関川神社境内に芭蕉の句碑「夏の月御油より出でて赤坂や」がありました。
広重五十三次 赤坂(旅舎招婦ノ図)
赤坂は「御油や赤坂吉田がなくばなんのよしみで江戸通い」「御油や赤坂吉田がなけりゃ親に勘当うけやせぬ」等と当時言われていたようで、遊女の多い歓楽街として栄えた宿場だったそうです。
少し走ると左手にやたらに古い建物が有り、「大橋屋」の看板とでっかい古ぼけた提灯が掛かっていた。
ここが、知る人ぞ知る、知らない人は知らない(当たり前だ)東海道にただ一軒の現存する旅籠、そうです、現在でも宿泊出来るんです。
「大橋屋」は大旅籠で間口9間、奥行23間ほどありました。旧屋号を鯉屋と言いました。町指定の文化財になってはいますが建物の内部が改装されて居る為、国指定の文化財にはならなかったようです。
しかしながら現在も江戸時代(正徳六年(1716)頃)の建物で営業を続けているとは、感慨一入です。
旅へ出る前に「大橋屋」さんが営業しているのを知っていたら絶対ここで一泊したかったですね。
お女郎さんの部屋に泊まって、あんなことしてこんなことして、妄想が頭の中を駆け巡り、鼻の下がビロ~ンと伸びちゃったりしますが、現実には二階の街道が見える和室が三部屋だけの営業だそうです。
愛知県宝飯郡音羽町赤坂紅里127
電話 0533-87-2450
宿泊料金・1泊2食 1万円~
この情報を知ったのは、この道の少し先に三人のおじさんがたむろしてたんですよ、何気なく観ると音羽町資料館。
おじさん達の「寄っていきなさい」のやや強引なお誘いに、それではと中を覗きお話しを伺いました。
このおじさん達、何を隠そう、何も隠していません(また、はじまった!)
ボランティアでここを訪れる人達に、町の歴史を伝えて下さって居るそうです。
赤坂宿愛好会の資料をいただき、丁寧に説明して下さいました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/51/376b1deff145eaa566f7be1cd2f1911d.png)
説明していただいた鈴木守雄氏は、旅籠伊豆倉屋金四郎の子孫で、旅籠は取り壊してしまったが自宅は元の場所にあり、当時の資料を現在も自宅にお持ちだとか。
その資料の中に「宿置き飯売り奉公人請状のこと」と云うのがあります。
娘の身売りの契約書です。
内容は、百姓が年貢を払えなくなったので、娘を奉公に出します。
年季は14年1ヶ月、給金は二両です。
娘の身の上に何が起きても一切苦情を申し立てません。
娘を他へ身売りするのもそちらに任せます。
年季が明けたら返して下さい。
文久三年(1863)
と、まあ、こうして売られて来た娘達がこの赤坂宿で書類では「飯売り奉公人」ですが実態は「飯盛り女」「遊女」だったようです。
因みにこの証文の文久三年から6年後に時代は明治となります。
参勤交代で赤坂宿に泊まる大名達も華やかな「お女郎さん」の居る旅籠へ泊まりたかったのですが、大名は本陣以外に宿泊する事を許されていなかったのです。
まして「お女郎さん」の居る旅籠へ入る事など許される筈が有りません。
しかし、それ、世の中には表もあれば裏もある。
そこで、赤坂宿に御駕籠に乗ったままでも入れる、そうです、現代のモーテルの様な旅籠が出来たそうです。
御駕籠に乗ったままでも入れるんですから、玄関も大きかったそうです。
お話しをしてくれた鈴木氏も「子供の頃にそこで遊んだんだよ、玄関も槍持ちがそのまま入れる程、高くて」と懐かしそうでした。
その当時この赤坂は、数千人も宿泊できたと云いましから、もの凄い繁盛だったんですね。
その後、別のボランティアの方が杉森八幡社を案内してくれました。
ここには平成十三年に復元されたと云う、立派な回り舞台が有りました。
舞台の端に立っている人、数人掛かりで棒のような物を使って回すそうです。
案内の方も踊り子だそうですが、出来てから2回しか踊る機会が無かったと少し残念そうです。折角の回り舞台ですから是非有効に使っていただきたいですね。
地元の方々とのお話は、本に載っていないような事が聞けて、旅の楽しさが増し私の心を豊にしてくれました。
