昨日のコーチング勉強会は「コーチのプレゼンスがテーマだった。
中で、コーチのコアコンピテンシーからユーモアが取り上げられた。
曰く、コーチは「軽やかさとエネルギーを生み出すために、ユーモアを効果的に利用することができる。」
さて、ユーモアとはどんなものだろうかと考えてみました。
辞書には、人の心を和ませるようなおかしみ。上品で、笑いを誘うしゃれ。などと書かれていた。
具体的な行動としてのいたずらも含まれ、人間同士のコミュニケーションにおいて、会話を弾ませるための潤滑剤として用いられる事もあるようだ。
ユーモアを理解し、創造するには、言葉の教養が必要とされ、異言語のユーモアは理解しにくく、「翻訳が困難である」と考える学者もいるらしい。
相手の立場を思いやり、自分と相手を対等に置いて接する人にしか、ユーモアのセンスは持てないと言われており、相手を見下したり、逆に卑屈になったりする人には、ユーモアの資質が欠けるとか。
ユーモアに関係する概念としては、ジョーク・駄洒落・言葉遊び・冗談・法螺(ほら)・風刺・ギャグなどがあるようです。
人の行為、かかわりについての深い洞察や世知の豊かさが、上品でセンスのあるユーモアを生み出すことが多く、知的な要素が強い場合は、機知(ウィット)と呼んだほうがよさそうです。
特定のユーモアは、人によって不愉快、気が利いてない、つまらないと感じられる場合がある。例えば、知的なセンスの誇示の手段としてユーモアが用いられた場合、自己顕示が強くなりすぎると「知ったかぶり」に堕すこともある。性的なニュアンスを含んだユーモア表現として下ネタもよく使われる。これは行き過ぎるとセクシャル・ハラスメントとなる。異様にグロテスクな話題、宗教・生命・差別などに関する常識的な倫理や禁忌(タブー)にあえて逆らい、世相と人柄を皮肉ったユーモアは「ブラックユーモア」と呼ばれる。穏やかなユーモアと比べて不愉快に感じる人間が多い一方で、その刺激を楽しむ人もいるとか。または差別の対象となる人間が、あえてブラックユーモアを口にする事もあるらしい。
そうなると、コーチはどんなユーモアのセンスを持てば良いのだろうか。
まあ、私の好きないたずらじゃないことは確かですな。
「人間同士のコミュニケーションにおいて、会話を弾ませるための潤滑剤」これでしょう。
この潤滑剤を手に入れるには、「相手の立場を思いやり、自分と相手を対等に置いて接する」
「人の行為、かかわりについての深い洞察や世知の豊かさ」が求められそうです。
そして、「相手を見下したり、逆に卑屈になったり」「自己顕示が強くなりすぎる」「知ったかぶり」など、否定的態度に陥らない心がけが必要なのでしょう。
私がこのユーモアについて目覚めたのは小学校4年生頃だったと思う。
昭和34年(1959年)、その年、ビンボーだった我が家にもテレビがやってきた。
両親はさぞかし頑張ったことだろうと今にして思う。
今上天皇のご成婚のおかげである。
世間と同様我が家にもテレビっ子が出来上がった。
私は学校から帰るとテレビにかじりついていた。
テレビの画面の中での衝撃は、クレージーキャッツだった。
12:50からの「おとなの漫画」にはまった。此の年の夏休みの12:50~12:55はテレビの前で、クレージーキャッツの面白さと社会現象を斜めに切るやり方に新鮮な興奮を覚えたように記憶している。
「おとなの漫画」は月~土の5分間(その後10分になった)の帯番組で普段は学校があるので観られない。それで土曜日、当時は午前中のみの反日授業だったので、終業の先生の話が早く終わらないかと気が気ではなかった。
学校が終わると一目散に家まで走って帰った。
家に帰った途端にテレビのスイッチを入れる。
暫くすると、ぼわ~んと画面が明るくなる。
今のようにリモコンスイッチを入れたら直ぐに見られる訳じゃないのだ。
やがて真空管のブラウン管に、白黒の画像がぼんやりと現れる。
もどかしく、テレビの前に座っていると、テレビのスピーカーから軽快なテーマソングが流れてくる。
番組は殆ど生放送だったらしい。
キノトール・三木鮎郎・永六輔・青島幸男等の構成作家が、新聞記事のネタをコントに仕立てたもので、社会風刺・政治批判などが面白かった。
今思うとうなずけるのは、人に面白さや笑いを感じさせるって、やっぱり広範な知識や教養が必要なのだなということでした。
現在は笑われる人ですが、笑わせる人になりたい等と思う今日此の頃皆様如何お過ごしでしょうか。
