日本福音ルーテル二日市教会 筑紫野市湯町2-12-5 電話092-922-2491 主日礼拝 毎日曜日10時半から

ルーテル教会は、16世紀の宗教改革者マルチン・ルターの流れを汲むプロテスタントのキリスト教会です。

1月19日

2025-01-22 13:49:14 | 日記
イザヤ62:1~5 コリント112:1~11  ヨハネ2:1~11
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二日市教会主日礼拝説教 2025年1月19日(日)
ある宣教師―その1
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
 これからお話しするのは、アンドリュー・エリスという人のことです。この人はルーテル教会のアメリカ人宣教師で、熊本で長く仕事をした人です。
 さてアンドリュー・エリスは、アメリカのデトロイトで、1926(大正15)年に生まれました。父親は二十歳過ぎにイギリスからの移民、母親もスコットランドからの移民で、この二人のもとに生まれたのでした。
ところで父親はイギリス聖公会の、母親はスコットランド長老教会の信徒だったので、子どもたちは二つの教会の間を行き来しました。ところが、大工の父が家を新しい場所に新築した時、最も近い教会はルーテル教会でした。
 なお当時のルーテルは、ドイツの移民の教会で言葉もドイツ語でした。ところがそのちかくのルーテル教会は、英語で礼拝をすると分かったので、家族はその教会に移りました。以後、アンドリューは最後までルーテルの会員でした。
 さて、アンドリューが15歳になった時期,アメリカと日本は戦争を始めていたので、アメリカ人と日本人は憎み合う関係になっていました。そんな時ある女性宣教師がアンドリューの町にやってきました。彼女はパウラスさんと言い、熊本のルーテル教会の慈愛園という福祉施設で長く働いてきましたが、戦争が起きて日本にいるアメリカ人は本国に帰ることになり、彼女も帰ってきたのでした。

 さてパウラスさんはデトロイトのアンドリューの教会で、日本の話をしました。彼女は言いました。「日本人と私たちはまったく同じ人間です。戦争は残念ですが、それでも私たちは日本人をも愛するべきです。戦争はいずれ終わります。その時、日本にはたくさんの宣教師が必要になることでしょう」。
 会場には、アンドリューのような若者も多く来ていました。アンドリューは彼女の熱いまなざしが自分に向けられているような気がしました。そして、この日のことが彼の人生を大きく決定することになりました。
 なぜなら彼はこのあとアンドリューは神学校に入ったからです。そして、終戦後の1950年に按手礼を受け牧師になりましたが、自分の希望する進路を教会の本部に伝えていました。そして彼は卒業後、別の学校で一年間、日本語の勉強をしました。そしてそのあとは、実家のあるデトロイトに戻って、日本行きの準備を始めました。実はその準備にはクルマのことが関係していたのでした。
 というのも、当時のアメリカのルーテル教会の海外宣教本部は、終戦直後の日本での新しい伝道計画を立てていたからです。それは、小型トラックほどの大きさのクルマを制作し、野外で映画会が可能な映写機を装備させ、またそのクルマには絵本や児童書や紙芝居も大量に積み込んで、日本全国各地を隈なく巡回して伝道活動をするという大がかりな計画だったからです。

 ところで、その計画のために必要な車両は、デトロイトが本社のフォードかGМに作ってもらい、完成車を日本に届けることにしていました。そのためにそのクルマを運転して日本に行く担当者として、近々日本に行く新卒のエリスさんに、本部は白羽の矢を立てたのでした。
 そんなわけで、宣教師になりたてのエリスさんは、日本に行くために、客船ならぬ貨物船に、クルマといっしょに乗船しました。目指した横須賀港に到着したのは昭和26年でした。当時は朝鮮戦争の真っ最中で、巨大な戦艦が港に停泊していました。なお彼が横須賀で降ろされたのは、その貨物船が軍事機密に関わっていたからだとあとから知らされました。
 そこで彼は、そのクルマを運転して横須賀港から横浜税関まで走りました。ところで彼に与えられていた任務はそのクルマを熊本に届けることでした。しかし横浜税関は、クルマは海上輸送をするから、お前は門司港税関に受け取りに行けと言いました。つまり、門司までは運転しなくてよくなったのでした。

そこで、エリスさんは時間に余裕ができたので、日本でぜひ会いたいと思っていた人をたずねました。その人はやはりアメリカ人宣教師で、名前はスタイワルトと言いました。彼は戦時中も米国に帰るのを拒否し、日本に住み続けていました。
 さて、スタイワルト先生は、訪ねてきた新参の宣教師にこう言いました。「日本も大変ですけど、幸いなことが三つあります。まず雨です。雨はよく降ります。この国は雨が多く、陽もよく照るから野菜が豊富に出来る。あとひとつは魚です。魚とご飯。最後に果物もたくさん出来る。雨、魚、果物。これで日本は助かります。」
 日本中が空腹な思いをしていることを知っていただけに、とても印象的な言葉でした。さてこのあと、門司港に行き、クルマを熊本まで運転してようやく目的を果たしました。ところが、日本の宣教師会は、運転が上手なこの若者をまだ必要にしていました。なぜなら会は、クルマをフル活用する新しい伝道の姿を模索していたからで、それを担う柱として彼を考えていたからです。しかもその伝道の第一歩を熊本で実行することにしていたので、エリスさんはこのあとも熊本を離れるわけにはゆかなくなり、それと車の運転から解放されることもなかったのでした。(この続きは次回にします)。 (日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義

次週 1月26日 顕現後第3主日
説教題:ある宣教師 その2
説教者:白髭義 牧師
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