ブルース(もしくはブルーズというべきか)という音楽は、いまや黒人だけのものではなく、むしろその主たる担い手は白人、そしてそれ以外の諸々の人種となっているけれど、英語ネイティブではない我々日本人にとっては、未だに借り物だという気がしてならない。
ブルースは器楽である前に、歌をうたう音楽だからだ。
歌をうたうということは必然的に言葉を発するわけで、それが言語形成期に英語の歌をうたって来なかった日本人には、所詮まともにうたえないものであるように思える。
分かりやすい例えをしてみよう。
生まれも育ちもアメリカの白人が、ある日突然、日本の古来の文化の魅力に目覚めて、いわゆる邦楽〜長唄や小唄や都々逸のたぐいである〜を愛好するだけでなく、自らも三味線などを爪弾きつつ歌うようになったとして、彼あるいは彼女がうたう「邦楽」とやらを、我々日本人は同胞がうたう邦楽と同じ感覚で評価出来るだろうか。
たぶん、いや、絶対出来ないと思う。
そのアメリカ白人の発音の、日本人のそれとの微妙な、あるいは露骨な違いが気になって、絶対同じ邦楽だとは思わないに相違ない。
同じことが、日本人がうたうブルースの、ほぼ99パーセントについて言えるはずだ。
残念ながら、わたしを含めた日本のブルース・ピープルのやっていることは、そういう風にアメリカ人には見られているはずだ。
悲しいかな、それが現実というものだ。
だが、である。
それでも、うたうことは自由だ。
何人も、「ノー」とはいえない。
同じブルースとは思ってもらえなかろうと、音楽であることに変わりはない。
だからわたしは、今後もブルース(のつもりの音楽)をうたい続けていく。