Design Manhole Cover

Design manhole cover that gathered throughout Japan

宮城県石巻市 片付けボランティア募集

2011年05月28日 | ボランティア日記
北上川河口・日和大橋方面を日和山公園より撮影

石巻市災害復旧ボランティアセンター(以下石巻ボラセン)
http://msv3151.c-bosai.jp/group.php?gid=10163


片付けボランティア募集
http://msv3151.c-bosai.jp/fbox.php?eid=15725


ボランティアへの参加をお考えの方への情報提供です。

片付けボランティアは、個人・団体、日帰り・宿泊も日数を問わず参加できます。
石巻ボラセンでは、予約なしでも受け付けていますが、天候などの関係で休止も有りますので、事前確認をされるとよいでしょう。
場所は、石巻専修大学内に有ります。
テントサイト・駐車場もありますので、複数日参加予定の方は事前に確認をとって置かれることをお薦めいたします。
アクセスガイドはこちらから、
http://www.isenshu-u.ac.jp/general/access/

また、大学構内ですので、事前にテントサイトルールなどにも目を通しておかれることをお薦めいたします。

作業用必需品(自前での準備)
安全長靴(鉄板入り)
中敷き(釘等の踏抜き防止)
ゴム引きの手袋
ヘルメット又は帽子
マスク(防塵用)
ゴーグル・防塵用メガネ
雨具(防水作業着・カッパ)
着替え
自分用の食料・飲料水
作業用の工具類(スコップ・ハンマー・バール等)はボラセン倉庫で借りることも出来ますが、お持ちの方は持参されることをお薦めいたします。


今回は息子と二人での日帰り参加です。
受付を済ませ、他の方々と6名のチーム編成で、私の車ともう一台の乗用車に分乗し、救援依頼のお宅へ向かいます。
石巻市内でも、幹線道路沿いは瓦礫の撤去が終わっていますが、北上川沿いや海の近くでは信号も点かず、兵庫県警の方々が交差点で手信号での交通整理をしてくれていました。

民家や商店・工場等の一階部分が柱だけだったり、舟が突っ込んでいたり、乗用車はフツーにひっくり返り重なりあって、そこここの家の中や空き地に壊れたまま放置されています。

物凄い瓦礫地帯で重機が瓦礫の除去を行っていますが、そこは私達ボランティアが手を出す場所ではありません。

私たちが向かったのは、津波が床上まで浸水した地域のお宅です。
地震で大谷石の塀が崩れてしまったので、その石の撤去作業です。
めちゃくちゃ重いです。

今回の6人チームでは、東京・神奈川からが3人、地元宮城が3人。
初めての災害ボランティアが4人。日帰りが4人、2泊ひとり、連泊ひとりでした。

休憩時間に少しだけお話を聞くことが出来ました。
皆さんがそれぞれの想いを胸に参加された様です。

救援依頼をされた方に終了確認をしてもらい、チームのメンバー達と「じゃ、お元気で」と握手を交わし、みんな笑顔で、「ありがとうございました」の言葉で別れを告げました。

ボラセンで出発前に、チームリーダーに指名されたんですが、終了の報告書を提出してやれやれ一安心しました。
全員、怪我が無く今回の困難な作業を終えられたことが何よりでした。
人の役に立ちたい。誰かのために何かをしたい。と、3.11以来ずっと思ってきた気持ちが満たされた。自己満足と云われてもいい、何と云われようと構わない。等と思う今日この頃、皆様如何お過ごしでしょうか。

 日和山公園

 今回の作業地域

中越センター閉鎖

2005年04月10日 | ボランティア日記
新潟県災害救援ボランティア本部中越センターから手紙が届いていました。

活動の役割を終え3月31日でセンターを閉鎖したとのことだった。
たった、六日間の滞在でしたが、貴重な経験をさせて頂きました。
仲間の皆さん、スタッフの皆さん本当にご苦労さまでした。