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広重五十三次 赤坂(旅舎招婦ノ図)
赤坂は「御油や赤坂吉田がなくばなんのよしみで江戸通い」「御油や赤坂吉田がなけりゃ親に勘当うけやせぬ」等と当時言われていたようで、遊女の多い歓楽街として栄えた宿場だったそうです。
少し走ると左手にやたらに古い建物が有り、「大橋屋」の看板とでっかい古ぼけた提灯が掛かっていた。
ここが、知る人ぞ知る、知らない人は知らない(当たり前だ)東海道にただ一軒の現存する旅籠、そうです、現在でも宿泊出来るんです。
「大橋屋」は大旅籠で間口9間、奥行23間ほどありました。旧屋号を鯉屋と言いました。町指定の文化財になってはいますが建物の内部が改装されて居る為、国指定の文化財にはならなかったようです。
しかしながら現在も江戸時代(正徳六年(1716)頃)の建物で営業を続けているとは、感慨一入です。
旅へ出る前に「大橋屋」さんが営業しているのを知っていたら絶対ここで一泊したかったですね。
お女郎さんの部屋に泊まって、あんなことしてこんなことして、妄想が頭の中を駆け巡り、鼻の下がビロ~ンと伸びちゃったりしますが、現実には二階の街道が見える和室が三部屋だけの営業だそうです。
愛知県宝飯郡音羽町赤坂紅里127
電話 0533-87-2450
宿泊料金・1泊2食 1万円~
この情報を知ったのは、この道の少し先に三人のおじさんがたむろしてたんですよ、何気なく観ると音羽町資料館。
おじさん達の「寄っていきなさい」のやや強引なお誘いに、それではと中を覗きお話しを伺いました。
このおじさん達、何を隠そう、何も隠していません(また、はじまった!)
ボランティアでここを訪れる人達に、町の歴史を伝えて下さって居るそうです。
赤坂宿愛好会の資料をいただき、丁寧に説明して下さいました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/51/376b1deff145eaa566f7be1cd2f1911d.png)
説明していただいた鈴木守雄氏は、旅籠伊豆倉屋金四郎の子孫で、旅籠は取り壊してしまったが自宅は元の場所にあり、当時の資料を現在も自宅にお持ちだとか。
その資料の中に「宿置き飯売り奉公人請状のこと」と云うのがあります。
娘の身売りの契約書です。
内容は、百姓が年貢を払えなくなったので、娘を奉公に出します。
年季は14年1ヶ月、給金は二両です。
娘の身の上に何が起きても一切苦情を申し立てません。
娘を他へ身売りするのもそちらに任せます。
年季が明けたら返して下さい。
文久三年(1863)
と、まあ、こうして売られて来た娘達がこの赤坂宿で書類では「飯売り奉公人」ですが実態は「飯盛り女」「遊女」だったようです。
因みにこの証文の文久三年から6年後に時代は明治となります。
参勤交代で赤坂宿に泊まる大名達も華やかな「お女郎さん」の居る旅籠へ泊まりたかったのですが、大名は本陣以外に宿泊する事を許されていなかったのです。
まして「お女郎さん」の居る旅籠へ入る事など許される筈が有りません。
しかし、それ、世の中には表もあれば裏もある。
そこで、赤坂宿に御駕籠に乗ったままでも入れる、そうです、現代のモーテルの様な旅籠が出来たそうです。
御駕籠に乗ったままでも入れるんですから、玄関も大きかったそうです。
お話しをしてくれた鈴木氏も「子供の頃にそこで遊んだんだよ、玄関も槍持ちがそのまま入れる程、高くて」と懐かしそうでした。
その当時この赤坂は、数千人も宿泊できたと云いましから、もの凄い繁盛だったんですね。
その後、別のボランティアの方が杉森八幡社を案内してくれました。
ここには平成十三年に復元されたと云う、立派な回り舞台が有りました。
舞台の端に立っている人、数人掛かりで棒のような物を使って回すそうです。
案内の方も踊り子だそうですが、出来てから2回しか踊る機会が無かったと少し残念そうです。折角の回り舞台ですから是非有効に使っていただきたいですね。
地元の方々とのお話は、本に載っていないような事が聞けて、旅の楽しさが増し私の心を豊にしてくれました。
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