NEST OF BLUESMANIA

ミュージシャンMACが書く音楽ブログ「NEST OF BLUESMANIA」です。

音曲日誌「一日一曲」#450 リトル・ウィリー・ジョン「Fever」(King)

2024-06-29 07:44:00 | Weblog
2024年6月29日(土)

#450 リトル・ウィリー・ジョン「Fever」(King)




リトル・ウィリー・ジョン、1956年5月リリースのシングル・ヒット曲。ジョン・ダヴェンポート(オーティス・ブラックウェル)、エディ・クーリーの作品。ヘンリー・グローヴァーによるプロデュース。

米国のR&Bシンガー、リトル・ウィリー・ジョンことウィリアム・エドワード・ジョンは1937年11月、アーカンソー州カレンデール生まれ。10人兄弟のひとりであった。4歳の時、父親が仕事を見つけるため、一家がミシガン州デトロイトに転居。

40年代後半、彼を含む年長の子供たちはゴスペルグループを結成し、タレントショーにも出て、人気シンガーのジョニー・オーティスやプロデューサーのヘンリー・グローヴァーに見出される。

55年、わずか17歳でキングレーベルと契約。小柄なジョンは「リトル・ウィリー」という芸名で呼ばれることになる。

初のシングルは、同年リリースのジャンプ・ナンバー「All Around the World」。これはR&Bシンガー、タイタス・ターナーの自作曲のカバーだったが、いきなりR&Bチャート5位のスマッシュ・ヒットとなり、以来彼の快進撃が始まる。

続いて56年、ゴスペル調のバラード「Need Your Love So Bad」でR&Bチャート5位と連続ヒット。この曲はジョン自身と実弟マーティス・ジョン・ジュニアの共作。ジョンは曲作りも手がけていたのである。この曲は68年にフリートウッド・マックによりカバーされ、ピーター・グリーンが名唱を残している。

さらに同年5月、R&Bチャートで3週連続1位、全米でも24位というジャンルを超えた大ヒットを出す。それが本日取り上げた一曲「Fever」である。

この曲はソングライターのオーティス・ブラックウェルとエディ・クーリー(共にシンガーでもある)が組んで作られた。契約の関係でブラックウェルはジョン・ダヴェンポートという別名を使っている。

ジョンはマイナー調のソウルナンバーであるこの曲を当初は気に入らず、録音を躊躇したようだが、レーベル社長らの説得を受けて3月にレコーディングした。

メンバーはジョンのほか、ピアノのジョン・トーマス、ギターのビル・ジェニングス、ベースのエドウィン・コンリー、ドラムスのエデイスン・ゴア、テナーサックスのレイ・フェルダー、ルーファス・ゴア。

リリースされるや反響は大きく、瞬く間に100万枚を売り上げてしまう。放送音楽協会(BMI)から最優秀R&B楽曲賞も獲得している。

この曲はポップチャートにも食い込んだことで、他ジャンルのアーティストからも注目され、カバーされるようになる。その代表例は、なんといっても白人女性シンガー、ペギー・リーによるカバー・バージョンだろう。

リーはオリジナルリリースの翌々年である58年6月にシングルリリース、全米8位の大ヒットとなり、彼女最大のヒット曲ともなった。テンポはジョンのオリジナルより少し遅めである。

この曲ではリー自身により歌詞が大幅に書き直されており(クレジットはなし)、女性の心理によりフィットした内容にリメイクされているのが特徴である。

その後、この歌詞がオリジナルよりも、むしろスタンダードとなる。例えば60年のエルヴィス・プレスリーによるカバーも、リーの歌詞を用いている。

リー版の「Fever」は59年のグラミー賞において、3部門にノミネートされた。「Fever」といえば、ペギー・リーの曲とまでなったのである。筆者も、彼女のバージョンでこの曲を初めて知ったという記憶がある。

その後93年3月、マドンナが久しぶりにカバーシングルをリリースして、ダンス・クラブ・チャートで1位のヒットとなっている。マドンナ以外でもクリスティーナ・アギレラ、ビヨンセもカバーしており、女性シンガーの支持度が意外と高い一曲といえる。

「Fever」で見せるジョンの歌唱力は、なかなかのものだ。ただ若くて勢いがあるだけでなく、少しハスキーな声で高めのキーに挑戦してなんとか歌い切るところに、歌い手としての強い色気を感じさせる。モーン(呻き)の箇所の表現も、いい感じである。

このビッグ・ヒットにより、ジョンの将来は安泰そのものかと思われた。しかし、現実には必ずしも順風満帆とはいかなかったのである。

ジョンは60年代の初頭まではR&Bチャートのトップテン級のヒットを出していた。例えば「Talk to Me, Tail to Me」(58年)、「Let Them Talk」(59年)、「Sleep」(60年)などである。

しかし、彼のオフステージのすさんだ行動がそれらの名誉を台無しにしてしまう。アルコールに溺れ、癇癪もちの性格からしょっちゅう喧嘩沙汰となり、麻薬、詐欺、重窃盗といった犯罪で何度も逮捕されるようになる。

そしてこれらの悪行に業を煮やしたキングレーベルから、ついに63年に契約を解除されてしまうのである。

とどめは64年にシアトルで起こした殺人事件であった。前科持ちのならず者に絡まれての正当防衛だったとはいえ、人を刺し殺してしまったことで彼の人生は詰んでしまった。

68年5月、服役していたワシントン州刑務所内で、ジョンは心臓発作によりこの世を去ることになる。

若くして得た名声も、血の気の多い性格が災いして、全てフイにしてしまったリトル・ウィリー・ジョン。

有り余る歌の才能、表現力を持っていただけに、その末路は本当に残念なものがあった。

ジョンに影響を受け、その才能を高く評価していたジェイムズ・ブラウンは、彼の死後ただちにトリビュート・アルバム「Thinking About Little Willie John and a Few Nice Things」をリリースしている(68年12月)。そのくらい、ジョンはソウルのパイオニアとして、重要な存在であったのだ。

その後、96年にロックの殿堂入りを果たし、また2014年、16年にはR&B音楽の殿堂入りするなど、彼の功績は讃えられて、名誉も回復した。2008年には亡くなる前にレコーディングされたアルバム「Nineteen Sixty Six」もリリースされている。

多くのアーティストにカバーされる名曲をいくつも持つ、悲劇のR&B/ソウルシンガー、リトル・ウィリー・ジョン。ぜひこの機に思い出して、その名唱をかみしめてくれ。






この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 音曲日誌「一日一曲」#449 サ... | トップ | 音曲日誌「一日一曲」#451 ジ... »
最新の画像もっと見る