日本福音ルーテル二日市教会 筑紫野市湯町2-12-5 電話092-922-2491 主日礼拝 毎日曜日10時半から

ルーテル教会は、16世紀の宗教改革者マルチン・ルターの流れを汲むプロテスタントのキリスト教会です。

1月5日

2025-01-09 13:57:09 | 日記
エレミヤ31:7~14  エファソ1:3~14  ルカ2:22~32
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二日市教会主日礼拝説教 2025年1月5日(日)
ブラームス考
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
  新年の最初の日曜日、ここ数年は大作曲家の話をしてきました。その意味で本日はブラームスなのですが、彼とキリスト教とを結びつける人はあまりいないかもしれません。それと、私自身がブラームスをそんなには聴いていないことも告白させていただかなくてはなりません。
 それはともかく私は、大学時代は博多で過ごしました。そこで、家から遠くないシャコンヌという名曲喫茶にはよく通いました。一日中クラシック音楽の店ですが、客がリクエストすればそのレコードもかけてくれました。
 その時期、『ブラームスはお好き』という新潮文庫の広告が新聞に載りました。フランスの女性作家の作品でしたが、ただ私は「お好き?」と聞かれても返事のしようがありませんでした。名曲喫茶でもブラームスを聴いた記憶がなかったからです。
 なお、この話には後日談があります。この本はフランスで映画化され、日本語版も1961年に上映されました。ところが日本語版の時の題は『ブラームスはお好き』ではなく『さよならをもう一度』でした。つまり‟ブラームス抜き“の映画になったのでした。当時の日本でブラームスの影がいかに薄かったかという話です。それに私もそういう日本人の一人なのでした。ところで、その私がブラームスを聴くようになるのは、40年もあとのことでした。ブラームスは私にとっては時間がかかる音楽家なのでした。
 時間のことで言うと、意味は違いますが、ブラームス自身も時間がかかる人間でした。なぜなら、彼の交響曲第1番が出来たのは43歳の時だったからで、ベートーベンの第1は29歳の時ですから、かなり遅かったからです。でも、そのおかげというか、彼の交響曲第一番はベートーベンの第九と並べて遜色がないと言われるようになり、「第10交響曲」と呼ばれたりもしました。遅いのは必ずしもダメではないのです。

 ところで、時間がかかるで思い出すのは、クララ・シューマンとの関係です。クララの夫ロベルト・シューマンは≪女の愛と生涯≫≪詩人の恋≫の作曲家でしたが、彼女がまだ若い時に不幸な死をとげました。その時ブラームスはシューマンの弟子だったのですが、以後は遺族の面倒を見るようになり、子どもたちが成人したのちまで面倒を見続けました。そんな彼がクララに恋をしていたとしても、少しも非難される話ではありません。なお、彼女は一流のピアニストで世界中で活躍していました。つまり、経済的には全然困窮していたわけではなく、また亡き夫に対して抱き続けた愛情は死ぬまで変わらなかった女性でした。なお、彼にも縁談めいた話は沢山ありましたが、一つも実を結びませんでした。そして、クララが先に死んだ時、彼はいつものように独身でした。
しかしこのことは、ブラームスにとって気の毒な話ではありませんでした。なぜなら彼には、独身があまりにも身につきすぎていたからです。結婚は魅力だけれど、それで自由が奪われるのはいやだ。束縛を嫌い、孤独を愛するスタイルを生涯つらぬいたのがブラームスだったからです。世間は、彼とクララをかなわぬ悲恋と呼びたがりますが、ブラームスはこの件で深い傷を負ったのではありませんでした。

なお、ブラームスは死者の霊を慰める音楽・レクイエムを作曲しています。その曲の題は『ドイツ・レクイエム』でした。なぜ「ドイツ」かというと、この合唱曲の歌詞がドイツ語だったからです。というのもレクイエムはモーツアルトやフォーレでわかるように言葉はラテン語と決まっていたからです。ブラームスはその伝統を無視したのでした。
ただこれにはわけがありました。ラテン語で歌うのはカトリック側でしたが、彼はプロテスタントなのでラテン語にこだわらなくてよかったからです。しかも合唱で使ったドイツ語はルターが翻訳したドイツ語聖書の言葉でした。つまり、彼はこの作品で、自分はプロテスタント、しかも宗教改革の流れにあることを鮮明にしたのでした。
元を正せば、彼の親がルーテル教会で、彼もそこで洗礼を受け、死ぬまでルーテルの人間であり続けました。彼は生まれつきルーテルでプロテスタントなのでした。それよりも、彼が育ったのは貧しい家庭でした。音楽を学びたいと思った時は、学費を稼ぐために居酒屋でアルバイトをしました。そこは似たような境遇の若者が集まって、歌ったり踊ったりする場所だったので、彼はそのためピアノを弾くバイトをしたのでした。

ところで彼は生涯独身だったので、食事はいつも外食で、食べに行く店もやはり居酒屋でした。居酒屋が食堂を兼ねるのは普通でした。彼も人生の後半では一流音楽家としてそれ相応の収入を得ていました。それでも食事が、一流レストランではなく、若い時から通い慣れた下町の居酒屋なのでした。すると食事中の彼に若者たちが声をかけてくることがありました。自分たちが踊る曲を、ピアノが上手なこのお年寄りに弾いてもらうためで、そのような依頼はブラームスにはお安い御用でした。そして、ずっとのちに世界中で演奏されるようになった彼の『ハンガリー舞曲は、そのルーツをさぐるなら、この下町の居酒屋にあるのでした。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)


次週 1月12日 主の洗礼日
説教題:赤ずきん考
説教者:白髭義 牧師
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