中で、コーチのコアコンピテンシーからユーモアが取り上げられた。
曰く、コーチは「軽やかさとエネルギーを生み出すために、ユーモアを効果的に利用することができる。」
さて、ユーモアとはどんなものだろうかと考えてみました。
辞書には、人の心を和ませるようなおかしみ。上品で、笑いを誘うしゃれ。などと書かれていた。
具体的な行動としてのいたずらも含まれ、人間同士のコミュニケーションにおいて、会話を弾ませるための潤滑剤として用いられる事もあるようだ。
ユーモアを理解し、創造するには、言葉の教養が必要とされ、異言語のユーモアは理解しにくく、「翻訳が困難である」と考える学者もいるらしい。
相手の立場を思いやり、自分と相手を対等に置いて接する人にしか、ユーモアのセンスは持てないと言われており、相手を見下したり、逆に卑屈になったりする人には、ユーモアの資質が欠けるとか。
ユーモアに関係する概念としては、ジョーク・駄洒落・言葉遊び・冗談・法螺(ほら)・風刺・ギャグなどがあるようです。
人の行為、かかわりについての深い洞察や世知の豊かさが、上品でセンスのあるユーモアを生み出すことが多く、知的な要素が強い場合は、機知(ウィット)と呼んだほうがよさそうです。
特定のユーモアは、人によって不愉快、気が利いてない、つまらないと感じられる場合がある。例えば、知的なセンスの誇示の手段としてユーモアが用いられた場合、自己顕示が強くなりすぎると「知ったかぶり」に堕すこともある。性的なニュアンスを含んだユーモア表現として下ネタもよく使われる。これは行き過ぎるとセクシャル・ハラスメントとなる。異様にグロテスクな話題、宗教・生命・差別などに関する常識的な倫理や禁忌(タブー)にあえて逆らい、世相と人柄を皮肉ったユーモアは「ブラックユーモア」と呼ばれる。穏やかなユーモアと比べて不愉快に感じる人間が多い一方で、その刺激を楽しむ人もいるとか。または差別の対象となる人間が、あえてブラックユーモアを口にする事もあるらしい。
そうなると、コーチはどんなユーモアのセンスを持てば良いのだろうか。
まあ、私の好きないたずらじゃないことは確かですな。
「人間同士のコミュニケーションにおいて、会話を弾ませるための潤滑剤」これでしょう。
この潤滑剤を手に入れるには、「相手の立場を思いやり、自分と相手を対等に置いて接する」
「人の行為、かかわりについての深い洞察や世知の豊かさ」が求められそうです。
そして、「相手を見下したり、逆に卑屈になったり」「自己顕示が強くなりすぎる」「知ったかぶり」など、否定的態度に陥らない心がけが必要なのでしょう。
私がこのユーモアについて目覚めたのは小学校4年生頃だったと思う。
昭和34年(1959年)、その年、ビンボーだった我が家にもテレビがやってきた。
両親はさぞかし頑張ったことだろうと今にして思う。
今上天皇のご成婚のおかげである。
世間と同様我が家にもテレビっ子が出来上がった。
私は学校から帰るとテレビにかじりついていた。
テレビの画面の中での衝撃は、クレージーキャッツだった。
12:50からの「おとなの漫画」にはまった。此の年の夏休みの12:50~12:55はテレビの前で、クレージーキャッツの面白さと社会現象を斜めに切るやり方に新鮮な興奮を覚えたように記憶している。
「おとなの漫画」は月~土の5分間(その後10分になった)の帯番組で普段は学校があるので観られない。それで土曜日、当時は午前中のみの反日授業だったので、終業の先生の話が早く終わらないかと気が気ではなかった。
学校が終わると一目散に家まで走って帰った。
家に帰った途端にテレビのスイッチを入れる。
暫くすると、ぼわ~んと画面が明るくなる。
今のようにリモコンスイッチを入れたら直ぐに見られる訳じゃないのだ。
やがて真空管のブラウン管に、白黒の画像がぼんやりと現れる。
もどかしく、テレビの前に座っていると、テレビのスピーカーから軽快なテーマソングが流れてくる。
番組は殆ど生放送だったらしい。
キノトール・三木鮎郎・永六輔・青島幸男等の構成作家が、新聞記事のネタをコントに仕立てたもので、社会風刺・政治批判などが面白かった。
今思うとうなずけるのは、人に面白さや笑いを感じさせるって、やっぱり広範な知識や教養が必要なのだなということでした。
現在は笑われる人ですが、笑わせる人になりたい等と思う今日此の頃皆様如何お過ごしでしょうか。