姉川の決戦から足かけ四年元亀四年(1593)になっても小谷城は落ちない。
伊右衛門はこの間いくつかの武功を立てた、が、岐阜の家には帰っていない。
千代からは度々手紙が来た。
千代は手紙上手である。
「あっははは」と、伊右衛門が美濃紙を見てひとり笑いしているときは、大抵、千代からの手紙を読んでいるときである。
「吉兵衛、新右衛門らもこれを読め」と、見せてやる。
吉兵衛は字が読めないので、新右衛門が朗読してやる。
千代の手紙には、さしたる用件は書いておらず、いわゆる描写主義である。説明主義ではない。
たとえば、いつもツクバイのそばに雀が三羽来るが、ある日、千代は米粒をツクバイの上に置いてやった。
すると四羽来た。
四羽目の雀は、顔が吉兵衛どのに似ていた。それが大変な慌て者で、米粒をついばもうとして慌ててストンところんでしまった。
雀がころぶはずがない。
「いや、本当なのです。千代が確かに見たのですから。そのおかしいかっこうったら」
と、千代が大まじめで、自分で自分の笑いを堪えているような文体で書き送ってくる。
吉兵衛、新右衛門の妻達、それぞれの子供らの言動も、千代の筆を通して伝えてくる。
みな元気いっぱいに暮らしている様子が、眼で見る以上にわかるのだ。
千代は、新参の郎党たちの里まで訪ね、里の様子を書き送ってくる。これも人の動きが描写されていて、じつに楽しい。
伊右衛門の家来達は、みな千代の手紙を待ちかねるようになっていた。
(おもしろいおなごだ)
遠く戦陣にいて、伊右衛門は千代という自分の妻の新しい面を見たようなおもいがしている。
が、千代には千代の魂胆がある。
この手紙で、夫の伊右衛門の家来を結束させ、団結させ、手足になって働いてくれることを期待しているのだ。が、手紙の文面は、そういう意図がまったく感じられないほどにみなを楽しませてくれる。
「これは伊右衛門様にだけ」という手紙もある。
夫婦の想い出などをちらりと書き、思わず伊右衛門をして千代の肉体を、その匂いまで眼の前で感じさせてしまうような書き方をしている。
恋しいとか、夢の中でお逢いしている、とか、そんなことを書いているくせに、帰ってきてほしい、とは、いつも書いてない。
伊右衛門には、帰休させてもらえ、とは決して書かない。
むしろ、
「ご運というものは、えてして時はずれに来るものでございますから、お城をお空けあそばしませぬように」などと、書いている。
ところが、元亀二年(1571)十二月のおしつまったころ、急に木下藤吉郎が伊右衛門を呼んだ。
「急に岐阜からお召しがあり、一両日、城をあけてわしは変える。ついて来ぬか」と言ったのだ。
(あっ、千代の顔が見られる)
伊右衛門は、思わず腰を浮きたたせたいほどに喜んだが、ふと、千代の手紙を思い出した。
ご運は、時を見さだめずに来るものでございます。岐阜に帰ろうなどと思わず、片時もお持ち場をお離れ遊ばすな。
ということだ。
伊右衛門は、千代の言葉に信仰を持っている。ひょっとすると、藤吉郎について行った後に何かがあるのではないか、と思い。
「折角ながら、殿の留守を狙って敵が押し寄せるでありましょう。武士の宝は、敵陣にござる。それを見捨てて岐阜には帰れませぬ」
「伊右衛門、功名、功名もよいが、少しゆとりを持ったらどうだ」
と、藤吉郎は厭な顔をした。折角のこちらの好意を、と興醒めしてしまったのだ。
(この男の女房のほうが、はるかに、人としての肉付きが豊だ)
と、藤吉郎は千代の顔を思い浮かべた。
つくづくと思うのだ、あの千代の夫なればこそ伊右衛門に眼をかけてやっているのではないか。
「まあ、勝手にせい」
藤吉郎は、二十九日に、騎馬五十人をつれ岐阜へ去った。
年が明けた元亀三年(1572)にわかに浅井方が大軍を催して横山城を取り囲んだ。浅井方としては久し振りの反撃であった。
つづく
千代のコーチングの心配りは、伊右衛門の家来にも及んでいた。娯楽と情報の乏しい当時では、千代の手紙は現代の週刊誌や情報誌の様な役割を果たしたのかも知れません。
そして、千代の手紙の教えを守り、伊右衛門は城に残った。
