室ですがプライベートバルコ二ーが付いている部屋で、開放感があり快適な9日間が過ごせました。


(最初の飛鳥Ⅱの画像はネットよりお借りしました)

函館から大船渡へ航行中の14日の夜、船のテレビで熊本地震のニュースを知りました。震度7と聞いて怖くなり、こんなにのんびりとクルーズをしているのを申し訳なく思いました。被災された皆様、また犠牲になられた方々に心からお見舞いとお悔やみを申し上げます。そして普通の日常を一日も早く取り戻されますようにお祈りいたします。

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俳人杉田久女(考) ~虚子の序文拒否のなぞ~(56)

2016年04月09日 | 俳人杉田久女(考)

久女が虚子の序文を得ての句集出版に奔走していたこの頃(昭和7年~昭和9年頃)や、それ以前、又その後にも、虚子は多くの弟子たちに序文を書いていますが、三度の『ホトトギス』雑詠巻頭を与え、虚子の依頼で「俳句歳時記」の資料の下調べに当たった久女には、なぜ序文を与えなかったのでしょうか?
<高浜虚子 1874-1959>

このことに関して、虚子はこれと言った明確な理由や事情を何一つ明らかにしていません。今から80年以上前のことではあり、当事者が黙していたので、どれも推測でしかないのですが、久女関連の研究書によると、虚子に句集出版を乞い序文を一途に迫る久女に、虚子は不快の念を禁じ得なくなり、また際立って虚子に接近する久女の態度も虚子の勘気をこうむった為ではないか、と推測しているものもあります。

虚子の弟子の『ホトトギス』の俳人達もおおむね同じ様な事を書いているようです。

が、しかし、水原秋櫻子に師事し『馬酔木』の俳人であった倉橋羊村氏は『杉田久女と橋本多佳子』(牧羊社)中で、〈久女の適当なところで引き下がらない一途さにどこか不遜な圧迫感をおぼえて、虚子の激怒をかうに至ったのかもしれない。それとて冷静に考えれば理不尽なことである。序文はともかく題字を書くくらいは久女の悲願をかなえたとて、虚子の沽券にかかわらないのではあるまいか。虚子の悲情ぶりこそ、かえって尋常ではない。〉と述べています。これは虚子や『ホトトギス』とは無関係の人だからこそ、書きえた文章でしょう。


私も全く同感です。『ホトトギス』の俳人達には、面と向かって虚子にそんなことを言える人はいなかったでしょうが、大人げない、やり過ぎだ、などの声も後に『ホトトギス』内部の一部にはあったようです。

私は虚子が久女に序文を与えなかったことにつき、虚子が不快の念を禁じ得なくなったとか、不遜な圧迫感をおぼえたなどはあったかもしれませんが、それとは別の、明確な理由が虚子の中にあったのだと思います。

これは推測ですが、虚子にとって自分が勧めて俳誌『玉藻』を主宰させた次女星野立子が、俳句により経済的な安定を得、俳人としての地位を築くことは、何にもまして重要なことだったと思われます。虚子は久女に『ホトトギス』雑詠巻頭を3度まで与えたほどで、彼女の俳句の実力を誰よりも知っていました。そんな久女に序文を与え、句集出版を許したら、どうなるか。

句集を持つということは、一人の俳人として立つということです。そうなると虚子の愛娘の星野立子が、久女という実力ある俳人の影に隠れてしまうと、恐れたのではと感じます。

この推測は私だけが言うのではなく、当時ささやかれていた見方でもあるようです。もしそうだとすると、それは久女主宰の俳誌『花衣』を虚子がつぶしたのと同じ論理であり、虚子が久女に序文を与えない理由を明らかに出来なかったのも、さもありなんと感じます。

俳句の実力があり過ぎたために句集出版が出来ないとは、なんとも情けない、語るに落ちた『ホトトギス』内の情実だったのかと思います。

そして、虚子が久女に序文を与えなかったことが、その後の久女の俳句人生を暗転させ、悲劇的な結末をむかえることにつながるのです。

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俳人杉田久女(考) ~句集と序文~ (55)

2016年04月06日 | 俳人杉田久女(考)

句集出版などに無縁の私の様な者から見れば、これほど師、虚子の序文にこだわる久女の気持ちが最初は理解出来ませんでした。

虚子の序文で句集を飾ることで、自分の句集に箔をつけたいのかなと思い、久女って意外に権威主義の人かもしれないなどと思いました。

が、調べていくうちに、当時の俳句の世界では最初の句集を出版する時に師の序文を仰ぐのは、お墨付きというか、ごく普通のやり方のようで、ほとんどが師の序文で飾られています。