被災地の復興と皆様のご健勝をお祈り致します。



大根が美味しかったですか、そうですか、それは良かった。

新潟中越地震:山間の仮設、3人だけ…募る不安 ボランティアも訪れず

2005年01月20日 | ボランティア日記
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/news/20050120dde041040061000c.html
毎日新聞に依りますと。
[新潟県中越地震で震度7を観測した川口町木沢地区に、2世帯3人だけの仮設住宅があり、住民は高齢者ばかり。積雪は3メートル前後になるが、雪下ろしもままならない。
「2世帯だけのためにボランティアの方に来てもらうのも申し訳ない」と言いながらも、不安を募らせている。]とのことです。

この木沢地区は、去年のボランティアで塩谷地区への行き帰りに通りましたが、あの山の中でそれも雪中での生活はさぞやご苦労な事と推察致します。
雪下ろしは、大変に危険の伴う作業と聞いて居ります。従って雪下ろしのボランティアは未経験者では危険な為、地元や県内の経験者を募集して居ると聞いて居りましたが、その辺がどうなっているのか、調べましたら以下の通りです。
http://www.nponiigata.jp/jishin/archives/000030.html
今年は、予想を超える積雪に加えて、消雪パイプの破損により雪かきが進んでいないようです。
年末のインドネシアの津波被害では22万人を超える犠牲者が出ているようです。
そのことで新潟県中越地震を忘れてはいないでしょうか、先の記事を書かれた内橋寿明記者、実にタイムリーな報告だと思います。
もう一度思い出して下さい、新潟の被災者に手を差し伸べようではありませんか。



長岡日記ー6-2(新潟中越地震災害ボランティア)

2004年12月22日 | ボランティア日記
画像は関越道から撮った、雪中の小千谷仮設です。

今日で6日間のボランティアを終えて明日帰宅致します。
後方支援のつもりで来たのですが、いくつもの災害最前線を見せていただきましたし、お手伝いもさせて頂きました。
今も心に残るのは、お孫さんを亡くされたおじいさんを照会された時でした。
ご挨拶の言葉が出て来ません、なんと言ったら良いのか言葉が見付からないんです。只、頭を下げるしか出来ない私でした。(ホントに情け無い奴です)

これから被災地は雪に覆われて約3ヶ月の間、ボランティアは山に入ることが出来ません。
私達に出来る事は、復興のお手伝いと経済的な協力でしょう。
復興のお手伝いは春3月を待たなければなりませんが、経済的な協力でしたらこの冬の間にも出来ると思います。
それは新潟県へスキーや温泉、宿泊旅行等の観光に行って頂きたいと云うことなのです。
他県を予定していた方は是非、新潟県へ行って新潟県にお金を落として下さい。
その経済活動が地元の復興に役立つのです。
被災者の側では気が引けて楽しく遊べないとか、なんか悪いような気がすると言う
方の声も聞きますが、被災者の方達は「是非、新潟に来て下さい、それが私達には一番嬉しい事です。」と仰っていました。

自分に出来る事を無理せず遣りたいと思います。

おわり

長岡日記を読んで何かを感じたら

長岡日記ー6-1(新潟中越地震災害ボランティア)

2004年12月22日 | ボランティア日記
画像は自分で雪囲いを作っているところ、すきま風は防水テープを貼り付けて防いでいるそうです。

歯が痛んだので目覚めたら夜中の3時過ぎ、突然ガタガタガタガタ、縦揺れ地震が・・・。それ程大きな地震ではなかったので一安心して、歯の痛み止めを飲んで一眠り・・・、寝坊してしまった。
窓から外を見ると雪でした。
雪の中を、これが地元神奈川だったら大雪だな等と考えながら魚沼ボラセン(ボランティアセンター)へ、ボランティアが必要との事だったので、中越センターから2名で出動だったが。
魚沼へ着いたたら「今日は雪なので作業中止!」
ではと、田麦山を目指し雪道を今日始めて運転するパジェロで飛ばす。
流石にオフロードカー・パジェロ、これくらいの雪では4WDにしなくても全然ヘーキだな。
田麦山に着いて見ると物資部の車がいる、昨日頼まれた物資をこれから資材ベースに取りに行くとのことなので、我がチームも合流して助っ人。
資材ベースに着いて見ると約15cmの積雪、思わず学生ボランティアが雪合戦などおっぱじめやがって、可愛いったらありゃしない。
ここは川口を見下ろす小高い山の上にある。僅かな高低差でも随分積雪が違うもんだな。
物資を田麦山に運び、仮設(仮設住宅)の情況を見てから川口ボラセンへ。