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伊右衛門はこの間いくつかの武功を立てた、が、岐阜の家には帰っていない。
千代からは度々手紙が来た。
千代は手紙上手である。
「あっははは」と、伊右衛門が美濃紙を見てひとり笑いしているときは、大抵、千代からの手紙を読んでいるときである。
「吉兵衛、新右衛門らもこれを読め」と、見せてやる。
吉兵衛は字が読めないので、新右衛門が朗読してやる。
千代の手紙には、さしたる用件は書いておらず、いわゆる描写主義である。説明主義ではない。
たとえば、いつもツクバイのそばに雀が三羽来るが、ある日、千代は米粒をツクバイの上に置いてやった。
すると四羽来た。
四羽目の雀は、顔が吉兵衛どのに似ていた。それが大変な慌て者で、米粒をついばもうとして慌ててストンところんでしまった。
雀がころぶはずがない。
「いや、本当なのです。千代が確かに見たのですから。そのおかしいかっこうったら」
と、千代が大まじめで、自分で自分の笑いを堪えているような文体で書き送ってくる。
吉兵衛、新右衛門の妻達、それぞれの子供らの言動も、千代の筆を通して伝えてくる。
みな元気いっぱいに暮らしている様子が、眼で見る以上にわかるのだ。
千代は、新参の郎党たちの里まで訪ね、里の様子を書き送ってくる。これも人の動きが描写されていて、じつに楽しい。
伊右衛門の家来達は、みな千代の手紙を待ちかねるようになっていた。
(おもしろいおなごだ)
遠く戦陣にいて、伊右衛門は千代という自分の妻の新しい面を見たようなおもいがしている。
が、千代には千代の魂胆がある。
この手紙で、夫の伊右衛門の家来を結束させ、団結させ、手足になって働いてくれることを期待しているのだ。が、手紙の文面は、そういう意図がまったく感じられないほどにみなを楽しませてくれる。
「これは伊右衛門様にだけ」という手紙もある。
夫婦の想い出などをちらりと書き、思わず伊右衛門をして千代の肉体を、その匂いまで眼の前で感じさせてしまうような書き方をしている。
恋しいとか、夢の中でお逢いしている、とか、そんなことを書いているくせに、帰ってきてほしい、とは、いつも書いてない。
伊右衛門には、帰休させてもらえ、とは決して書かない。
むしろ、
「ご運というものは、えてして時はずれに来るものでございますから、お城をお空けあそばしませぬように」などと、書いている。
ところが、元亀二年(1571)十二月のおしつまったころ、急に木下藤吉郎が伊右衛門を呼んだ。
「急に岐阜からお召しがあり、一両日、城をあけてわしは変える。ついて来ぬか」と言ったのだ。
(あっ、千代の顔が見られる)
伊右衛門は、思わず腰を浮きたたせたいほどに喜んだが、ふと、千代の手紙を思い出した。
ご運は、時を見さだめずに来るものでございます。岐阜に帰ろうなどと思わず、片時もお持ち場をお離れ遊ばすな。
ということだ。
伊右衛門は、千代の言葉に信仰を持っている。ひょっとすると、藤吉郎について行った後に何かがあるのではないか、と思い。
「折角ながら、殿の留守を狙って敵が押し寄せるでありましょう。武士の宝は、敵陣にござる。それを見捨てて岐阜には帰れませぬ」
「伊右衛門、功名、功名もよいが、少しゆとりを持ったらどうだ」
と、藤吉郎は厭な顔をした。折角のこちらの好意を、と興醒めしてしまったのだ。
(この男の女房のほうが、はるかに、人としての肉付きが豊だ)
と、藤吉郎は千代の顔を思い浮かべた。
つくづくと思うのだ、あの千代の夫なればこそ伊右衛門に眼をかけてやっているのではないか。
「まあ、勝手にせい」
藤吉郎は、二十九日に、騎馬五十人をつれ岐阜へ去った。
年が明けた元亀三年(1572)にわかに浅井方が大軍を催して横山城を取り囲んだ。浅井方としては久し振りの反撃であった。
つづく
千代のコーチングの心配りは、伊右衛門の家来にも及んでいた。娯楽と情報の乏しい当時では、千代の手紙は現代の週刊誌や情報誌の様な役割を果たしたのかも知れません。
そして、千代の手紙の教えを守り、伊右衛門は城に残った。
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