句と序文はセットになっていて、句集の紹介や俳句事典などでも句の作者と並んで序文の執筆者が明記されています。それほど句集と序文は一体のもののようです。

高浜虚子は多くの弟子の句集に序文を与えていて、序文の名手と呼ばれることもあった様です。この頃には昭和7年に山口誓子『凍港』、野村泊月『比叡』、昭和8年には富安風生『草の花』、昭和9年は山口青邨『雑草園』、西山泊雲『泊雲句集』、川端茅舎『川端茅舎句集』などに序文を書いています。
<高浜虚子 1874-1959>

多くの『ホトトギス』の作者達が、この様に師の序文を得て句集出版を果たしているので、同じ『ホトトギス』で育った久女も師の序文を仰ぎ、句集を飾りたいと考えるのはもっともなことでしょう。

そして昭和7、8、9年に三度の『ホトトギス』雑詠巻頭を得て、実力も充分な久女なので、虚子がすんなりと序文を書いてくれると信じていたと思います。ところが、そうはならず虚子の序文はなかなか得られませんでした。

それなら自分で序文を書くか、序文なしで出版してもいいのではと、私などは思いますが、虚子を誰よりも崇敬している久女にとって、師の序文なしの句集出版は考えられないことだったのでしょう。

師の序文なしで出版しても、『ホトトギス』の人々からは、師の許しも得ない勝手な句集出版とみなされ、結社以外の人々からは、弟子でありながら序文ももらえない立場なのかということになり、久女にとって師の序文が得られないということは、句集出版そのものが出来ないという事を意味していたようです。

門下の多くの弟子たちに序文を与えている虚子なのに、久女にだけは与えなかったことを、私は何だか非常に不自然に感じるのです。
 

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俳人杉田久女(考) ~句集出版出来ず~ (54)

2016年04月03日 | 俳人杉田久女(考)

前回書いた池上不二子著「俳句に魅せられた六人のをんな」の中で、著者の不二子さんは、久女が翌年、昭和9(1934)年の上京の時も池上家に宿泊したと書いています。

前年の昭和8(1933)年の上京時には虚子の序文が貰えず、句集出版の運びになりませんでしたが、久女はあきらめきれず、昭和9年の再度の上京になったものと思います。

平成23年秋に北九州市で催された「花衣 杉田久女展」の図録の最後に、杉田久女年譜が載せてあり、この年譜はおそらく久女展のスタッフが作成したもとの思われます。それによると、
この昭和9年の上京は4月17日~28日となっています。この時、星野立子、水原秋櫻子、川端茅舎に面会したが、虚子には会えなかったとの記述があります。虚子は故意に会わなかったのかもしれません。

花の旅とある下の句はこの時のものでしょう。

       「 まだ散らぬ 帝都の花を 見に来たり 」

       「 虚子留守の 鎌倉に来て 春惜しむ 」

同じくこの旅で、川端茅舎に面会した時にこんな句を得ました。

       「 訪れて 暮春の縁に あるこゝろ 」

       「 水そゝぐ 姫竜胆に 暇乞い 」

川端茅舎はこの年(昭和9年)に、虚子の序文を得て『川端茅舎句集』を出版しているので、そのこともこの面会の時、話題になったでしょう。虚子の序文が貰えず、苦しんでいる久女は羨ましかったでしょうね。

『俳句に魅せられた六人のをんな』の中には、昭和8年、9年と2回上京し、池上邸を宿として句集出版のために懸命に奔走する久女の姿が書かれているのですが、そこまでしても虚子の序文が貰えず、結局句集出版とはなりませんでした。
<池上不二子著『俳句に魅せられた六人のをんな』>

本の中に〈句集の刊行が出来ないと決まってからの久女さんは、いたいたしい程焦慮していた。〉との描写があります。この時の久女の焦燥、嘆き、絶望はいかばかりかと、哀れで胸がつまります。

久女が出そうとしていた、まぼろしの句集の題名は『磯菜』で、装幀は池上浩山人、出版社は龍生閣、出版予告まで出たそうですが、虚子の序文が貰えない為、久女の意志で出版取りやめになりました。

久女の長女、石昌子さん作成の久女年譜にも、昭和9(1934)年に句集上梓の希望を持ち、虚子の序文を要請するも希望容れられず、とあります。

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