新潟は雪国です、仮設にも雪囲い(ゆきがこい)が必要なんです。
雪囲いって言うのは出入り口の外側に囲いを作って、出入り口の戸を開けたときに外の雪が家の中まで直接吹き込まないようにするための、いわば二重ドアの外側とか防風スクリーンと思って貰えれば良いと思います。
けれど与えられた仮設には雪囲いは無く、取り付けは各個人の自費で行わなければなりません。男手の有る家はまだ良いのですが、婦女子、老人宅ではこの「雪囲い」の取り付けもままなりません。これにも今直ぐボランティアが必要なんです。

各ボラセンでのお話を聞く機会が有ったけれども、それぞれが様々な想いや思惑で動いているなあ、と云うのが素直な感想かな。
それぞれでのお話には皆、頷けるし成る程と感心したりもするんだけど、別組織のボランティアグループに向ける視線は随分と冷ややかだな。
まあ、自分のとこのボラセンが一番頑張って居るんだって云う自負が有るのかもしれないけど、もう少し広い気持ちを持っても良いんじゃないでしょうかね。

お風呂は毎日長岡市内のスーパー銭湯に通ってました。今日は露天風呂に浸かって頭に雪が降り掛かるって云う実に風流なお風呂でした。


長岡日記ー5-2(新潟中越地震災害ボランティア)

2004年12月21日 | ボランティア日記
画像は雪が降り出してきた田麦山ボランティアセンターへ相談に訪れた地元の
方達の車。

途中、山間部では雨が雪に変わった。

ラジオが自衛隊は本日撤収したと伝えていました。
そう言えば今日はあまりヘリコプターが飛んでいるのを見かけなかったな。
日本財団も撤収するようだ。

今日は始めての後部座席での巡回に途中居眠りが出て困ったな。



長岡日記ー5-1(新潟中越地震災害ボランティア)

2004年12月21日 | ボランティア日記
画像は浦柄で生き残った錦鯉。

朝、目覚めたら奥歯が猛烈に痛い、近くの歯科へ行き治療してもらった。

午後、雨の中、田麦山、魚沼、栃尾の各ボラセン(ボランティアセンター)を巡回。
今後ボランティアセンターに求められるものはなんなのか、現地ボランティアの声を直に聞き取りに来ているのだが、各ボラセン、や各自治体、各社協(社会福祉協議会)により考え方が随分違うようだ。
ボラセン自体縮小して行くのだろうが、救援活動から復興支援活動へとその役割が変わって行くのかもしれない。

これからは地元の方々の手によって復興に向けた作業が始まるのだろう。


長岡日記ー4-2(新潟中越地震災害ボランティア)

2004年12月20日 | ボランティア日記
画像は崖崩れのため通行不能の道路(南荷頃)

午後からは昨日入った南荷頃(みなみにごろ)での作業になった。
今日は通行許可証を手配して貰ったので中越センター隊は車2台で栃木桑原隊の先導の元現地へ進入出来た。
昨日、栃木桑原隊の車に同乗して走った道を今日は私がハンドルを握って走るのだ、顔には出さないつもりだが内心はかなり緊張している。
昨日の現場に入ったら、栃木桑原隊や日本財団・JR等の方々が泥にまみれて作業をしておられた。
私達の中越センター隊も早速作業に参加、私も長靴に履き替えて作業開始。
洪水で流れて来て、道路に取り残されたゴミの撤去は、取り敢えず人海戦術で道路に溜まった泥を土嚢袋に詰め込むんだが、これがたっぷり水を吸い込んで重いし、粘土質の土なので粘ってスコップから離れないし、私の様な素人にはキツイのナンノってありゃしない。
この泥をトラックに積み込むまでがここの現場の作業だ。
この作業を黙々と行う。
その後、川口ボラセン、田麦山ボラセンに災害救援ボランティア情報「かわらばん」を届け本日の作業終了。



長岡日記ー4-1(新潟中越地震災害ボランティア)

2004年12月20日 | ボランティア日記
画像はズタズタになったゴルフ場のグリーン。

今日の中越センター隊は、愛知県から来た高校生のボランティア4人の手を借りて午前中資材ベースの掃除、後片付けを行った。
雪の時期を真近に控えて、各ボランティアセンターは活動を縮小している。
各地の災害現場でまだ片付いていない所もあるが、雪が降ったらそれ以降の作業は出来なくなる。
作業出来るうちに今まで使った資材を片付けなければならないからなのだ。
午前中はポカポカの陽気で綺麗な空気と云うことでまるでピクニック気分だった。


長岡日記ー3-2(新潟中越地震災害ボランティア)

2004年12月19日 | ボランティア日記
画像は崩れた民家と崖下の車(小栗山)

この地区は震災に続いての水害だったのでダメージもかなり大きい。
道路の端にはゴミが積まれているが行政の手が回らず回収が遅れている。
ゴミの回収にも、まだまだボランティアの手が必要だな。
小栗山地区では、家の下の土が土砂崩れで半分無くなっていて、倒れて来た杉の木に支えられて持ちこたえているような家屋や家の半分が崖下に落ちてしまっているとか、車が崖下に落ちていたりとか、生々しい災害を目の当たりにしてきた。

その後、小千谷ボラセン(テレビでお馴染みの小千谷体育館の前)へ回り長岡へ帰る。
ボランティア新聞「かわらばん」に今日見て来て感じたことをコラムに書く。



長岡日記ー3-1(新潟中越地震災害ボランティア)

2004年12月19日 | ボランティア日記
画像は左側へ傾いた道路と崩れた家(小栗山)

資材ベース、小千谷ボラセン、から、浦柄(うらがら)、(優太ちゃん救出の地区で
す)を通過して、更に奥の通行許可が無いと入れない南荷頃(みなみにごろ)小栗
山(おぐりやま)地区までは入れない。
私達の車は通行許可証を持っていないので、通行許可証の有る車に同情させて
貰って進入。
南荷頃ではいたる所、道路の陥没、家屋の倒壊、そして崖崩れはまるで今日起き
た様な生々しさで迫ってくる。



長岡日記ー2-3(新潟中越地震災害ボランティア)

2004年12月18日 | ボランティア日記
画像は塩谷の民家

地元の方が家の雪囲いや野菜の収穫をしたいのでボランティアを頼んだのだが「あんた達?」と勘違いされたが、出来ることが有れば直ぐに遣りましょうって事で、私はもう一人と一緒に農作業班として長芋掘りを手伝いました。
畑は歩いて行けば15分くらいの所でしょうか、行く道は鯉養殖池の包みが破れて流れ出た泥にまみれて非道い状態です。
農家の方はこれが今年最後の収穫だからと、大根を抜き、長芋を掘り、里芋を掘っておられる姿に山里で暮らす人の執念の様なものを感じました。
「せっかく掘ってくれたんだから、これを持って行け。」とおばあさんに言われても、そう簡単に貰えるものじゃありませんよ。
それでも、せっかくのご好意ですから、運ぶ途中で折れてしまった大根を貰って帰りました。
これは後に風呂吹き大根、大根のキンピラ、味噌汁にして中越センターの食事に出しましたが、大変ご好評をいただきました。
ここへ来てもシェフ海老名は健在です。

帰り道、来たとき村を見た峠から振り返って見ると、立ち昇るゴミ焼きの煙も何故か悲しく目に映った。

昨晩は寒くて何度も目が覚めて困ったので、今日はホカロンを買って来て寝袋の中にふたつ入れて、寝袋の上にも毛布を描けて寝ることにした。
これでなんとか寒さにふるえずに眠ることが出来るでしょう。



長岡日記ー2-2(新潟中越地震災害ボランティア)

2004年12月18日 | ボランティア日記
画像は倒壊した民家(塩谷)

倒壊した家の片付けは大分進んでいるようだ。
鯉の養殖池は堤が壊れて水が抜けてしまっている。
棚田への排水パイプも壊れていて来年の稲作に間に合うかどうか。
倒壊した家の後片付けが済んだ場所に老人がたたずんでいる。
お孫さんを亡くされたおじいさんだと照会をされた。
なんと言ったら良いのか言葉が見付からずご挨拶の言葉も出て来ません。
只、頭を下げるしか出来ない私でした。(ホントに情け無い奴です)

明日で全員山から降りるので、今日は何としても飼い猫を連れて行きたいと言うおばあさん。
引っ越しの騒ぎの中で猫が居なくなってしまったんだそうだが、誰もいない山村で飼い猫が越冬出来るんだろうか、見つかれば良いんだが。



長岡日記ー2-1(新潟中越地震災害ボランティア)

2004年12月18日 | ボランティア日記
画像は谷越えに見える塩谷集落と棚田

川口資材ベースから塩谷地区へ、この塩谷地区は養鯉と棚田で知られる風光明媚な地だが、今回の地震で三人の被害者を出している。慣れぬマニュアル車デリカを運転して復旧作業中の道を進入禁止の看板を横目にずんずん進む。

曲がりくねった坂道を昇って行くと、パッと視界が開けてきた。
水が抜けた棚田の、その谷の彼方に塩谷の集落が見える。
何も知らなければのどかな山村ですが、まるで黒沢映画の「七人の侍」の舞台となった村の様な、初冬の収穫後の村からは晴れた空に煙がふた筋立ち昇っている。


新潟中越地震後の災害救援ボランティアに初めて参加した時の記録です 長岡日記ー1

2004年12月17日 | ボランティア日記
画像は崖崩れで進めない山古志村への道

朝3時に自宅を出発、雪の峠を越えて新潟に入る。
小千谷に近付くにつれ路面のうねりが非道くなり、道路補修箇所が増えてきた。

朝8時過ぎに長岡市の新潟中越地震ボランティアセンター本部、中越センターに到着。
長岡市内を見る限りでは大きな被害は見受けられない。
センター長のお話を聞き、総務に配属が決まって、朝のミーティングで照会され、そのまま各地のボラセン(ボランティアセンター)回りに。
川口、田麦山、魚沼、十日町、栃尾の各ボラセンを廻った。
川口から魚沼方面へ向かう国道17号線の和南津(わなづ)トンネルは修理工事中で片側交互通行の為、2km程の渋滞が当たり前の様だ。
コシヒカリで有名になった魚沼って山の中に有ったんですね、川からパイプで水を引き谷間の田圃で育てたお米が、あの美味しい魚沼産コシヒカリだったんです
が、今回の地震でその水を引くパイプがズタズタに引きちぎられてしまい壊滅的との事で、来年の魚沼産コシヒカリは果たしてどうなるんでしょうか。

道路は簡易舗装で応急処置をしたつぎはぎ道路ばかり、補修して無くても路面は複雑にうねっていて運転には気が抜けない。
道路の端で測量器を覗き作業しているのは、地震後の影響調査なのか工事用の測量なのか。
橋の部分だけは頑丈に出来ているのか、そこだけが平らで橋の前後が陥没している為に橋を通過するたびに車が軽くジャンプをしていた。
こんなに道路が非道い状況なのに橋が大丈夫ってことは、多分、昭和39年(1964年)6月16日の「新潟地震」で昭和大橋の橋桁がパタパタと落下してしまった、あの時の教訓が生きているんでしょう。

栃尾から川口方面への帰りで、私の車のカーナビが示した道は山古志村経由だった。
通行止めの道を避けて進んだのが、その道も道路が崩れていてそこより先へは入れなかった。

初めて目にする災害現場やボランティアセンターの様子に只々、感心したり驚いたり。
どこがなんだか、何がなにやらさっぱり分からん。第一、地名が分からんし位置の確認が出来ない、地図を覚えないことには遣って行けないな。
書類の作り方や、仕事の流れも細切れに聞くのでメモをとっても繋がりがさっぱり分からん、兎に角早く慣れることだな、慣れない事には仕事にならんからな。
こんな事で数十年前の新入社員当時の戸惑いを思い出してしまった。
新人に対する指導は果たして適切に出来ていただろうかと、そんな想いがフッと頭の中を過(よ)ぎった。

宿泊場所は中越センター(何かの倉庫だった建物)の2階に木製の一人用スペース(1畳強)の中に毛布を敷き寝袋を入れて寝る。